再版に就きて編者、往年日向神紀行なる一小冊子を印刷して、之を友人知己に頒ちしことあり。当時倉富東浜仁田原肯堂,白仁武、松下雲処、本荘掬水諸氏等多数名士の所感を忝うしたるを以って、皆之を添付したり。然るに其の後、更に三谷有信翁の日向神紀行にかかる山路の錦、竝に宇高浩氏より寄せられし日向神俳句行なる両編を入手し之を珍蔵せり。曩日友人二三来り観て曰く、是れ尽く金玉の文字ならざるはなし。君の私蔵を惜む、宜しく既刊の日向神紀行を再版すると共に、之を添えて世に公にすべしと。編者熟々考うるに、本年は我が紀元二千六百年の光喜ある上歳に当り、挙国之が記念の事業を図らざるはなし。八女郡に於ては、恰も大杣神社の昇格に関し、福岡県教育会、八女教育支会、竝に郡民一般の、熾烈なる運動中に属し、且省線羽宮線の新設工事も進捗せり。今此の好機に際し、日向神観光に関する詩藻一切を束ねて上梓し、広くこれを同好の士に頒たば、各々金玉の風韻に接し、又此の勝地を彷彿することを得んか、是れ正に意義ある記念なりと。編者が再販を企てし所以ここに在り。唯編者は既に頽齢七十有四に達し、加之菲才浅学を以てす、固より杜撰の責は免れず。読者各位幸に之を諒せられんことを、之を以て再版の辞となす。 昭和十五年十月鴻の巣山下奚疑園に |
序 巽菴 江碕 済
| 余素(もと)煙霞の癖あり、往年八女学校を巡視す。一度足蹟を日向神山中に印す、但し賭る所沿道の風景に止まる。幽を探り奥を窮むるに遑(いとま)あらず、心竊に他日の再遊を期す。而して荏苒(じんせん)未だ果たす能わず。しばらくして奚疑園主人、日向神紀行の携え来たり示さる。文能く景を摸し、歌能く情を叙す。簡潔頗る紀行の体を得たり、一読目を悦ばす、況や当時足未だ至らず目未だ触れず、而して之を他日に期する者、今幸いに一歩を労せずして此を机上に移すを得たり。数日展玩神魂飛越、身峯雲嶽霧の間に在るが如し、平素膏盲の個癖、頓に豁然たるを覚ゆ、豈之を主人公の賜と謂うべきを得んや。今将に返璧せんとす。一言を巻首に付すと云う。
| 余近ろ疾を得、蓐に臥す旬にいたる。一日郵書三潴郡大善寺より来る、緘を啓けば則て買奚疑園主人恒屋氏の書なり。書中の大要に謂う、往年に二回八女山に出馬し、其の奇勝を探り、絶愛の余、今将に往時の紀行を鐫刻(せんこく)し以って広く其の気絶を世の同好人士に紹介せんと欲す。請う紀行中の二三漢詩に和せよ。更に副紙披けば、則ち国詩有り、漢誌有り、また国文有り、則ち紀行中の一斑而して皆金片玉屑なり。其の全豹以って想うべし。余嘗って一たび主人に面接す。今則て茫乎として其の風采言論如何を忘る。斯の書に接するに及び、山水の旧癖勃然として動き、神魂飛越、而して体力之に伴う能わず、すなわち蓐上筆を執り、一絶を書し以って其の不敏を謝すと,云う。
何れの処の郵書ぞ来て病を訪う 緘を開いて坐ろに覚う水煙の迸るを 渓山の佳作吾が胸を盪す 笑って待つ京華紙価の盛んなるを (京華また洛陽に作る)
再記前記返璧後、十数日を経、奚疑園主人更に日向神紀行一巻を寄す。再び余に一言を徴せらる。是に於いて始めて其の全豹を窺うを得たり、通読三四、文章軽妙、歌詩また流暢、而して諸先輩の賛辞評論已に完備し、余薀有るなし。余また何をか言わん。ただ前記中奥日向神無し、少なく遺憾を視る。而して後記之を補す、是に於いて日向神の奇勝遺漏無し、渓山の風色一幅の名画に化す。然りと雖も余更に主人に望む所有り、それ八女山の奇絶中、霊巌寺の陽巌なる者、奇中の奇、而して全国中未だ比類有るを聞かず、余将に主人の第三回の出馬を請い、以って其の遺漏を補わん、主人諾するや否や。今返璧するに際し、更に一絶を賦し、以って所感を述ぶ。旧製二首を添え一粲博す。 大正戌午秋九月 老川 川口深造(原文漢文)
| 奚疑園主人、至性忠孝慷慨の士なり。故に渓山跋渉の際に於いて、物に接し境に触れ、至性の発露勃々然として自ら抑うる能わざるもの往々にして之れ有り。今此の巻を得て反覆数回、同じく倶に接触する所あるが如く、其の俯仰感嘆継ぐに涙を以ってするの状、宛然目に在り。顧うに必ず焉に警省する所あらん、深く此の行の漫遊に非じして文の不朽たるを信じて疑わず。聊か所感を録して以って返璧す。彼の文字真卒、声調流暢云々の如き、諸家の賛評尽くせり。余何ぞ敢えて贅せん。 大正乙卯秋日 内藤寒山(原文漢文)柳州山水の奇。子厚の筆に入って顕す、馬渓の勝、子成の記を須って鳴る。我が八女山中の奇勝豈彼の下に出でん。而して寥々聞ゆる無きは、未だ其の人に逢わざるに因る。抑山水の不幸か。奚疑園主人蓋し風流の士なり。我が八女の山水を絶愛す。公余遊賞、前後各々記有り、即此の篇なり。文瑰奇艶の句に乏しと、行文軽暢、叙事真率、能く得て其の真面目を写し遺憾無し。国詩また真情流露味あうに足る。噫、此の篇一たび出で、我が郷土の奇を天下に鳴らすを得ば、則て豈特に山霊水神の喜びのみならんや。 辛亥一月 辱知 藤本雲外(原文漢文)自序記す、余二十年の前、吉嗣拝山翁を訪う、翁曰く、古香秋月種樹翁、今旅遊して讃岐に在り、夙昔、八女山中の奇勝を探らんと欲し、書を寄せて同行を求めらる、余もまた翁と其の願を同うするもの、兄幸いに東道の主たらんや否やと余意に以謂(おもえ)らく、それ馬渓の山水は、頼子成の紹介に因り其の名始めて天下に鳴る、我八女に奇勝にして其の名未だ嘗って天下に鳴らざる所以のものは、紹介者其の人を得ざるか為のみ。古香拝山二翁は、今の詩壇の明星なり、此の二翁をして幸いに此の奇勝を探るを得せしむれば、其の名必ず天下に鳴るものあらんと、因りて欣然之を許諾し、期日の至るを待てリ。超えて二旬報あり、曰く古香翁一朝二豎に犯され薬石効なく遂に白玉楼中の人となれりと。それ余の古香翁における、未だ嘗って一面の識あらずと雖も、心窃に其の高風を想慕するもの、今は幽明懸隔また相見るの期なきを憾むと同時に、八女山の為には唯一の紹介者を失えるを憾めり。爾来、余は青鞋布襪、前後二回に亘りて奇勝を探るを得しも、性文字に拙なり、紀行有りと雖も単に眼に触れ事に感せしものを写すのみ、何ぞ能く其の渓光山色の万一を伝うるに足らんや。然れども弊帚自ら珍とす、之を蠧魚に委するも遺憾なれば、辱交諸先輩の批評を乞い、之を印刷に附し以って同好諸士に頒ち、彼の山霊水伯をして聊か慰むる所あらしめば、更に紹介者其の人の来を待つ。 大正辛酉秋日奚疑園に於いて 三逕 恒屋一誠 |