二、上町

上町「厚道会」

 明治の初期、御井の各町内では青年団の組織作りが活発に行なわれた。有名なのは高良山の「同志会」であるが、上町には同様に「厚道会」という組織がつくられた。
 元来、この種の組織は古くから日本社会に存在する若連中、若年寄などと呼ばれる若者団体が殆んど普遍的に全国の農・山・漁村の庶民の間で組織化されていた。古いものは江戸時代初期にその原形を見ることができる。若連中は大抵若者宿を持っていた。上町の場合は、安養寺の観音堂がこの役割をはたしていた。
江戸時代の若者団体が明治以後の青年団の前身であった。明治時代に入ると若者中の改革が企てられ、夜学会の開設、あるいは青年会の組織となるのである。この傾向は日清、日露戦争を境にして決定的となり、内務、文部両省が、青年団の重要性を認識して、明治三十八年(一九〇五)以降、その指導に乗り出した。かゝる農・山・漁村の勤労青年を主とした青年団体は、概して日清戦争以降においては、青年会と称したものが比較的に多く、大正四年(一九一五)に内務・文部両大臣の、青年団に関する最初の訓令が発布された後は、青年団という名称が多く用いられるようになった。
 以後、内務、文部省は、次第に青年団体に対する指導を積極化したが、青年団体指導の実際の推進力は陸軍であった。陸軍は青年団の組織の強化によって軍事的訓練の徹底化を企てたのである。かくして青年団は、次第に官僚的、軍国主義的性格を強めることをよぎなくされるのである。

上町

 上 町

青年会の証書(宗崎 高田治吉氏提供)

 高良山地区の子供中について、濡れ手拭いをしぼって規則を守らない子供をなぐる話を聞いた。子供中の寄会{よりえ}がある時には恐ろしくて御飯も喉を通らなかったという。社会一般の青年団の傾向は以上述べた通りであるが、一青年団の末端にある上町青年団「厚道会」には幸いなことにあまり暗い話はない。しばしば安養寺の観音堂に集まっては酒を飲んだ。時には中央から久留米に高名な講演者が来ると皆で聞きに行ったりした。今の青年の日常生活では考えられぬ位、まじめな青年団活動もなされていたわけである。安養寺には百八拾斤(一〇八キロ)の丸い石、つまり「力石」があった。昭和の初期の頃の話だが、上町にはこの石を肩まで持ちあげる事の出来る人が一、二名いたそうである。上町の堺秋芳氏も青年時代に力石を持ち上げた力自慢の一人である。

若者組  若者組とは、村または部落単位に若者で構成された年令集団である。

上町力石

 上町力石

 若者組の役割と機能は、
 一、祭礼への奉仕
 二、村行事の担当
 三、村内警備・消防・水防
 四、婚姻の媒介
 五、集団訓練(生業技術の習得、集団生活への適応、芸能の練習)

仲間の行動、生活上の心得を定め、集団規律のよりどころとしていた「若者条目」とか「掟」と呼ばれ、成文化されたものがあった。一方口頭による"言いきかせ"口伝"などもあった。内容は、村法の遵守、役人衆に対する礼儀、道徳生活に関する諸規定、博奕の禁、飲酒、喧曄口論など悪事の禁、風俗矯正などであった。

娘組  筑後地区では、「処女会」と呼ばれる組織で、これは娘達だけで構成され、ある地域では若者組同様、集会所である娘宿、おなご宿といわれるものを持っていたところもあるが、全般的に若者組程きびしい統制や組織ではなかった。

祇園さんの丁切り

 昔は祗園さんの「よど」は七月十四、十五日に行なわれていた。今、七月二十、二十一日の二日にわたって行なわれる祗園さんの祭りは、御井町に今も残る大切な夏祭りである。
 今でも石段の上に下町の「丁切」が組み立てられるが、釘一本使わずに全て組み立てられる、見事なものである。しかしながら、昔は下町をはじめ各町内がそれぞれに丁切を組み立て、石段を登った所からお社の前の石段まで、ずらりと並べたものであった。
 上町の場合、丁切は安養寺の山門の倉の中にしまっておき、祭が近づくと上町の子供中が旗崎池へ持って行き、一年間のほこりを洗い落とし、祗園さんへ組み立てに行ったのである。各町内同じようなことをした。美しく飾られた各町内の丁切の下をくぐリ抜けて祗園さんにまいるのだが、各町内で競って化粧した丁切に燈がともると見ごたえのあるものだった。
 余談になるが、上町の子供中では安養寺の境内の観音堂に集まって、祗園さんで使ったろうそくの余りをもらってきて、日頃素行、行儀などのよくない子供の頭にろうをたらしてこらしめたという。

招魂社

 尊王の同志を募り、志半ばにして久留米で切腹をした高山彦九郎、同じく勤皇倒幕を唱え、ついに元治元年(一八六四)七月蛤御門の変に敗れ、京都府下天王山で自刃した水天宮祠官、真木和泉守。それに明治維新前後に斃れた久留米藩士三十余人。これらの霊を弔うため、明治三年二月、旧久留米藩主有馬頼咸公が、山川村旗崎の地、すなわち茶臼山の松林の中に祀られたのが招魂社である。
 明治六年八月には、地方官民有志が協力して山上に一社殿を建て、御楯神社と称した。それ以来この地は陸軍墓地となり、明治七年佐賀の乱をはじめ、その後の戦役において戦死した人達の眠る霊地となったのである。
 毎年十月二十日には招魂祭が催される。
 この招魂社のある一帯は通称「招魂さん」と呼ばれ、昔はきのこが沢山採れたという。上町の人は、はっ茸、きん茸、がん茸などを採りにいった。また、近くの浄水場の山には赤松林があり、松茸がたくさんに採れていたという話も聞いた。

岩井川

御楯神社

 御楯神社

 招魂社の鳥居の手前に石造りの小さな太鼓橋がある。この下を流れているのが岩井川である。高良山の南谷から発して、北谷からの水と共に放生池に流れ込んでいる。この池には大小さまざまな鯉が群れ泳ぎ、亀も棲んでいる。また、最近では珍らしくなった川せみがダイビングして小魚を捕える風景も時に見ることができる。
 放生池を流れ出た水は、高良山地区の家並を抜け、高速道路の下をくぐって小さな滝となって磐井の地蔵堂の前に出る。ここには昔、三ヶ所から水が湧き出ていたようで、その内の二つが今でも残っており真ん中のそれから一番きれいな水が出ている。
 昔の水量はもっと多かったらしい。
 高良大社宝物殿に保管されている「高良山々内図{さんないず}」(江戸時代初期の作?)の中には、磐井の清水で女たちが洗濯をしたり、洗い桶、あるいは水汲み桶を頭にのせて行き来している姿が巧みに描かれている。
きれいな湧き水の出る磐井の清水は、当然お潮いの水汲み場でもあった。どこの町内でもそうであったように、上町でも毎朝お潮いを汲み、各家々を「払いたまえ、清めたまえ」と唱えながら杉の枝を手桶の水に浸して、土間に祀ってある神棚に水をふって回った。これは子供の日課の一つであった。


磐井の清水

磐井の清水(高良山々図より)

 今では水量も乏しくなってしまっているが、昭和三十年頃までは透明な美しい姿の川えびがいたり、初夏には蛍が舞い、暑い盛りには子供達の水泳の場所であった。又、磐井の清水の前や、招魂社の前の太鼓橋の下流は洗い場になっていて、人々が集まってきては世間話に花を咲かせたものである。
 上町の田ロムメノさんも若い頃、そこでよく洗濯をしていた。その頃の思い出の中に面白い話がある。
 洗い場近くに酒好きのおばあさんがいて、時に酒を買ってくるよう頼まれた。当時、酒屋は米二合半持っていくと酒を一合くれていた。米と酒とが物々交換されるの
どかな御井町の情景がしのばれる。
 招魂社の下には馬洗い場もあり、夕方になると農家の人が馬をひいてきて、足を冷やしてやったり、体を洗ってやったりする姿もよく見られたという。
 このように昔の岩井川は水量が豊富で、人々の生活を支えていたのだが、最近はこの川を利用する人はほとんどいない。
 明治、大正、昭和と時代の流れと共に高良山は変貌し、また岩井川もその影響を受けたのであろう。高名な寂源和尚が英彦山杉の苗をこの高良山に植えてそれが巨木となり、山全体を覆っていた。

高良山杉並木

 高良山杉並木
(合併記念アルバムより)

永年、神木として切る事も禁じられていた高良山の杉の大木が少しずつ切り倒され、昭和七年に高良神社参道自道車道路建設がはじまり、急速に自然破壊が進んでいった。
また終戦直後には、二度の大型台風におそわれた。その後、高良会館建設という大義名分のもとに杉・檜の古木が切り倒され、かの有名な表参道の両側にズラリと見事にそびえていた大木の高良山杉の並木は、姿を消したのである。高良山奥の院にも、うっそうと繁り、陽をさえぎっていた大きな杉の神木があった。それも今はなく、巨大な木の根だけが残されている。このような事が原因してか、山に水を貯えておく力がなくなり、谷の水量はめっきり減ってしまった。水面から出た石には苔がはえ、岩井川はしだいに人々の生活から切り離されていったのではあるまいか。

弘法山

 最近では「弘法山」あるいは「弘法さん」と呼ばれる山を知る人は少ない。
 以前は吉見嶽の西側に小高い三角形の山があり、磐井の清水あたりから細い山道が急な坂となって頂上へまっすぐに登れるようになっていた。今は高速道路に削られて半分になってしまったが、良山台への中腹から高速道路に沿って鉄の手摺りがついている急な小道を登りつめると訪れることができる。
 最近では上町と旗崎の人が中心となって、四国八十八ヶ所を一堂に集めたこの弘法山の世話をしている。セメント造りの棚に石造りの仏像がずらりと左右に並んでいるが、寄進者の名前を見ると最近のものということがわかる。
 この弘法山の左奥に自然石を用いた墓石が数個目につく。調べてみると一六〇〇年代、江戸時代初期までさかのほることができた。


弘法山

 弘法山

 この弘法山から尾根づたいに道が続いている。御井寺の上を通り、御井町、主に高良山地区の人達の墓石群(現在では御井寺の納骨堂に納められている)の中を通り、竹林を進む。その途中に数個の自然石の墓石がまた目に入ってくる。これらの最も古いものも江戸時代初期までさかのぼることが出来るが、要するに江戸時代初期になって初めて、御井町の先住者達は自分の家の墓をはっきりとした形で残す経済と信仰の力を持ちはじめたものだともいえる。そしてこの尾根は磐井城跡から吉見嶽、高良大社へと続くのである。

吉見嶽の琴平さん参り

金比羅神社は、大物主神を主祭神とし、海で働く人の守護神、或いは水難救済の神として信じられている。
香川県の金比羅さんも、観応年間(一三五〇〜一三五一)より信仰が高まりはじめ、諸国より信者が集まり、宿屋、土産物屋などができ、門前町として大いに栄えた。
元亀・天正(一五七〇〜一五九〇)頃になるといよいよ盛んになり、特に航海業者の尊崇を受け、各地に金比羅信仰が広まった。金比羅神社の信者で組織される金比羅講は、近世以来広く各地に広まり、多くの参詣者がそれぞれ講中を代表して本社に旅立ったのである。


琴平神社

 琴平神社

御井町からも旅行に出た人が必ずいると思われるのだが、『吉見嶽琴平神社記』にも残念ながら実証できる資料を見出すことはできなかった。
四国の金比羅参りをしてきた講仲間が、村に懇請して出来た小社も全国的にかなり多い。それと同じようにして高良山の吉見嶽にも琴平さんが祀られたものであろう。
最近ではこの金比羅神社も海難守護だけではなく、広く交通安全の守護神ともなり、運輸業に携わる人々の間にその信仰はかなり盛んである。
高良山吉見嶽の琴平さんは虚空蔵さん、琴平さん、お不動さんとお参りのコースとなっている。毎月十日午前十一時にお参りしてお供物をあげる。
また、御井劇場の江藤けっしゃんも、「働くばかりが能じゃない。テレスケドンドン」と芝居の宣伝がてら御井町に琴平信仰の布教につとめたひとりであった。

物売り

上町では珍しい行商人の話が出た。今ではまったく見ることのできなくなった行商人の姿は古き良き時代への郷愁をそそる。

芋売り: 芋屋吉っちゃん。太郎原の人。四角いめごを担いで「芋ええの〜」といいながら売り歩いていた。

牛乳売り: 小型のリヤカーに箱をのせて売り歩いていたが主に病人に飲ませるために買っていた。

浜せぎ:  川魚、鮒、鯉、雑魚を扱っていた。

昔の物売り

昔の物売り
(牛乳売り)

川がに売り: 神代(山川町)の漁師が秋になると売りにきた。

ごんぼう屋: 太郎原から「ごんぼ〜う」と言いながら売りにきた。

鰯屋: 「いわし〜いわし〜」とおらびながら売り歩いていた。三斤で十銭。寒い一月頃が多かった。

うち牡蠣売り: 寒い時期に柳川からリヤカーに積んで売りに来ていた。その場でカラを割ってくれたが、大変にうまいものだった。

ランプのほや売り:  大正時代になって電気にとってかわるまであった。

油売り: 荷車に一斗缶十箱ほどを積んで菜種油・胡麻油・白絞め油(莱種油の上等なもの)が主な商品だった。買うと辻占(おみくじのようなもの)を三ツ四ツくれて、米の粉で出来たお菓子をくれた。

富山の薬売り

富山の薬

 富山の薬

 年に一度、藤でできた五段重ねの行李を黒い風呂敷につつみ、それを担いで薬を売りに来た。各戸を回り、使った分だけの金を受けとり、古い薬は新しいものと入れ替えた。富山の薬売りは歩いてきたが、肥前(基山・鳥栖)の薬売りは自転車できた。薬の中でも「はんごんたん」は特に有名で、また「ひび・あかぎれの薬」「熊の胃」などがはいっていた。「オイチニノ薬ハ、ヨイ薬ィ」と歌い手琴風を鳴らしながら売り歩く薬売りもいた。紙風船の景品がほしくて子供達が後をついて回るのも時代の風物であった。服装もひとつ凝ったものを着ている人もいた。海軍調の服に身をつつみ、ズボンの横には赤線が入っていた。若くして死んだ女流作家、林芙美子の父も薬売りだったと聞いている。(第二章「府中・街道とその周辺」林芙美子の項参照)

結婚

 婚礼、それにともなう慣習も昔と今ではずい分変ってきている。この結婚については『ふるさと御井』(注)第二集、に詳しいのでそれを参考に要約してみたい。

かげ見: いい娘さんがいるときくと、陰からこっそりと盗み見する。

聞きつくらい: かげ見」で気にいると、その相手の家庭のことなどを近所か知人に聞き合わせに行く。

嫁もらい: 仲人を立てて先方へ貰いに行く。嫁側は簡単に返事をすると簡単に戻されるといって仲人は夜の八時頃から夜中の一時、二時までも返事がもらえなかった。

くぎ茶: 娘さん方から承諾の返事があると、すぐに「釘茶」を送った。釘を打って動かぬようにするという意味である。

結納(本茶): 正式に婚約が決ると日を選び仲立人と婿方は揃って嫁方に納める。
 御茶・酒・魚(鯛)
 着物(またはお金)

お茶みせ(茶開き): 結納の品々や嫁入道具の数々を美しく飾り親類、近所、友人を招いて披露する。

道具送り

婚礼・道具送り

婚礼・道具送り(昭和17年頃)

 箪笥・長持歌(受ける側の歌)

たんす長持ちゃ 受け取りました あとは嫁さんを 待つばかり たんす長持ち 白木だけれど 中の御衣裳は 綾錦  借りた金なら 返しもしょうが もろた嫁ごは 返しゃせぬ

箪笥・長持ちを運ぶ時、両脇についている具に長い竿を通し、前後を人が担いだ。(つリ船ともいう)途中で嫁方から婿方へと担ぎ手が交替する。担ぎ手は「力杖」という物を持っている。これは杖の先に藁の滑り止めをつけたものだが、途中交替の時にこの杖を使う。「杖立てろォー」という掛け声がかかるとこの力杖を竿の下に立て長持ちをそれにのせて休む。長持ちが直接地面につかないようにである。

嫁入り(婚礼):  輿入れは夜中の十二時頃から行なわれた。それも余程遠い所でもない限リ歩いて行った。
 花嫁が婿方の敷居をまたぐ時「出て行かんごと」と鍋蓋を頭にかぶせてその上にしゃもじを載せて「おさめ」の儀とした。仏壇の前で先祖に「この家におさまります」と報告をし、「盃事」が行なわれる。
 夜明け頃、式は終るが花嫁は休む間もなく「御披露目」「友達披露」「門内{かどうち}の顔見知り」と二、三日もお客が続き、不安、疲れ、睡眠不足と嫁としての苦行の第一歩が始まるのである。

結婚式の料理

  鯛の浜焼(夜通し焼いて準備した)   お手つき餅 本膳 二の膳 三の膳

里あるき:  婚礼以来他人の中での生活で、里に帰れる事程嬉しいものはなかった。しかし行かせてもらうよう許しを得るまでが、一番気をつかうものであった。実家で二、三日のんびりした後、婚家に戻る時はまた気が重く沈んだものだった。

歳暮: 婿方より嫁の里へ届ける習わし。


   ぶり 一本
   炭俵 一俵
   餅 米一斗で鏡餅一組
(注)『ふるさと御井』一・二集を発行した「グループはぜの実」は、公民館活動から発展した主婦を中心とした郷土史研究グループである。
彼女達の研究発表は、我がふる里御井町の庶民の生活をはじめて活字にしたことでその努力は人々に賞賛された。

出産

 安養寺は安産祈願のお寺でもあったので、「お聖光{しょうこう}さんごもり」といって月に一度、夜八時頃から十一時ごろまで妊婦が集まっておこもりをした。このおこもりは終戦頃まで続いた。
 出産時には、お寺からもらったローソクに火をつけ安産を祈願した。
 最近の出産はすべて病院でするようになったが、以前は皆、家でお産をしたものである。納戸といわれる家の一番奥まった暗く小さな部屋が産室として使われた。男性は勿論その部屋に入る事は禁じられ、産婆さんを呼びに走ったり、産湯を沸かしたりするのが仕事だった。
 分娩の際はシャモジや手拭いを口にくわえた。産後の悪露を「いや」と呼び産婆さんが「いやがめ」という素焼きの壷に入れて密封し床下に埋めた。
 妊婦の産後の食事はおかゆと白身の魚がよく、ネギや柿は食べてはいけないといわれていた。お見舞にはお乳の出がよく出るようにと餅飴(長飴)などをもらっていた。
 産後の一ヶ月位は安静にしてお風呂にも入らなかった。農家の嫁が誰にも遠慮せずに休めるのは、この産後の時だけであったろう。今でもお年寄がよく使う言葉に「お産のときしか、ねたこつぁなかもんの」というのがあるが、これは病気一つしたことがないと自慢する時に使うことばである。

葬式

 人が亡くなると遺体を大きな甕棺かめかんにかがませるようにして入れ、木の蓋をして松やにを甕の周囲に塗りこめて密閉した。その甕は、その頃十三部の角に窯元があって、豊田さんという人が他の日用雑器と一緒に焼いていたものである。いわゆる「十三部焼」である。
 死んだ人には白無垢の着物を着せた後、男も女も髪を剃ったり、切り揃えたりしたものである。そして座敷の真ん中で盥で湯灌をして身を清めた。

お葬式の飾り物
道四門
蛇口、二本(図参照)葬式の先頭と最後尾に並んだ。

人が死ぬと組内全員で協力した。電話のない時代は「たよりに行く」といって、二人一組になってその家の親類へ連絡に回ったが、他人の親類のことであり地理がよく判らずに訪ね訪ねして探しまわり大変だった。北野、松崎、鳥栖、柳川、八女、山川などへ暗くなると提灯をつけて回ったものだ。

段墓   昔、御井町の墓所は高良山の山腹と隈山、それに宗崎の一部がそうであった。山自体が太古の昔から墓所として使われてきたことは、多数の古墳が耳納山系の山裾に見られることからも判る。縄文、弥生人と同じく明治・大正・昭和の始め、或いは終戦後まで御井町の人々は高良山・隈山を墓地としたのである。
 山に墓を作る時、斜面に土葬するので山の斜面は段々がつけられるようになり、さしずめ畑ならば段々畑となるがお墓の場合、「段墓」となるのである。
 隈山墓地も工兵隊、久留米大学商学部の敷地となり、さらには業者による宅地開発がすすみ、今では全く昔の面影をなくしている。朝妻の久大線の踏切の側に寄せ墓にされたりその他商学部の裏門の左手、矢取の山手などに大きな寄せ墓が築かれているだけである。

蛇口

蛇 口

土葬

 土 葬

 高良山の御井寺の上の竹薮の中に、朽ち果てるように墓石が残っているが、古いものは江戸時代初期頃までさかのぼることができる。それらは現代風な長方形の御影石ではなく、大抵の場合、自然石を利用した板碑である。
 次に土葬は、大甕を入れられるような真四角の穴を掘る。図のように(前頁下図)三段に堀り下げて一段目、二段目の角にはずらりと枝葉を斜めに突き刺す。広く見えるようにという配慮もある。次に三段目であるが、北側を正面とし中心に石灰でその家の紋を書き周囲は花、葉、木の実などを置いて飾る。最後にお神酒を注ぐのである。但し家紋が複雑で石灰では書きにくい時は、卍の印を書いて済ませる。そして三日後に親族が再度墓所へ行って盛り土をきちんと整頓して「墓直し」をする。
 人を入れる大甕だけでも重い上に屈葬の形で人を入れ、四人で担ぐのだがとても重くて閉口したそうである。さらに土を掘る際も、軟かい土ばかりとは限らず岩石に当たったりすると相当苦労したということである。

筑後川の風物

 御井町は山裾に広がった町で、昔は安養寺あたりから筑後川を帆掛舟が上り下りするのが見渡せた。帆掛舟は主に砂やバラスを積んでいたが、山川町の永田さんが開拓した有明海の六十町歩の「永田開き」から米俵を運びあげてくる光景などはひとつの風物であった。
 神代の渡し」から二千俵の米を荷上げして、車力で山川の倉へ運び込んでいた。神代橋といえば渡し場で有名であったが、御井町内の人々は春の潮干狩りのシーズンになると神代の渡しから有明海へあさり貝やあげまきなどを採りに出かけるのが楽しい年中行事であったという。が今では筑後大堰が築かれ(注)、そうした風情を楽しむ機会も少なくなった。


永田開きの構築

有明海・永田開きの構築
(永田正直氏提供)

 ともかくも上町あたりから、筑後川やその周辺のれんげや、菜の花の絨毯をしきつめたような見事な景色が見渡せた古きよき時代の話である。
(注)この大堰には、舟の航行のために水位を調節する装置の閘門{こうもん}(パナマ運河が代表的なもの)や魚の生態を乱さないよう、水流が鮎の泳ぐ速度に調整された「魚道」が両岸に設けられている。

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