山の衆徒
一七、山の衆徒

 白川法皇しらかわほうおうが甞て「天下朕が意の如くならざるものは、加茂川の水と雙六すごろくの釆と山法師のみ」と嘆かせ給うた山法師とは洛東比叡山の衆徒を指されたものであるが、同じ天台の流れを汲むこの高良山、天台全盛此の鎮西の法窟ほうくつに山法師にも類する衆徒の多くが集まって居ないはずはなかった。そして衆を頼んでは横暴の言動さえあった事は左の記事でゝも想像せられる。
 高良山の麓厨寺の道場で聖光上人が一千日の年佛と修して居ると、丁度八百日に及ぶ頃高良山の大衆は大評定を開き「此の山は昔から真言天台の学地である。然るを処もあろうい此の山の麓で専修念佛を行うとは怪しからぬ。速やかに念佛衆を追っ払わなければならぬ」と衆議は一決して翌朝を期して厨寺に押しかける事にした。念佛衆は是を聞き出して且つ驚き且つ恐れ上人に向って此の寺を退出される事を勧めたが、上人は自若として翌日を待っていた。
と云う事が「浄土宗三祖言行録」や「鎮西上人」等の中に書かれて居る。聖光とは筑前香月の産、浄土宗開祖法然の高弟で同宗鎮西派の始祖、鎮西本山善導寺の開山であり、厨寺とは御井町上の丁なる浄土宗安養寺で当時までは天台宗でやはり高良山座主の配下であった。
其処に聖光は乗り込んで念佛宗を弘めようとした時の事を云ったものであるが、其の大衆の言動が如何にも山法師に髣髴たるもののあるを窺われるのである。

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