天正十二年三月竜造寺隆信は肥前島原の戦いに戦死し、筑後の諸豪は又もや動揺し初めた。隆信の子政家は是を鎮圧せんとして久留米地方まで進出した。時に戸次道雪・高橋紹運は共に高良山に在って大友の為を計って居たが、十三年四月、山を降りて久留米へ向い、東進せる竜造寺軍と筒川(国分から出て合川村の西を流れ小森野で筑後川に合流する小流であるが、昔は大きな河であった事は地形的に見て考えられる。現今五穀神社と合川村市の上との間に沼田多く蓮根の産地であるのも其の為であろう)を挟んで陣を敷いた。東軍には野中(市内野中町)方面に控えた遊撃隊もあり、良寛、保真(鏡山)、孝直(宗崎)、安守(稲員)等高良山系の者は後詰に備えた。斯くて機は熟し戦いは始まり、戦線は十三部(千本杉の西)から野中の附近まで拡がったが、西軍は遂に利を失い退却して祇園原(市内篠山町か,当時は原野)に踏みとどまった。東軍は追撃して遂に肥前勢を駆逐したが、此の戦いに麟圭が野中了徳寺の門扉を持って西軍の矢を防いだと伝えられる矢受門(寺伝)は今に其の寺に残っている。
天正十四年決河の勢いを以って北進する島津の大軍は途々諸城を陥れ,六月城島城(三潴郡)を屠り、七月廣川(八女郡)古賀なる大宮司稲員の居館を焼き払い、其月六日伊集院右衛門太夫・野村兵部丞は先鋒として高良山に攻めかけ、家々に火を放った。炎々たる焔は社殿も同舎も僧房も民屋も瞬く間に舐め尽し鉄の鳥居までも焼け落ちた。八方に逃げ惑う人々は或は斬られ或は刺され、燃え狂う火焔の中に命を失う者、渦巻く焔の中に窒死するものも其数知らず、家財を失い肉親に離れ泣き叫び走り狂う有様はこの世のものと思われざれども、大祝も座主も従士も衆徒も手を附ける術もなく麟圭は辛うじて肥前に落ち延び、良寛が子は杉谷(高良内村)から山伝いに長延山(八女郡)を越え吉常(同郡上廣川村)を過ぐる時、落人と見誤れて土民の為に虜にせられ、金札の腹巻を剥ぎ取られる等の悲劇もあり、高良山一帯只します軍の為すに任せるより外なかった。
勝ち誇った総勢二万五千の薩軍は、翌七日筑後川を渡って筑前・豊前を風靡し、当たる処敵なき勢いを以って遂に全九州を攻伐し尽し、先鋒は早関門海峡を超えて中国地方に及び、天下の形勢に一大変化を来たさんとする有様であった。