高良の名義
五、邪馬台国説

支那の史書「後漢書」「魏書」などに神武天皇のわが国の事情を委しく述べ、彼我の間に往来したような記事がある。昔は一顧の価もない妄説としていたが、研究の結果はわが国に於いて上代の習俗を知る面白い資料として珍重がられて来た。
是によれば邪馬台国(やまと)というのが中心で、其處に女王卑弥呼と云うのが非常な権力を持っていたとされている。
此の邪馬台国の位置に就いて現在の山門郡地方を指したものであらうと云う説が多く、上古地方の題目として女性が活躍していた事は土蜘蛛の長が田油津媛と云う女で、今の山門郡東山村で神功皇后から誅せられたと云うことからでも察せられる。
其等の居所も要害の場所に廣大な居館を営んでいたとあれば、上代遺跡として現存する神籠石のある山門郡山か、或は高良山であったろうと云う学者もある。
筑後川が上流から運んでくる土砂は川口で沈積するが、そのために生ずる新地は百年ごとに五六町はくだらないと言われている。
景行天皇御征西の時は三池の行宮から濱村(山門郡瀬高町か)に舟で行幸為されたとの伝説もあり、三潴郡大善寺玉垂神社の古樟に神功皇后三韓征伐(実は土蜘蛛征伐)御凱旋の時、御船を繋ぎ給うたとの口碑もある。
此等から推して昔は有明海が深く浸入して今日の地形とは甚だ異なるものであった事を想像せられる。従って邪馬台が山門郡地方で、女王の居所を当時の海岸近き女山に推定する事も無理ではなく、或は少し遠ざかった高良山を其の居所としていたかも知れない。
高良を大部落を意味する朝鮮語コムラの訛りとする説も当時中国朝鮮と交通して文化の進んでいた地域の名称だと考えれば面白い。 邪馬台国の付近には二十一箇国の存在を載せて各々王が支配していると書いて居る。
国とは今日の郡とか村とか程の意味で、王とは其の郡村の支配者である事は勿論であるが、其の中の「投馬国」とあるを「ツマの国」と訓み、上妻こうづま・八女郡)であろうとして其の王の所在地を高良山地方に擬しているものもあり、「巴利国」を御原(三井郡)「躬臣国」くしこくを櫛原(久留米市)等とゝも推定して居る者もある、然して其等の支配者の居所を定める条件としては、最も要害なる、もっとも見透しの利く、交通の至便なところを撰んだに相違ないとすれば、其等の何れかの一つに高良山が当たって居た事は想像される。況して上代豪族の館址だらうと云われる神籠石も存在するのであるから。

蝉の音はぬれせぬ山のしぐれかな   宗祇

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