第二章 府中・街道とその周辺

府中街道地図

(道路:明治33年当時)

府中街道地図

一、府中街道

 筑紫と呼ばれたこの地域は、大化の改新によって筑前、筑後の二国に分かれ、その後さらに御原・御井・生葉・竹野・山本・上妻・下妻・三潴・山門・三池の十郡七百二十ヶ村に分けられた。奈良・平安時代になると筑後国の主要駅は御井駅、(御井町)上妻駅(福嶋)葛野駅(羽犬塚)狩道駅(山門郡山川村)井上駅(御原郡井上)を筑後国主要五駅といい各駅には駄馬五頭、伝馬五頭を備えていた。

久留米藩内地図

久留米藩内主要街道と駅
「久留米市誌」2巻より

特に主要なる道路が、国府所在地の御井駅から基肄駅(基山)に出て、長丘駅(御笠郡長崗郷)を経て太宰府に通じていた。其後鎌倉時代から南北朝時代に入るに従い交通も次第に発達し、徳川家康が江戸に幕府を開くと筑後から江戸に上るには久留米の北方「大久保瀬」即ち今の、「小森野の渡し」から筑後川を渡り(神代の渡しを越えた場合には、古賀茶屋から思案橋を経て宝満川を渡り)福童附近より宝満川右岸の地を横隈に出て更に筑前路に入り、二日市・博多・青柳を経て江戸に上ったのである。(注)関ヶ原の戦いか終った翌一六〇一年、江戸を出発点とする街道が日本国中に制定されるのであるが、陸路の動脈として重要な五街道、東海道、中仙道、日光街道、奥州街道、甲州街道は、幕府によって直接管轄されていた。この五街道から更に「脇街道」と呼ばれるものがのびており、九州の大名達が江戸に参勤する際「参府路」として利用していた山陽道、長崎街道がこれである。 そして更に細部にわたって「地方脇街道」がもうけられて、それら街道に沿って宿泊、休憩、人馬継ぎ立て等が容易にできるように、宿駅が配置されていた。久留米藩の領地内の脇街道で府中を通るものには「坊の津街道」「柳川往還」「府中道」「日田街道」があった。(注・柳勇著『筑後松崎史』より)

坊の津街道

追分道標

追分道標(安武町)
「左くるめ右ふちう」
柳川往還の府中中道
への分岐点である

 坊の津街道「坊の津街道」と呼ばれていた道は、薩摩の坊の津(現在の鹿児島県川辺郡坊津町)から北へのぼって肥後熊本を経由し、久留米領羽犬塚、府中町を過ぎ、神代で筑後川を越え松崎町に至る。更に御原郡乙隈村の国境を通過して筑前山家に入り、それから先は長崎街道に合流して小倉に至る。この往還には松崎宿を通過する街道が開かれる延宝六年(一六七八)まで古い参府路として使われていたもう一つの道があった。

一里塚

目安町の一里塚
三十六町を一里として道の両側に
榎などが植えられている

それは筑後川をわたり、北野町から大刀洗町本郷より筑前秋月の八丁坂を越え、現在の筑豊を経て北九州へと通ずる別路であつた。天正十五年(一五八七)の豊臣秀吉の島津攻めの折も、これを利用して薩摩へ向ったといわれている。








府中道

 安武町へ行くと、「右高良山、左くるめ」と書かれた追分の道標を見ることができる。慶長六年(一六〇一)に筑後三十三万石の国主となった田中吉政が、自分の居城のある柳川から久留米城まで「柳川往還」を開通させたが、その折、安武町から津福今町の野屋敷、西町の十二軒屋、国分町、八軒屋を経て、旧国分寺跡をよぎり、御井町矢取で坊の津街道に合流する、いわゆる「府中道」を設けた。これは久留米藩内を通過するだけの参勤交代の大名達がわざわざ城下を通らなければならない不便さを解消する為でもあり、また城下の内情を他国に知られないためのものでもあったと考えられる。

郡界標 

郡界標「南上妻郡北御井郡」
坊の津街道(現・藤山町)

日田街道

 日田街道」は別名「豊後街道」ともいわれ、天領日田への往来に利用され、西は肥前豆津を経て、長崎街道へと続いていた。府中から日田へ向うには、生葉郡山北村(現、浮羽町三春)の山越えをするものと、生葉郡古川村(現、浮羽町)で、筑後川を対岸の筑前領杷木へ渡って行くものとの二通りの道があった。また府中から吉井へ至るのに善導寺、田主丸を経由してゆく「中道」と耳納連山の麓、草野の宿などを通ってゆく「山辺道」とがあり、その分岐点が現在の山川町の追分である。

筑前・筑後の境石

 永い年月、風雪に耐えてきた境石は、高さ三メートルあまり、かつ、彫り込 まれた文字は太く深く、その姿は道行く人々の足を止めずにはおかなかったであろう。郡界標のたぐいはこの近辺に幾つもあるが、いずれも人の背丈に満たぬ位の素朴なものである。しかし筑前と筑後の境石になると、暗黙のうちに黒田藩対有馬藩の勢力を誇示していて、様相を異にする。しかしこれほどの境石だから目立ってよいはずの存在が、本当はよほど熱心に注意深くさがさないと見逃してしまう。それもそのはず、今ではすっかり交通量も減り、狭くなった旧街道の傍に立っているのである。その境石の側に次のような看板がある。

郡界標 

郡界標「右 山本郡
   左 御井町」
日田街道山辺道にある

境石

 江戸時代には各藩が独立した国として藩独自の政治を行なっていた。従って藩では、国境の要所に境石を建て領地を明らかにしていた。この街道は、延宝三年(一六七五)松崎藩主有馬豊範によって開かれ府中・松崎・山家にいたる往環で、島津・細川・立花・有馬の諸公の参勤交代の道であり、ここは筑前と筑後の国境である。この境石は、北側が筑前国(筑紫野市馬市)、南側が筑後国(小郡市乙隈)の境石である。両国の境は、初めは境杭であったが……

そして、お互いにより立派な石柱にすべく競ったとあり、小郡市教育委員会もその滑稽さを記録にとどめている。

筑前・筑後境石

筑前・筑後の境石


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