三、古文書にみる府中

九州紀行

――佐藤信淵――
明和六年(一七六九)出羽国(現・秋田県)生。幼小から父と各地を旅行して見聞を広め、後に江戸に出て儒学、国学、神道本草学、蘭学を修めた。農政、物産、海防、天文、兵学、暦算測量について多くの論説を発表したが、筆禍によりしばしば江戸より追放された。生前より死後の評価の高い人物である。

「…(前略)久留米城は有馬氏の都する所なり、城下士民の居家凡そ六、七千軒も有るべし、草葺きのみ多く見苦しき町なり。然れども本町と云ふ所は、三、四町大商も見えて富饒らしき町なり。當城は平地に築きて天守も無く、筑後川の屈曲して流るる曲り角なる地にして……(中略)

高良山は武内宿禰を祭りたるにて、筑後、肥前、肥後三州の総社にて、社領千石末社数多あり、別當を座主と号す。京都堂上方の男を以て此に任す。寺七院あり。社家、巫女等旧家数十軒あり。此の山は眺望甚だ絶景の地なり。麓の町を府中と名く。薩摩・肥後より豊前の小倉に通行する街道にて、久留米侯の別館も有 りて頗る繁昌なる駅場なり。此町より高良山玉垂宮まで二十町の登り坂にて久留米の城下に至るは凡そ三十四町、左右の並木杉多く茂り甚た奇麗なる大道なり… …(中略)…

此筑後の国は、南北十里東西十三里の小国なり。然れども原野能く開け、田畠膏膿なるを以て物産の出ること極めて多く、大国に敵すべき国なり。然るに富饒の豪農と見ゆる者は絶て有ることを聞かず、見苦しき草家のみ多く極めて貧なる土地と見ゆるは不審しき事に非す哉。……」

これは信淵の未定稿、中国九州紀行中の「筑後国」の部を抜粋したものである。時代は記されていないが天保年間(一八三〇〜一八四三)の物とされている。信淵は余りにもはっきり、物を言うので江戸からしばしば追放された程の人であるから、昔の久留米の貧しさも遠慮なく指適している。しかし府中は「すこぶる繁昌なる駅場」と記されており、本町と並んで活力あふれた地域であった事がわかる。

つくし路の記

――中島広足――
肥後熊本藩の国学者である。文 政十三年(一八三〇)閨三月十一日付で次のような日記を残している。

「……一條の宿にやすらう。ここより久留米へ二里なり。藤田村の川橋を渡りて合川というより左の道に入りて松の生たる間を過れば東林寺といえる大きなる寺右にあるなり……。さらに城のもとの町を通りて五穀社にもうず。久留米の君の知りたまえる所にては此の二社に高良山ぞ名高かりける。ここより府中まで一里、かたわらに正源寺道、福聚寺道など書いたる石建てり。けふは高良山にも登らんと定めつれど日の入りがたになり人々いたうこうじぬれば府中の宿にやどりぬ。十二日人々高良山にまうづ。おのれは先づとしまうでつれば、北の方のおるる所に、おひ分といへる里のあなるにゆきてまちをり。……」

ここで興味深いのは、五穀神社の近辺で高良山に至る道の脇に「正源寺道、福聚寺道」と書いた石が立てられていたことである。今でいう、道案内の広告か何かであったのであろうか。広足は府中の宿に一泊したが、宿屋の名がないのは残念である。

高良山略図

筑後高良山略図

筑紫紀行

――吉田重房――
通称菱屋平七、名古屋の商人である。『筑紫紀行』の巻の五に詳しく府中が出てくるので少々長いが引用して紹介したい。

「四月二十七日〔享和二年(一八○二)〕又五六丁行けば府中町に至る。吉井町よりこれまで五里、これも久留米の御領なり。人家二百軒ばかり、茶屋、宿屋多く本陣あり。薩摩・肥後等の国々より往来の駅路なり。駅場の前、即ち高良山の山口なり。石の鳥居いかめしく立てり。銅の額に玉垂宮としるせるをかけたり。此御社は延喜式神名帳に筑後国三井郡高良玉垂命神社(名神大)とありて、日本後紀・続日本後紀・三代実録等に進階の事折々見ゆ。里人は武内宿禰を祭るといい、また此国の一の宮なりという。鳥居のかたわらに下馬の杭石にて立てり。登り入りて六町目に道の傍に池あり。池中に島ありて、蘇銕さつきなどを植交、見事なる岩ども組上げて反橋をかけたり。池の中に御手洗というあり。高峰の社あり。右の方少し高き所に、新清水とて観音堂あり。かけ造りにせる舞台又廊などあり。石の五重の塔あり。左の方に桃青霊神の宮あり。其前に俳人の業として高さ四尺許に八寸四方ばかりなる碑を立て、正面には、

いまよりはぬさともならん枯尾はな 近江粟津義仲寺重厚

と彫りて、裏まわりには「歌は出雲八重垣、連歌は甲斐の酒折の社、俳譜はつくし高良山に桃青霊神在して永く風流の道を守護し給う。寛政五年(一七九三)丑十月筑南米府、石田残道、本田魯々・中田秋賀」としるせり。かの舞台より眺望すれば、池中島の佳景えもいわず面白し。薬師堂・地蔵堂・勢比石・御馬蹄石・観音堂・虚空蔵・大神宮・此大神宮の御前には石を立て「伊勢天照御祖神所載延喜式當国大小四座之内也」と彫せり。此御社も進階の事史に見ゆ。九丁目には、善光寺如来分身の御像、十二丁目には如意輪観音のおわしますを、行だおれの観音と称す。十三丁目に元三大師堂、十四丁目地蔵不動、ここに茶屋一軒あり。是より檜の木を並木に植えたり。石の五重塔を過れば、赤き木の鳥居あり。ここにも高良玉垂宮とある額をかけたり。鳥居に入ればこもり堂あり。それより石段を百四十五段のぼれば本社なり。御前に銅の手水鉢、香爐、石の狛犬あり。御社拝殿共に檜皮葺にて西向に立せ給ふ。二股の松、御神木なりという。豊比盗_社、社前に石を立て「所載延喜式筑後州大小四座之内なり」としるしたり。かくて毘舎門谷という所に八丁下れば御神廟あり。未社すべて五社・鐘桜・大日堂などあり。茶屋二軒あり。全て堂舎の有様華好にして新しく立直したる所々は、ことに美々敷見えたり。社僧を座主と称して位は権僧正、寺領は地方にて千石なりといえり。 かくて町に帰り町を出離れて二三丁行けば出茶屋あり。是より道の両側杉を並木に植えたり。十四、五丁行けば光楽寺村、村中に溝川のあるに土橋をかけたり。橋の側に茶屋あり。四五丁行けば五穀の神社あり。…。」

菱屋平七の『筑紫紀行』は府中、高良山の様子を詳しく紹介している。この種の参考文献は他にもあるが、これだけ緻密に書いたものは少ない。
まず「人家二百軒」とある。府中の集落戸数合わせて二百軒、当時としてはかなりの人家の密集した所であったようで江戸時代の古地図にも高良山のふもとには屋根がたくさん描かれていて、往時の賑わいを示している。延喜式まで登場したところをみると色々調べ勉強したようである。
次に興味をひかれるのが「下馬の杭石」である。『筑後高良山略図』によると、石鳥居の右手に「下馬」と彫った石柱がある。今は礎石もないのが残念である。しかし有馬の殿様は馬で蓮台院から毎日通ったわけだから、そのたびに「下馬」させられたら大変だったであろう。
「登り入りて六町目」には放生池があるわけだから、今の標石とは異っている。「高峰の社」とは高牟礼神社、つまり今でいう高樹神社であろう。
 新清水といっても今ではすっかり水明荘の敷地内に入り込んでしまい全く昔の面影を偲ぶよすがもない。しかし「高良山略図」をみると新清水は左手の高樹神杜に相対する名所であったことがわかる。放生池を右にまわり込んで石段を登ると、正面に地蔵堂、次に茶屋があった。その奥に新清水があり、その右にはそれこそ京都の清水寺の規模を小さくしたような舞台が描かれている。これを菱屋平七は「舞台又廊」という言葉で表わしている。石の五重の塔も山に向って左手にみえる。そして最後の階段を登ると桃青霊社がある。この高台で平七はひと休みする。眼下の放生池周辺の景色は美しい。
 「十四町目の茶屋」というのは、現在の本坂下の駐車場の手前見晴らしのよい平地の所にあった「一軒茶屋」のことか。
 本坂下には桧の木の並木があったようだ。本坂の手前に石の五重塔があったというが今は全く姿を消してしまっている。そして本坂下の「赤き木の鳥居」に高良玉垂宮の額があるのだが昔は稲荷神社のように赤かったというから面白い。この赤鳥居をくぐると石段の左右に坂本神社があった。平七によるとおこもり堂もあった。
 さて本坂下の石段を平七は百四十五段登ってお参りをする。石段は現在百三十段である。今の石段は宝暦三年(一七五三)建造である。寄進者は三潴の酒造家である。
 「神社の御前に銅の手水鉢と香爐、石の狛犬あり」とあるが、『略図』を見るとそれぞれかなり写実的に描かれている。手水所とあるがこの瓦ぶきの屋根の下に銅の水盤があったのである。香爐は相当立派なものだったことがわかる。図では余りの立派さに感激したらしい一人の大人がつれの人に指さして何事か言っている様子が描かれている。蓮の葉を伏せた形のものに上向きの大きな葉を乗せて二メートル以上もある大きなものだったようである。狛犬は現在、社の前にはないから本坂下に移動させたのかもしれない。
 次に「御神木の二股の松」とあるが、図によると拝殿に向って左手に今ものこっている蘇鉄を中心に、立派な枝ぶりの松があったのである。図では松の前後は共に柵で囲ってあり、神木とみえるが、二股になっている松はといえば後方のである。
 さて山を下り府中を抜け二、三丁行った所に出茶屋があったという。そして次に千本杉の記録である。光楽寺村もわからないが、土橋というのは今の高良川の橋のことであろう。

西遊雑記

――古川古松軒―― (熊本県立図書館蔵書)
(一七二六〜一八〇七)備中下道郡岡田村の人。地図学者。三十二歳で蘭方医となり長崎へ行き蘭書を研究して測量の術を学んだ。『西遊雑記』は天明三年(一七八三)修験者に姿を変じて独行したやや探険的な風土視察である。その「巻之六」に筑後の印象が載っている。

「……七月朔日筑後に入る。堺に標木立つ。是より立花左近将監領分とあり。さて筑後は山少なく平地多く、所々にて森林見え焚木不自由ならず、水の流も清く上 々国の風なり。しかるに在中広く見渡すに豪家と覚しき百姓一家も見えず、風俗肥後の如く十人に六、七人までは、男女ともに夏月は裸身にて、婦人などの人を恥る気色さらになし。風土肥後よりも勝れ国ながら、人物言語の風俗は粗同じ……」

筑後の印象を肥後熊本と比較して書いているが、筑後農民の貧しさが記録されている。さらに筆をすすめて、府中について書いている。

高良山の麓の町を府中と称し薩州、肥後より豊前の小倉への往来せる駅にて、久留米侯の別業も有りて大□の町なり。此町より高良山の社前まで(玉垂宮という)二十町の登坂なり。久留米の町より府中の町まで三十四町、左右並松繁茂し、よき道なり。此辺は広々とせし田所にて、当年稲作甚見事にして豊作という。此国南北僅に十里、東西十三、四里、小国なりといえども平地多く、山国の大国より租米の高も少なからずと土人の自賛せる事なり。………

久留米は昔から自然が美しく、自然の恵みの豊かな土地柄であったようだ。それなのになぜ農民は貧しかったのだろう。

西遊日記

――桃節山―― (熊本県立図書館蔵書)
天保三年(一八三二)出雲国松江生。名好裕、通称文之助。松江藩の教育に従事した。この日記は、鉄の交易の為に熊本から派遣されてきた安井左平次に同行した際に書かれたものである。

(慶応元年七月十七日松江出発) 八月十二日曇天昼四ツ時頃より晴 一、朝六時過山家を発す 山家より松崎へ三里 一、山家より一里計にして小田川を渡る。小田川とい 建石あり。小田川より五、六丁にして筑前、筑後 之界建石あり。これより久留米領也。松崎より府 中へ三里。 一、此辺人足賃甚賎し。算用して見るに一里十六文之 古法のままにして割増無之趣也。 一、松崎より一里計も行而久留米へ赴く追分あり。 (中略) 一、右追分より少しく行而神代川なり。千とせ川とも いう由。即ち筑後川なり。 九州にての大河之由。 川幅五十間あり。 「神代川 神代川水源は久住山より出つ。久住山は肥後・ 豊後の境あたりにありて、九州第一之高山・古 昔は九重山と書きし由、……」 一、筑後川より二十丁余にして府中に着、昼支度致す。 此辺は賀寿里名物也。久留米産物之由。爾し此辺 処々にて盛にかすりを織り候を見受たり。 一、府中より十八丁之上りにて高良山也。久留米鎮守 之社玉垂宮ありといへり。府中より羽犬塚へ三里 一、九州地は都而開けたる土地柄なるが、別して筑後 に入りては曠潤なる平地也。山少く、海も至而遠 し。 羽犬塚より瀬高へ二里 一、羽犬塚より一里計にして久留米領・柳川領之界に 而建石あり。界に本郷川といふ川あり。 一、夜六半時頃瀬高へ着、米屋金七方に宿す。

桃節山の『西遊日記』では筑前、筑後の境石が登場する。この境石を過ぎれば松崎はもうすぐである。松崎から一里ばかりの追分を通過すればいよいよ筑後川である。神代川とよんでいるのは面白い。源流まで記しているのはさすがに知識人である。筑後川より二十丁余り歩いて府中着。府中ではどこかに休憩して昼食でもとったらしい。府中附近の様子を見ながら歩きつつ目ざとく久留米絣の生産現場をみつけている。一八六五年当時久留米絣はすでに特産物としてその名を知られるようになっ ていたようである。

次に高良山が登場する。節山は十八丁と山頂までの距離を書いている。森鴎外は高樹神社より二十丁と書き、ある書物には十六町、末次四郎は十五町の標石を立てた。時代によって変るのであろう。この節山、仲々健脚とみえて、二日の行程少なくとも一日半はかかる山家、瀬高間を一日で歩いている。すこしゆとりをもって高良山にでも登ってくれると当時の様子が判って参考になったのだが……。

塵壼・筑後路の印象

――河井継之助――
江戸末期越後国長岡藩家老。(一八二七〜一八六八)藩政改革に功績があった。戊辰戦争では中立を努めたが失敗に終っている。

安政六年十月継之助は熊本の植木を出発し、山鹿の湯治場を通り肥後の番所が設置されている南関を通過、山積みされた石炭を見、コークスをめずらしがって柳川領へ着き、「はるの町」という所で宿をとる。以下原文のまま。

廿四日 晴 〔松崎泊〕 はるの町は己に平地なり。此より山はなく、府中の手前より別れ、道、久留米の城下へ行く。其の入口は柳川道なり。柳川へも志あれど、三里許りも廻り故、止めたり。久留米も少しは廻りなり。 城市共に随分広大にして賑かなり。町も奇麗なり。城の脇に使者館あり。其の脇に馬場あり。両側に桜あり。大勢乗り居る。馬は繁昌と見えて何れも下手にあらず。少し徘徊見物してちと遅けれ共、松崎迄行く。

この後継之助はしばらく歩いて筑後川を渡る。本郷でたまたま行なわれていた田舎興業の相撲を見物している。筑後地方の平担な地形、櫨の多さに感心し「久留米は兼て好き所と聞く。実に上々国ならん」と絶賛している。あれこれ観察しつつ松崎に着く。「まつざき宿、此の宿は此の辺りになき事、女郎あり。皆、久留米より遊びに来る由、三里あり。頻りに勧む。我れ例の根気を以て防ぎたり。去り乍ら、東海道などとは大いに違えり、実に筑後は沃野千里、川は数々ありて運送は好し、この上なき上国ならんか。」と日記を締めくくっている。
この記録からすると、府中の宿場には女郎はいなかったようである。明治維新の傑物、河井継之助が「例の根気を以って」女郎の勧誘をことわっている姿が目に浮ぶようである。九州の主要街道であった坊の津街道や日田街道の通る宿場町府中を旅の途中訪れた有名人は外にも居る。頼山陽も日田の成宜園から筑後川を舟で下って、久留米の知人を訪ねている。長崎商館付医師として来日したケンペル(一六五一〜一七一六)は、日本の風俗、社会、動植物などについて観察し『日本誌』を出したが、江戸参府の折、府中を通過したことを『江戸参府紀行』 に載せている。つまり、元禄五年(一六九二)二回目の江戸参府の折、三月四日(旧正月十七日)のことである。「…夜明け前天気もよく月明に久留米を出発して府中に至る。そこに右手に二里許り距てて古き城あり。宮地川に至る。…」以上のように府中を事もなく通過してしまっている。

九州測量日記

――伊能忠敬――
上総(現・千葉県)に生まれ、天文暦数の学に詳しく、幕命をもって全国を測量して地図を製作してまわった事は有名である。

「文化九年(一八一二)十月八日、昨夜より雨朝止、 追分出立、筑後国御井郡府中町、高良山前久留米街 道追分、當二月六日残杭より初、久留米之測、朝妻 原、旧高良宮御幸所、九十年来絶えてなし、茶屋一 軒、字朝妻、枝光村、野中村、高良川幅六間、茶屋、 東久留米飛地市の上村、櫛原村字新茶屋、五穀神社、 祭神主夜神、別當真言宗神田山安養院、堺内観音堂、 天満宮鐘樓堂……」

科学的日本地図の最初の製作者である忠敬も府中に足を踏み入れているが、朝妻の警察アパート横の林の中にお仮屋と呼ばれるみこしの休む家があった。ことを記して、九十年来お神幸が絶えてない事を記している。

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