高良神社の祭神は高良玉垂命である、従って神社を昔は玉垂宮と云い、或は琴弾宮(ことひき)等とも云って居る、其の創建は甚だ古い。
履中天皇勅して此の宮を建てしめ給う(高良山十景帳記)
履中帝元年庚子始めて社を高良山に建つ、玉垂宮と称し、高良大名人と崇め奉る(鏡山系譜)
右に寄れば当社創建の年たる履中天皇元年は西暦400年で、昭和九年を去る実に1535年の昔である。
往昔から九州二島の宗廟、筑後一の宮として朝廷の尊崇極めて篤く、延暦十四年(西暦795年)五月に従五位下を(日本逸史)、承知七年(西暦840年)四月に従五位上、同八年四月正五位下(続日本後記)、嘉祥三年(西暦850年)十月に従四位上、翌仁寿元年三月正四位上、同年九月従三位、八年後の天安二年五月正三位(文徳実録)、翌貞観元年正月従二位、同六年七月正二位、同十一年三月従一位を授けられたが(三代実録)、第五十九代宇多天皇は寛平九年(西暦897年)十二月三日、更に神階を進めて正一位に叙せられた(大祝家記)。
士民も霊験あらたかな霊神として。武運長久の守護神として、菊池・大友・小弐・島津等、九州の豪族が奉仕し神領を奉った事もあり、降て毛利秀包が筑後の内四部(山本・御井・上妻・三潴)三万五千余石の領主となり久留米に在城した時、神領千石を奉献し、以後田中時代も有馬時代も皆此の例に倣って居たが、明治四年六月国幣中社に列せられ、大正四年国幣大社に昇格された。
時勢により社地の廣狭、社殿の結構等に相違はあったとしても朝野の尊信は昔も今も変わりはない。近くは去る昭和七年二月の初、久留米第十二師団から下元混成旅団が支那上海方面に出動するや、熱誠溢るゝ銃後の市民、折からの寒空に霜柱を踏み砕きつゝ、ワッショワッショの掛け声勇ましく壮烈な裸参りに祈願を籠めた事は人々の記憶新たな事であり、肉弾散華の大壮挙に大和魂の真価を廟巷の一角に発露した爆弾三勇士の面々が高良様に熱祷して作業の必成を期したことも当時の語り草の一つであった。
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不濡山頭緑樹陰 天邊雲満日沈々
可看正直多方便 素是和光惻怛深 杉山 正仲