現在の高良山は杉の良材を以って有名である。参道を挿んで、社殿を取囲んで、或は谷々、或は峰々、亭々として空をも摩する杉の立ち木は、一入神秘の感を深くするが、此の山の相貌は果たして昔ながらのものであろうか。
此の松は非常の大木で幹一つで六枝に別れ俗に六本松と呼んでいた。其の枯損したものは今尚地上より一間餘残っているが、樵夫も決して是を採らない。此の松一樹のほかには勿論樹木とてはなかった。高良神社神庫の中に昔の神幸の絵畫があるが、是にも山中都て無立木である。
寂源は杉を豊前国英彦山から購求し、松苗を御井郡上津荒木村小字本山というところから取り寄せ、初めて高良山の御社頭以下表通り筋、ならびに語廟所の処二杉を植え立て、諸所には松を植えつけた(厨家記録)とある。「城の平」とは毘沙門嶽の事で、この記録は明治初年ごろの物である。高良山座主寂源の伝中「数萬本の杉枝を挿して良材となった」記事は、古書の中にも書かれている。
寂源とは寛文九年(紀元1669年)天台宗本山から派遣された高良山御井寺第五一世の座主で、元禄元年(紀元1688年)帰洛した僧正である。
其の高良山在住一九年間中に植林の基礎を植えつけた事が今日の所謂高良杉の濫觴であるとすれば、今を去る約二百七一年前からの事であると言わねばならぬ。今日見る良材の大部分はその後次々と植え継いだものであることは云うまでもないが、参道や社後に聳ゆる古杉に其の当時の名残を留めているものも認められる。
然らば其の以前の山の相貌はいかがであったろうか、察するに処それは東の峰続きなる水縄山の頂上のように一本の大木とてない一面の草山か、又は突冗たる岩山であったと考えねばならない。
見渡せばちかき久留米の里ばかり けさはさしたる朝日影かな 大隈言道