大善寺町   目次に戻る

三つよリ手綱(大善寺)

※翁

 昔、下田ん彦ちゃんの馬洗うて、ちょいと岸で草刈りよった隙、河童ん奴が馬ば川さね引込もでち杭 にきびっとた手綱ぱ、ほどきかかったげな。ところがどっこい手綱が三つ編みなっとるもんぢゃけ、ほ どこでち、突っこうだ手綱がワサになって、馬があばれ廻るもんぢゃい大弱り閉口しとっとけ、彦しゃ んが飛うで来て河童ん奴がウスタブラん、抜くるごつこきたててアゴタンば蹴上げた。「こん鎌で手で んなっでんたたっ切っちゃる」ち言う剣幕に河童ん奴あ手合せち、「もうこりから下田ん者にゃ悪さし まっせん、馬にもしまっせん。どうか助けち下さい」ち泣かんばっかり頼うだ。彦しゃんもちーつた気 の修まったもんぢゃけ、「ほんなこつ約束すんね」ち念ば押して手綱から手ば抜かしてやった。そりか らこつち、河童は義理堅かけ下田ん子供でん馬でん引かんごつなったげな。又、こゝんにきぢゃそっで 必(シャツ)ち、馬ん手綱だけは三ッよりなうごつなったつげな。

沖底さん(大善寺、黒田)

※翁

 ずーつと前んこつぢゃろ、ちーつた人ん良かヨシしゃんち言う若け者が、夢で見たち言うて、川向う ん砂浜で子供どんが遊びもんにしょった石ば持って来て、沖底さんの内に祭り上げち、毎日ちーつたに 似合わん拝みかたするもんぢゃけ、村ん者も神様に一たん祭ったなら粗末にゃ出来んちー境内にそん石 ころば祀ったげな。ところが、そりから子供どんが一人でん水難に逢わんごつなって、しまえにゃ川か らお汐井汲んで来て水かくりゃ安産の出来るち言うごつなった。こん石あ今でんちゃーんと石垣で囲う ち祭っちゃる。

鬼夜(大善寺)

※新考三瀦郡誌359

(一)
 千三百年ぐれ昔、肥前の桜桃(ユズラ)沈輪ち言う豪族が、外国に助け求めち、仕たか放題(ホー デ)んこつばするもんぢやけ、皆んな往生して、たんびたんびお上にとつけよった。そっでお上も葦連 アシノムラジ)ば征伐にやりござったが、攻めち行くと何処さん消えたかわからんごつかくれちどんこ んしよんなかった。とうと天皇さんも武内の宿禰でのうさにゃ征伐しきらんち思わしゃって、武内の宿 禰ば九州さんやんなさった。葦連からようと話ば聞いて武内の宿禰はあるこつば考えらっしゃった。 「沈輪やい、おまいの強かっぁわかったけ、もう戦いはせん、そしてこん筑紫や、お前やるけ今夜仲直 りしゅうぢゃなかー。沈輪やい、大善寺さん家来も全部連れち来て良かけ出てこんか。酒肴は、うんと こつちで用意しとく」ち使ばやらしゃった。「おりがどんくれ強かか、ようよわかったばいの。筑紫ぱ くるるち言うなら仲直りしてん良か」ち沈輪な家来どんば全部連れちやって来た。こつちん者(モン) な「あんたが大将、一番強か」ちおだてち、沈輪にも家来にもどんどん酒ば飲ませた。晩になって「も う飲みきらん、動っきらん」ちまで飲ませたとこで、四方八方から宴会場に一どき斬込うで、一人残ら んごつやっつけっしもうたが、大将ん沈輪だけが、消えち居らん。取り逃したかち心配せらしゃったが 「十重二十重に囲うどったけ遠さん逃ぐるこつぁなか。こん大池が怪しかぞ。鉾で突きたくって探せ」 ち、大きなか松明ばつけち、鉾で四方から突きたくったもんぢゃけ、沈輪な逃ぐっとこんのーなって池 から飛上り、突きよる鉾ばおっとって「おのれ、だましたな」ち葦連目がけち突っ込うで来た。葦の連 はさっと剣ば抜いて一撃で沈輪の首ば打落した、と首はひゅーち空中に舞上って逃ぐうでちした。武内 の宿禰は待ち構えちゃった八目矢でそりば射落さっしゃった。そして沈輪の首ば、集めた茅で焼きたく られた、こりが鬼夜の起りげな。
(二)
 昔、こん玉垂宮ん建った明けん年、まー千三百年ぐれなろか。三月七日の夜中、神社もくずるるごた る大声で「俺あ今鬼神になって変幻自在の術ば持っとるけん、俺のするこつに逆うもんな、忽ち命のの うなるぞ。安泰お前や一ち一ち逆ひよるが俺よかうんと良か密法ば持っとって、逆ひよっとか」ち空か らおろうだ者(モン)が居った。坊さんの安泰と、豪族の久運な、近所近在の者に棒は持せ松明ば照さ せち、久運な弓で四方八方ば射払うて、安泰や桜桃(ユズラ)沈輪の死霊供養の密法ば一心に読み上げ た。そっで沈輪の死霊も自然と消えっしもうた。ばって安泰や、油断しとったなら、いつ又崇ってくる か知れんち、そりから毎年そん日にゃ鬼神ば祭って五穀豊穣の祈願ばするごつしたち言う。こりが鬼夜 の起りげな。

頼母荒籠(大善寺)

※筑後二、六・9・翁

 万治年間ち言うけ三百三十年ぐれ前、大善寺、草場んにきゃちょいと日照のしたっちゃ地割れんして 稲ん育たんけ、筑後川ん水ばどげんかして引くこつぁ出来んぢゃかち、久留米藩も思いよったが、地元 ん者な早魃でん上納は無理取上げらるるけ、まーだ真剣に考えよった。そん頃久留米藩の智慧袋ち言わ れれた丹羽頼母が荒籠ば下に造って筑後川ん水ば取りゃ良かち思いついて、殿様に話し「よかろー」ち 言うこつなった地元ん者も喜うだ。

義賊おことさん(大善寺)

※翁

 大正ん中頃、大川市上八院から上の大善寺んにきかけち、よう盗人(ヌスド)ん入りよったけ、ちょ いとした金持ぁ晩になっとオチオチ寝られんごつあった。どげん戸締良うしとってんやらるるもんぢゃ け、あたで犬飼うたり戸締りしたもんたい。まー金持の寝られんとはあたりまえんこつぢゃが、一方貧 乏人の方もゆつくり寝られんぢゃった。なしかち言うとこん盗人は現金しかとらんで盗った銭ば貧乏人 の家さんそんまんま、サマンコから放り込うで行くけんたい。大川ん警察も久留米ん警察も、そっで金 持ん方ばっかりぢゃのうして貧乏人の方も注意しとかにゃんけ大事しよった。世間ぢゃ今時珍しか義賊 ち言うて大評判ぢゃった。金投込れた貧乏人な皆が皆、昨夜銭の投げこまれましたち正直届くる者ばっ かりぢゃなかった。中にゃ苦しかまぎれ、その銭ば天のお授け物(モン)ちして、そりば元手に商売は りこうで、だんだん金持ちなった者も何人かあるげな。警察ぁ一所懸命聞込ばしょったが誰も知らん知 らんでいっちょんわからん。ある夏の夕方一人の刑事が足ば棒にして聞込み廻り、此っちん部落からあ っちん部落さん行きよる途中、夕立に逢うて、道の横ん小まかお御堂に走り込うで雨やどりした。そし たら堂ん中に先客が居る。見っと二十二、三才の女御で白粉やつけとらんが良か女ご。身なりゃあんま り良うなかもんぢゃけいろいろ尋ねち、持物の小風呂敷包ば調べたら黒装束の出て来た。そりから問い つめたら、自分が盗みよったち白白したけ、つかまえち警察つれて行った。明けん新聞にゃ、今時珍ら しか女義賊つかまるち太ぶとのって近郷近在大評判ぢゃった。二、三日してどげんして逃げたぢゃい警 察が又探し始めた。とてもワサ抜けん名人で何べんもつかまったが、すぐ逃ぐるけ警察もあきれとった ち言う。こん女義賊はおことち言うて、なんでん下ん方ん者で、大百姓ん家生れたが、こまか時親が死 んだ後、一文も残らんごつ誰かごまけーち、可哀想にたった一人、あすこん下女此処ん守あんちーにな って苦労して太(フ)となり、自分が悲しか時、親切にしてくれた家に恩報じしゅうち盗人になって銭 放り込みよったつげな。警察から逃げ出して来てからん、やっぱ、盗うぢゃ放り込うで貧乏人は助けよ ったが、しまえにつかまったっぁ、黒田渡から佐賀さん逃げて行て、佐賀ん御み堂に居っとこばやられ たつたい。佐賀さん行たつがわかったつも、大善寺から久留米さん引っばれよる途中、下痢しょるけ便 所ば使わせてくれち、料理屋ん前で刑事に頼うだもんぢゃけ、刑事も便所なら仕様んなかち、繩つけた まゝ便所さんやった。ところがちょいとんはざに金隠に繩ばきびっつけち遂電しとった。そりもどげな 早業か料理屋ん銭まで取って消えとったげな。そげん遠うまぢゃ行とるめち探したがもうわからん。明 けん朝、黒田ん渡で刑事が船頭は調べたけ、船頭も、銭ばくれち刑事にゃ言うなち佐賀さん渡ったあり がおことぢゃろち申し上げたもんじゃけ、佐賀ん御み堂に居っとこばつかまった。こりがほんなこて最 後につかまったつぢゃった。

朝日寺(大善寺)

※新考三瀦郡360

 七百三十年ばっかり前の話ぢゃが、大善寺んにき、三池長者ち言わるる藤吉種継に一人娘がおったげ な。とても信心深うして念仏三味に明け暮れち嫁御にどん行く気は、全然なかったところ、鬼界が島か ら都さん帰りよった平の康頼が一晩泊ったら、好きになってしもうて、仲良うなったげな。そして朝日 ば呑み込うだ夢見て腹ん太うなったげな。そん生れち来た子が、永勝寺の元琳和尚さんに育てられて、 名僧、高僧ち言はるる神子栄尊和尚さんげな。栄尊和尚さんな、自分なお母さんが朝日ば呑込うだ夢で 生れち来たけんち、お寺ば建てち朝日寺ち言う名ばつけらしゃったち言う話。

大善寺(大善寺)

※高艮玉垂召神秘書90

 昔、神功皇后さんの三韓征伐から帰って来らっしゃった時、此処(コケ)舟ば着けて凱旋祝の、ばさ ろはずーたげな。そっでとてん嬉しかったけ「大いに善かった」ち言わしゃったげな。そりから大善寺 ち言うごつなったち。

黒田ん怨火(大善寺)

※翁

 今はもう、そげなこつぁありまっせんが、あたしどんが若か時迄ぁ、黒田に生れた者な彼処ん村ん者 と縁組しちゃ出来んち、固う言われよりました。なんでんその、いつの戦ん時かわかりまっせんが肥前 から攻めち来た時、どうした手違いか、こん黒田はようよ女子、子供ば逃がすとが精一ペで、男だんお ーかた殺されたげなですたい、そりがどうも彼処ん部落が何か原因ば造っとったつでっしょ。そっで夏 の晩にゃ、毎晩此処んにきあった大きな榎の上から大きな火の玉ん出て、さーつと彼処ん村さん飛うで 行きよりましたげな。こん火の玉ん飛うで行くと、きまって彼処ん村にゃ何んか不吉なこつの起りより ましたげな。そっでお寺さんに頼うでこの火の玉封じの御祈祷ば毎年彼処ん村ぢゃやっとりましたげな 。

よっしゃんと神さん(大善寺)

※翁

 大正ん頃、よっしゃんち言うて、ちーつたん、まー気狂(キチゲ)ち言や気狂の男が居りましたもん の。気はやさしかけ人に悪さしたり、傷(ケガ)させたりゃせんが、妙な癖んあって、そっで村ん者な 困りよりましたたい。どうしたこつか他所ん神社さん行て、そこん御神体ば重(オム)たかもんぱどげ んして持って来っとかわからんが、ちゃーんと部落の人口てん、氏神さんの境内てんに置いとくとです たい。家ん者もそりゃ困りよりましたが、村ん者も迷惑しよりました。あっ時、城島ん方から天満宮さ んの御神体ば盗うで来て、川に投げ込うだもんぢゃけ、村もんが、あわてち拾い上げ、清水でようと洗 い清めち天満宮さんに返し行きましたたい。ところがそん晩、その御身体ば清めた五人が五人とも大熱 の出て、さー医者よ薬よち大騒動になりましたが医者も原因のわからんち言うもんぢゃけ、明けん日、 祈祷師ば頼うで見てもろうたら「気持ようヨシと遊びよったつば横からいらんこつしたけ罰ばぁたえて 熱ば出させた」ち。そう言やよししゃんなどげーんなか、ぴんぴんしとる。もうそりから触らん神に崇 なしちゃよう言うちゃるち、持つて来た御神体にゃ誰でんかまわんごつなってしまいましたたい。

触らん神に崇なし(大善寺)

※翁

 昔あ大水のよう出よったげな。そりゃそうぢゃろ、今んごつ土居や高うなかし、どうかすっと土居の 無かとこでんあったげなけ。そん大水の出た後、此処にきにゃ木てん、家財道具てん、よう流れつきよ ったち。流れつくとで一番いやなつが川流れと、仏様てん神像じゃったげな。死人な仕末に困るし、神 さん、仏さんなそまつにゃされず、探し来てんなか時や、我が部落で祀らにゃんけの。いつか太水の出 た時げな。今迄どんどん下さん流れよった水が上潮になって逆に上げち来た時、こんオサヨか淵んにき の岸に神さんの像ん流れ着いたげな。普通上ゲ潮ん時ぁこつちん岸にゃ何でん流れつかんとぢゃんの。 それこっちさね流れ着いたげなけ、おかしかち言うて下ん者に聞いたら、おりげん部落に着いたけ上潮 にのせち、又川さん押し戻(モ)でたち言うこつぢゃったげな。「どげん迷惑ち言うたっちゃ折角神さ んの流れ着かしゃったつば、突戻し押流すちゃあんまり」ち腹かきながらこん部落でお宮に祀ろうち言 うごつなった。そん晩村世話人の夢枕に神さんの立たしゃって「今日はありがとう。下の部落に世話を 頼もうと思うとったら邪険にされたが、この部落は心の良か者ばっかりで、安心した。今から心んつめ たか欲つばっかりの下ん部落にゃ良かこつぁ無かってん、こん部落にゃやさしか心に応じて、良かこつ の巡ってくるごつしてやる。ばってこりだけは守ってくれ、下ん部落ん者と縁組したなら、罰に片輪ん 子の生るるごつしとるけん、絶対縁組だけはしてくるんな」ち言わしゃったち。そりからこつち下ん部 落から縁組するこつぁ無かごつなったげな。そりばって今はもう縁組のありよる。たゞ神さんだけは氏 神さんと一緒に毎年お祭りばしよるがの。

雷の井戸(大善寺)

※筑後三・十一.16

 むかし大善寺町の朝日寺ん井戸に間抜けん雷さんのおて込ましゃった。和尚さんのサッち蓋ばせらし ゃったけ、雷あ長いこつ出られんな泣いとった。ようよ和尚さんのコトワリ言うなら出してやるぢ言わ しゃった。「はい、もう決してこーんにきにゃ落(オ)てまっせん。又どげん離れとったっちゃ朝日寺 の雷除けの符ば張っちゃる家にゃ落てまっせん」ちコトワリ言うた上証文まで書き、おまけにお寺ん掃 除までして、やっとこしょ天さね喜うで戻っていったげな。

大楠の膳貝(大善寺)

※柳河三瀦めぐり10

 昔神功皇后さんが三韓征伐に行かれち、日本さね堂々舟で凱旋しよんなさったら、三韓の海軍が後追 うち来て、海の上で戦になった。こりゃ思いがけん戦ぢゃったもんでどうも分方(ブカタ)ん悪うなっ て来た。そこで皇后さんな神々ば念じて持っちゃる干珠ばポーンち海に投げ込ましゃった。すっとどう かどんどん海の水の引き始めち、敵の船はヒックリかやって兵隊だんアップアップ言うておぼくれち流 されて行ってしもうた。ところか不思議なこつに皇后さんの舟はヒックリかやらん。海の水ぁ引いっし もてガタになったばってちゃーんとしとる。どーしてかち舟ばみたら蜷貝がどっから集って釆たつか何 千何万ち舟に引っちいてヒックリかやらんごつしとる。こりゃ神の御加護ちよろこうで無事日本さね引 揚げて来なさった。そうしてこん舟ば大善寺玉垂宮にそのまゝ上げなさった。そりから舟について来た 蜷貝どんなこん大楠に住みつくごつなったち言う話。

コノシロ(大善寺)

※柳河三瀦めぐり21

 昔、三瀦の荘に藤原の種継と言う三池長者が居ったげな。長者にゃ一人娘がおったち。あんまり美し かけ京から嫁に来いち命令が来た。ありがたいこつぢゃが、京と三瀦ぢゃ遠すぎって、とてんやる気に やなれんどった。京からは矢の催促で、とうと向うから迎えに来た。長者は困って娘は死にましたち、 焼くと人間焼く時の臭(ニオイ)のするツナシば一ペ焼いて煙ば立てち、迎えの使者ばダマクラけーて 追い帰した。そりから我が子の代(カワリ)になったツナシばコノシロち言うごつなったげな。長者は 使者が帰ったけ喜うで立ち出て池の辺りを眺むれば、我が子の代(シロ)につなし焼くらむち歌ばよま しゃったげな。

不毛霊地(大善寺夜明)

※柳河三瀦めぐり22

 三池長者の藤原種継の一人娘が平家転覆ば謀うだ平の康頼の子ば産んだもんぢゃい、平家の御咎ばえ すがって、産み落すとすぐ野原に捨子した。ところが鳥からつつかるるぢゃなし、犬狼から喰わるるぢ ゃなし、口から光は出して、泣きもせんな七日七夜元気にしとった。そして夢の告げで、探しに来た柳 坂ん永勝寺の和尚さんに拾われた。不思議なこつに捨て子された場所にゃそりから草も生えんし、牛で んよりつかんごつなったけ、不毛霊地の石碑ば建てて記念にした。捨子は後の神子栄尊和尚さんだい。

鞭の松(大善寺)

※筑後三、十一・6

 大善寺夜明に朝日寺ば建ちうと思うて神子栄尊和尚さんな肥前の水上山万寿寺から馬でやって来よん なさった。馬ば打つ鞭ち言うよか夏のこつぢゃけ、蝿追いのつむっで松の小枝ば握って乗っちゃつた。 ところが四天にわかにかき曇って雨んザーッち降って来て雷まで鳴りだした。昔のこつぢゃけ雨よけす っとこもなか。濡れながらこっつぁね来ござったらピカットンち目の前雷さんの落てちこらした、そし てチュウヤクリクリ持っちゃる松ば伝うち天さん登らっしゃった。和尚さんなこん松ば朝日寺んとこに 来て捜し木せらしゃった。そしたらじっぱにつがって大きな松になった。そりからこの松ば鞭の松ち言 うごつなったげな。あとでこん松の木ん前に鞭松石ち彫りこうだ記念の石ば建てた。

三池長者(大善寺)

※筑紫野民譚集422

 昔、大善寺の近くに皆から三池長者と言われる大金持の藤吉種継が居りました。種継には天女の様な 可愛い一人娘が居りました。その美しさが評判で遠い国からまで嫁に欲しいとの申込が引きもきらずあ りましたが、娘はとんと気にもかけず、たゞ仏を念じて毎日をすごしていました。しかしその美しいと の噂は遂々京にまで聞えて御所からすぐ嫁に差し出すようにとの命令が来ました。種継は名誉な事では ありますが、一人娘と遠く別れて暮すことはとても淋しくて出来ませんので一計を案じて迎えの使者を 騙すことにしました。ツナシと言う魚を焼く時の臭いが死人を焼く時の臭いと同じなのを知っていた種 継は、御使者の到着する日、ツナシを牛車三台分も屋敷に持ちこんで焼き立て、煙を近郷近在にまで煽 り立てました。御使者はこの煙の臭いのに驚き、且つ泣き悲しんでいる長者に、そのわけを尋ねました 。長者は涙ながらに娘が亡くなったので今火葬にしているところですと答えて猶も泣きました。使者は 不浄の家に永く停まることではないので、「気の毒なことだ」と言って都へ帰って行きました。長者は 御使者を送り出すと大安心とばかり喜び、大きな声で「立ち出て池の辺りを眺むれば我が子の代にツナ シ焼くらむ」と歌いました。この事があって、ツナシと言う小魚をこの附近ではコノシロと呼ぶように なったそうです。その翌年の夏のある日、長者を頼って平の康頼と言う武土がやって来ました。この康 頼と言う武士は、余り平の清盛が悪い事をするので、平家を滅ぼそうと謀ってかえって平家に捕えられ 鬼が住むと言う鬼界が島に流された者の一人で、やっとその罪を許されて京へ帰る途中でした。永い小 島の生活で、やつれてはいましたがもともと京育ちの貴公子ですから、とても上品な感じでした。娘は 康頼を一目見て好きになりました。康頼も又、娘を可愛く思いました。娘はその晩朝日を飲みこんだ、 楽しい楽しい夢を見ました。一夜明ければもう悲しい別れが二人には待っていました。京から康頼を迎 えに来たのです。康頼は娘の身の上を心配しながら京へ帰って行きました。娘は後を追って行くことも 出来ず、毎日毎日泣いて暮らしました。それからちょうど十月(トツキ)目の初夏、娘は玉のような男 の子を産みました。たった一夜の契で身ごもっていたのです。不思議な事に赤子は口から光を出してい ます。長者は驚くと共に、罪人であった康頼の子とわかったら、娘も自分も平家一門から如何な罰を受 けるかわからないと心配して、霰川の岸近くに、この子を捨てました。ところが急に雨が降って来て赤 子の体をきれいに洗い清めました。その上不思議なことに犬も喰いつかず、鳥もこずかず、牛馬も踏み たくらず七日七夜さが間子供は元気でした。この捨てられた場所には其後草一本生えなくなったので此 処を不毛霊地と言うようになりました。八日目の朝早く、永勝寺の元琳和尚がやって来て捨い上げ「夢 の御告げ通り、口から光を出して、法華経を読んでいる。正しくこれぞ口光」と言いますと、光は消え てしまいました。和尚は赤子を衣にくるんで山本町柳坂のお寺へ連れて帰り大切に育てました。この子 は利口な子供で七つの時法華経を暗唱し、十三才でお坊さんになると一心に修行を積み、遠く宋にまで 留学していよいよ学徳を重ね、帰朝してからは肥前の萬寿寺やこの朝日寺を建立して、九十四才で亡く なられた神子栄尊大和尚てす。娘は産み落すと、子の顔さえ見ぬまゝに捨子しなけれはならなかった己 の宿業を悲しみ、ますます仏法に帰依し法華経を念じて一室にこもりきりになりました。そのうち長者 はふとした病が元で明日をも知れぬ命になりました。しかし自分が死んだ後の娘の身の上を案じ、死ぬ にも死にきれぬ思いでした。長者は有り余る財宝を或る所に埋めて将来娘が困らない様にと
     朝日さす、夕日輝くその下に
     七つ並びが七並び
     黄金千両朱千両
     座頭の杖がつくかつかぬか
と其の場所を娘に遺言して、死んでしまいました。この財宝の埋められた所は朝日寺の近くだろうと言 われていますが、はっきりしたことはわかりません。

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