高良山物語序

倉富了一氏を知るに至りしは昭和八年の夏、余が高良神社宮司拝命以来の事なるが、その後同氏の福岡日日新聞紙上に寄稿連載せられたる高良山座主物語を読に及びて、同氏の研究の只ならざるを思ひ造詣の深きに窃かに敬意を表したり由来高良山は九州に於ける名山聖域にして、古来幾多の尊き史実に織り成され乍ら、反って有名に過ぎて記録伝承の軽んじられたるは遺憾に堪えず。然りといえども、尚正史に其一斑を録せらるゝあり、或は古老の口碑に伝説に遺存せる貴重の資料なきに非ず、氏は此等の資料を蒐積研究せらるゝこと多年、卓越せる識見と正しき判定を下され先人未発の境地を開拓せらる。其の研究の深奥に立到っては祭神の考證に及び読者をして襟を正さしめ、或は物語伝説を点録して興味津々自ら欣快の念を喚起せしめ、或は宗教に思想に縦横に筆を馳せ、且氏が独歩の優麗なる修辞によりて恰も錦花の園を行くが如く、一読逐ゝ全巻を読了せざれば止まざらしむ、真に尽きざる興味の裡に史実を尋るを得る近来の快著たるを疑わず。 高良の山容厳として聳え、筑水の流滔々として尽きせぬ大自然と共に不朽の本著を公刊せらるゝ事は余の衷心歓喜に堪えざる所なり。今余に其序を徴せらる。僭越の謗りを甘んじ此れに応諾したる所以は即本書の出版は余がかねて欲求止まざりしものにして慶祝の念禁じ得ざると、余が高良神社に奉仕の身にして本書との由縁浅からざるを思惟したるによればなり。

昭和九年四月 国幣大社高良神社
宮司 矢田収蔵
自 序

高良グンチは私の忘れがたい少年時代の思い出ひでである。まだ交通機関も不完全な頃の事とて、朝の一番鶏頃から草鞋履きで、私の郷里高良山の峰続き鷹取峠の麓なる山村から、曲がりくねった四里余の山辺往還を日帰りに参詣して居たものであった。以後三十年、次第に道もまっすぐな幅の廣い県道となって、中道のほうではガタ馬車が馬鉄に、油鉄、軽鉄に、バスにと変わっていき、ほかに汽車まで開通して進み行く時代と共に大きな変遷も来たしたが、仰ぎ見る懐かしい御山の姿のみは昔ながらの神々しさで変わりない。遊学時代に帰省する毎、懐かしい母の様に、ここやかに汽車の窓から覗き込んで先ず私を迎えていたのも御山であり、再び学窓に向かう時、父の様な厳かさで何時までも私を見送っていたのも、やはり此の御山であった。私は常に此の御山とは切ることの出来ない深い因縁の繋がりがあるような感じがしてならなかった。十数年以来私は不思議にも御山の下に居を卜して、明暮其の姿に接する事となり、従ってますます其の親しさ懐かしさは厳しさは加わってきた。暇を盗んでは私は御山に足を運んだ、私の敬仰おく能はざる神の御前で拍手を打つ時の純真さを味わい得たいからである。御山に関する書籍や文献など手当たり次第集めてみた、真の御山の姿を調べたいからである。私は昨年それらの一部を纏めて、福岡日日新聞紙上に「高良山の座主物語」と題して連載した。何も売名の野心からではなく、神慮のまゝに赤裸々な高良山史の一面を叙述したまでゝ゛あった。幸いに何のお咎めも蒙らなかったのみか、先輩諸氏は「ぜひ単行本として世人に郷土に於ける代表的名山の真の認識を與えよ」と慫慂された。私もついにその気になり、深山の座主に限定しないで広く其の全貌をあらは巣事を考慮し、禿筆を労して本書を公刊することとした。私は此等の記述になんらの独断も加えていない、全て文献口碑の訓うる処に従順であることのみを声を大きくしてはばからないものである。只浅学拙文、以って真意を冒涜するごときことなきやをおそるゝのであるが、幸いに私の精神と願望とは必ずや神も納受し給わんこと固く信じて疑はないものである。

紀元二千五百九十年四年

春季皇霊祭の日久留米市の寓居にて  著者 謹識

例  言

一、本書は高良山さんの全貌に関する通俗的な物語で、深く究めんよりは広く語らん事を本体とした。従って史跡もあれば歴史もあり、文学もあれば伝説・口碑・博物もあり、然してそれらが雑然として犬牙錯綜の観を呈した断片的記述の羅列であることは本書の性質上容して貰いたい。一、記事の内容については全て正確なる原拠あることは言を俟たないが、やむを得ざるもの以外はなるべく引用文を避け、また古文・漢文などは其の文意を失はざる程度の現代文に改作して読解の便を図った。一、参考した文献・遺跡・遺物などは無慮百余件に及び、実地調査は数十回に上っている。是らはいちいち列記するの繁を避けるが原著者・筆者・収集者・案内者・説明者などに対しては衷心より敬意を表すものであるいち、本書の出版に当たり、矢田収蔵氏に序文を、浅野陽吉氏・黒岩万次郎氏に校閲を、川口孫次郎氏・竹下工氏・厨幾太郎氏・上野雷八氏・桐畑珠人氏・鶴久次郎氏・吉田霊純師などに資料を、藤田一徑氏に表紙図案を、秋山源次郎氏に刊行の便宜を各々煩わし、その他先輩知友より多大の御指導御鞭撻を下さったのに対して感謝措く能はざるものである一、私は本編を持って決して完全なものとは思っていない。後に至り若し版を重ねる機会に接したならば、其の都度自分の不足せる認識を補うて改訂することに吝かでない。幸いに高良山の為に将又本書の為に大方諸賢の御叱正を念願して止まない次第である

筆者識す
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