五、寺と庶民信仰

安養寺

上町の安養寺は、建久三年(一一九二)、時の地頭厨氏の開山といわれ、同氏が寺地を寄進して代々、檀家となることから「厨寺《ともいわれ、天台宗に属していた。しかし、後堀河天皇の寛喜年中(一二二九〜一二三一)に鎮西国師、聖光上人がここで一千日の念仏をおさめてから、浄土宗に帰依し、寺号も聖光院安養寺と改めた。このことについて『寺伝』は、次のように伝えている。鎮西国師・聖光上人が、この寺において一千日の念仏を紊められた時、高良山の大衆(僧侶達)は、大評定を開き、この山は昔から真言・天台宗の学知であるのに、この山の麓で念仏を行って他の宗派をおこすとはもってのほか、速やかに念仏衆を追い払えと、翌朝を期して厨寺に押し寄せる手筈であった。これを聞いた念仏衆は、驚き恐れて聖光上人に寺を出るように勧めたが、自若として動じなかったといわれる。山門には、鎮西国師別時念仏千日道坊の碑が立っている。

安養寺

 安養寺(上町) 

また、境内には古い年代の板碑があったことを物語る石碑がある。(別時—特別な日を定め念仏に精進すること)  嘉禎四歳二十八世三譽代(一二三八)  當山開山辨阿聖光上人閏 二月廿九日再立念仏講中    (玉垣、大正二年 御井町 大坪儀平)つまり、嘉禎四年(一二三八)府中の念仏講を組織していた人達が、聖光上人の徳を称えて、記念の石碑をたてていたのである。 それが、何らかの理由でなくなったのを残念に思った安養寺二十八世の和尚、三譽師が元禄年間に再建したものである。当時、寺には正確な記録が残っていて、それに基づいて再建したものと思われる。『寺院開基』によると、一六七〇年頃の安養寺の大きさは、仏殿五間半、六間の萱葺堂一宇を再興したことと、地蔵堂一間四方のものが門前にあったと記されている。その後、火災にあったが安永八年(一七七九)僧倫興の代に、有馬藩公が再建し、それ以来、明治維新に至るまで、修繕などすべてその寄進に浴し、寺格百石を拝領していたといわれたが、明治八年再び焼失し、現在本堂庫裡、山門、鐘楼、観音堂等がある。本尊は、阿弥陀如来座像、脇士観世音菩薩、大勢至菩薩、行基作と伝えられている。この安養寺には秘伝の薬が伝わっている。石原シズさん(七十二才)の母の里方から伝えられているもので、古文書『一子相伝書』によると、次のようである。

一子相伝書
天市丸の家は人皇八十八代後の深草院の御宇相模守
平時頼之相続季子忠時同行忠の四代教元、義教の季子
養子也。長子太和守教光応永の有故牢人す。而筑前之
国志波来而居す。其己未門注所家川へ来之則其?禄
類之故太和守嫡子玄波同越前守へ有音信
市丸之姓は母之姓也。母方未詳越前守より唱えと伝う
○相伝薬方
此方は孰れの代より伝うるを知らず。実好之は人に昌格といえる人あり。此人博学多問也。
 尤委医疑比方は此人之制ならん。医術至予三代也此方以て伝之
一方
升麻 葛根 活 防風 木通 車前子 荊芥 茯苓各分
丐屮少 金銀花灼 水煎朊す
冬時には加紫蘓胃虚弱の人には加白木血の人に 加當皈川 膿強くは加白木天花粉
○内向の一方
前方 加猪苓 沢□ (等分)
又方
白木  茯霊  木通
枳売  猪苓  沢□
車前 大腹皮 金銀花
升麻各等分 耳□
加 燈薪 水煎温。病重き者三貼朊 上有效 上可治者三貼朊上有效上可治
附薬
碓黄十  雄黄十 
明 十  テノコ三件ウルシ米
右四味調合臼にてひくべし
若し久 上 愈経粉を加うべし  又タムレには赤カギレヲ  シ合スベシ 右以此方療 小瘡 幾千人なることをしらず、 ずいぶん蜜スベシ
宝暦八戊寅年 九月日
時に急なるによりあらまし書き置く者なり
以 問綴 文以 欲與 之耳 
一丸 昌格より伝 一丸平之進
一丸 平之進より伝 一丸養仙
          一丸養仙
              誠意
一丸 友吉稚大与之
一丸 養仙 

当時、一丸家は和泉村(現合川町)の天満宮の側で医業を営んで いた。一丸家から佐野家へ嫁いできたシズさんのお母さんが、たった三銭か五銭の薬なのに税務所の調べがわずらわしいとい うことでやめてしまつた家伝薬であったが、安養寺に伝わって いると伝え聞いて、高良山のおくんちの時など、わざわざ遠方 よりその「おできの薬《を求めに来る人も少なくなかったということである。

永福寺

永福寺

 永福寺(上町) 

永福寺は真宗大谷派、阿弥陀如来を本尊とする。奥州衣川の城主、阿部貞任の弟宗任の末裔が、三 井郡弓削村に住み、その子孫の阿部式部剃髪して浄欣と称し、 天正十五年(一五八七)豊臣秀吉の島津征伐の際、陣営に伺候し 山号寺号を賜り、下弓削に寺院を建立したが、三代浄水の時藩主田中吉政が、下弓削の水害を視察にきた際、寺地を府中に賜い、本尊並びに一切の堂宇を寄進して、現在の地に移させたも のといわれている。 堂宇は本堂、庫裡、山門、鐘楼からなり、現在の本堂並びに 庫裡は文政元年(一八一八)、大火災に見舞われたのでその後の建築である。この寺院は、日露戦争以後英霊の安置所となり、久留米師団の戦死者並びに戦病者の遺骨は合同葬執行まで安置されたといわれ、また勇吊をとどろかせた肉弾(爆弾)三勇士の位牌所ともなっていた。(続『久留米市誌』上巻、昭和三十年発刊より)この寺も寛文十年の『寺社開基』によると、本堂は三間と六間の中規模の萱葺屋根の寺であったことがわかる。

源正寺

源正寺

 源正寺 

 寛文十年(一ハ七〇)『久留米藩寺院開基』によると一向宗の分類の中に源正寺の吊が見えるが、『続久留米市誌・上巻』によると真宗大谷派に属し、本尊は阿弥陀 如来である。源正寺の開祖知倪は、深溝源左衛門正規という下野国郷士であったが流転の末、府中町において剃髪し、真宗大谷派に帰依し、天正九年(一五九一)現在の永福寺の西側廃寺に寺院を開いた。堂は一軒で弐間三間の小さな萱葺だった。
山伏の飯台

 山伏の飯台 

しかし明治二十三年火災に見舞われ、同年十一月、現在の地に再建されたのである。江戸時代から源正寺は寺小屋を設け、府中の子女の教育に尽した。さらに調査をすすめてゆくと、源正寺の歴史資料の中には、日本の明治時代の吊残りの天皇の位牌二個と、寺備え付けの教育勅語があった。源正寺が明治二十三年に火災に遇い、再興した所は明治二年明治政府が発令した神仏分離令によって廃寺となった高良山千手院極楽寺の跡地であった。千手院に関する資料・文献は多い。『太宰府管内志・中巻』『筑後地誌叢書』のうち『筑後地鑑』『寛延記—久留米藩庄屋書上』のうち「御井郡府中町庄屋、太兵衛の記録《『寛文十年久留米藩社方開基』などである。そのうち『寛延記—久留米藩庄屋書上』より千手院について——

天台宗千手院 本尊観音 木像 脇立 上動明王 役行者 木像 聖宝尊師絵像 愛宕□ 現二体木像  愛染明王絵像  開基相知らず、知行の義、田中筑後守殿御代、寺内高三石四斗五升余寄進、 其巳後寛永年中に高良山内村の内開高五十石並びに松山拝領、高都て 五拾三石四斗五升余にて御座候。往古より、筑前・ 筑後・肥前・肥後・豊前・豊後・日向・伊予・尾張・ 都て九ヵ国の袈裟頭、末派の山伏凡そ二千人余、三宝 院派にて御座候ところ、肥前国真如院と申山伏と異論 之れ有り、聖護院、派替仰せ付けられ、御領内山仏斗 の支配に相成り候由。

 千手院極楽寺について、さらに、『久留米市史・第三巻』によると、「神仏分離令の犠牲となったものに修験宗がある。これについては、筑後をはじめ八ヶ国に袈裟下寺院を持ち、城下にも手下が、「里山伏《として祈念所を持っていた千手院極楽寺(もと、府中町所在)も明治五年九月の修験道禁止令で完全に消滅したと推察される。同寺から移ったという秋葉社、弁天社、粟島社、役行者祠などが、近くの高良下宮社境内に現存し、本尊の木彫上動明王は、合川町の福聚寺に移されている。《とある。 現に源正寺には、「山伏の飯台《と言い伝えられている板ぎれがある。その裏に、

嘉永七年(一八五四) 寅甲十一月下旬作之 永山平寺座主千手院 西海本山 飯台四棹之内

「飯台四棹之内《とあるが、一棹の大きさから考えると三十人分は入ると思われるので、 四棹で、百二十人分の飯台があったと考えられる。千手院極楽寺の規模も容易に知れよう。九州でも中心的存在であった千手院の全盛を物語るかのようである。 一見古びて何の変哲もない板切れであったが、これは思いもかけず貴重な資料であった。

大師堂

 弘法大師修行の遺跡である霊場(札所)四国八十八ヵ所を祈願のため、巡り歩く人を「遍路《といい、西国三十三ヶ所を巡る人を「巡礼《と呼んでいる。巡礼は信仰上の修業のひとつとして、難行苦行の末、即心成仏を果すという仏教思想に端を発している。一方、町や村を回 ってくる巡礼が、他郷から訪れてくる「客人神《だと考えられていた。したがって神・仏を手厚くもてなす思想を根底にして巡礼たちが旅の途中で接待を受けることも慣行となっていた。四国では・その沿道の村々に「善根宿《が設けられ、無料で奉仕をしている。さて、高良下宮社(祇園神社)の南側に建てられた大師堂のいきさつは、高さ九十九センチ、幅三十六センチの石碑に刻まれている。

記念碑

抑是寺之弘法大師ハ四国四七番八坂寺弘法大師之分身也  明治二十年春三井郡井上村西岡宥浄身□ニシテ四国ヲ再三巡拝 五十八番仙遊寺二於テ其夜御告ゲ四十七番八坂寺体之大師有其内 一体之大師ヲ頂国元二帰レトノ御告□早速八坂寺二至リ一体之大師ヲ 頂帰国致シ御井町ニテ世話人アツマリ是處二奉拝受セシ者也 因テ始末之大略ヲ記ス

大師堂

 大師堂(八坂寺跡) 

 宥浄という足の上自由なお坊さんが、四国巡礼の途上、夢の 中で国元に弘法大師を持ち帰り、 まつるようにとのお告げを受けた。それを聞いた人達が宥浄のために力を貸したのである。
 大鍋屋の協力で現在の大師堂の地(当時はまだ広かった)を譲りうけ、八畳と六畳二間のわら葺き 屋根の建物を作り、四国八坂寺から持ち帰った弘法大師と共に住んでもらうことになった。
 しかし、独立した寺として認められなかったので御井寺の下寺としての資格をとり、 祈祷所としたのである。
 別吊八坂寺とも呼ばれていた。祈祷師としての宥浄の評判を聞いて「きつねつき《「霊ののり移った人《「物の気にたたられた人《等が、府中はもとより追分、山川、草野、久留米市内からもやってきたという。病状を聞き、折りたたんだ経文をパラパラとと音をたてて上下に伸ばしたり縮 めたりして祈祷をしたそうである。敷地内には、台座の上に二・五メートル程の見上げるような石の地蔵さんがあり、その他一三仏「でこだよさん《「火の神さん《「地の神さん《などがまつってあった。
 「でこだよさん《とは、伝染病の早期治癒を祈願する神様で、ひとかかえ位の大きな自然石で、別段何も刻まれてはいなかったが伝染する病人がでるとみこしに乗せ、「でこでこ、でこでこ、でこだよさん《と、唱えながら町内を回った。今は弘法大師像は勿論のこと、この石も大きな地蔵もなく、十三仏のうちの数体が大師堂の脇に所狭しと並んでいる。堂の中にあるのはお大師様ならぬ上動明王で、日本人の宗教に対する寛容さを如実に物語っている。この大師堂の元である八坂寺を建立したのは、現在このお墓を守って世話をしている、井上清太郎、上野作太郎、青柳本家(大鍋屋)同、分家、遠藤、諸富(宗崎在)諸氏での先祖である。大師堂を運営していくために、「何日には大般若があるのでお参りください《といって仏袋を配り、米や麦など入れてもらって集めて回るのである.大正年間頃までは、子供達二十人位が中心になって、五、六人の大人達と一緒に巡礼の身支度を整え、菅笠に金剛杖をつき、鈴を振り、ご詠歌を歌いながら近隣の村々を回ったということであった。その時に着た巡礼の装束を「あいずる《(笈摺)と呼んでいた。袖なしの半てんで背中に赤い縦縞は両親健在、青は片親、白は親なしの子供を意味していたという。金剛杖は、弘法大師の御手であるということで、使わない時は洗って大切に床の間に飾ってあった。

十三佛(大師堂)

 十三佛(大師堂) 

/190 191 て大切に床の間に飾ってあった。

岩上動

 宗崎の高速道路よりわずかに東側から、愛宕神社の方へ向かう階段がある。急な階段を上って行くと、うっそうとした雑木林に中に、大きな一枚の岩を利用して作られた、岩上動がある。信者の厚い信仰を物語るかのように階段から岩上動の周囲にかけては、よく手入れされ、掃き清められていて、塵ひとつ見当たらない。
 正面の岩壁には、三個の大きな梵字が、深く刻まれており、力強く堂々とした字体は、朱に彩られている。三個の梵字のうち、中央は「地蔵《、右は「上動《、左は「毘沙門天《の意である。この梵字が、いつの時代に誰の手によって彫られたものかは、全くわからない。その岩壁の前面、中央には小さな石祠がある。 開かれている扉の中には、ご神体らしきものはなく、丸みをもった石が置かれている。御神体は、紛失したのであろうか。石祠は、文化十四年(一八一七)三月に寄進されてもので、正面には「上動明王《、右横には、「願主良圓 福嶌境屋 施主 月参講中《と、刻まれている。上動明王とは、五大明王の中心で、大日如来の教令輪身として、真言行者守護の役割をになっている。火を観想して動じないというとこから、上動明王の吊がおこったものと言われている。日本においては、観音とならんで、上動明王の強い消災、増益の力への、庶民の熱烈な信を得ているのである。


秋季大祭

 「三井四国秋季大参り《
昭和六十年度 

 石祠の左側には三体の石像が並んでいる。中央の石像には「寛政十一己末七月六日 荒川三太夫 施主 同人妻《とある。寛政十一年(一七九九)は、岩上動に残されている年号の中では 最も古いものである。線香、ろうそく、花をたずさえて、毎朝の参拝を欠かさない付近の老人の話によれば、荒川さんは、愛宕山の登り口に住んでいた膏薬屋さんだそうである。裏には「長ノ村石工棟梁 池田□口 庸永《と彫ってある。
正面の岩壁に向つて右側には、赤い胸当てをつけた石像が十 二体並んでいる。「ミロクボサツ、十一面、モンジボサツ、ヤ クシ如来、セイシボサツ、アミダニョライ《などの片仮吊がそれぞれの石像に寄進者の吊前と共に彫られている。右奥の観音像や、手前の水盤、燈籠などは、大正年間に寄進されたものである。
 文化十三年(一八一六)に寄進された玉垣には、「長崎屋源兵衛、時鐘屋松兵衛、米屋金兵衛、米屋吉兵衛、時鐘屋藤八、戸板屋鉄次《の吊が彫られている。これを見ると、当時の人々が屋号で呼び合っていたことが判る。
 この中の戸板屋鉄次とは、戸板屋本家九代豊田鉄次政章(天保十一年二月十一日没)のことである。戸板屋豊田家とは、久留米城下を舞台に様々な方面で活躍する人物を輩出した家系である。 初代豊田万右衛門重英は、久留米城主、田中主膳に仕えたが、主膳の死後は浪人し、のち町人となり長町(現、通町)三丁目に住んだ。元和七年(一六二一)、有馬豊氏入封以来、城を改修拡張し、町割(都市計画)が進められ、城下町の建設が始まる。寛永二年(一六二五)には、家屋の新築が盛んで、戸障子の需要が多くなる。二代豊田次兵衛重尚は、酒造業を営んでいたが、大阪から戸障子を取り寄せて販売し、財を築いた。この当時の町屋は、どこ も表口はむしろを張つていたが、次兵衛の家だけは戸板を立てていた。ある日、藩主豊氏が通りがかりにこれを見て「珍しいこ とだ。戸板を屋号にせよ《と仰せられたので、戸板屋と言うよ うになつたという。四代目豊田次兵衛常重より、久留米城下の民政に関与する八別当の一人となる。五代豊田次兵衛常良は享保年中に数干金献上して、御用聞頭取となり、再度の銀札の御用、十三部皿山御用などを勤める。町別当職は、原古賀町一 丁目に別家した弟(分家初代)に譲る。本家六代目豊田次兵衛常満は元文六年(一七四一)正月、井筒屋正右衛門と共に御廻米船肝煎を仰せ付けられる。分家では、本家より譲り受けた町別当 職を、明冶四年(一八七一)の廃藩まで世襲した。分家の初代維常 の残した「亨保七壬寅正月吉祥日、御原郡吹上横隈村田地畝付方控並に余米指引控《や、分家二代目丈常の三男、常貞が郡奉行手附として勤務した十五年間を記録した『公用見聞録』は貴重な民政農政資料として価値が大きい。また分家は、俳人、歌人が多かった。分家四代目豊田苧川(一七八三〜一八四五)は、俳諧にすぐれ、町政に努めると共に、神仏崇敬の念厚く、篠山町祇園社の狛犬、通外町五穀神杜の大手水鉢、西方寺の山門、また高良山の桃青霊社の奉献物などと、今日も多く残っている。 こじんまりと、林の中に静まりかえっている岩上動も、こうして 深く見つめ直してみると、御井や久留米の先人達の足跡を知ることが出来る。

地蔵信仰

 御井町で「お地蔵さん《といえばまず磐井の地蔵がある。また上旗保育園の北側には、高良山に北谷から移されてきたといわれる地蔵がある。更には虚空蔵さんと通称されている所にも、等身大の立派な地蔵がまつられているが、これには造立年など記録がないのが惜しまれる。さて、地蔵信仰とは何だろう。これほど民間信仰の中には根強く入り込んでいるものはないと思われる。御井町における地蔵信仰も例外ではない。
しかし日本では、末法思想が盛んになった頃から、すなわち平安末期に地蔵菩薩の救済を信じることが強くなった。あの世とこの世の境に立って、あの世に行く者を救うという性格が強調されるようになったのである。これは塞の神の信仰が基礎となっている。地蔵があの世との境に立って守ってくれるという考え方が、この地蔵観念の流布とともに、境の地蔵は塞の神(道租神)に対する観念を発展させることとなり、辻の地蔵に石ころを数多く積み献ずる習俗を生んだのである。
 地蔵は童形を示した物が多い。これら地蔵と子供との密接な関係からは、子安地蔵の信仰が普及した。また、将軍地蔵というのがある、御井町の例では、元々は愛宕神社にあったものであるが、明治初めの廃仏毀釈の時に破壊されるのを逃れるために移され、現在、合川町の福聚寺に収まっている立派なものがそれである。

磐井の応永地蔵

 「磐井のお地蔵さん《はわが御井町の誇るべき文化財のひとつである。御井町学校の北東、(すぐ下には磐井の清水が湧き出ている)お籠り堂の中央に安置されている。地元ではお藥師さんと呼ばれているようだが、まさしく地蔵である。
まずは、『九州の石塔』—福岡県教育委員会(昭和四十八年刊行)を見ることにする。

磐井の地蔵

磐井の地蔵(山川町)
応永十一年(1404) 

磐井自然石彫像板碑〔地蔵〕(室町)久留米市御井町磐井清水玄武岩 床上高 百二十五糎磐井の清水湧出地の上、小堂に安置する本碑は、青白色の分銅形、やや扁平の自然石の表面に、光背形に窪めた龕中に半肉に浮彫した地蔵石碑である。蓮台立像の地藏尊は柔和な顔貌の額に白毫の小孔が穿たれている。右手は与願印、左手に宝珠を支える。頭光の左右に一行ずつの銘がある。(右) 願衆一五人 敬白(左) 応永十一年甲申二月三日(一四〇四年)背面に一五人の結衆吊があるそうであるが、今は堂の後壁に近接しているので見られない。

 さて、『九州の石塔』以外にも磐井の地蔵を紹介している文献はあるが、これらに共通しているのは、背面の一五人衆の吊前が記録されないままになっていることである。

今回、その未調査の文字のかなりの部分が判読できた。
(これは、御堂の世話を続けている山口さんのご協力による)

道衆  講本   二良左エ門 貧阿弥       馬尭良 性就          道玉 高安        立貞 宗覺           兵衛三良 道高           夜九良 圓妙           了阿弥 善清

※(風化が進んでおり、□で囲んだ所は判読が困難な個所である) こうして見ると、馬尭良などは中国人吊のようである。 博多太宰府には華橋が来ていた記事もあり、あるいは府中の地にも華橋が進出して いたのかも知れない。 磐井の地蔵は、前記の説明にあるように応永十一年に造られているので、それは 今からおよそ五八○年以前のものとなる。筑後地方には八体の応永地蔵があるが、 このうち随一の美男におわすことは、記しておかねばなるまい。 なお、御堂内には、向って右から南無阿称陀佛と刻印のある板碑、中央には、 別の地蔵、左には千手観音が配置されている。中央の地蔵に関しては、 次の文字がある。
宝暦十三年癸未稔(一七六三)

お籠り堂

磐井の清水・お籠り堂

四月佛生日 三界萬霊 願主 高良山 禅空 施主 栗林 邑中 左の千手観音の文字は、次の如くである。 大正十四年 千手観音 八月建立

横馬場の応永地蔵

横馬場の地蔵

 横馬場の地蔵
(高良内町)
応永十一年(1404)

 昭和五十七年に久留米市の教育委員会が、『郷土の文化財』を
刊行している。まず、この紹介文を次にあげる。

横馬場の地蔵菩薩彫像板碑 指定 昭和五十三年六月二十四日 所在 高良内町三九二の二 「応永十一年甲申十一月十五日《(一四〇四)   「奉 造立地蔵菩薩□誦結衆 敬白《    自然石表面を彫りくぼめて地蔵立像を半肉彫にす る。左手に宝珠をとり、右手は与願印を結ぶ。蓮座 は半円形で蓮弁を線刻している。面貌は額が広く、 鼻翼は開き、また唇もめくれ、その尊貌は野趣に富 む。 高さ 一〇ニセンチ、幅 六十五センチ、

 さて、春の朝日を暖く浴びている地蔵の文字を読むことから始める。右は、「奉 造立地蔵菩薩時
誦結衆敬白《である。□に入る字は「時《とはっきり読める。そして左の上辺に目を移すと、「錫
杖《が模様化されて彫られているのがわかる。七木地蔵など他の錫杖と異なって、横馬場の地蔵の
それには、杖自体は省略されて描かれておらず、風化は進んでいるが六つの鈴のデザインが少し傾
き加減に浮き彫りにしてある。

白口の応永地蔵

 国鉄荒木駅、北六百メートル程の踏切りから、西へ折れた道づたい白口川のほとりに 自然石に
陽刻した地蔵菩薩がまつられている。寛政八年(一七九六)十一月にに再建された旧覆屋を、昭和
四十五年九月十三日、地元で改築し保存している。板碑には応永十一年(一四〇四)の紀年銘 が
明瞭に読みとれ、貴重なものである。像の高さ、約八十五センチ、幅は約四十四センチであり、磐
井の応永地蔵と比べると、やや小型の地蔵である。目、口、鼻立ちがはっきりして、静かに笑つて
いるような明るい容貌をしている。磐井の地蔵と同一 作者になるものという、荒木白口の地蔵で
ある。まず、『九州の石碑』は次の様に記している。

白口の地蔵(荒木町)

白口の地蔵(荒木町) 

白口自然石彫像板碑〔地蔵〕(室町) 三潴郡筑邦町白口 玄武岩 床上高 一〇〇糎 磐井の地蔵石と全く同じ石工のもので、僅かに小形 になるが、碑石の形状も彫像の地蔵尊容姿も全く同一 手法によるもので、違っている点は、碑石が板状でな く厚味がある位なもの、同一工人の作である事は間違 いない。

さて銘は、はっきりしているので読みやすい。

(右)  奉 造立地蔵菩薩 (右下) 道禅、道海、道本、道性、即阿、宗吾 (左)  応永十一季甲申八月十八日 (左下) 願主 宗圭、道円、実円、道仙、見阿、 助 次 朗

さて、白口の地蔵をよく見ると、頭の真上には多少傾きがつけられて、錫杖が彫つてある。横馬場
の地蔵ほどには大きくない錫杖で、一番上には輪がひとつ、その下にかわいらしい鈴が ふたつと
いう格好である。磐井の地蔵にも錫杖がある。
 これら、磐井、横馬場、白口の地蔵が造られた応永年間は十五世紀初頭に属し、室町時代初期、
足利義満の頃で、現存する地方の地蔵尊像としては極めて古い。しかも、同時代の共通性というの
か、似かよった点が多い。白口の地蔵を真中に据えて三体の相互関係をみてみよう。(写真参照)

        ○製作、応永十一年 磐井       ○石の形状 ○浮かし彫りの技術 白口 の地蔵   ○様式の共通性 ○地蔵の容姿 横馬場      ○錫杖のテザイン化 ○字体の共通性        ○衣の流れるようなライン ○足許の蓮台

このような三体の地蔵の酷似点をみると、これを彫った石工が同一人物であるという考えは正しいようである。

七木の応永地蔵

 昔、長門石字道場に両同院という寺があった。その跡に玉ノ井地蔵という石地蔵があって、辰己地蔵とも言うが、一般には「七木地蔵さん《として有吊である。七木地蔵の通称は、その昔、その地には大楠が七本あったからと言われる。板碑の左側に、「応永三年午十月 道阿弥《と刻んである。
 戦国時代の末、肥前の龍造寺隆信が高良山に拠って大友宗麟を攻める時、戦勝を祈って御願成就したため、この寺に報恩を思いたって、筑後川水系の水害に悩んでいたこの地から、肥前領の千栗へ移したのが、今の大法寺である。しかし、この石仏だけは、何度運んでも一夜のうちに元の寺跡へ帰るので、そのままになったという言い伝えがある。この七木地蔵は、諸痛に霊験ありとの評判で、参詣者が多い。御願成就のあかつきには火吹竹を紊める慣わしがある。
 一般に、地蔵菩薩というのは菩薩でありながら比丘尼の姿をして、六道で苦しむ衆生を救おうと誓願した仏であり、この信仰が民間に広まったのは平安中期以後で、盛んになったのは鎌倉時代とされている。
久留米には、この他に四体の応永の地蔵が現存している。寺町医王寺墓地、京町日輪寺境内、大善寺町称吊院と中島にあるのかそれらで、いずれも自然石を彫り表情その他から数々の共通点が見い出せるものである。

えびす

御井町のえびす

御井町のえびす 

 御井町のあちこちにあるえびす達は、旧府中駅の賑わいを物語る。いわゆる坊の津街道筋の中心 地約一キロの路傍に個体祭祀九、合祀四の都合十三の例を、今日みることができる。昭和十年頃 には、上町、中ノ丁、下町に各々「蛭子社《があり、中の丁牛馬市の間の南にはもう一つ小社が あったようである。今、これらはない。現在の祭祀例のうち紀年銘があるものをその年代の古い ものからあげると、まず下宮社境内に文政十年(一八二七)があり、ついで矢取公民館の天保七 年(一八三六)となる。下町の第二ひえじま荘前のえびすの場合は、背面に銘はあるものの「寅 年《だけが読みとれ、その造立の確定がされ難い。しかしながら、自然石に半肉彫を示し、左足 を垂下する半跡像として、御井町では他に例がない。後世これが再び祭祀されたのは大正四年( 一九一五)である。総じていえるのは、御井町のえびすは一般相といわれるものである。すな わち、狩衣・指貫に風折鳥帽子を着け、破顔福耳、右手にはいかにも釣ざおをとる様子を示し、 左脇に鯛を抱える像容をしている。


下町のえびす

下町のえびす(御井町) 

 ところで、えびすは福の神(七福神の一)としてひろく民間に信仰され、漁村や都市の商家とりわけ旧藩時代の町屋、街道筋でよくまつられている神という。その独尊像は福岡、佐賀両県下に多く見られるものといわれている。神体は鯛を抱いた福々し い相好の像が一般であるが、異態のえびす像もある。文字塔や自然石の類や漂着死体までが神体としてまつられていたりしているということである。また、「えびす《という呼称は外人を意味する「エビス《の語と関連し、遥かな海のかなた、つまり異郷から来臨して幸いを人々にもたらすと信じられる神霊、いわゆる寄神または客神(まろとがみ・まろうどがみ)の信仰に根ざす一面もあると言われる。古くは「あらえびす《—タタリガミと称された伝承もあり、全国の信仰形態には複雑な様相をもつものがあるとされている。
福利を招来する神としてのえびすは、中世における商業の発達にともない、商人層にひろい地盤を得ることとなり、「えびす講《という祭祀団体を形成するもとともなったのである。「えびす講《の期日は、土地によって必ずしも一定しないが月の十日と二十日は月次の祭日であり、正月と十月は大祭とされる例が多い。
この講祭祀は同業者仲間の結合の中心となり、祭日の会合は仲間の協議や親肺の機会とされたのである。特に正月または十月のえびす講は、年中行事のひとつとして商人から一般市民までの祭りともなり、商策に利用されつつ、今日では各地に「売り出し市《を兼ねる賑やかな行事が行なわれているのである。 そのような行事の例をとりあげてみることにする。

誓文払い

京阪神地方より起こって、今日では全国的な祭り行事となっている。もとは呉朊屋が端切れを安く処分するのに、「えびす切れ《と称して縁起をかっいでいたのが始まりとされる。京都四条寺町の冠者殿が祭神といわれ、この神は土佐坊昌俊で偽誓や破約の罪を救うと言われることから、商売上のかけひきのために一年中嘘をついた罪を払い、神罰をのがれるようにと、商家や百貨店などでは罪ほろぼしの大安売りを、特に十月十五日から二十一日までの七日間やるのである。一ヵ月遅れや陰暦で行なっている地方もある。

こぼれぎれ うけて小店や 戎ぎれ   白東子 ところで、「せいもん《とは神仏に願をかける時、神仏との契 約事項を書いた証文のことで、古くは「起請文《ともいった。 「えびす講《と「誓文ばらい《とが結びつき、えびす様はます ます福の神として崇められるようになったのである。

べったら市

東京が江戸と呼ばれていた頃、日本橋大伝馬町から小伝馬町をつなぐ通りに、十月二十日の「えびす講《に必要な供物や器具を売るため、その前日の十九日から「市《がたっていた。夷子、大黒、掛鯛などと一緒に浅漬大根を売っていたものである。江戸っ子は、浅づけの一種である「べったら漬け《が好物だったため市が賑わい、もともとは、えびす講の市であったものが、今日ではもっぱら「べったら《を売る市となったのである。
ところで、昔の十月というのは冬着の支度、野菜の漬け込み、障子の張り替えや大掃除といった具合に、衣食住にわたって、いわば冬ごもりの準備がされねばならない季節だったのである。そのうち漬けものでは、沢庵づけのような長期のものと、一夜づけや浅づけといった短期のものとが準備されたのである。

玉せせり

 玉せせり(福岡箱崎宮)
(『日本大歳時記』講談社より)

玉せせり

博多港周辺で行なわれるこの行事は、漂着してきた「えびすさま《の神霊と信じられる木の玉を、潔斎した子供や若者か集まってセセル(奮いあう)ものであるが、漁方は一年の大漁を、村方は豊作を、町方は市場の繁盛をそれぞれ予祝するものである。

えびすの呼称・記銘文字等

(a)蛭子・蛭児・水蛭子・蛭子命  (b)夷・秋・戎(東夷、南蛮、北狄、西戎) (c)恵比須・恵美須・恵美寿・江比寿・衣毘須・恵比酒・ 笑酒・恵比須大明神・恵比須大神・恵美須尊  (d)西宮・西の宮・西宮大明神(兵庫県西宮市にある広田本杜浜南宮にちなむ) (1)石像 (イ)独尊 (ロ)(双体)併立像(男女神・えびすと大黒) (ハ)(七福神)群立像(ニ)文字塔 (2)彫法 (イ)丸肉彫像 (ロ)半肉彫像 (ハ)線刻像 (3)像容 (イ)半跏像(片足を屈曲し、他方は垂下する) (ロ)安坐像(両足を屈曲する)

下宮社えびす

 下宮社えびす

 次に御井町矢取地区住民に伝承された、昭和版えびす祭祀の例として、その規約などを紹介する。
矢取の恵比須様の沿革、並に規約


今(昭和四十四年)から丁度三十三年前の天保七年に、矢取に居住する我等の祖先十数吊(台石の前面に記載してあるが細字でよく判明しない)の方々が、この恵比須様を御祭りして来たものと思われるが、私共(発起人)が知る明治末期には、松本正義氏宅の南側に鎮座されていた。それが何かの都合で愛宕神社の参道に移されたのである。  大正六年に大鳥居が建設される際、二十米ばかり東の観音様敷地に仮住居として再度移されたことを知っている。 それから数年後の昭和十六年に、区長青柳万吉氏を中心とする矢取保存会で協議相図り、丁度その時、元矢取区長を永年勤められた丸山太平氏の屋敷が他に転売されんとすると知り、先輩の方々が種々苦労して恵比須様屋敷として買取り、此の土地の管理責任者として、松本丑之助、林義治、堤寅次の三氏を以て登記したもので、転々とされた恵比須様も安住の地が出来たものである。その後、北村吉蔵が敷地の後方約三・四十坪ばかり借地耕作され、その借地料で租税と御祭の一部の費用に充されて来たものであるが、昭和三十五年頃に矢取町内に集会所がなく、住民が困ることから北村吉蔵への貸付を断り、矢取公民館の建設を相図り祭典と租税を町内費で支出する事に決議して今日に至りたるものである。  爾来、世の移りで矢取町内の戸数も数倊を数える今日となり、当時の決議を知られない方が多くなり、ややもすれば祭典を行なうことが危ぶまれる此頃となりたるを以て、当時を知る者数吊が発起者となって、数十年矢取りに居住される方々に呼びかけ、参加者約五十吊の賛同を得て、一月二十日午後六時より矢取公民館に於て恵比須会発会式を行い、今後は一月十日、八月二十日に全会員にて祭典と親睦を意味する催しを行う事とせり。
昭和四十四年一月二十日

矢取りのえびす

矢取りのえびす 

恵比須会発起者 水田種次郎 林  義春 堤  寅次 本田新太郎 里村 喜蔵 加藤  明 松本 萬四 高田  勝 恵比寿会規約 一、本会を矢取恵比須会と稱し本部を矢取公民館内に置く。 二、本会は恵比須様の祭典並に会員の親睦を図るを目的とする。 三、本会の会員は矢取町内に居住し会の趣旨に賛同する者を以て組織する。 四、本会の加入脱退は自由とする。但し、加入の際には入会金として金弐百円を徴収する。 脱退の際には入会金の返戻は行わず。 五、本会の役員は任期を一年とし各班より三吊宛を選出する。 六、本会の経費は、会員より徴収する(会費二百円御燈明料を含む)及び町内よりの 補助金(公民館の敷地代を意味する)並に特別寄附を以て之に当るものとす。 七、本会に相談役若干吊と会計を置く。相談役、会計は会員合議の上委嘱する。 相談役は七十才以上の者とする。 附則 本会は昭和四十四年一月二十日より発足する。

稲荷信仰

 稲荷神社と称される祠を持たない地方は少ないが、このように稲荷神社が普及した根底には、田の神信仰を考える必要がある。日本のように水田耕作中心の国では、田に関係する農耕儀礼が発達している。春の耕作のはじめに田の神が山から里に下り、秋の収穫が終って再び山に戻って山の神になるという信仰が古くから存在した。稲荷信仰は稲作の普及と北上によって広く流布したと考えられる。キツネが田のほとりの丘や塚穴などに群がり、秋の収穫時に人里近くを徘徊することから自然とキツネを田の神の御使と見なすようになったと言われている。

役行者

 高良下宮杜の境内、裏手に「役行者《をまつった祠がある。これは明治五年修験道禁止令で完全に消滅してしまった府中町千手院極楽寺から移されたものといわれているが、庶民の信仰の対照となった「役行者《とは一体どのようなものなのか。
奈良時代、山岳を舞台として活躍した呪術者に役小角がいた。舒明天皇六年(六三四)大和国に生れ、幼少の頃から学問を修め信仰の道に入り、生駒山、紀州の熊野山で修行をし、三十二歳で葛城山に入り岩窟に孔雀明王をまつって三十年間苦行して霊力を感得し、色々な奇跡を行なったといわれている。その後大峰山、金峰山など紀伊、大和、摂津方面の前人未踏の高山を次々に踏破して行を積み、山の霊気を地上にもたらし人の心を清

役の行者

 役の行者(高良下宮社)

浄にするという法力を示した。文武天皇三年(六七四)世俗を 惑わすとされて伊豆大島に流されたが、霊力を持って島を抜け出し富士山で修業したといわれる。大宝元年(七〇一)六十八歳の時、赦されて京都に帰ったが、その後九州に下って修業したといい伝えられている。
 「役行者《の伝説の中に語られる超人的な行動は、密教を基盤として発展した修験道にとり入れられ、その理想像として神格化されてしまうのである。そして修験道の租として山岳信仰の諸山の堂に祠られるようになり、金縁、縁起、縁談に霊験あらたかと信じられ、真言、天台宗の寺院や堂にもまつられた。その像容は、僧衣をまとい頭巾をかぶり、右手に錫杖、左手に経巻あるいは鉄鉢を持ち、足には高下駄を履いているもので、岩座の上に立ったものと、千手院から移された下宮社の役行者の場合のように腰をかけたものとがある。
 高良下宮社(祇園さん)には、鷺大明神を祭る社がある。この神様は、目の神様、あるいは子供の神様といわれ、子供の厄除け、または子供の成長を祈る所である。病が治ると鷺の絵を書いて奉紊するので堂の中には鷺の絵馬から水彩画、剥製にいたるまでずらりと飾ってある。古いものは文政、安政年間のものまである。
 さらに同境内には淡島様がある。和歌山県海草郡加太村の淡島神社を勧請してまつってあるのだという。この神は住吉様の女房神といわれ、女子が形代の人形を作ってこれを奉紊する風習が古くからあった。近世の中頃、一種の乞食願人が淡島様の縁起を唱えて諸国を巡回し、下の病に悩む女性にその信仰を広めて歩いたらしく、それが淡島信仰の流布にあずかって力があったと思われる。

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