征西将軍御陣所
一九、征西将軍御陣所

第九十六代後醍醐天皇の御代、北条高時叛し、間もなく足利尊氏の謀反となって建武中興は破れ、世は再び戦乱の巷と化した。我が九州に於いては菊池氏を中心とする勤王諸将の活躍起こり高良山は地理的に、玉垂宮は信仰的に是等勇士の尊崇は愈々厚くなった。
延元元年(西暦1336年)三月、筑前多々羅が濱の合戦に出陣の途、菊池武敏は先ず高良川に陣し玉垂宮に賽して戦捷を祈願し、翌々三年九月豊後の大友時氏は菊池武重と高良の峰に戦って居る。後村上天皇の興国三年(西暦1342年)九州鎮定の重い任命を帯びさせられたご幼少の懐良親王は五条頼元等を率いられて薩摩の津に御着あり、正平三年正月肥後宇土津へご到着、其月十九日菊池の本城に入らせられたが、其年四月、法華経普門品を書写為されて高良山玉垂宮に奉納遊ばされ賊徒平定御祈念遊ばされた事もあった。
それより東征西伐一日の寧きひとても在わさなかったが、八年四月は既に高良山の御陣となり、同十四年再び高良山の御陣より小弐頼尚を討たれん為、七月十九日高良山を捨てゝ筑後川を渡らせられ、八月六日菊池武光・五条頼元等を率いて大保原(三井郡)に御奮戦、親しく陣頭に立たれて数創を蒙られ、高良の峰続き谷山城(山本村)に入らせられた。
同十六年官軍は小弐の軍を駆逐して八月、宮は大宰府に入らせられたが、以後征西府の威勢は、甚だ盛んに、九州二島共其の威令の及ばざるところはなく、又明使を郤げて国威を輝かされた事さえあった。然して此の間にも宮は屡々玉垂宮に御親詣あらせられて世の静謐を御祈願なされたのである。
 九州に於ける征西府の勢いは将に旭日の観があった。幕府は深謀遠慮にして文武の聞高き今川了俊(貞世)を派して征西府の壊滅を計り、了俊は文中元年(西暦1372年)大宰府を攻撃し八月十二日遂に是を陥れた。宮は本意なくも十二箇年のご本拠を捨てさせられ官軍の諸将と共に征西府を高良山に移させられたが、翌二年十一月、官軍の柱石たりし武光は率し、又翌三年五月、甞ては大保原の戦いで勇名を謳われた子武政も亦良山の露と消え去った。

其の後の官軍は甚だ振るわず武政一子賀々丸(武興後に武朝)僅かに十二歳の年少を以って宮を輔翼し頽勢の挽回に努めたが、其の年九月初、了俊の為に福童原(三井郡)に敗れて高良山の御陣も支え難く、其の月十七日僅かに残れる官軍の諸将は思いで多き高良山を捨て宮を奉じて肥後の本城菊池に引き上げた。
それより弘和三年(西暦1383年)三月薨去あられるまで、みやは矢部(八女郡)大杣の御所などで過ごされたが、其の間、天授三年二月高良下宮に立願ありて祭礼の復興と社殿の造営とともに筑前富永荘地頭職をご寄進の上「九州の治乱一度に非ず、萬民の艱苦休む時なし、末世の救い難きを愁うと雖も、責めは一人の無徳に帰す、過を悔いて餘り有り、咎を謝して足らず」との願文を捧げられた御心事を察すれば誠に恐懼に堪えない次第である。
後征西将軍良成親王は正平二十一年頃、即ち大宰府なる征西府全盛の頃に九州に成らせられ、懐良親王と共に経綸を進ませられ、、懐良親王はやがて良成親王に将軍職を譲られて帰洛の思し召しであったが、中国西国地方に於ける賊徒に支えられて事叶わず、間もなく大宰府は陥り高良山に移られた時も両宮共に在した事と察せられ、懐良親王御隠退御薨去の後は後征西将軍は愈々奮闘、屡々賊を破られたが天下の大勢は既に決し、応永(西暦1400年)頃矢部大杣の山深き所、恨みを呑みつゝ薨去あられし事は返す々すも浅間しい世の中であったと云わねばならぬ。

   ○           後藤 東庵

九十九峯明月秋   超然思起廣寒遊

跨龍騎鶴都陳腐   欲借泰西軽気球

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