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御神祭

右  中  左

住  高  八
吉  良  幡
大  玉  大
神  垂  神

 

 社伝によれば御鎮座は367年または390年といわれ、履中天皇元年(400)に御社殿を建立。しかし高良山内の遺物から、もっと年代がさかのぼった頃から、人々の信仰を集めていた事が想像される。
 
 古代から、筑後の国魂として、また筑紫路の交通の要をつかさどる守護神として人々の生活をつかさどる守護神として、又延命長寿厄除けの神として、厚く信仰されて来た。また交通安全の神様としても多くの人々の信仰を集めている。

  高良大社の鎮まる高良山は、別名を高牟礼(たかむれ)山・不濡(ぬれせぬ)山とも呼ばれ、ここを起点として背後に耳納連山が広がっている。標高312米と、それほど高い山ではないが、筑前・筑後・肥前三国にまたがる九州最大の筑紫平野の中央に突出し、地政的に絶好の位置を占め、古代より宗教・政治・文化の中心、軍事・交通の要衝として歴史上極めて大きな役割を果たして来た。
 「筑前風土記」には景行天皇や神功皇后の伝説や、磐井の乱にあっては高良山麓が戦いの最後の舞台となり、大化の改新以後は合川町・御井町に筑後国府が置かれ、近くの国分町には国分僧尼寺も建立された。南北朝時代、征西将軍宮懐良(かねなが)親王はこの山を本陣として、北朝軍と戦い、戦国時代には、大友軍や島津軍がしばしば陣地を築いて肥前や筑前・筑後の豪族を制圧し、豊臣秀吉も九州征伐に際して吉見嶽に陣を敷いた。

(高良大社パンフレットより) 
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