元来座主とは一山の寺務を総理する僧職で其名称は嵯峨天皇の弘仁十三年四月伝教の弟子義真を補したのに初まっている。
然らば高良山に高隆寺が草創せられた所謂白鳳頃に座主なる職名のあった筈はないが、奈良朝天平頃に至り行基に依って唱えられた「神は仏の権化である」と云う本地乗迹の説は佛教隆盛の頃とて次第に○漫して神事にまで立入って来た頃まで、「高良社では社家が毎日社頭に奉仕して居た事は伊勢・加茂・春日の諸社に等しかったが、天正以来社家の衰微につれて僧侶が宮殿に入り神事にまでたづさわるようになった。(大祝家記)
と云われて居る。
然し此の家記は元文頃(紀元1740年頃)書かれたもの出当時座主の勢力は甚だ盛んで社家方と屡々勢力争等の葛藤を生じて居た頃のものであれば、其等に対する反感も幾分手伝って居るかとも見られるが、当初から座主の権勢が全山を圧するほどのものでなかったのは勿論である。然して高良山で初めて座主を称したのは第十二世叡竿で時は平安時代中期の頃である。