八の底さん (東櫛原)
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※篠原稿
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東櫛原に昔、松下牛乳屋ちあった。乳牛ば三十頭ぐれおいちゃっつろ。此処ん前ん田ん中に大きな榎
の一本生えとったが、そん根本に八の底さんち言うて小まか石の祠ん祀っちゃった。いつでん赤土のお
供えしちゃったがこりゃ歯のうずく時赤土持って行っておがむと良うなるけんぢゃったげな。
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塩漬婆が墓 (東櫛原)
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※翁・篠原稿
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むかしゃまーだ筒川ん両岸ぁ葦どんが生えち、日の暮れっどん通りょっと追ハギ強盗どんが出てふて
ーめに会う恐しかとこぢゃったげな。旅慣れしとる者とか、久留米ん者(モン)な、そっで日の暮(ク
ル)っと博多道ば通るこつぁなかったが、先ばいそぐ旅なれしとらん者な、知らぬが仏で、ふの悪かと
殺されたりもしよったち。櫛原から北は家一軒ものーして葦原。助けちくれちオローでん聞えはせん。
そん筒川ん南の小高っかとこにそげんして殺された無縁仏ん墓が何十ち前まぢゃ立っとった。塩漬墓、
漬婆墓、漬墓ち、いろいろ言うが、雨ん降ってムシ暑か晩なフワフワ火の玉ん出るけ誰でん近よろでち
ゃせんぢゃった。もう今はどこぢゃい場所んわからんごつなっとるがどうして塩漬墓ち言うごつなった
かち言やぁ、あっ時、御遍路の婆さんが一人日の暮れち筒川んとこまぢ来たら、案の定強盗どんに取り
囲まれち持っとる銭ぁそうょ置いて行け、出さんならタタッ殺すぞち言われた。が婆さんな「見る通り
の遍路婆、こん賽銭箱に入っとるだけで他は持ちあんせん、どうか、こつで」ち賽銭箱ば差し出した。
「そりゃー今日ん貰い銭、今迄ん貰銭などけ持っとるか、そりば出せ」ち言うが早かゝ、婆さんの首し
めちフックラからキンチャクのふくれとっとば引出して、「太(フテ)ー婆ぢゃ」ち言うて強盗だん行
っかかった.そん婆さんなキンチヤクば取戻そでち強盗ん一人に後から取つかしゃった。「えー強情か
婆ばい」ちふりかえりざま刀で払うたもんぢゃけ、ギヤーッち声あげち婆さんな腹おさえながら倒れた
。こん様子ば筒川ん岸ん堀立小屋に住んどるヒゲぼうぼうん老人が聞いて「あっ、又か。殺すも宿業、
殺さるるも宿業、傍観するも又宿業、無惨な浮世ぢゃ」ち言いながら婆さんば助け起して、我が小屋さ
ん連れち来たいこん人はある藩の武士ぢゃったばって何かあって世捨人になっちやっとぢゃろち言う噂
ん人。婆さんな虫の息で「私しゃ肥後ん在じゃが、小まか時別れた娘が筑後に居るち言う噂ば聞いて有
金残らず持って会い来たが、久留米で聞いたら筑前に行っとるち言う。永年小まか時から娘にゃ苦労か
けたけ、死ぬ前一目会いたかったが、もうこつぢゃむつかしか。こげんこつもあろうち思うて、万十笠
ん受台と、こん衣ん襟に、ちーとばって銭ば縫い込うどります。どうかこつで、後ばよろしゅうたのみ
ます」ち言うて息ば引きとった。爺さんな、こん話ば聞いて、いつもならすぐ後ん丘に埋むっとばって
、ひょっとすっと筑前から娘が尋ねち来るかん知れんち思うて棺に塩ば詰めち、婆さんの死体の腐らん
ごつしておいとった。そりばって一ヶ月してん二ヶ月してん娘は来んぢゃったけとうとう百日目に後ん
墓所(ハカドコ)に埋めちしもうた。そりから塩漬婆の墓ち言うごつなっていつか漬墓ち言い、そりが
こん無縁墓地全部ばさすごつなったっぢゃった。
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赤子地蔵 (東櫛原)
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※翁
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あたしだんもう八十年も此処住んどるばって此処(ココン)にきの、たんぼ川ば赤子堀てん赤子川て
ん言いよったちゃ知らんぢゃった、のーや。そりばって昔ぁ上納んきつうして子生んだっちゃ、とてん
育てられんな、折角生んだ子ば此処んにき捨てよったつげな。まーそげん言いや古月和尚さんの福聚寺
にお入んなった延享二年と五穀神社の建ちかかった寛延二年に捨子しちゃ出来んち二遍も、お触れんで
とるし、その後十年もせんな百姓一揆ん起っとるけほんなこつかん知れんたい。もともとこん道ぁ博多
道ち言うて久留米ん城下から筑前の方さね行く、通りの多かとこで人目につき安かけ、捨てよったつぢ
ゃろたい。あられん処(トケ)捨っと犬てろん、鳥てろんに喰わるるけ、そりゃムゾしての。ばって都
合よう拾ちもろた赤子は良かっつろが、そげんそげん全部が拾われはせんな、飢(ヒ)もじうして餓死
(カツエジニ)した赤子も多かっつろたい。そっで、そげな赤子ん供養すっとに去年出来たつげな。こ
げなあたしどんが話ぁ当てにゃならんがの。
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