高良の全山は或は大祭に例祭に神幸に三會に順礼札所に四時殷盛を極めて居る時、画期的の大変革、明治維新の曙光は耀き初めて、尊王佐幕の論争に国を挙げての大騒乱は起こり、久留米城下も流言蜚語頻りに飛んで、人心は極度の不安に駆られて居る時、慶応三年(西暦1867年)十月徳川十五代将軍慶喜は遂に政権を奉還し、十二月朝廷は王政復古の旨を各藩主に布告されたが、翌四年(明治元年)三月、五箇条の御誓文は煥発せられて新政の大方針は諭告せられた。我藩においても闔藩謹んで聖旨に副ひ奉らん事を誓って、五月家老の寄會所出仕を止め要人をして毎日城中に出勤して政務を執らしめる事としたが、其年九月、明治と改元あらせられ舊来の陋習は着々とした改められた。
時に高良山における座主は第五十九世亮俊であったが、幕末の頃から佐幕の志を抱き、密に幕政の復活を祈り、伏見鳥羽の戦いの時の如きは其寺に滞在せし京都の法衣商近江や宗太郎に玉垂宮の神符を託し慶喜の手に渡そうとした事などもあって、少なからず新政に興れる要人の注意を引いて居たが慶応四年(明治元年)三月八日附の「太政官令」にて
佛像を以って神体に致す神社は申す可く候事
附、本地杯と唱え佛像を社前に掛け、或は鰐口梵鐘佛具等の類差し置き候分、早々取り除き申候事
との所謂神佛判然令は下され、廃佛毀釈を唱ふる人々は一気に長い伝統であった神佛混淆の幣を破らん為、従来社地内に建てられた寺院堂舎佛像佛具の取除に着手し、次いで翌月十四日附「別当社僧の輩は還俗の上神主社人等の称号に相転じ神道を以って勤仕可致候、若亦拠差支有之、且は佛教信仰にて還俗の義不得止の輩は神勤相止立退可候事」なる「神祇官令」に基き、衆徒を退散せしめんと犇めき合う声々に、神社佛堂を中心とする騒ぎも中々仰山であったが、同月十七日附「神社に在る佛像佛具を取除かしむると雖も粗暴の所為を禁ずる(太政官令)」旨の達しで一時の騒擾は漸く静まるまる事ができた。
高良山に於いては亮俊を退院帰国せしめ、翌二年二月、次の住持亮恩に十口の月俸を与えて正福寺(国分町日渡、天長中五世座主照鏡の創めた寺)に移住せしめ、明静院住持霊徹には五口を給して国分寺(三井郡宮陣村、聖武朝建てられた国分寺の後身らしく、何時頃からか現国分町西村から移された物であろう、高良山常楽坊の配下であった事もあるが、幕末頃は僅かに一草堂を残し一尼が是を守っていた、現時同寺門前の仁王様は命静院から移したもである)に移転させ其他も他国の者は帰国させ地方の者は還俗させ、全山一帯僧影を止めず、本坊初め多くの地堂も愈々廃業せられて一千二百六十余年、五十九世の長い歴史を持続した所謂高良の座主も全く滅んだのである。
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中谷紅葉
神鏡に酔添う谷の紅葉かな 煙里