マリヤ観音(本町無量寺)
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※住職・筑後五。二34
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島原の一揆に久留米藩からも七千人以上出兵して千二百人からの戦死者が出たもんぢゃけ、いよいよ
キリシタン弾圧のひどうなって、今まぢかくれち信仰しょった者(モン)も、いつ密告されち火焙なる
かわからん雲行きぢゃけ、証拠になるごたる物な身の廻りにゃおかんごつなった頃ぢゃろう。そりゃ侍
にでんまーだ信者が居ったろうし、お城ん中にでんおったろたい。観音さんの姿ば借ってマリヤさんば
拝むとなら大丈夫ち思うとってん、顔容やら髪の形で、見る者(モン)の見りゃわかるこん観音さんば
、どげんして残しとっか、持つとった侍や頭ん痛かっつろ。「燈台元暗し」とか「立寄らば大樹の影」
。思ひついたつが、同じ信者のお城ん奥女中に安産の観音さんち言うて祀ってもらうが一番安全。奥女
中に話したら二つ返事で引取ってくれた。奥女中は引取ったもんのあんまりマリヤさんらしかけ、同輩
の女中から密告されてん恐しか。そっでとうとう、無量寺さんに持って来た。無量寺さんぢゃ安産、乳
授けの観音さんち昔言うとこで気持よう祀ってやらしゃった。そりから奥女中は公然とお参り続けらる
るごつなったろち言う話。
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光る法然上人像(本町無量寺)
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※住職
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昭和九年の三月、春の御彼岸のちようど御中日の夕方、無量寺ん前ば通りござった、よそんおばさん
の御み堂ん前で腰の抜けたごつなり、そけベターッとどべくり坐っつてしまわしゃったげな。手合せち
声も出んげな、あんまりたまがってしもちやっとたい。そりもそうぢゃろ御み堂ん中ん法然上人の御尊
像さんから後光のパーッとさしよるげなもん。寺ん前んあわやおこし屋ん大将が道にどん坐っとるおば
さんば見つけち、飛うで助に出て来らしゃったら、おばさんな声ん出らんけ眼ばパチパチで指さすばっ
かり。そこで大将も御み堂みてびっくり迎天、ありがたかこつち手合すっとと一諸に寺さん走り込うで
お住職(ジュショク)さんに知らせらっしゃったげな。お住職さんも本堂に入ってびっくりげなたい。
そんうち表ば通りよった人達の三十人ぐれなって、皆御尊像さんに手合せてお参りしたげな。お寺ぢゃ
お中日でもあるけ、又あたで夜のお勤め、お説教んあったげな。昭和の御代に仏さんから後光んさすて
んなんてん考えられんこつばってん、ほんな事あった珍しか話たい。
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諏訪神社の災(本町)
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※篠原稿
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昔、苧扱川に祀っちゃったお諏訪さんの御祭りゃ、でーぶん費用かけち、そりゃぁ賑やいよったげな。
こげん費用かけち、お祭したっちゃ、くたぶるるとが関の山ぢゃけ、今年から、金んかからんな町内全
部楽しまるるごっぁるこつば思立とい」ち利口者(リコモン)が言い出したげな。町内の者(モン)も
、そげん言やそげんたい、ほんなら今年から高良山に弁当ごしらえして遊び行くごつしゅうち決めち、
女ご子供まぢ連(ツン)んのうて、高良山に登って、弁当開きながら見晴しゃよし天気よしで大賑いし
ょったげな。ところがちょいと久留米ん町に煙の立ったつが、どんとん黒煙なって拡がっていきよるげ
な。どうもこりゃ家んとこばいち大賑や大騒動になって、大急ぎて帰って来て見りゃ町ゃ焼野が原にな
っていお諏訪さんだけが焼けも焦もせんな残っとるだけぢゃったげな。そっで「こりゃお諏訪さんの腹
かかしゃったつぢゃろ」ち明けん年からは又、前んごつお祭りば盛んにするごつなったげなたい。
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