いまは昔、河童の先祖はパミール山地の一渓水、支那大陸の最奥、中央アジア新琵省タクラマカン砂漠を流れるヤルカンド川の源流に住んでいました。寒さと食糧不定のため、河童たちは二隊に分かれて大移動を開始しました。一隊は頭目貘斉坊(ばくさいぼう)に率いられて中央ヨーロッパ、ハンガリーの首都フタペストに到着し、この地に棲息しました。頭目九千坊は、瑞穂の国日本をめざし部下をひきつれて黄河を下り黄海へ出ました。そして泳ぎついたところは九州の八代の浜です。仁徳天皇の時代、今からざっと干六百年の昔です。九千坊一族は、球磨川を安住の地と定めました。
加藤清正に追われた
九千匹の河童の大移動
尻小玉を抜いたばかりに
三百三十年前、肥後の国の城主は加藤清正でした。清正の小姓に眉目秀麗な小姓がいました。清正寵愛の小姓に懸想した九千坊は、約り糸をたれていた小姓を水底に引きずり込んで、尻小玉を抜いて殺してしまいました。清正公は大いに怒り、九千坊一族を皆殺しにせんと九州全土の猿族を動員することとなりました。関雪和尚の命乞いによって球磨川を追放された九千坊一族は、水清く餌豊富な筑後川に移り、久留米の水天宮(安徳天皇と平清盛と時子二位局とを祀る筑後川治水の神)の御護り役となりました。 幕末、有馬家高輪の下屋敷内に水神様が祀られ、九千坊一族は、その近くの海に移り住みました。文化年間、有馬家は、水神様をお江戸は日本橋蛎殻町へ移し水天宮を祀りました。すると九千坊の−族も、日本橋へ転居し隅田川へ。ところが何しろ、九千匹の河童ども。中には色好みの河童もいれば、食い気ばかりの河童もいました。人畜にいたずらをする河童もあれば、水中交通道徳を守らない河童もいます。頭目九千坊より破門されたこれらの河童たちは、全国の川に散っていきました。
お江戸を見切って筑後川へ
江戸というところは部下の統率上おもしろくない場所であると悟った頭目九千坊。有馬の藩主に許しを乞い、古巣筑後川に帰ってきました。筑後川は餌まことに豊富である上に、筑後川沿岸や、その支流巨瀬川畔の人々は、人情こまやかで河童に対しても親切であり、まことに天然の楽土。九千坊は部下の河童どもとここを安住の地と定め、九十九峯とも呼ばれる耳納山地が眺められる、水清き巨瀬川の田主丸馬場の蛇淵を本拠とし、今日に及んでいるとか。
(九千坊本山由来記 昭和31年
福岡河童会発行「九州の河童」所載)
船越校区小川の老松神社の境内こある河童太明神の石像。木像であったが、明治22年の大洪水の折、流失したので、石で再建立したという。由来については、或る夏の日小川の集落の者が馬を水に入れたところ、河童が馬にいたずらをしたので馬は驚いて川岸に跳ね上がった拍子に、河童も馬の手綱に手をとられて陸に投げ出されたので、村人が河童を取り押さえようと追いかけると、河童は逃げていたところ、豌豆の蔓に足をとられて倒れたところを付人に取り押さえられたところが、河童が曰く「自分を河童大明神として祭って、豌豆の煎ったのを供えてくれるならば、この集落の者を水難から救う。」と。それ以来、これを河童大明神として河童を祭り、田植休みに豌豆を煎ったのを供えた後、その豌豆を子どもに食へさせている故に、この集落から今に至るまで水難にかかった者がないという。
●河童めぐり
田主丸の河童めぐりは
その数330体
田主丸の町を歩くと、いたるところで河童に遭遇します。JR田主丸駅はホームで河童がお出迎え、と思ったら駅舎は寝そべった巨大河童。町を歩けばいたるところで河童の石像に遭遇します。90年に町で始めた「九千坊一族」の伝説にちなんだ「河童九千体設置事業」によって、その数330となり今も増え続けています。
田主丸商店街名物河童めぐリ
昭和28年の水害の時、安全を祈ってつくられた橋口橋の28河童にはじまり、商店街を流れるひばり川の橋の欄干にはユーモラスな河童の像が鎮座しています。それぞれのいわれをたどりながら、河童めぐりが楽しめます。
ひばり川の河童たち。田主丸春祭りでは、着せ替え河童と称し、着物を着せてもらいおめかしをする。左から、28河童(樋口橋)、弥五郎息子河童(新祗橋)、屁こき河童(横町橋)。
●河童洞
河童のことは河童に聞く
河童資料館「河童洞」をつくってしまった田主丸名物かっぱのへそのあけぼのや主人藤田正登さん(初代河童族)はその風貌もどこかしら河童に似ています。藤田さんが描くユーモラスであたたかい河童の絵や、河童の顔が描かれた筑後川の小石はこどもたちに人気です。河童切傷創膏のいわれをもつ代々受け継がれてきた「河童の手」もあり、藤田さんの河童談義にはるばる足を運ぶ人が絶えません。
筑後河童考
藤田さんは、筑後川の大洪水は神の崇りであり、荒五郎大明神なる河童の神を祀ることによって鎮めようとする水神信仰と、平家の怨念などにまつわる御霊信仰から河童が生まれ、平家伝説と河童伝説が重なり合って伝承されたといいます。しかし自然の驚異の前に、荒五郎大明神信仰も次第になくなり、河童神はただの河童となり、人間とのその不思議かつおもしろき関わりが伝説となって今に伝えられているとか。
世に河童をテーマにする町は多くとも、どこよりも河童伝説が数多く残り、河童と相撲をとったという古老も数々いた田主丸。古文書を読み解き、河童にまつわる所に足を運びながら原稿用紙数百枚に及ぶ「筑後河童考」を書きあげた藤田さんは、人々の心に生き続けている河童を40年近くも見つめてきた正真正銘の河童の語り部なのです。
藤田さんて作炉の河童のお面の数々。すらすらと描く河童の絵に添えられる言葉は、洒落が利いている田主丸名物「河童のへそ」を産んだ河童族の中では一番若く、いつも使い走りだったとか。