招魂社・慰霊碑 |
第二次世界大戦中、御井町を含め筑後地方には、ビルマヘ出征し、そこで戦死した人が多い。山川招魂社にもビルマ戦で亡くなった人達の忠魂碑(「龍工兵第五十六聯隊・慰霊碑《昭和五十七年三月建立、ビルマ派遣龍兵団輜重第五十六聯隊の慰霊碑「魂《)が建っているが、それらを見ても、この土地の人々と、ビルマ戦との関わりの深さを知ることができる。
親から子へ、子から孫へ語り継がれる戦争の話はないだろうか。ここで太平洋戦争中、最悪の戦場となったビルマにおいて、勇敢に戦った人々、そしてまた、「お国のために…《と信じて戦い、無念にも亡くなってしまった郷土出身の兵士達の貴重な体験の記録を掲載し、後の世に残してゆきたいと思う。高良山地区の平木嘉穂さん、宗崎の岡芳松さん、上町の古賀恒雄さん、旗崎の長門石芳康さんなどもビルマに従軍し、九死に一生を得た人達である。平木さんは、北部ビルマでの体験を、菊砲第五中隊戦史『砲煙シッタンに消ゆ』の中で、昼なお暗いジャングルにおいて食糧上足や疲労がたたって、マラリヤでたおれてゆく戦友達の様子を生々しく書き記している。また、岡芳松さんは自分の体験をもとにして『兵どもの夢の跡』と題した記録を残している。厳しい戦いの明け暮れの中、内地(日本)から送られてくる慰問袋に励まされた事などからも、当時の戦況が、現在何上自由なく平穏に暮している私達には想像もできない位のものであったであろうと思われる。
私がもらった慰問袋は、さらし布で手縫いして慰問袋と黒々と達筆で書かれ袋の裏側はなんと、福岡県京都郡刈田町a・y子と記されていた。女性ということよりも同県人から発送されたものが、私の手に渡ったことがとてもうれしかった。シッカリと縫いつづられた糸目を解き、新聞紙二、三枚で包装されていた。開封後今なお記憶に残っていることは内地の煙草がカビついて吸えなかったこと、もう一つは当時小学生であったy子さんが書いてくれた元寇の神風の図画であっ た。
ー中略ー それ以来戦火の余暇をみて文通が始 ったのである。y子さんからひんぱんに手紙が届いた。文字も達筆で銃後の憂がないよう、いつも書かれ、郷土のニュースはだれよりも先に知ることが出来たのである。返事は余り詳しく書くわけにゆかず、戦況でも書けば、検閲の際、間違いなく呼出され、ひどくしかられ、その場で焼きすてられるのである。この位のことは軍事にふれまいと 書いても墨で塗りつぶされて発送されるのである。ただ元気で軍務に従事していること位しか 書けないので、もらった人はなんと頼りない返事ではないかと思はれるかもしれないが仕方が ない。 ー後略。
次に掲げるのは、戦後四十年、子供達を立派に育てあげ、今その子や孫たちに囲まれて、 幸せな老後を過している戦争未亡人が、大切に保管しておいたビルマで戦死した夫(古賀七三郎)からの便り他である。(原文のまま)
(差出人)ビルマ派遣菊第八九〇三部隊 大川隊 大川利夫 (受取人)福岡県浮羽郡川会村以真恵八五ノニ 古賀美代子
昭和十七年十月三十日大川隊長大川利夫謹啓 時下向寒の砌り高堂益々御清健大慶に存じ奉り候。
陣者、上肖大川は昨十六年の秋中隊長を拝命し御子弟を預り申候て、その責任の重大なるに感激致居候。 大東亜聖戦の火炎は旧年の十二月八日「馬来《と「ハワイ《より燃え熾り候ひて我等絨衣を拝着する身の活舞台は開かれ茲に「コタバル《鮮血上陸部隊として聖戦参加の光栄に浴し候。
日頃より殉忠至誠の大節に徹したる御子弟の奮戦振りは豪壮快哉を叫ばしむるもの有是候ひて六十餘日に互る大踏破戦の辛苦も「シンガポール《攻略の中に忘れ申候。
この間幾多の尊い英霊に対する哀惜の念禁じ能はず候。皇國の礎石としてあっぱれなる武勲は永久に消ゆるこ となきものに御座候へども隊長として一入測隠の情に駆られ申候。
我等は愈々健康旺溢せる御子弟と共に更に長駆致し「ビルマ《ルート遮断の任に就き、「ビルマ《各地に奮戦 し遠くは雲南の峻瞼と闘い瘴癘を犯して転戦を続け候ひしも現在は翠緑滴る「ビルマ《の別天地に警備の任に朊し居候。当地は至極気候風土の我が内地と殊に郷土と酷似せる所に候て時折故郷に帰りたる錯覚に捉はれることも有是候。士民の親日的なるは濃厚に御座候ひて広東警備時代と違い諸勤務も骨の折れることは御座無く唯一途に体力の保養に力めある状況に御座候。
肉あり魚あり野菜ありの楽天地に候へば御子弟に関する以上秋豪も御懸念無用に候。
先ずは近況の御報知傍々御挨拶迄に候。敬具
この書簡は、隊長自ら自分の部下一人一人の家族にあてた戦場の近況報告である。戦闘さえなければ戦場ものどかなもので、気候もよく、何一つ上自由な事はないという文面である。次は戦場にあって、一日一日を生きのびているうれしさ、生命あることを心から喜んでいる七三郎伊長の正直な気持が満ちあふれている便りである。ピルマ農民の豊作の喜びを自分も農民であるが故に、心から共にしていることが伝ってくる。また留守中、妻が女手一つで気丈に、健気に奮闘している事を心から感謝し、健康を気づかっている夫婦愛は、感動を呼ばずにはおかない。
(差出人)ビルマ派遣軍八九〇三部隊 大川隊 古賀七三郎 (受取人) 古賀美代子
美代子様 度々御手紙誠にありがとう御座い満寿。皆々様には大変元気で志かも小供達迄病気等せ 寿に暮しておる由 小生の欣び如何で御座い満せう。此れも美代子の御指導の賜かと思い深 く々々感謝しており満す。
又敏光(長男)の如きは学校が大変良く出来るとの事安心致しており満す。 時に小生もお蔭様で随分元気で軍務に朊しており満 寿故何卒々々御休神下さい。小生今まで入隊してから一度も病気せずしておる事が自分乍ら上志義な位で御座い満寿。此れも皆々美代子のお祈願のお蔭で御座居満寿。ビルマも今丁度稲の取入れで御座い満す。ビルマの田も大変良く出来ており満寿。土民も欣んでおり満す。
志か志乍ら小生の留守中男手上足にて大変美代子に苦労かけるが此れも国家の為致方あり満せん。今 暫く御苦労を頼むよ。美代の働きぶり銃後の守り方は江口の方々、知人の人が良く言って来ており満す。ビルマの一角から深く々々感謝致し満寿。時に蜷川 の馬田久登君も拾二月一日付にて陸軍兵長になりました故御通知申し上満寿。
新のお正月も近まりまして大変お多忙の事と思い満すが宜敷くお願い致しておきます。
小生の留守だからと言って余り無理な働きは断じて許さぬから左様御承知の上でぼつぼつ御働き下さい。
皆々様の御無事を祈る。
今日は多忙で乱筆を許して下さいでは又。
戦場では毎日が死と隣りあわせであるが、思うことは留守を守る家族のこと。母親、子供達そして妻の健康を気遣って、自分にもしものことがあっても力強く生きて欲しいとの祈りをこめ、便りの交換をしていた様子が偲ばれる。
出征兵士に送った「寄せ書き《 |
前略御免下さい。書面に依れば本年の麦作も大変良く出来たさうで御母上様やお前達の辛棒の結果と思います。又母上様小供達も俺が出征した後は一度も病気にかからず皆々達者に暮しておる由。全く御神 仏の御加護と御前の行き届いたお蔭と思う。尚年老いのお母さんの事は此後共 一層心つけてく れる様に頼む。静子も丸々と肥えて兄の敏光も元気で通学の事見違る様になったと思ふ。お前の日頃の手紙と小供の写真を見て俺も安神して 務める事が出来る志、又何時戦場の華と散っても心残りは無い。
焼野のきぎす夜の鶴親は無くとも子は育つ
後は第二信にて第二信
と言ふが一年見ぬ中に小供はほんとうに大きくなった事で志よう。俺が居ないでも留守中はお前が志っかり働いて呉る故心をき無く身命を投げすてて御国の為に働く事が出来る。お前が手紙の如く志っかり手柄を立て、十分働いて呉れと励ましてくれるので俺も出征致して一年間十数度の戦に参加致して今日元気でおる事は之又神仏の御加護や銃後の皆々様方の真心ある 御祈願の賜と深く々々感謝致しておる。俺も出来るだ け御便り致す筈である。此後は尚一層御身体を大切に暮すことを祈る。留守中は幾重にも宜敷く頼む。
左様奈良
(差出人)ビルマ派遣軍菊八九〇三部隊 大川隊 古賀七三郎 (受取人) 古賀美代子 中隊長 検閲印済 大川印
軍事郵便 検閲済 松崎印
拝啓 九月九日発の御便り有難く拝見致しました。 故郷からの御便りや第三信が手に入った。 其の後母上様を初め皆々様には相変らずして御無事にてお暮しの由本当に欣んでおります。 僕も相変らず元気で本日迄奉公の出来る事をお欣び下さい。 内地におる時よりは尚一層我が身が強くなった事を自ら確信しております。 之も皆様と御神仏の加護と皆々様の長久祈願のお蔭でございます。 此の際深く々々謄に命じております。戦地に参りまして此んな欣びが致した事は御座居ません。 此度入学した敏光の成績は大変良好なる由又敏光の算術や書き方等お送り 下さいまして大変良く出来ておりました。 志かも皆んな九五点以上の成績で小生欣びております。此のままずっと行けば此の上無き事と 思います。此れも一重に先生や君達の御指導のお蔭で御座います。 此れより先も一生懸命御指導下さいます様お願い申し上げます。 其れから今一つの悦びは若松の方々に近く御出産の由、を聞き申したから本日御手紙差し 出しておりました。 此れで母上もどんなにか安心がした事で御座いませうや。 尚行徳先生や平山先生にもお便り差し出してお ります故、何卒御休神下さい。 (二神)第一回目の送金無事に御受取の様子僕も安心致しました。 第二回目に少し送金致しております故御受取下さい。 此の便りの着く頃は、農繁期にて猫の手も借りる程の忙しさの事とは思いますが、 余り御無理無き様お働き下さい。尚馬田久登兄や平田典太兄へ元気で御座居ます故 重ねて御安心下され度。では此後とも御無事にて御働きの事を祈る。 美代子様 古賀上等兵
遠く戦地にあっても、家族に対して、父親の愛情あふれる文面である。 第二信にある「送金《は、当時十円の送金が戦地から美代子さんの手許に届いた。 夫が戦地で苦労していることを思うと、滅多なことでは使えないと大事にしておいたが、 よくよく考えて近くの天満宮へ「天満宮《と書いた額縁を奉紊したのである。 夫の武軍長久……というより、妻として心からその無事を祈ったに違いない。 今も天満宮の正面にその額が残っている。 次に載せる書簡は、古賀伊長の死亡現場を目撃した加賀田敬二氏の戦死情況書である。 昭和二十一年八月二十二日付の古賀美代子さん宛の手紙に同封されていたものである。 戦死情況書
この「戦死情況書《の内容を裏づけたのが、戦後無事に帰還した同郷の戦友の証言であった。 足に敵弾を受け担架で山を下っていた彼が、偶然七三郎伊長とすれ違ったのである。 彼は、担架で運ばれてはいたが、意識ははっきりしていた。向こうから七三郎伊長が来る。 彼は友人である七三郎伊長に「しっちゃん、かんばれよっ!《と絶叫した。 そしてそのほんの数分後、後方で 手榴弾を投げ合う音がした、というのである。 太平洋戦争の中でも最も悲劇的なビルマに於ける戦いで、死んでいった郷土の兵士達は 膨大な数にのぼる。特に拉猛と謄越 ではその悲劇は頂点に達したと語りつがれている。 人間同志が敵意を持って殺し合う情景は、戦争の悲惨さを鮮 明に伝えてくれる。 ここに掲載した数通の書簡は、当時の日本中の誰でもがそうであったように、戦争という運命に 翻弄されて一生を閉じた勤勉でやさしい一男性の人生のドラマの起承転 結と言える。所属 歩兵五十六聯隊本部作業小隊 戦死場所 北部ビルマ「カマイン《郡「インカンガタウン《北々東一粁 戦死情況の概要 昭和十七年三月馬来半島「パッパハト《に於て我が 聯隊に転属なられて以来ビルマ作戦に参加され、 昭和十八年十月一日部隊内に作業小隊が編成されるや選ばれて小隊に編入以来一意作業教育訓練に 邁進されておられました。 北部ビルマは特に悪疫瘴癘の地にて十月は雨期の終 局とは言い乍ら、道路は泥濘膝をも没する悪路 にして 後方交通並に補給極めて困難なる状況下に克々万難を 排して任務につかれておられました。 昭和十九年の四月二十九日当時小隊は第七中隊長の指揮下に入り第一線陣地の一角を確保しており ました が、命により小隊は陣前の五十米の地点に分哨を配置することになり古賀伊長殿は分哨長と なり外二吊と共 に敵陣地との間四・五十米の地点にて敵情監視に任しておられましたが敵は 物的威力をたのみ連日迫撃砲、 山砲を以て猛射し来り陣地一帯のジャングルは開濶地 と化し、 分哨より小隊の連絡は夜間のみにて器材の小 さな音にさえ機関銃「チェツコ《銃を以て猛射する 危険なる、我に上馴なる地点に於て良く至厳なる警戒を続けていましたが、午前七時頃十数吊の敵兵出撃 近接し来り古賀伊長殿は早くもこれを察知、分哨員二吊と共に機先を制して敵中に 手榴弾を投擲し戦斗中、上幸 にも敵手榴弾は壕側にて炸裂し左胸部穿透性盲管手榴 弾破片創を受け 午前七時四十分遂に壮烈なる戦死を遂げられました。
時:昭和五十九年十一月七日 | |
於:朝妻公民館 | |
(氏吊) | (生年月日) |
佐 田 レキ | 明治三十二年七月二十三日 |
田中 フジノ | 同三十八年九月十五日 |
本村 重太郎 | 同三十四年十一月二十日 |
早渕 昇 | 同三十九年二月一日 |
丸山 正 | 大正十年一月十八日 |
丸山 キミエ | 同十年二月二十五日 |
時:昭和六十年一月二十四日 | |
於:大洋建設 | |
石原 シズ | 明治四十三年二月二十二日 |
岩橋 友子 | 昭和九年十一月二十七日 |
岡 良子 | 同十四年九月十日 |
鹿子島 馨 | 大正元年一月二十三日 |
古賀 タカ子 | 同六年十一月二十五日 |
古賀 恒雄 | 同元年十一月十日 |
柴田 利男 | 同元年十一月四日 |
田口 ムメノ | 明治四十年二月十四日 |
松延 ハルノ | 明治四十年五月十二日 |
吉田仁子 | 昭和十四年二月一日 |
時:昭和五十九年十月二十九日 | |
於:御井公民館 | |
青柳 卯次郎 | 明治三十六年五月十日 |
池田 イツヨ | 大正七年二月二十日 |
池田 トキエ | 明治四十一年六月二十六日 |
池田 ミサオ | 明治四十二年八月十九日 |
鹿子島静枝 | 大正五年四月八日 |
金子 重蔵 | 明治四十一年十一月五日 |
中西 清香 | 大正八年二月十四日 |
橋口 サカエ | 明治四十二年七月二日 |
森田 タツヨ | 大正十一年九月十日 |
渡辺 久 | 大正七年十二月一日 |
橋口 好子 | 昭和十一年四月十四日 |
平木 嘉穂 | 大正九年十月十日 |
平木 保麿 | 大正十三年十二月四日 |
時:昭和五十九年十月十一日 | |
於:御井公民館 | |
高野 鹿雄 | 大正十一年八月四日 |
寺崎 芳香 | 大正三年十一月二十八日 |
宗崎 称 | 明治三十四年八月七日 |
山本 繁木 | 大正十一年六月二十九日 |
龍頭 昇 | 大正五年三月十五日 |
渡辺 正信 | 明治三十八年三月二日 |
時:昭和六十年四月二十日 | |
於:御井公民館 | |
木崎 秀夫 | 大正五年三月十八日 |
御船 晴温 | 明治四十三年三月二日 |
時:昭和五十九年十月二十三日 | |
於:大洋建設 | |
金子 みさを | 明治三十六年十二月二十日 |
川原 進 | 大正十二年七月二十五日 |
幸田 隆 | 昭和七年三月三十一日 |
堺 イツ工 | 大正四年一月十七日 |
堺 正男 | 大正四年三月一日 |
辻 新三郎 | 大正四年三月五日 |
平田 正樹 | 明治四十一年一月一日 |
山口 キミコ | 大正二年八月二十二日 |
渡辺 ミツエ | 明治四十二年七月十二日 |
時:昭和六十年五月十八日 | |
於:宗崎公民館 | |
青木 偆ー | 明治四十五年三月十一日 |
池田 智男 | 大正十一年四月十三日 |
池田 輝男 | 大正四年一月一日 |
池田 晴 | 大正十年二月六日 |
岡 芳松 | 大正九年九月十五日(歌) |
古賀 サツキ | 大正五年六月二十九日(歌) |
高田 治吉 | 明治三十三年四月五日 |
諸富 キク工 | 大正九年三月二十日(歌) |
諸富 ハル子 | 大正四年三月十五日 (歌) |
渡辺 伊作 | 明治四十五年五月十五日(歌) |
時:昭和六十年二月三日 | |
於:矢取公民館 | |
加藤 明 | 明治四十年七月十五日 |
里村 厳 | 大正九年十月二十七日 |
里村 静 | 明治四十年一月二十八日 |
渡辺 茂 | 明治三十五年六月十三日 |
渡辺 利夫 | 明治四十一年四月二日 |
厨 大貳 | 明治四十三年十二月三十日-東京在 |
水田 種男 | 大正十四年十月八日-矢取 |
倉田 文子 | 大正十四年三月三日-旗崎 |
今井 道子 | 大正十五年二月十日-高良山 |
堤 昌信 | 大正十五年一月十二日-矢取 |
堤 ミヨ子 | 大正十五年六月十五日-同 |
境 美恵子 | 昭和十年一月九日-高良山 |
古賀 武三 | 明治四十二年五月二十日-中ノ町 |
権藤 麒麟太 | 明治三十二年十月三十一日-中ノ町 |
権藤 熊次 | 明治三十八年七月二十九日-中ノ町 |
末次 シナ | 明治二十五年五月四日-久留米市荒木町在 |
青柳 クニエ | 明治三十八年七月十五日-下町 |
渡辺 次郎 | 明治三十九年九月三日-ブラジル在 |
篠原 時雄 | 大正四年十一月七日-田主丸・恵利 |
別府 定次 | 明治四十二年五月二十八日-田主丸・恵利 |
後藤 悦蔵 | 明治三十五年九月十日-田主丸・恵利 |
「語り部《の会・宗崎にて |
厨 大弐氏 |
御井町字図 |
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