八ツ墓 (東町)

※久留米めぐり44

 太閣秀吉が三十五万の大軍ば引き連れち薩摩の島津征伐のため九州に乗り込うで来た時、高良山の(
座主)麟圭に挨拶に来いち言うたところ、麟圭ぁ秀吉ば馬鹿にして衣ん下に鎧ばつけち行たもんぢゃけ 秀吉がこん糞坊主めち腹けーち、高良山の領地ば取り上げち、毛利秀包にやってしもうた。麟圭ぁ領地 ば取り上げられたちゃ言うもんの住んどる高良山がお城ンごつあるし、千人からん家来持っとるもんぢ ゃけ上納ば納めんばっかりか、毛利秀包ん言うこつぁいっちょん聞かん。そっで秀包ぁこりやぁ秀吉様 の御偉光にもかかわるこつと高良山ばムチヤクチャに攻め立てたろうち言うもんたい。ところが地の利 ば知らん悲しさで何べん攻めてん勝ちきらん。勝ちきらんもんぢゃけ遂々仲直りばするけ篠山城迄出て 来てくれち申込うだ。麟圭ぁそりば聞いて、俺が力がわかったかち鼻高々にして、高良山ば下(オ)ぢ って篠山城さね子供の良巴まぢ連れち堂々と乗り込うだ。うんとごっつぉになって帰りかゝったら、ど うも妙な気配のするもんぢゃけ、ハーッと道ば東さね変えち馬に一鞭くれち走ったが筒川で逃げ道がな か。又南東さね走った。ばって秀包は仲良りば申し込うだ時から帰り路で殺すつもりぢゃったけ、どん 道にでん家来は待ち伏せさせとった。麟圭ぁ酔うとる上、家来ぁ六人しか連れち来とらんじゃったけ、 ようよ東町ん墓ん処まで逃げて来たばって、ここで八人とも切り殺されちしもうた。そりがあんまりム ゴか殺されかたぢゃったけ、近所ん者どんか「ムゾーなげ」ち殺された八人の墓はそこんとこに建てち ゃって供養したつが八ツ墓。殺されたつぁ天正十五年の五月十三日の晩で場所はお城の東ん方の柳原ち も言われとる。

通八丁目地蔵堂 (東町)

※翁・由来記

 明治の御一新のあってから六年目ぐれ、とてんトンコロリンの流行って、ゴロゴロ死ぬもんぢゃけ誰 でん往生しとった。ところが町内に宮崎さんち言うて仏さんばとても大事にしござる人ん夢枕に、ある 晩地蔵さんの立たしゃって「俺はこの方向ん古井戸にこゝ何年か沈められて、おまいたちの難儀しよっ とは知っとるが、助くるこつが出来んな悲しゅうどる。早う井戸から上げて大勢の人ん目につくとこに 祭ってくれ」ち言わしゃった。宮崎さんな喜うで、明ん朝言われた井戸ば凌えち見たところ、石の地蔵 さんの五体も出て来た。どの地蔵さんもこつ欠げとったが、こりゃ応変隊が仏てんなんて糞くらえちこ きわって、古井戸に投込うだけんぢゃろち皆話しょった。宮崎さんな町内の者と拾い上げたお地蔵さん ば今んとけ祭ってお参りさるるごつ御堂ば造らしゃった。そうしたらさすがんトンコロリンものうなっ てしもうた。

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