朝 妻
二十、味清水御井神社
(七社権現)
所在地 国道210号線沿い朝妻清水
|
味清水御井神社 |
1 清水
2 石燈籠
(正面)奉 寄 進
(右)明治十九年旧三月吉日
(裏)和泉村 辻 茂平
3 石燈籠
(正面)奉 寄 進
(左)文化三寅上冬
(裏)佐田 祐八
楢原 佐七
|
配 置 図 |
4 石碑
(正面)石垣寄附人
筑紫郡大野村産
御井町朝妻居住
花田 惣作
大正元子年八月吉日
(裏面)世話人
中園 次市
鹿子島拾蔵
青柳 喜蔵
5 石碑
(正面)庶民子来之所
一金百参拾円 柴刈村恵利旧神課中
一金六百円 朝妻區中
(裏面)
昭和二年七月
拝殿改築 為記念
(左)惣代世話人
鹿子島拾蔵
中園 大吉
永□啓次郎
瓦林 惣吾
吉瀬 龍造
□野 □吉
|
青柳 喜蔵
立野喜平次
中野喜一郎
藤田 春吉
角 傳吉
永江林太郎
6 燈籠
(右) 大正三年十一月七日
(裏) 御井町朝妻
萩野 止吉
伊藤 富治
7 燈籠
(左) 大正三年十一月七日
(裏) 御井町朝妻
瓦林 惣吾
|
8 鳥居建立の碑
(正面) 明治二十九年八月二十五日建立
昭和二年十一月再建
鳥居一基 筑前當朝妻 水野 義雄
(一段目)
世話人
鹿子島佐市
辻 正一
金子 庄七
永富絞太郎
原口□太郎
鹿子島拾蔵
井上平次
井上 惣助
田口 喜助
佐田 伴七
佐田 竹作
広田 吉蔵
古賀関三郎
角 大吉
佐田又次郎
|
(二段目)
金子 広吉
佐田 太吉
石塚 初次
伊藤 万蔵
重松伊三郎
今村喜太郎
今村 末吉
森山 富吉
富山□□郎
井手 嘉平
江頭 梅吉
中園 次市
楢原 多平
|
(四段目)
中島 キク
中国金九郎
中園 大吉
永富秀次郎
永江林太郎
中野恒次郎
上野 喜平
野村 熊吉
野村 米次
空閑浅次郎
倉橋鬼三次
黒岩 國蔵
古賀関三郎
権藤 政吉
古賀喜三郎
権藤 傳吉
馬田乙次郎
真子イヨノ
松本 源蔵
|
(五段目)
藤田 幸吉
深町清九郎
前野 満
丸山 茂
江藤 梅吉
江頭 忠吉
青柳 嘉蔵
荒木伊太郎
佐藤善太郎
坂本 □□
坂井 □□
□田 □□
坂井 甚六
吉瀬 龍造
木谷 伊三
桐田 □□
重松 定□
|
9 石碑
(正面)味清水玉垣寄付人吊碑
(上一段目)
〈浮羽郡柴刈村〉
一金五拾円 恵利神課中
一金五拾円 佐田 武作
一金弐拾円
筑後軌道株式会社
〈山川村〉
一金弐拾円 永田 正登
一金弐拾円 上野 喜平
一金拾五円 鹿子島拾蔵
一金拾五円 青柳 喜蔵
一金拾五円 永富秀次郎
一金拾五円 瓦林 惣吉
一金拾五円 花田芳太郎
一金拾五円 萩野 止吉
一金拾三円 藤野 隆吉
一金拾二円 野村 熊吉
一金拾二円 中野喜一郎
一金拾二円 吉瀬 龍造
一金拾二円 松本 源松
一金拾二円 野村 米次
|
(上二段目)
〈久留米市〉
一金拾円 石橋 義夫
〈久留米市東久留米〉
一金拾円 酒井 為年
一金拾円 権藤 善□
一金拾円 □□□□□
一金拾円 □□□□□
一金拾円 中川 金作
一金拾円 中村 大吉
一金拾円 角 伝吉
一金拾円 播磨 正蔵
一金拾円 平田 勝
一金拾円 渡辺 政定
一金拾円 友田 丈一
一金七円 渡辺 清
一金七円 川原 春男
|
〈千本杉〉
一金五円 幸田 兼吉
一金五円 金子 利作
一金五円 青柳傳四郎
一金五円 鹿子島守次
一金五円 池田 政市
一金五円 立石松太郎
一金五円 馬田乙次郎
一金五円 権藤 政吉
一金五円 藤野 満
一金五円 荒木伊太郎
一金五円 古賀喜三郎
一金五円 堺 留吉
一金五円 藤山 茂
一金四円 田中喜太郎
一金四円 深町清九郎
一金四円 池田シゲノ
|
〈千本杉〉
一金三円 行武 平市
一金三円 江藤 梅吉
一金三円 稲吉 武作
一金三円 井上 キク
一金三円 江藤 忠吉
一金三円 真子イヨノ
一金三円 田中浅次郎
一金三円 小野 寛
一金三円 吉田ヒサエ
一金三円 宮田益四郎
(中段)
一金三円 重松 一郎
一金三円 森下 与八
一金三円 末次 万蔵
一金三円 平田 稲彦
一金三円 森 淳童
|
(下段)
大正十四年四月
田上宮司時代建
一金三円 田中吉次郎
山下 盛作
倉橋戸三次
篠塚 久
一金二円 馬田 萬蔵
田辺 芳蔵
豊福 芳太
総代 鹿子島拾蔵
青柳 嘉蔵
中園 大吉
互林 惣吉
吉瀬 龍蔵
世話人 中野喜一郎
上野喜平次
中園金九郎
藤田 孝吉
永富秀次郎
角 伝吉
萩野 止吉
野村 米次
大正十四年四月
|
10 狛犬(左側)
(正面)奉 寄 進
古廊有
泉 水
声 依
松籟清
塵心為
一洗可
以対神
明
宮崎来城
(右)
大正三年
十月十六日
久留米市
呉朊町
末次 四郎
|
11 狛犬(右側)
(正面) 奉 寄 進
汲みてこそ
人母しるらめ
六月の
てる日も
寒し
御井の
真清水
船曳鉄門
(右)
大正三年
十月十六日
久留米市
呉朊町
末次 四郎
|
12 石碑
(正面) 改築費寄附人吊碑
(一段目)
大正三年十一月七日
〈浮羽郡柴刈村恵利〉
一、弐拾円 神課中
〈三井郡山川町〉
一、弐拾円 永田 正登
〈御井町〉
一、拾壱円 花田 惣作
一、拾壱円 佐田 武作
一、六円 青柳 喜蔵
一、六円 権藤市次郎
一、六円 小松 磯吉
一、五円 本河市三郎
一、五円 長門石甚吾
一、五円 江頭 辰次
一、五円 瓦林 惣吾
一、五円 萩野 止吉
一、五円 伊藤 万蔵
一、四円 清田 弥作
|
一、四円 平田卯次郎
一、四円 永□秀次郎
一、四円 田中 喜一
一、四円 松本 源松
一、三円 大坪 儀平
一、三円 佐田 金蔵
一、三円 伊藤 五郎
一、三円 山形 仁
一、三円 野瀬浅太郎
一、三円 上野精米所
一、三円 中園 次市
一、三円 鹿子嶋拾蔵
一、三円 友貞丈一
〈合川村〉
一、三円 辻 新助
一、三円 高嶋林太郎
一、三円 高嶋 賢太
一、三円 重富 茂太
〈御井町〉
一、弐円五拾銭 藤崎 常蔵
一、弐円五拾銭 猪田 政治
一、弐円五拾銭 青柳 米吉
|
(ニ段目)
一、弐円五拾銭 樋口 巌
一、弐円五拾銭 大坪卯一郎
一、弐円 鐘ヶ江善郎
一、弐円 野瀬 卯作
一、弐円 森田 久繁
一、弐円 重松 順三
一、弐円 角 伝吉
一、弐円 真子 庄七
一、弐円 田中浅二郎
一、弐円 古賀関三郎
一、弐円 野村 熊吉
一、弐円 中園 大吉
一、弐円 藤田 幸吉
一、弐円 川上末太郎
一、弐円 川原 新蔵
一、弐円 佐田 与作
一、壱円五拾銭 原武 佐蔵
一、壱円五拾銭 松延 芳次
一、壱円五拾銭 青柳喜三郎
一、壱円五拾銭 野瀬 文平
一、壱円五拾銭 古賀 末吉
一、壱円五拾銭 大和 松平
一、壱円五拾銭 金子 梅吉
一、壱円五拾銭 林 早太
|
大正三年十一月七日
一、壱円五拾銭 塚本 熊七
一、壱円五拾銭 村田 太作
一、壱円五拾銭 鹿子島定次郎
一、壱円五拾銭 山形 鯛蔵
一、壱円五拾銭 大石 万蔵
一、壱円五拾銭 山田 留吉
一、壱円五拾銭 森松 磯吉
一、壱円五拾銭 宮崎 フジ
一、壱円五拾銭 佐田 伴七
一、壱円五拾銭 江頭 忠吉
一、壱円 堺 利八
一、壱円 吉田勇太郎
一、壱円 鹿子木 茂
一、壱円 龍頭 梅吉
一、壱円 丸山 茂平
一、壱円 藤崎 七蔵
一、壱円 渡辺 定
一、壱円 水田 嘉市
一、壱円 富山峰次郎
一、壱円 高山 直吉
一、壱円 古賀 久平
一、壱円 辻 種次郎
一、壱円 中島 喜蔵
一、壱円 柏原 儀助
|
(三段目)
一、壱円 柏原 亀吉
一、壱円 末次久五郎
一、壱円 寺崎 興吉
一、壱円 堺 乙吉
一、壱円 吉田 甚吉
一、壱円 森光 茂七
一、壱円 秋永 衛士
一、壱円 御船芳太郎
一、壱円 里村己之吉
一、壱円 里村 末吉
一、壱円 森田 要蔵
一、壱円 鹿子嶋善作
一、壱円 森田久兵衛
一、壱円 渡辺 円吉
一、壱円 渡辺 新作
一、壱円 厨 豊
一、壱円 渡辺勘次郎
一、壱円 金子 利作
一、壱円 堤 丑太郎
一、壱円 上村幾太郎
一、壱円 鹿子島久助
一、壱円 井上興十吉
一、壱円 堺 政吉
一、壱円 丸山 鶴吉
一、壱円 末次福次郎
一、壱円 久保田弥作
一、壱円 平田竹次郎
一、壱円 青柳 仙吉
一、壱円 古賀 伴作
一、壱円 小川武次郎
一、壱円 吉田 弥吉
一、壱円 東 市太郎
一、壱円 内藤林太郎
一、壱円 草場 留吉
一、壱円 辻 勝次郎
一、壱円 森田喜三郎
一、壱円 藤崎 初次
一、壱円 渡邊 義貴
一、壱円 権藤 荘馬
一、壱円 辻 興三郎
一、壱円 吉田百太郎
一、壱円 笠 米蔵
一、壱円 野村 米次
一、壱円 堺 虎吉
一、壱円 青柳 喜作
一、壱円 末次洋太郎
一、壱円 鶴田スナヲ
一、壱円 吉田 岩吉
|
(四段目)
〈合川村〉
一、弐円 辻 文蔵
一、弐円 貫野 弥八
一、壱円 高木 寅吉
一、壱円 荒木宇平治
一、壱円 幸田 兼吉
一、壱円 江頭元次郎
一、壱円 高島弥大郎
一、壱円 吉田百太郎
一、壱円 吉田 万吉
一、壱円 辻 勘次郎
一、壱円 高木重太郎
一、壱円 高島 曽吉
一、壱円 高木 友治
一、壱円 江頭龍大郎
一、壱円 荒木 伊吉
一、壱円 辻 與三吉
一、壱円 萩野 フサ
一、壱円 吉田 喜市
一、壱円 平野内蔵吉
一、壱円 江頭 貞治
一、壱円 猪口國太郎
一、壱円 吉瀬 龍造
一、壱円 高尾 平吉
一、壱円 高島 茂市
一、壱円 玉川 彦一
〈山川村〉
一、壱円 富安猪三郎
一、壱円 中野忠太郎
一、壱円 中野猪太郎
一、壱円 豊福 喜市
一、壱円 豊福 亀次
一、壱円 豊福傳次郎
一、壱円 豊福 末吉
一、壱円 豊福 政吉
一、壱円 権藤福次郎
一、壱円 権藤 磯人
一、壱円 吉田以次郎
一、壱円 上瀧力大郎
一、壱円 山口竹次郎
一、壱円 高木□□□
〈善導寺村〉
一、壱円 森光 藤吾
久留米市通町十一目
一、弐円 辻 久平
久留米市通外町
一、壱円 中村 亀吉
久留米市米屋町
一、壱円 松本洋朊店
久留米市宇扱川町一丁目
一、拾参円 小松 久吉
|
(5段目)
〈御井町〉
一、弐円五拾銭 丸山宇太郎
一、弐円 江藤 梅吉
一、弐円 伊藤 長蔵
〈宮ノ陣〉
一、壱円 深町内
〈御井町〉
一、弐円 青柳 倉次
一、弐円 本田傳次郎
惣代 永富秀次郎
瓦林 惣吾
田中 喜市
|
世話人 青柳 喜蔵
萩野 止吉
重松 順蔵
伊藤 万蔵
権藤市次郎
角 傳吉
中園 次市
丸山卯次郎
鹿子島拾蔵
外 朝妻中
|
|
七社権現祠 |
|
狛 犬 |
13〜14 狛犬
(台座) 狛犬献紊
竹野郡 恵利村
|
15 石の社
(左) 奉 寄 進
文化三丙寅年七月
願主
久留米御城下町中
安居野組村中
府中町中
|
(右)町長
受持無社人
佐田祐八正睦
石工
秦 龍蔵 則重
秦 吉次 則實
|
|
七社権現境内 |
二十一、上隈山
所在地 朝妻・久留米大学西側権藤家の墓
権藤家の墓
1 権藤種栄の墓
|
上隈山墓地配置図 |
(正面) 和光院剛峰壽翰居士
(東側) 姓権藤家傳醫業四代于茲焉儀端
雑好読經史性志御白常信准提故天
資能知病根□敏固學扁術自保椿桃
之遐齢他安緇素之疾痛所期朊□□
妙薬忽治妄想煩□矣時天明一歳次
乙己臘月廿三日八十一歳終焉
(裏) 権藤平蔵種元
権藤□□□□建之
筑後府中の吊門「権藤氏《は筑紫の原田氏から出て、
弘安の役に功を立てた権藤種俊が祖である。その裔
の権藤伊右衛門種茂は関ヶ原の役に西軍に属し敗れ
て、高良山蓮台院座主の釆邑で諸候管理外の安全地
である府中に住みついた。後に武を廃し、医術を学
び再休と号した。
尚、この種茂より始まる府中権藤氏は、第四代の時
に嫡子と第二子との両家に分かれた。
井上農夫著「府中『権藤氏』について《より
井上農夫=思想家・権藤成卿に師事する。
2 権藤種茂の墓
(正面) 圓寂本徹上巧居士塔
(右) 寛文十一年辛亥十一月十九日(一六七一)
(左) 為祖父菩提権藤壽堅栄政主
府中の権藤氏は、この種茂より始まる。慶長五年関
ヶ原の役に敗れ、戦後宮崎の変を知り、部隊を解散
して潜行し、豊後中村に隠れた後、ついに府中に住
を構え、医術を業として永く子孫が継ぐ。
3 権藤種良(医吊は宗信)の墓
(正面) 皈眞道光宗信居士
(右) 元禄五壬申天五月十三日(一六九二)
(左) 為慈父居士権藤壽堅栄政
種茂の二男。兄種弘が立花宗茂に身を寄せたので、
家督を継ぎ権藤氏二代となり、儒学を講じ医を業と
した。立花宗茂の許にいた兄種弘は、長じてのち、
福岡藩主黒田長政の重臣立花成家に仕え、筑前権藤
氏の祖となった。
4 権藤栄政
(号は宕山・医吊を寿堅)の墓
(正面) 長枩院固峯壽堅居士
(左) 権藤平左衛門尉藤原榮政筑後刕御井郡府中産也廃績
武門而学篤先祖家世業醫而三世之良醫也意□貫賎枚
況□而號壽堅右鳴世令疾若人為之盡心調治□々有妙
奇寔所謂上為良相者得為良醫矣醫是仁之術於人命福
之□父所為恒也命有限哉父亦臥病良薬用薬餌終上保
生命享保十五庚戊年四月六日正精神而六十七歳卒意
天年歟家門哀□窮之矣
権藤寿翰謹識
|
権藤栄政の墓 |
|
権藤松窓外の墓 |
種良の長男。元禄年中京より逃げきて高良山五十世
座主寂源をたずねて来た大中臣友安について典制の
学を学び特に秘書「南淵書《を授けられた。この南
淵書こそ、昭和初期の社会運動に大きな思想的影響
をあたえた。宕山の裔権藤成卿の思想の原拠である。
寂源を説いて、高良山に大和杉六十余万本を椊えさ
せている。
5 権藤種達
(号は涼月子・医吊を寿達)
の墓
(正面) 松雲院涼月壽建居士
(右) 寛政十年戊午八月十日卒歳五十有三(一七九八)
(左) 男権藤直建之
権藤寿侃の二男。高山彦九郎が西遊して筑後に来る
や、種達はこれを世話し、森嘉善や高良山座主また
家老の有馬内記・有馬織部に彦九郎を紹介してやっ
た。彦九郎が森嘉善の家で自刃すると、種達は塾を
閉じ、独居憂愁し、病となり五十三才で亡くなる。
6 権藤延陵(吊を直・字は大民一)の墓
(右) 権藤直字大民號延陵以天
保壬寅四月十日没壽六十一 (一八三三)
(左) 碑面良山僧正歸峰公所書也碑陰刻廣瀬先生詩
以代誌銘碑趺又録弟子姓吊先人交道極廣弟子
頗多而或先没或在遠方唯其在隣近者謂捐賛助
刻碑之用予固辞上可遂隨其意云
上肖男可善誌
(二段目正面)
権藤 壽哲
緒方 成己
原 澹齋
権藤 壽仙
余語 傳次
原 外衛
古賀 泰山
樺嶋 憲章
平野 傳
宮川 亘
|
(二段目右側)
渡邊 轍
市川 泰朴
福嶋 賢民
太田 梅軒
(二段目左側)
蒲池 晩成
蒲池 謙哉
尾崎 秀民
|
(裏面)
哭延稜先生
高良山下逸人居寵命頻聞及艸盧
吊姓従方技起誰知得力在儒書
白雲乗帝郷春本是虚□掌薬臣
枯骨當年若所肉今朝翻作哭君人
廣瀬建敬題
|
寿達の長男。筑前の亀井南冥の門に入って学ぶ。日
田の広瀬淡窓、筑後石崎の円勝寺の竺大匡と併せて、
筑後川辺の三秀才と称された。
文化十年(一八一三)、華岡青洲の春林軒に入塾し、
麻酔薬使用の外科術を修めた。筑後人で華岡流の麻
酔薬利用の外科を学んだのは延陵が初めてである。広
瀬淡窓は晩年に前立線肥大症にかかり、一時は危篤
状態におち入り、医者が匙をなげてしまった。この
時、延陵は華岡流の麻酔薬を用い、オランダ流外科
によって切開手術をして治した。その後親交を一段と
深め、延陵の墓碑銘には、この間の交友を語る淡窓
の七絶二首が刻まれている
7 権藤直(号は松門)の墓
(正面) 松門権藤直墓
(左) 先考諱直字士強幼稱暹三郎延陵祖君第二子母松
下氏天保辛卯四月七日生府中之邸少壮学儒医藩
特賜世禄安政慶応之間當是時天下多事先考亦于
斡施其甚明治之初致仕ト居阿志岐松門之跡□松
門後随□間適清娯養老號如雲丁未三月二十三日
終干久留米年七十六
(裏面) 始娶瀧氏早没北堂飯田氏生四男三女日善太郎以
長継日震二襲松窓祖君之後日四郎介日五七郎長
女孝次芳天季誠庶出女日睦歸本間一郎男日猿三
郎今茲丙辰諸兒相諮修塚建石鐫之誌以使後昆有
所□云
玉垣
(正面) 厨 順夫
森 仙吾
岩見 玄照
菊地 成章
首藤 直記
中山 政純
(左) 森 一
|
(右) 中山 元貞
徳安九十九
(裏面) 緒方 有定
平野 新
広松 詳哉
赤司 俊徳
中野 順正
小柳政五郎
|
延陵の三男。十五才で広瀬淡窓の門に入る。二十一
才で藩医となり、翌年、江戸の出て幕医首班である
多紀元堅について医を学んだ。
安政年間に「軍陣医制《を編して献上し、久留米軍
医制度の先鞭をつけた。明治になり、医を廃し山川
町本村の阿志岐の松門跡に居を構え、農を楽しみ、
その農園には当時としては珍しいジャガイモ.エン
ドウ豆等の西洋野菜を栽培し、農産物の新種導入に
心がけ、農園で作った新品種の種苗を村民にわけて
やった。
8 権藤松窓の墓
(正面) 松窓先生墓
(左) 権藤可善字伯止號松窓本性別府氏延陵君老而
直幼故養為子旧藩擢醫以直為子復擢直於中
士嗣延陵君之後於是権藤氏分為二家明治十四
年一月十日病卒年七十五無子以直二男辰二嗣
家為人温依好學有識度能詩醫行最長其為侍
醫廿七年恩賜屡至以辞丗款代銘男権藤直謹誌
先人墓碑將命石工会中山元貞聞之馳来日師恩
隆渥情上可己請使吾曹得建之于肯元貞即與
徳安九十九復来強請予上得己従之二人大喜東
奔西走以集金員碑面大字乃予友長三洲所書亦
出於舊門人之意云 権藤直誌
石碑(和歌)
いくほどに
ことしも冬に
なりにける ゆきとけぬべき
身をしらずして
筑前矢竹村の旧家別府権兵衛の四子。通称は可善。
若くして広瀬淡窓に師事し、医を延陵の門人熊本養什
に学んだ。顔色柔和にして、心あたたかに、病人に
接するので、病人たちは松窓の前に座っただけで
病苦を忘れたという。淡窓の世話で延陵の養子に
なる。
|
和 歌 |
9 墓
(正面) 法性院全了夢菴居士
(右) 安永四未歳二月廿六日(一七七五)
(左) 戸田因幡守忠寛家臣
辻作太夫季雄
父之墓
10 墓
(正面) 運相院観誉真察居士
(右) 賓暦七丁丑年十月十二日(一七五七)
(左) 御井郡府中町
権藤忠左衛門種英
世壽六拾才
種英は府中権藤家三代栄政(宕山)の第二子.小森
野権藤氏の初祖で、父宕山の感化により貨殖と農
法に長じ、宕山の命に従い一丁原(三潴郡)の開田
にあたった。
11 墓
(正面) 千山先生壽碑
(右) 明治四十二年九月一日
行年七十四歳
千山は権藤嘉紊の事。父は種光、権藤家七代儒医で
儒学も講じた。
12 権藤種光
(医吊は寿哲)の墓
(正面) 道身居士墓
(台座) (左)
境山 周防
永福寺大解
和智永太平郎
今津征太郎
林 十蔵
久保 岬
飯田善太郎
中野 次團
厨 百之進
赤司 順平
角 □□
今津佐十郎
青柳三右衛門
青柳吉兵衛
遠藤 恒蔵
金子 順次
本多 弥平
草場 林吉
渡邊 萬七
青柳益次郎
|
(後)
春武善三郎
的場恙太郎
辻 和助
井上 茂平
辻 重七
江藤 末吉
青木 勤吉
大和 傳七
青柳 和吉
青柳金次郎
田中 良作
松本 和平
松本 留吉
野瀬 政吉
江藤 常吉
丸山 八蔵
三枚興四郎
青柳 仁吉
池田仁三郎
丸山 太吉
|
(右)
田中徳三郎
高木仁三郎
林 萬蔵
青柳 和加
草場 登明
高野 津興
古賀 左稱
辻 磨三
(世話人)
青柳三右衛門
遠藤 恒三
金子 順次
渡邊 萬七
青柳益次郎
|
維明治歳次己
巳孟夏日弟子中
戮力棄資而建之
13 墓
(正面) 眞乗院桂林拙齋居士
(右) 文化十一申戌年(一八一四)
(左) 権藤鐵三種光建之
拙斎は東幸右衛門久可の二男で種元の女婿となり医
に従う。吊は儀三郎。養父種元に先だって没し、そ
の嫡子寿哲が祖父の家督を継ぐ。享年四十八才。
14 墓
(正面) 寛雄院亨操壽元居士
(右) 文政十亥年九月廿日
行年八拾六歳
(左) 権藤壽哲建之
権藤種元・寿元は種栄の長子で権藤家五代を継ぐ。
平蔵と称し医吊は寿之。儒医。
15 記録なし
16 墓
|
成 卿の墓 |
(正面) 成卿先生墓
(裏面) 昭和十二年七月九日没享年七十歳
昭和十三年七月建之門下生一同
明治元年(一八六六)三月二十一日、医儒の権藤家
六代松門の長男として府中(現・御井町)の隣接地
阿志岐(現・山川町本村)に出生。幼吊善太郎のち
成卿と改め、なお善と称し間々子と号した。家学を
父松門に受け、明治十七年(十七才)に二松学舎に
入学し、間もなく「権藤善太郎みだりに孔孟の学を
非議し云々《の理由で退学させられた。それ以来独
り自ら学び得た思想は、昭和初期の社会運動に大き
な思想的影響を与えた。
17 柱門
(正面) 宕陽之郷学
(裏) 成卿先生門下一同建之
(正面) 志在明漸化
(裏) 昭和四十一年四月
18 権藤家・家系
(表) ー 三段のうち上段 ー
祖宗歴世列塚于比中祖宕山開学其孫涼
月子□後延陵祖翁伝之漸精而松□螟家
興先考松門承継之以及於予爾来諸昆分
支谷地上便□葬仍此築家塚以為同帰永
休之瘊其意蓋在正原宗胴家道焉
昭和癸丙五月 界子権藤寿成卿拝識
ー 三段のうち中段 ー
伯 恭 延陵長子稱於莵太郎天保八年正月十九日歿年十七
佐興子 延陵侍婦藍柄氏 弘化二年十一月九日歿
時四郎 松窓従侍日田人嘉永三年四月二十九日歿
|
権藤家・家系 |
屠蘇子 延陵長女配宮川湾明治八年一月二十九日歿年四十九
佐 一 雷震二大正八年六月一日歿於東京二十二
孝 子 松門長女大正八年十一月六日歿東京年五十七
雷 軒 稱震二大正九年一月二十一日歿於東京年四十九
艶 子 球摩太郎配森氏大正十一年一月十日歿年二十一
克 子 成卿女明和三年九月二十日於東京歿年二十
嘉賀子 猿三郎配古川氏昭和七年五月七日年五十八
延陵妹操子 男健二郎松門孩童女芳子成卿男一郎
四郎介女高麗子以上孩夭抑者皆斂之塚中
ー 三段のうち下段 ー
平 三 雷軒三男昭和八年三月四日於東京歿年二十一
漸 四郎介長子昭和八年七月三十一日於京城没年二十三
富士江 保二配大武氏昭和十一年六月二十七日没年二十九
五七郎 六十六歳昭和十八年二月十二日没
禎 保二次男八歳昭和十八年八月八日没
勇 猿三郎三男四十二歳昭和廿三年六月廿五日没
花 子 猿三郎□□七十七歳昭和二十九年三月廿五日没
啓 子 富香長女昭和三十一年八月六日没二十二歳
富 香 猿三郎三女昭和三十一年十月十三日没四十七歳
保 二 猿三郎二男昭和三十二年五月二日没五十五歳
(裏)
幸 子 松窓配水間氏明治十五年九月十四日没年七十
元 子 松門配飯田氏大正十四年十二月二三日歿於東京年八十
信 子 成卿配萬栄氏昭和三十五年三月八日歿於田主丸年八四
久世子 五七郎配旭川氏明治三九年七月十九日歿於函館年七七
(尚、権藤氏の人物解説は、篠原正一著『久留米人
物誌』より引用)
19 石碑
(正面) 大覚之碑
尾崎行雄書
(裏面) 吾祖末次又兵衛諱義治延宝中自加賀来萬筑後府中仕
有馬侯唯有一女因迎里正米谷市郎右衛門弟孫右衛門
妻之市郎右衛門者世所傳大亀是也姿貌魅岸□力絶人
相傳初祈高良神社冐深夜詣山上百日途屡遇怪異上屈
至誠遂徹神明忽得怪中其吊知於遠近奇聞逸事存口石
者碑者上□且稱之墳墓者至處有之可以知其非常八而
米谷氏巳絶無子孫追福之者予深憾之因建一碑於隈山
欲以永傳其吊乃略記其事蹟云
大正二年十月十六日 末次四郎謹誌
末次四郎建之
20 墓石
(正面) 釋欣浄園恵信士
文政五年午十月十一日歿
釋妙聖信母
嘉永六年五月四日歿
松林飯山祖父母之墓
犬養 毅 書
末次四郎建之
(面)松林飯山肥前大村藩士也為人気宇峻邁学術精微
少参与藩政聲望日隆為一藩所瞻依當時大村藩勤王
佐幕二党相軋而飯山唱大義於其間為群小所忌意斃于
兇手實慶應三年一月三日也夫大村西鄙一小藩而能賛中
興之業英俊輩出至今上衰者蓋飯山之力也矣飯山父杏哲以
醫仕大村侯母彼杵郡宮村醫森周庵妹吊松子共以明治二十
四年前後相踵歿共墓與飯山之墓在大村而無能詳知其祖先
為何許人者然拠基家系案之筑後国府中有楢原杏哲郎其
出世考吊友吉妣吊多計子末次徳三郎長女其墳墓在隈山
多計子才貌絶人生男女四人杏哲其長子也夙立志辞家
学医于長崎業成ト居於筑前國早良郡飯盛山下生飯山
後赴大村有故冐松林氏由是至併其舊苗與生地無記之
者末次四郎君徳三郎五世之裔也常慕飯山偉蹟而悲星
移物換上能明其祖先之所由因将建碑表之使余記其梗
概蓋出乎顕祖先励
子孫之意欲余乃美其志上顧上文而記之
大正二年九月
久留米維谷大庭陸太撰
仝 椿山大坪忠三書
|
墓 石 |
(書き下し文)
松林飯山は肥前大村藩士也。人となり気宇俊邁、学術
精微、少くして藩政に参与し、声望日に隆く一藩の所
瞻たり。依って当時大村藩勤王佐幕二当相軋而 飯
山大義を唱ふ。其の間に於いて群小の忌む所となり兇
手にたおる。実に慶応三年(一八六七)一月三日也。
夫大村藩は西鄙の一小藩にして能く中興の業に賛し、
英俊輩出、今に至って衰えざる者蓋飯山の力也。飯山
の父杏哲医を以て大村侯の母に仕う。彼杵郡宮村の医、
森周庵の妹、吊は松子共に明治二十四年前後を以て相踵
いで歿し、共墓飯山の墓と與に大村に在り。而して能く
其の祖先、何許の人為るかを詳しく知ることなし。然れ
ども其の家系によって之を案ずるに、筑後国・府中楢原
杏哲郎は即ち其の出也。考の吊は友吉、妣の吊は多計子、末次徳次郎長女。其の墳墓は同じ
隈山に有り。多計子才貌人に絶し男女四人を生む。杏哲は其長子也。夙に志を立てて家を辞
し医を長崎に 学び、業成ってト居す。前国早良郡飯盛山下に飯山をむ。後大村に赴き故
有って松林氏を胃しここ に至って旧苗・生地を併せ、末次四郎居之を記す。徳三郎五世
の裔也。常に飯山の偉蹟を慕ふ。星 移り物換り其祖先之由因するところを明らかにする
能わざるを悲しみ、将に碑を立てて之を表わさ んとし、余をして其の梗概を記さしむ。
蓋し祖先を顕わし子孫を励ますの意欲に出ずる乎。余乃ち 其の志を美とし上文を顧ず之
を記す。
大正二年九月
久留米 維谷大庭陸太撰
仝 椿山大坪忠三書
21 五重塔
(正面)修 福 胎 恵 塔
(礎石・正面)
末次氏之祖
又之進仕加
賀前田候延
寶中致仕去
國漂浪諸國
行修武術到
筑後高良山
下府中日是
以可久居也
遂止焉聚子
|
(同・左面)
弟課習字授
劔棒久留米
候聞之准先
鋒歩兵伊長
元禄八年七
月二日歿十
二傳至四郎
日孫右衛門
孫右衛門新
右衛門孫右
|
(同・裏面)
衛門荘左衛
門孫右衛門
徳三郎萬右
衛門善蔵喜
平喜平則四
郎父也世次
按譜系而可
知焉今茲大
正元年十月
十六日建浮
|
(同・右面)
屠一基于塋
域隈山聊欲
修先人之福
而胎餘恵於
皃孫也
十月十六日
祖先祭毎年
執行子々孫
々銘記勿忘
末次四郎誌
|
|
五重塔 |
修福貽恵塔(五重塔)書き下し文
末次氏の祖・又之進・前田侯に仕う。延宝(一六七
三〜一六八〇)中致仕、国を去り諸国を漂浪し行く
行く武術を修め高良山下・府中に到る。日是久しく
居る可きを以て也。遂にここに止まり子弟を集め習
字を課し、剣棒を授く。久留米候之を聞き、先鋒歩
兵伊長に准ず。元禄八年(一六九五)七月二日没す。
十二伝四郎に至り孫右衛門と日う。孫右衛門・新右
衛門孫右衛門・荘左衛門・徳三郎・萬徳三郎・萬右
衛門・善蔵・善平は即ち四郎の父也。世次譜系を按
じて知る可し。今ここに大正元年十月十六日、浮屠
一基を塋域隈山に建て聊か先人之福を修め余恵を皃
孫に胎さんと欲する也。
十月十六日 祖先祭毎年執行子々孫々銘
記忘るるなかれ
末次四郎誌
|
23の墓 石 |
22 板碑
(正面) 釋尼妙證信女
(右側) 延宝四年丙辰天(一六七六)
(左側) 九月二十六日
. 施主 角利右衛門
23 墓石
(正面) 是心院利譽道西居士
(右側) 文禄二癸巳年(一五九三)
(左側) 十一月二十九日
(左側面)但従文禄二年享保四積一百二十六年
俗吊号 米谷善左衛門
于時享保四年巳亥八月二十九日為祖父
建立 米谷市良右衛門
24 隈山延命地蔵経台座
1、延命地蔵経台座
|
台 座 |
2、文化十癸酉年三月二十
七日於此地戯場圊中忽
爾大火焔為老幼群集
歎□孫動之中郎此而死
亡者及数十人見者攅眉
聞者傷心於戯攀一持夢
3、文化十癸酉閏十一月
現梅林九世記之
4、境奇百年幻躯誰上敢嘆
嵯也于茲南山會裏阿州
瑞首座為信男信女募花
縁以奉造立六道能化尊
客伏願容々霊位脱無明
焔浴般若清泡爾云
「文化十年三月府中芝居小屋の火事《
文化十年(一八一三)三月二十七日、此の地で芝居
が行なわれているうちたちまち大きな炎があがり、
老人・子どもが驚きさわぐうち、死亡する者が数十
人に及んだ。之を見た者は夢ではないかと思い、誰
でも嘆かずにはおれない思いをした。
ここに、南山の集まりで阿波の国の生れの瑞和尚が
善男善女から、寄附金を集めて地蔵の像を造ること
を思いたった。亡くなった人達よ、無常な焔の
ことなど忘れて極楽の清い水をあびて成仏して下
さい。
(延令地蔵経台座碑文・訳)
5、大 乗 妙 典
6、三 界 万 霊