久留米城の防禦態勢についての私見


医学博士  井手二郎著
(一)

わが国主要都市の八割以上が城下町から発達している。
このような都市の都市計画は、城郭の影響を抜きにしては考えられない。今日では城郭が再認識されて単に観光面だけではなく、城郭が残っている都市は、その都市の風格を重くしている。最近は城郭ブームで、その研究は城郭そのばかりではなく、城郭をとりめぐる城下町やその城郭を中心としての軍事的防禦態勢にまで進められている。城郭本来の軍事学の立場から研究した最近の好研究は「大場薬報」に連載されている。藤崎定久氏(陸士出身で薬剤師)の「古城めぐり」である。


(二)

私は長らく熊本の国立療養所に勤めている関係で熊本城の防禦態勢を考えてみたが、
国境から熊本の城下にたどりつくまでに幾重にも作られているいわゆる縦深な抵抗線、さらに城下町の巧妙な防御態勢、これあってこそ熊本城が天下の名城であると感嘆した。
熊本に入る主要街道は、南より薩摩街道、東より豊後街道、北より豊前街道がある。主敵島津の侵攻方面に対しては、九重の抵抗線がある。

それは

  1. 国境の野間の関。
  2. 津奈木・佐敷・赤松の三太郎峠
  3. 球磨川
  4. 支藩の八代城(対島津を重視して、一藩で二城を許された珍しい例)
  5. 松橋の線 (この旧松橋城跡を中心に西南の役の時、薩軍は南面して八代に上陸した官軍に対し戦った)
  6. 支藩宇土(近くに旧宇土城跡あり)
  7. 緑川(細川藩御船手あり)
  8. 白川
  9. 坪井川の抵抗線である。

東方よりする豊後街道ぞいには、

  1. 内の牧の御茶屋(細川候の参勤交代の際の宿泊所で、御茶屋と称したが、実質的には城郭)
  2. 二重峠(西南の役の時、薩軍が拠った)
  3. 大津付近鉄砲町(鉄砲組を集団的に住まわせ、有事に備えた)
  4. 泰勝寺(龍田山と白川に挟まれた隘(あい)路を制する)及びその背後の龍田山山頂の豊国廟
  5. (東方その他を監視する)の四重の抵抗線が考えられる。

北方の豊前街道ぞいには

  1. 南関
  2. 支藩の高瀬城
  3. 菊池川
  4. 田原坂
  5. 京町(新堀から北に京町の城下町に実質的に一郭あり)の抵抗線が考えられ、

これ等の線が、

西南の役の時、薩軍の歩々の抵抗線となったのである。徳川時代の初期各藩は幕府の厳重な監視の中で、寺院・神社・主要邸宅・藩主庭苑・治水・灌漑の名目で制限外の軍備を行い、又旧城跡を温存していた。すなわち弘前城・出石城・高知城等において寺社を出丸とし三例、水戸の偕楽園・金沢の兼六園・岡山の後楽園等、藩主の庭苑の名目で出丸を作った例等はよく知られている。いわゆる隠し砦(とりで)である。  幕府の元和一国一城制により多くの城郭が廃止され、作事(建築物)は取り壊されたが濠畳などの普請(土木工事)部分は温存された所が多かった。島原の乱に、原の古城が短期間に難攻の堅城に復活されて苦い目にあった幕府は、乱後、名護屋城・宇土城その他の旧城跡を徹底的に破壊されたのである。反面、幕府においては京都に知恩院・黒谷等城郭作りの寺院を作り有事に備えて、幕末にはこれが実際に利用されたことはよく知られていることである。

(三)

前述のような観点から久留米城を核にした城下町

さらに領内の街道や渡河点、又は城跡などを詳しく見ていくと、色々と興味深いことが目につく。久留米城は筑後川岸に突き出た小笹山の台地及び篠山町の平地を取り入れた平城と平山城の中間、言わば平台城で梯郭式と輪郭式縄張りを併用した城である。久留米城の直接の防禦は、北と西を筑後川に託し、東は萃香園裏の深田及び筒川より引いて外堀に導いた人工の堀に託し、台地続きの南方は、本丸・二之丸・三之丸・外郭と四重の抵抗線を重ね、その南方に城下町、特に荘島町の迷路(二ヶ所の七曲りその他あり、敵兵をここに誘い市街戦を行い、火をかける)があり、東方に櫛原町の各丁の行き止まりの路(袋小路)があり、又寺町の寺院郡は有事の場合の兵營や野戦病院となるのである。

元和年間

有馬豊氏の入封と共に久留米城は本格的近世城郭として、大々的に造修されたが、それと共に城下町東部の要衝に寺町を、西部の要衝に梅林寺を、南部に少し遅れて無量寺を建立している。筑後川は今日のように上流にダムがなく山林が深かったので、水流早く、水量も多く、水深深く、川幅も広く、洗切りの御船手まで大船が溯って来た。有馬藩が川一重で他領に接している地点に本城、すなわち久留米城を設けたのは、第一に筑後川を天然の外堀として利用出来ることと、瀬の下の河港控え、筑後川の船運の便を考えたからでろう。有馬豊氏入封のはじめ、本城を領内の中央部に置こうと考えたということであるが、筑後川を天然の防禦物と考えた末に、本城が他領に接して作られる例、全国的に稀な事をやったのである。城東、現在の久留米大学医学部の用地から東在櫛原の高台に到る湿地帯は、昭和二十八年の大洪水でもわかるように、堤防(小森野堤防は二百五十年前に作られた)一ヶ所切れれば満々とした湖になる。本格的戦汁の際には、市ノ上の下手の土手を切れば、久留米城の東・北・西の三方面は全く水中に孤立し、ただ南正面だけを防禦すればよい事になる故に、久留米城は水際城郭であると共に、柳河城と同じく一種の水城とも考えられる。

久留米に入る主要街道は

東よりする日田街道、山辺往環、西方の佐賀領より豆津に来る道、南よりは柳往還と坊の津街道による道、さらに小栗峠−兼松−福島よりする道、北よりする坊の津街道がある。まず東方、日田街道よりするものは、水縄山脈と筑後川に挟まれた狭い土地を府中に至るのである。その途中の重要な地点としては、山辺往還では発心(ほっしん)城下の草野があり、町中で鍵形に道路を曲げた所がある。善導寺は明治四年藩難事件の折り、政府軍が駐留したことがあり、近くの筑後川の渡河点には天満宮がある。更に追分をへて府中切通しに到る。

一方北から冷水峠をへて

有馬侯の参勤交代道路の坊の津街道ぞいに松崎にくると、この松崎はかつて支藩を設ける予定で築城に着手したが、その規模があまりに大きく、本城を凌ぐほどになるので中止した由でる。その遺構は現在、三井高校の所に土畳を残してる。その後、久留米藩の北の関門として宿場が置かれたが、町の出口と入口には江戸城の見附の如く道路を鍵の手に曲げた所に石垣が残っている。松崎から古賀の茶屋をへて、神代(くましろ)の渡河地点に到る。ここは一二七四年元冠の際、神代良忠が船橋をかけて大軍を渡した所で、付近に安国寺があり、追分にて日田往還に合し府中に到っている。

 府中(現在の御井町)は

東方背後に中世の高良山城郡(毘沙門城・杉城・吉見ヶ獄城・鶴ヶ城・東光寺城・明星山城等)を控えている。この城郡は山頂の毘沙門城・杉城を詰の城とし、北面を鶴ヶ城・吉見ヶ獄城・東光寺城で守っているが、南面の高良内側は、一見無防備のごとく見える。しかし、現在の愛宕神社・宮地嶽神・大学稲荷神社を連ね、大略神籠石の線にそった惣持寺・千手院・極楽寺・弘長寺等の寺院跡の線をよく見ると、御井寺本坊・高良大社を中心に置いた典型的逆八字形陣地であることが判明する。ところで、先日、古賀幸雄氏と東久留米城位置について語り合った際、東光寺城の話がでた。
古賀氏は現在の山川招魂社の土地の発掘調査で、何ら城郭意味するものを発見できなかったことから、この地を東光寺城跡とする従来の説に疑問を示された。高良山城群中の毘沙門城・鶴ケ城・吉見ケ嶽城は明らかに中世の山城であるが、杉城・東光寺城・明星山城には土畳・堀切り等山城の 遺溝を見出せない。しかし山川招魂社の土地は明治二年招魂社が建てられる際、上部は平らかに切り開かれてをり、軍事学的に高良山城群の北面角の突角防禦陣地として絶好の位置を占めるので、神攻皇后の旗崎の故事は別として簡単に否定されることは出来ない。
なお、南西角の突角陣地は愛宕神社になる。さて、元にかえり、座主跡現宮司低も石畳・門を構え、間道から吉見ケ嶽城に連絡した一砦である。

府中から久留米に到る途中、まず高良川の線がある

ここの要所は北より市ノ上別邸・高良川の神社、野中の玉垂御子神社があるが久留米の東面の第一線は次の筒川の線で、広大な蓮根堀が残り、一五八五年龍造寺対大友の筒川の合戦や毛利秀包対高良山座主麟圭の合戦など軍事上の要地であり、五穀神社・諏訪神社が筒川を前にして高台にあって高良山方面を望んでいる。

更にその背後には寺町の寺院群があり

その後方は又蓮根堀で、その後方に櫛原の各丁の行き止まりの袋小路の道がある。その又後方に初めて外郭の外堀が現れるのである。北方よりする別路として有馬候参勤交代道路である古賀の茶屋-五郎丸-宮ノ陣-櫛原道がある。宮ノ陣は一三五九年大原の合戦の際の敵前渡河の行われた所で、北岸に宮ノ陣神社があり、町中で矢張り、鍵の手に道を曲げた所がある。南岸には渡河点に対して市ノ上の邸が監視する位置にある。更に在櫛原の旧山本来作氏低前で、道路が鍵の手に曲げてあり、それから通町に入っている。

ところで、市ノ上別邸は

北に筑後川、東に高良川、西に筒川と三方に川をめぐらし南方だけの台地続きで、ちょうど久留米城を小型にしたような地形である。東方目の前に高良川をへだてて枝光の国府跡の要地があり、その向こうに高良山を望んでいる。前述したように昭和二十八年大水害の際、筑後川堤防の欠潰の箇所は市ノ上別邸の下手の極く近い所である。こういうことを総合すると、別邸が単に景色がよいからというだけで、ここに選定されたと考えるのはいかがなものであろうか。むろん、市ノ上別邸といい、五穀神社(一七四九年建立)といい、その作られた年代は下がるが、これらが作られる以前でも、おそらく重要な地点であるので、藩の所有地であったろう。五穀神社の所は藩の鶴狩場であった。

次に西方佐賀藩に対して久留米藩は代々

非常に警戒したものである。梅林寺・水天宮横の新川が一六〇四年、田中吉政により掘られるまでは、長門石の古川が第一線で、大友、龍造寺の抗争は、左岸では笹原城(現在の久留米城)、右岸では千栗の八幡宮付近を拠点として千栗の渡河点をめぐって相対立した。新川ができてから長門石は前方に孤立し、筑後川は新川を第一線として上流より洗切りの船手、梅林寺、京町の中級士屋敷・調練場・水天宮・瀬の下の寺院群、旧大石館跡の皇大神宮等は前進陣地として使うことが出来る。特に梅林寺は一大拠点である。なお、瀬の下の河港には番所が置かれた。又、西南はるかに城島の城跡、榎津の城跡があり、幕末には若津を軍港とした。最後に南方である。毛利・田中以前の久留米城は東より大友、西より龍造時、南より島津、最後には北から豊臣秀吉も筑後平野の穀倉を狙って侵攻してきた十字路に当たり、地形、城は東面ないし南面していたらしい。有馬時代に成って、本格的近世城郭として大々的に増修される時期は、主敵を南方の島津に置き、城は南面しておる。幕府は対島津の第一線に熊本に細川を置き、第二線に福岡に黒田(外様ながら親徳川)を置き、第三線として小倉に親藩の小笠原を置いた。細川・黒田の中間に有馬を据え、東方より府内(大分)、天領日田と二重に監視させている。

さて南方、小栗峠より兼松をへて来る敵に対しては

柳川藩領ながらまず兼松の隘路口を旧兼松城跡が扼し、矢部川、福島城址(筑後地方では久留米城に次ぐ本格的近世城郭で城址とはいえ、土畳・水壕が現存していた)が拠点となる。坊の津街道では、矢部川を前に控えて船小屋を第一線とし、羽犬塚に御茶屋があり、高良台の高台には東林寺がある。そうして横尾・上津荒木・鑓水をへて府中に至っている。

柳川往還(田中吉政が作った時代には珍しい直線の軍用道路である)

に目をそそぐと、大善寺川を前に控えた大善寺玉垂神社あり、次に鳥飼の台地に金丸川を前にして池青寺(一七五一年建立)がある。池青寺の位置は南方に金丸川を隔てて二ツ橋の刑場に対し、西と北に筑後川流域の低湿地帯をめぐらす鳥飼の台地の突端に位置していて、柳川往還を北進して最初に久留米の町にとりつく要点を抑え制している。又、池青寺の後詰には大隈城跡があり、本町の入口には総門があり、内に見付が設けられていた。さらに六ツ門にも警固の門があった。なお、久留米の町の南方前線金丸川の中流に花畑があった。

さて、久留米城本丸は高石垣でかこまれ

「多聞作り」で、天守閣がないと従来言われてきたが、東南隅の巽(たつみ)、櫓(やぐら)は三層から成っていて、第一層の規模は弘前(ひろさき)・大垣・丸亀・宇和島・高知城の天守閣より大きく、かつその位置からして明らかに天守閣である。例えば宇和島城天守閣の一層目は六間四方、久留米城巽櫓一層目は間口七間、奥行八間あった。幕府をはばかって天守閣と言わず、御三階櫓と称した例は米沢・水戸・高崎忍・佐倉・古河・関宿・大多喜・川越・宇都宮・土浦・館林・高田・白石・徳島・鳥取・岩村・平・竹田など其の他方々にある。久留米城では辰(南)と巳(東)の辰巳の方角にあったから巽(辰巳−たつみ)の櫓といったのである。幸に巽櫓の絵図や明治四年撮影の写真が残っているので、将来、市の何かの記念事業として復元すれば意義あることであろう。文化センターより中央公園、市ノ上の別邸をへて、筑後川リバーサイド公園を過ぎ、篠山城・梅林寺・水天宮を結ぶ一大公園ベルトの中核に白壁三層の巽櫓かえびえるのも悪くない青写真である。又、市庁東南角に残る御使者屋の石垣、三島邸東隣に残る久留米城外郭東南角の土畳、裁判所東裏に残る外郭・土畳、ここを中心として、市の中心地近くにこんなに樹林の深いところはなく、将来、外郭公園として整備したいと願うのである。

又、三の丸東南角の土畳

三の丸と外郭の間の水壕、京町日輪寺に残る本丸の西門、梅林寺の柳原御苑から移した臨川亭、久留米大学医学部精神科の一角に残る柳原御苑の榎の大樹、明善校北校舎のあった所に今にも倒壊しようとして残る有馬別邸正門などのまさに消えようとする久留米城の遺構をしのぶものは、いついつまでも保存したい。なお、医学部総合外来前に建てられている。久留米城蜜柑丸跡の碑は、実際より東に倫し、古絵図に花畑とある本丸石垣東面下が蜜柑丸である。久留米城はほとんどの人が、天守閣をもたない小さな城という印象をもっている。隣りの柳川城は田中吉政の建てた五層の天守閣を持ち水城として難攻不落を誇り「柳川三年、肥後三月、肥前・久留米は朝茶の子」と歌って久留米城を馬鹿にしたものである。しかし、前述のように詳細に見てみると、久留米城築城に関係した先人の密かな知恵は、仲々のものであったということがわかるのである。

以上、久留米城・城下町・領内の防禦態勢について述べたが

特に城下町周辺の要所にある寺社・庭園・五穀神社・市ノ上別邸・梅林寺・池青寺・花畑などは 有馬農民による久留米城大改修の時期から遥かに年代が下って作られたものであるが、軍事目的を全く伴わなかったとはいえない。

参考書
久留米城物語(倉富了一)高良山物語(倉富了一)以上昭和九年
日本城郭協会・日本城郭全書第三巻九州編(昭和三十五年十一月)
藤崎定久「古城めぐり」−久留米城(大塚菜報・昭和四十五年十一月No.174)
西ヶ谷恭弘  名城ーその歴史と構成(昭和四十六年九月)
中村真勝   カラー 京都の魅力・洛東(昭和四十六年十一月)等


  •  木南子いうー筆者の医学博士井手二郎氏は、聖マリア病院長井手一郎氏令弟で、現在は国立療養所菊池恵楓園の厚生技官・外科医長、その余暇に城郭を研究され、全国の城郭に造詣が深い、いわば隠れた城郭研究家である。若い頃から足でテクテクと久留米を中心とした地帯の故蹟や地勢等を探訪し、その点に於いても深い知識を持っていられる。特に久留米城をこつこつと「木面帖子」に寄せられたのが、本文である。文中に問題点は多々とあるが、久留米城をこんな角度から眺めた人は、寡聞ながら知らない。久留米城研究の一つの有り方を提示された意義あるものである。氏は「これは素人考えである。御教示を得れば幸せ。」といわれているが、想いをここまで考え上げられた努力は一朝一夕では出来ない不断の結晶と思う。いつか、氏をとり囲んで、久留米城を語るまどいを作りたいと思っている。


資料   久留米誌の関係分
○久留米城記合原余修(写)黒岩万次郎
○久留米城内図 山本常寛
○天保時代久留米市街図
○延宝八年久留米市街図(別冊)
○久留米城(上巻四〇三頁)
○久留米城記一合原余脩 宝永六年(下巻著作物)
久留米市誌をめくったらこんな所が目についた。
後日、久留米城関係資料を蒐成したいと思いますので、
ご協力御教示のほどお願いします。