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山本校区の文化財

文化財

水縄山地から平野部へと広がる山本校区は、山の幸や湧き水に恵まれた校区です。 校区内では縄文時代のお祭りに使われた石棒が落間遺跡で採集され、土器や石器が兜山の山頂でも採集されているほか、屋代時代の土器などもたくさん採集されていて、早くから人々が暮らしていたようですが遺跡の発掘が行われた例がまだ少ないため、詳しいことはまだよく分かっていません。

古墳時代

古墳時代になると、水縄山地の北麓にはたくさんの古墳が作られ、全国でも有数の古墳が集中する土地として知られていますが、山本校区もその一部で、昔はたくさんの古墳がありました。これらの古墳を作った人々の集落はまだ発見されておらず、暮らしの様子は不明です。

平安時代

山地の上から校区を見おろすと、水田が碁盤のの目のようにきれいに並んでいるのが分かります。 これは楢・平安時代に行われた条里制と呼ばれる土地の区画法の名残で「八ノエ」「十ノエ」などの字名も条里制に由来します。

当時、山本校区は山本郡の一部で、観興寺・千光寺・永勝寺・老松神社など、今も信仰を集めるお寺や神社はこの頃に創建されたと伝えられ、不光院遺跡では古代の観興寺に関係すると考えられる溝が発見されました。

鎌倉・室町時代

平安時代の終わりごろから鎌倉・室町時代には、草野氏がこの地を支配していました。南北朝の争いの時には、水縄山地が南朝方の前線基地となって、耳納山城・谷山城などの山城が築かれ、度々合戦の舞台となったようで、南朝方の征西将軍懐良親王や菊池氏、北朝方の今川了俊に関する伝承も残っています。また千光寺は懐良親王の陵墓と伝えられる墓所があるなど、南朝方とゆかりの深い寺ですが、草野氏が寄進した梵鐘には北朝方の年号が記されており、当時の複雑な政治情勢がうかがわれます。

戦国時代

古代に創建された寺社は草野氏の手厚い保護を受けて繁栄していましたが、相次ぐ戦国時代の騒乱や、天承16年(1588)に草野氏が滅亡したことによって、寺社も衰微しています。

江戸時代になると、筑後一国を治めた田中氏や、その後、久留米藩主となった有馬氏によって寺社の一部は復興し、山本校区は、筑後国と豊後を結ぶ山辺往還の街道に沿った農村風景が広がっていました。山辺往還に沿った豊田地区には、当時の御井郡と山本郡の境を示す郡境標が残っています。

柳坂曽根櫨並木

毎年晩秋に鮮やかに紅葉を見せる櫨の木は、もともと実から搾った成分をロウソクの原料とするために植えられたものです。ロウソクは石油ランプや電灯がなかった頃には高価な灯りで、赤字財政に苦しむ久留米藩は特産品として栽培を奨励し、かっては藩内各地に見られました。柳坂曽根の櫨並木はその面影を残す貴重なものです。

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