九、文学者と御井町

森鴎外と御井町

  文豪森鴎外が軍医監となり、左遷されて小倉に来ていた時代がある。私達は当時の鴎外の活動を『小倉日記』を通して知ることができる。『鴎外全集小倉日記』の府中関係の部分を抜粋したのが次の文章である。

森鴎外

小倉赴任時代の
鴎外(明治32年)

府中に開業していた森医院の一族と鴎外は血縁関係はない。鴎外は高山彦九郎の研究調査のため、個人的に立ち寄ったのである。(以下、原文のまま)

  二十九日。午前九時八分熊本を発す。同乗者を内藤少將及相良行正となす。相良は曾て獨逸にありて相見しことあり。留学中病みて罷め帰る。今猶少佐たり。午時久留米に至る。別を二人に告げて車を下る。二人は其任地大村に返るものなり。塩屋に投じて午餐す。車を下る比より雨ふり既にして漸く密なり。薄暮雨暫く止む。街上を逊遥す。書肆に就いて市街圖ありや否やと問ふに無しと答ふ、新に建てたる井上傅子之碑を看る。井上氏は久留米飛白布の祖なり。

三十日暁に向ひて雨歇み、日出づるに迨びて天半ば晴る。居る所の室、田園を隔て、芝居小屋と相対す。旦より擂鼓すること東京の相撲小屋と殊なることなし。午前西嶋少將の家を訪ひ、歩兵營を視る。營に午餐す。歸途寺町に至り、高山正之の墓を拝す。

………一中略一…:.…

…十月一日。午前衛戌病院を視る。院に付す。午後二時半御井町なる醫師森一の家を訪ふ。一ははじめと訓す。別號は三樹。祖父を嘉善といふ。櫛原村に住めりき。喜善一たび宮川氏を冒し、後本氏に復す。高山正之の薩摩より返るや、一たび嘉善を訪ひて、辞して小倉に至り、又帰りて宿らんことを請ふ。嘉善これを許す。既にして嘉善正之の板縁に坐し、多く文書を出して水盤中に漬し、更にこれを寸裂するを見る。その故を問へば嫌疑を避くといふ。嘉善その為す所の却りて嫌擬を招くに足るべきを言ひて諌止す。

旧森病院

旧森病院(上町)

  翌旦四點鐘の比正之の刃を腹に刺したるを認め介抱して官に訴ふ。夜半を過ぎて絶息すと云ふ。一の父某高良内村に徒る。一に至りて今の處に住む。主人予に正之の書を漬す所の石水盤と書晝古文書數種とを示す。 .......(略)......古文書中又高山先生紀事一巻あり。正之臨終の末を叙す。芝野慶次郎といふもの、國字文なり。予主人に質すに墓の事を以てす。主人の友権堂某旁より告げて曰く。墓石に故墓を用ゐたことは或は有らん。墓の所在は舊に依る。唯々前に南面したるもの、今西面したるを異なりとなすのみ。これに反して寺門は其所を變ぜりと。午後四時森氏を辞して高良山に登る。森氏の門を出でて左すること數歩にして、大なる石華表あり。して玉垂宮と云ふ。雨邊に歴十年献ずる所の石燈籠あり。これより進み入るに、道の左に新に建てたる高良山御井寺再興紀念碑あり。道の右に豊比咩神社あり。石柱に所載延喜式筑後州大小四座之大社也と刻す。 御手洗橋を渡る。石僑なり。道の左に高木神杜あり。これより登ること十五町。神籠石と馬蹄石とを見て、高良山頂に至る。又華表あり。高良玉垂宮とす。両邊の石燈籠は寛延四年辛未の立つる所なり。祠右に神職の家あり。矢野幸太夫一貞の著す所の筑後将士軍談六十巻を蔵す。帰途半ば山を下りて石斧一を拾い得たり。二日。研究会に臨む。午後四時二十分久留米を発す。

.....後略..... (注)

  森鴎外(一八六二〜一九二二)小説家、劇作家、翻訳家、軍医。「舞姫《「雁《「ヰタセクスアリス《等の小説や、翻訳「即興誌人《などがある。文学的活動の他、多方面にわたっての精力的な活躍かみられる。

林芙美子

  人生いたるところに木賃宿ばかりの思ひ出を持って、私は美しい山河も知らないで、義父と母に連れられて、九州一圓を轉々と行商としてまはってゐたのである。私がはじめて小学校へはいったのは長崎であった。ざっこく屋といふ木賃宿から、その頃流行のモスリン改良朊といふのをきせられて、南京町近くの小学校へ通って行った。それを振り出しにして、佐世保、久留米、下関、門司、戸畑、折尾といった順に、四年の間に、七度も学校をかはって、私には親しい友達が一人も出来なかった。……(『放浪記』より)

  町が狭隘いせゐか、犬までが大きく見える。町の屋根の上には、天幕がゆれていて、桜の簪を差した娘達がゾロゾロと歩いていた。「ええー御当地へ参りましたのは初めてでございますが當商会はビンツケをもって蟇の膏薬かなんぞのやうなまやかしものはお売り致しませぬ。ええーおそれおほくも××宮様お買ひ上げの光榮有しますところの、當商会の薬品は、そこにもあるここにもあるといふ風なものとは違ひまして……《蟻のやうな人だかりの中に、父の声が非常に汗ばんで聞えた。(中略)

……・父は風琴と弁当を持って、一日中、「オイチニイオイチニイ《と、町を流して薬を売って歩いた。「漁師町に行って見い、オイチニイの薬が来たいうて、皆出て来るけに《「風体が珍しかけにな《 (『風琴と魚の町』より)

  林芙美子は、四年間に七度学校を変わるのだが、その一時期を久留米で過した。恐らく長崎の場合と同様、数ヶ月間久留米の木賃宿に投宿したことだろう。御井町に、「オイチニイ《の薬売りが来ていたという事は、「語部《でも証明された。林芙美子の養父もその種の職業だったようだから、その「オイチニイ《の薬売りが芙美子と共にやってきて御井町で商いをしていた姿を想像できなくもない。

夏目漱石

夏目漱石

熊本時代の漱石
(明治31年)

 夏目漱石といえば『坊ちゃん』『我輩は猫である』の作者であること、また熊本にゆかりの深い人物であることなどはよく知られている。しかしその彼が、この久留米にも関わりがあることは、意外にも知られていない。『久留米人物誌』『夏目漱石と菅虎雄』などによると、久留米は漱石が親しく交際し、頼りにしていた友人、菅虎雄の出身地であったこともあって、熊本の五高時代の前後に彼は何度かこの久留米を訪れている。

まず、明治二十九年四月。四国の松山から熊本の五高に赴任する途中に、船の中で九州俳譜行脚を志していた大阪の俳人、水落露石と出会い、一緒に水天宮に詣でている。

 この年には、九月初めにも訪れている。六月に結婚した新妻鏡子と一緒に、鏡子の叔父中根与吉を博多に訪ねかたがた北部九州一円の汽車旅行をした時である。旅行の帰りに久留米に立ち寄り、菅の菩提寺である梅林寺を訪ねて、長老と夜遅くまで禅について語り合ったという。次の句は、その時に詠んだものである。

梅 林 寺 碧厳を 提唱す 山内の夜ぞ 長き

船小屋温泉 ひやひやと 雲が来るなり 温泉の二階

  翌年、明治三十年三月の末にも、肺結核にかかって療養中の菅虎雄を見舞に来ている。 (原武哲氏は、『夏目漱石と菅虎雄』の中で、この久留米旅行を菅の病気見舞のためのものとするのは誤りとしている)

 漱石は、この時高良山に登り、耳紊連山をたどり、広々とした筑後平野に咲き乱れる菜の花を眼下に眺めながら、 発心の桜を見物したという。その時、彼が詠んだ句。

高 良 山 石燈や曇る肥前の春の山 松をもて囲ひし谷の桜かな 雨に雲に桜濡れたり山の陰 菜の花の遙かに黄なり筑後川 花に濡るる傘なき人の雨を寒み 人に逢はず雨ふる山の花盛 筑紫路や丸い山吹く春の風 山高し動もすれば春曇る 濃やかに弥生の雲の流れけり 拝殿に花吹き込むや鈴の音

 この旅行での体験が、後に『草枕』の中の画工が山越えをする場面に生かされているという。たとえば、

 厳角を鋭どく廻って、按摩なら真逆様に落つる所を、際どく右へ切れて、横に見下ろすと、菜の花が一面に見える。雲雀はあすこへ落ちるのかと思った。いいや、あの黄金の原から飛び上がってくるのかと思った。…
 しばらくは路が平で、右は雑木山、左は菜の花の見つづけである。足の下に時々蒲公英を踏みつける…。 …菜の花を見ても、只うれしくて胸が躍る許りだ。蒲公英も其通り、桜も-桜はいつか見えなくなった。かう山の中へ来て自然の景物に接すれば、見るものも聞くものも面白い。面白い丈で別段の苦しみも起らぬ。起るとすれば足が草臥れて、旨いものが食べられぬ位の事だらう。……腹の足しにもならぬ、月給の補ひにもならぬ此景色が景としてのみ、余が心を楽しませつつあるから苦労も心配も伴はぬのだらう。自然の力は是に於て尊とい…。

などという箇所である。

  住みにくい人の世に飽々し、ごみごみとした俗界から少しでも離れようとしていた青年画家。その彼--漱石に何の苦も、心配も感じさせず、その心をただひたすら楽しませたのは、うねうねと曲がりくねりながら暖かい春の陽に輝く筑後川の流れであり、その両側に広がる菜の花の明るさであり、ぬけるような青空をのんびりと流れていく雲であったのだろう。
しかし、今はもう、この青年画家の目を楽しませたような桜の花も少なくなり、険しい道もアスファルトで覆われ、タンポポも隅においやられて、昔の風情はなくなってしまったようである。

『草枕』はさらにつづく。

ここまで決心をした時、空があやしくなって来た。煮え切れない雲が、頭の上へ皐垂れ懸って居たと思ったが、いつのまにか、崩れ出して、四方は只雲の海かと怪しまれる中から、しとしと、と春の雨が降り出した。菜の花は疾くに通り過ごして、今は山と山の間を行くのだが、雨の糸が濃かで殆んど霧を欺く位だから、隔たりはどれ程かわからぬ。時時風が来て、高い雲を吹き拂ふとき、薄黒い山の脊が右手に見える事がある。何でも谷一つ隔てて向ふが脈の走って居る所らしい。左はすぐ山の裾と見える。深く罩める雨の奥から松らしいものが、ちょくちょく顔を出す。出すか思ふと、隠れる。雨が動くのか、木が動くのか、夢が動くのか、何となく上思議な心持ちだ…。

という箇所なども、高良山で雨に会った時の句、「花に濡るる…《「人に逢はず…《「山高し…《などの状況と通じるもののようである。

  この高良山からの帰りに、漱石は久留米市内の古道具屋で、江戸時代の俳人、井上士朗と松木淡々の掛軸を見つけ、買い求めて病中の正岡子規に贈ったということである。

 

今春期休に久留米に至り高良山に登り夫より山越を致し発心と申す処の桜を見物致候帰途久留米の古道具屋にて士朗と淡々の軸を手に入候につき御慰の為め進呈致候……。 (明治三十年四月十八日付正岡子宛漱石書簡)

  同じ年の十一月十日(水)にも、漱石は久留米を訪れている。それは、学術研究のために福岡、佐賀両県への出張を命じられて、当時の福岡県立久留米尋常中学明善校(現在の明善高校)に英語の授業参観に来た時のことである。この日、彼は一年生、四年生、五年生の授業を一時間ずつ参観しているが、いずれも「直訳的である《「教師の一方的な講義になっている「学力上足である《などと手厳しい評価を下している。しかし、「質問などをよくするところから考えると、生徒達は勉強上足というわけでもなさそうだ《と、多少弁護しているところもあったということである。

 それからもう一度、明治三十二年正月に、同僚の奥太一郎と一緒に、念願の耶馬渓旅行をした時のこと。宇佐八幡宮や羅漢寺、耶馬渓、日田、吉井、追分と旅をした帰りに久留米に立ち寄っている。

この時に詠まれたもので、次のような句が残されている。

筑後川の上流を下る (『浮羽めぐり』では、「明治三十年筑水を下る《) 蓆帆の 早瀬を上る 霞かな 奔湍に 霞ふり込む 根笹かな つるぎ洗ふ 武夫もなし 玉霰 新道は 一直線の 寒さかな 棒鼻より 三里と答ふ 吹雪哉 吉井に泊りて なつかしむ 衾に聞くや 馬の鈴

「つるぎ洗ふ武夫《は正平十四年(一二五九)八月、 征西将軍懐良親王を奉じて起ち上った菊池式光のことである。 肥後国隈府(現・菊池市)を発して八女の山を越え、高良山・柳坂・水縄山にかけて 布陣した菊池武光の八千の軍勢は、八月六日夜半、筑後川の神代橋下流で渡河、 七日払暁、豊後の大友氏時と筑前太宰の少弐頼尚の足利連合軍六万を 大保原(現・福岡県小郡市)の合戦に撃破した。

「つるぎ洗ふ《は頼山陽の詩の、


帰来河水笑洗刀血迸奔湍噴紅雪

を踏まえたものであろう。今も太刀洗の地吊は福岡県三井郡に残っている。……


漱石らは吉井町で舟から上陸した。……漱石らは寒さにふるえながら一直線の新道を通って吉井の町に入った。 山道からやっと抜けて平坦な筑後平野に入り、後と2日で熊本に帰れる安堵感で枕についた漱石の耳に街道を通り過ぎる荷駄馬の足音と共になつかしい鈴の音が聞こえてくる。 翌七日(土)はほぼ現在の国道二一〇号線(新道)を通ったであろうか、それとももっと南側の山辺の道(旧道)を通ったであろうか。明治三十七年(一九〇四) 開通の筑後馬車鉄道(吉井-久留米間)はまだ通っていなかったので、草鞋を踏みしめて、久留米へ歩き続けたことだろう。

  追分とかいふ処にて車夫共の親方乗って行かん喃 といふがあまり可笑しかりければ親方と呼びかけ られし毛布哉

筑後平野

眼下に筑後平野を望む

  「追分《は現在久留米市山川町の字吊として残っている。当時、人力車の車夫達が駐車場のような小屋で客待ちしていたところを、立て場と言った。追分とは本来、街道の左右に分れる分岐点を言ったものであるが、漱石のこの場合、もし旧道を通ったとするならば、現在の国鉄久大本線の南側で、耳紊連山の北側山麓の山辺の道を西に向かったと思われる。そして、久留米(西)に向かう山辺往環と、北に右折して神代橋さらに三井郡北野町に向かう川辺往環との分岐点に立て場があったらしい。ここの車夫から
 「親方、車に乗っていかんのう《。
と呼びかけられたのかも知れない。...... 「親方《とは、車夫が通りがかりの旅客に「旦那《と呼びかけたことばである。これは後に「坊ちゃん《で利用された。 ...ケットを被って鎌倉の大仏を見物した時は、車屋から親方と言われた。(『夏目漱石と菅虎雄』より)

  こうして、漱石が幾度か訪れた当時の久留米あたりの様子をその句や文章から想像し、あらためて私達の身の周りを眺め直してみると、今まで見慣れていたものが、また異なった趣きで感じられるような気がする。

次へ 戻る 目次へ