戦国の末には高良山中の社殿寺坊の戦禍を受けて廃滅したのも多く、且つ初代の領主毛利秀包は所謂切支丹大名の一人で神社佛堂の破壊されたものも相当に多かった。従って高良山も其の圧迫を受け一時は秀吉朱印の神領までも没収せられたが、併し尚所領の山林境内は南北十五町餘、東西三十町餘、寺坊も三十一坊を残して居た。関ヶ原戦後、田中吉政は秀包に代わり筑後一円三十三万五千石を領して柳河に居城するや、社寺の復興に努めて民心の安定を計り、高良山は僚坊濫設の幣を改めて十二院と限った。
慶長八年家康征夷大将軍に任ぜられ、名実共に代は徳川の手中に収められたが、幕府は政策上佛教を保護し、慶長十六年高良山座主尊能上洛の折は家康は秀忠と共に二条城に於いて謁した(御井寺記録)程である。寛永十四年(西暦1637年)島原の乱後、切支丹宗の厳禁と共に僧侶は地方行政の一部たる生死婚姻等戸籍上の事務を分担して仏教は恰も国教の感を呈し、従って僧侶の地位も向上して我が藩に於いては蓮台院(御井寺、即ち座主の寺)を梅林寺・善導寺と共に国老格、其の他寺院も住僧一人は平士に準じられた。四十九世座主秀賀が参府登城の際は白書院二畳目にて将軍秀忠に謁し、後の登城は柳の間にて謁見の事を老中より申し渡され、且つ時服五襲を贈られたこともあった。(御井寺記録)承応元年(西暦1652年)有馬第二代藩主忠頼は三代将軍家光の廟を高良山に営んで霊牌を安置し供料田百石を寄付した。是の如く高良山は藩政時代藩府の保護を受ける事が甚だ篤かったが尚其の間の消息を物語る左の一記事を紹介しよう。
延寶三年(西暦1675年四代藩主頼元、座主五十世寂源代)閏四月朔日豪雨沛然して至り止まざる事三日間、山中に水涌きて流れ落ちる事滝の如く、為に軒を連ねし坊舎は或は顛り或は傾き、古記録経綸等は土砂に覆われた。併し安置する佛像は泥に埋まっても少しも汚れず、居住する僧徒も皆不思議に難を免れた。依て其事を藩府寺社奉行に報告したので稲次八兵衛・本荘三之丞は直ちに主張検分をした。座主は願書を藩主に提出し寺院の修造を請うたが、時恰も藩主は参勤の為江戸に在ったので、家老有馬壱岐に命じて木材人夫を賜った。次いで普請奉行山村源太夫をして人夫を督させ、石を除き工事を進めさせたが小勢では到底成し遂げ難きを知り其の旨を家老に告げた。其れで家老は惣郡司奥佐治兵衛等に八郡の人夫を集めさえせて従事させたが、其の人員実に一万餘餘、鯰江五郎太夫等を奉行として土を曳き谷を埋め巌を割り石を畳み、基礎工事は漸く出来上がった。小田村茂兵衛等は役人を率いて同年六月より翌年八月まで山房に寓居して堂舎の修築に従事し、人を役る事数万人、御井町司八島半左衛門等事を弁じ志を励まし、又近郊の人々も馳せ集まって力を添え、尚厨久英等を奉行とする山中の人夫も是に力を添え、忍労辛苦の末辛うじて堂舎造営の功を畢ることが出来た。(御井寺記録)