玉垂宮の祭神玉垂命が武内宿禰であると云われて居た俗間の信仰は、船曳・栗田両氏の論で揺るぎだした。然し両氏共に武内と高良山とはぜんぜん無関係であると云われて居るのではなく「民部省図帳残編」中の「天平年(西暦740年頃)武内宿禰を相殿となした」事は肯定し、只主たる彦火々出見尊と客たる武内宿禰とが転じて、遂には尊の御名が失われ民間に親しみ多い武内大臣が即ち玉垂命であるとなり、尊の
栗田博士は大日本氏の神祇志編纂の事に従い全国に渡り三千一百三十二座の祭神に就いて研究を遂げた篤学の士であり、船曳翁は当社にも仕え且つ古文献の研究や踏査の末、八女郡御側の山中に後征西将軍の御墓、三潴郡高三潴に三沼君として、赴任せられた景行天皇御子国乳別皇子の御墓を発見せしなど、郷土稀に見る史学者である。以て両氏の所論の参考となるべきことは言を俟たない。
然らば武内宿禰と高良山との関係は如何に見るべきであろうか。
大善寺玉垂宮の繪縁起に武内大臣が御征西に際し扈従しない筈はなく、皇后が土蜘蛛征伐の途次高良山下の旗崎に駐らせ給うたとすれば、大臣も従い奉って或は山上に登って地方の形勢を察し、或は御営所に侍して軍議に與ったに相違なく、従って大臣の足跡は高良山一帯あまねく印せられたと見るべきである。更に「日本書紀」其他の正史によれば、應神天皇九年(西暦278年)四月、大臣をして筑紫に遣わし百姓を監察せしめられて居る。
其の筑紫在任中の居所は明らかではないが、往昔に於る筑紫の政治の中心が高良山附近であった事は後に筑紫の国造磐井の居所が高良山下の御井町であった事からでも知られる。大臣は各地も巡視し、又往年の思出深き高良山に足を留めて居、従って地方の百姓は為に安らけき生活を続け得られた其の徳を慕い、大臣帰落の後までも語り継ぎ其の恩を偲んで居たに相違ない。
斯くて後年玉垂宮の建設せられた後、地方民の熱望は遂に大臣を相殿として祀らしめたものと思われる。
武内大臣の滞在中一つの哀話がある。それは大臣の弟
天皇は使いを派し大臣を殺させようとされた時、
天皇は兄弟を召され対決せしめられたが互いに譲らず、よって
君と臣との道をてらして世々になほ 光をみがく玉垂の宮
遊行