人   名
記        事
   
小早川(毛利)秀包(ひでかね  
草野家清  
麟圭.良巴  
田中則政  
田中吉政 天文18年(1548)〜慶長14年(1609)
安土桃山時代・江戸初期の武将。近江国(滋賀)高島郡田中村の生まれ、はじめ織田信長に仕えて長政としょうした。ついで豊臣秀次に仕え、秀次の死後は豊臣秀吉に仕えた。天正18年(1590)小田原征伐ののち、三河国(愛知)岡崎城主となり5万7千4百石を領した。慶長元年(1596)秀吉の一字を与えられて吉政と改名した。慶長5年(1600)の関ヶ原の役では東軍(徳川方)に属し、佐和山城攻略に参加して、石田三成を逮捕した。戦後、功によって筑後国(福岡)1国32万石を与えられ、居城を柳川においた。拓殖事業や治水などにはげみ、また、キリスト教徒を保護し、家臣830人が集団受洗したという。 
有馬則頼(梅林院) 藩祖・豊氏父則頼共に苦労する
天文2年(1533)〜慶長7年(1602) 70歳    
祖父・有馬重則、(1565)永禄八年五月十九日、松永久秀、将軍足利義輝を二条城急襲し殺した際義輝を守って討ち死にする。
則頼、豊氏父子は城を失って流浪する、その後は或時は三好長慶に属し、または姉婿の東播磨八郡の城主、別所長治に従う。
(1580)天正八年正月、豊臣秀吉の中国攻め毛利氏征伐に播州より先導し戦功により播磨の国淡河三千二百石与えられる、後一万五千石に増封淡河城を居城とする。以来、秀吉に従った、(1600)慶長五年関が原に家康に功あり、淡河から故地有馬郡三田城、二万石賜る。
以上父則頼として書き残されている。
有馬豊氏(春林院) 永禄12年(1569)〜寛永19年(1642) 74歳
豊氏は(天正中秀吉に仕え三千石を領す)と出てくる、天正の19年間の間の特定出来ません
文禄四年(1595)八月、姉婿渡瀬繁詮(関白秀次事件に連座して切腹)の遺領遠州横須賀三万石を秀吉より賜うここで年代まで特定できます。尚ここで(稲次壱岐等渡瀬家の浪人三十三人を家臣となした)このことは後に家臣団の構成を考える上で最初のものです。
文禄元年(1592)豊氏二四歳、秀吉の朝鮮出兵に手兵二百人を率いて肥前名護屋城に出陣、同三年、従五位下・玄蕃頭となる。慶長三年 八月 秀吉没し、家康に属する。
文禄四年(1595)正月 家康の命により大阪の備えとして淀城を守る。又家康は豊氏を徳川家お伽の衆となし機密に参与させた。
文禄五年(1596)六月 家康は養女連姫(松平源七郎康直の娘一七歳)を豊氏に配す。
同年 七月 家康の上杉攻めに父と共に続いて関ヶ原の戦いに功を立てる。
同年十二月 家康は父子の功を賞し、則頼は有馬家旧領の攝津国有馬郡三田二万石移封され、
豊氏は丹羽国福知山六万石を与えられ、居城を福知山に移す。
文禄七年(1598)七月二十八日父則頼が没しその封を合わせて八万石を領した。
(私聞、家臣に起請文を書いたのも、福知山時代ではないかと聞く)   
元和六年(1620)十二月八日北筑後八郡二十一万一千石転封される。
元和七年(1621)三月十八日久留米城に入る。(陽暦五月九日)    
有馬忠頼  
有馬頼利  
有馬頼元  
有馬頼旨  
有馬則維  
有馬頼僮  
有馬頼貴  
高山彦九郎 延亨4年〜寛政5年(1747〜1793)
  江戸中期の尊王論者。上野新田郡の郷士。名は正之。彦九郎は通称。勤王の志あつく、京都に出て公卿の間に出入り、又諸国を歴遊して勤王を提唱し、藤田幽谷とも交遊。幕府にその行動を監視され、久留米の地で憂憤のあまり自刃。奇行多く蒲生君平・林子平とともに寛政の3奇人といわれる。 
井上傳   絣の発明者、井上伝(でん)は通外町の米屋の家に生まれ、12・3歳の頃{寛政11年(1799)}人々が「雪降り」「霰織り」と称した新奇な柄の制作に成功した。伝はこのかすれたような色柄に「加寿利」と名をつけた。その後伝は26歳の時、からくり儀右衛門の協力で絵模様のある柄の織り出しを始め、絣織りは広く領内の婦女子の間に普及した。 
有馬頼徳  
伊能忠敬 延享2年〜文政元年(1745〜1818)
江戸時代の地理学者。上総の人。18歳の時下総佐原の酒造家で、名主伊能家に入婿。家業の興隆につとめた。その間算数・測量・天文などを研究し、50歳で家督を譲ってから江戸に出て、西洋暦法・測図法を学び、寛政12年(1800)以降幕命により蝦夷を始め全国を測量し地図を作成した。 
頼山陽、筑後川を下り  
真木和泉 文化10年(1813)〜元治元年(1864)
幕末の尊攘派の志士。名は保臣、号は紫灘、通称和泉守。久留米城瀬下町で生まれた。久留米水天宮の第22代神職であったが、江戸・水戸に遊学し、会沢安の影響を受け、嘉永5年(1852)久留米藩藩政改革を企て失敗し、筑後水田の水田天満宮に謹慎を命ぜられた。翌年天満宮の北側に小舎を建て、これを山梔窩(くちなしのや)と名付け、若者の教育に専念した。万延元年(1860)福岡藩を脱藩した、勤皇の志士平野国臣の影響を受け、文久2年(1862)脱藩亡命し上洛、尊皇攘夷運動の志士として活躍、寺田屋騒動ではのがれ、のち三条実美らの信任を受け学習院徴士となる。文久3年(1863)の政変で七卿とともに長州藩に逃れ、元治元年(1864)長州藩兵とともに上洛、蛤御門の変に敗れ、天王山に退いて自刃した。 
有馬頼永  
有馬頼咸  
田中久重  別名(からくり儀右衛門)
寛政11年(1799)〜明治14年(1881)
幕末から明治にかけての技術者。のちの東芝の創立者。久留米生まれ。幼時から発明の才にたけ、家業のべっこう細工屋を継ぐかたわら巧妙な「からくり」人形を製作して人々を驚かし、からくり儀右衛門の異名をとった。その他懐中燭台・無尽灯などを発明、なかでも今日東京上野の国立科学博物館に展示されている万年時計は世界の時計学者を驚嘆させた傑作である。
立花宗茂(むねしげ)  永禄11年(1568)〜寛永19年(1642)
安土桃山時代・江戸初期の武将。筑前国(福岡)岩屋城主高橋鎮種(紹運)の子で、立花鑑連(あきつら)の養子。天正13年(1585)家督を継いだ。翌14年、島津氏の軍を防ぎ、15年、豊臣秀吉の九州征伐に従って功をたて、筑後柳川13万2千2百石を与えられ、羽柴を称することを許された。文禄の役に従軍して、少数の兵で敵の大軍を破り勇名をとどろかせた。関ヶ原の役では、西軍に属して伊勢口の防衛にあたり、京極高次の大津城を攻略した。しかし、西軍敗退のため所領をとりあげられ、3年後の慶長8年(1603)徳川家康から堪忍料として陸奥棚倉(福島)1万石を与えられ、大阪の陣後、元和6年(1620)には筑後国(福岡)のうち10万9千6百石を与えられ、柳川城主に返り咲いた。