毛利秀包久留米城(篠山城の前身、所謂蜜柑丸にて現九州医学専門学校運動場附近、城は東向)に居城した。高良山麟圭は伝統の権勢と天険の地の利を恃んで屡々秀包に抗し、互いに兵を出して筒川の附近で戦ったが秀包は勝たず、遂に偽て和を講じ麟圭を城中に招いて饗応し、酩酊して帰る途中を要して伏兵をして城東柳原で惨殺し麟圭に従う田其の子良巴及び従士の総ても同じ刃に斃れた。時は天正十九年五月十三日夜中の事であったが、秀包は尚飽き足らずして千石の神領をも全部没収した。其の年秀吉は朝鮮征伐を発令し、翌文禄元年将兵は海を蹴て朝鮮へ渡り、秀包も久留米兵一千五百名を引率して参加し、各地で転戦するうち、或は悪夢に襲われ、或は奇病に犯される等不祥事が頻発したが、是れ皆麟圭惨殺の神罰なりと知り、文禄五年五月十日付を以って朝鮮の陣中から「今度語朱印の旨に任せ、大菩薩領千石神納致し候、一山の集中へ配当被れ、恒例の社役等懈怠なく相勤らるべき儀肝要に候」と大祝へ送った。然して先に難を避けて肥前背振山に隠れて居た麟圭の末子秀虎丸を呼び出して高良山座主となしが、是が第四十六世尊能権僧正である。