高皇宮さん(国分)
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※筑後国史・初手物語U
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慶長ん頃ち言うけ四百年ぐれ前んこつ。国分の竹籔ん中に一本高(タア)っか椋(ムク)の木かなん
かあったとこに毎晩火の玉ん北ん方からとんできて誰(ダツ)でん不思議がりよったげな。何日目かに
国分の神代さんの先祖ん夢枕に衣冠束帯の偉かお方ん立たしゃって、「俺は壇の浦から九州に下って武
運つたなくはてた安徳天皇の霊である。いまは宮の地に高皇宮として皆から慕い祀られてはおるが、大
水の出るたんび泥水うっかぶって、実のうしてもうもてきらんけ、こん国分に祀り代えち貰おうち、こ
ゝ何晩か火の玉になって飛うで来よっとである、もしあの高(タア)っか木の処にそげんして祀ってく
れたなら、国分の水は、どげな干照(ヒデリ)りの時でん枯れんごつ守ってやるぞ」ち言うて消えらっ
しゃった。そりが何晩も続く、火の玉は飛うでくるげなけ村中話ようて宮の陣に相談してからこっちに
祀らしゃったげな。
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十三塚神社(国分)
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※初手物語13・筑後一、三、3
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天正ち言うけ今から四百年ばっかり前、此処ンにきで戦んあって戦死した者(モン)ば祭ったつぢゃ
ろち言われとった十三塚ば明治二十九年になって営所ば造っとにこっくずしてしもうた。ところがこん
十三塚んあったとこに建てよった兵舎は、風も吹かんとに一人でこき倒れ、又建てよったら大工どんが
大怪我するち、妙なこつの建ち上る前から起りょった。いよいよ建ち上って兵隊が寝泊りするごつなっ
たら、わけんわからん悪か病気の流行(ハヤ)ッて、毎年毎年(メートシメートシ)大ごつ。ちょいと
佐賀さん兵隊ば移さにゃんごつもなった。坊さんとか神主さん呼うで来てお祓いしたばって良うならん
、そっでこりゃ十三塚の崇りぢゃろち言うこつになって、姐元ん者が明治四十年に集って、十三塚ば崩
すとき出て来とった剣てんなんてんば持寄って、日吉神社ん境内に埋めそん上に十三塚神社ち石碑ば建
てて祭ったりゃ、そりから営所にゃ何も悪かこつぁ起らんごつなった。
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河童の骨接(ホネツギ)(国分)
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※筑紫野民譚集409
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昔、日渡にとてん上手か骨接(ホネツギ)さんの居らした。そん方法は代々家に伝わったもんで、何
代か前ん爺つぁんの河童から習うたもんち言うて評判ぢゃった。どうして河童が教えたかち言うと、ち
ょうど明日が田植ちなって、爺つぁんの荒代(アラシロ)明けばずーつとしよらしたげな。水のかかっ
とる田ん中ばヂャブヂャブ水けってぎりぎり廻る荒代(アラシロ)がきゃ馬も人間も、はたから見っと
面白うして涼しかろごつあるが、ほんなこつぁきっか仕事ぢゃんの。そん荒代掻きば畦んぐれで一匹の
河童ん奴が、ゆだれくって見よった。河童はもともと馬が好きな上、ヂャブヂャブ、ヂャブヂャブやっ
とっとこば見るもんぢゃけやって見ろごつして耐らん。ちょうど一枚ん田の終えたけん隣ん田さん馬ば
入れち爺つぁんな水口見げ手綱ば馬鍬んとってにかけち行かしゃった。さー河童は喜うで今ばいち、止
(ヤ)めときゃ良かつにつーッと馬んとこに行て手綱ばとって爺つぁんの真似して、馬ば追うた。畦草
食いよった馬はタマがって田ん中ば走り回った。勝手ん違うた河童は手綱ん抜けんな引ずり回されち、
泥だらけ。爺つぁんも急に馬ん飛び出したけびっくりたい。見たら河童ん奴が引きずり回されよる。よ
うよ馬ばなだめち口ばとって、そりから河童に巻ついとる手綱ば、ほどいてやり「二度とこげな悪さば
するもんぢゃなかぞ、手どんおしょったならどうすか」ちおごらしゃった。河童は爺さんのやさしかつ
にホロッとなって「御礼に河童の骨接(ホネツギ)ば教えまっしよ」ち、爺つぁんにようと教えたち言
うわけ。そりから爺つぁんな習うたごつ骨接(ホネツギ)ばやってみらしゃったらピシャリ接かるげな
け、とうと骨接(ホネツギ)が本(ホン)てどんになってしもたげな。
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国分の三池(国分)
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※筑後三、一、28
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国分の三池ちゃ、ちょいとおかしか所ん名ぢゃが、白河天皇の頃、此処に三池典太光世ち言う刀鍛冶 の名人が居って、そりゃ良か刀ば打ちよった。刀造っとにゃ水か良うのうさにゃならんげなけ、此処ん
水あ、よっぽど良か水ぢゃったろう。三池典太ちゃ大牟田ん三池ち言う人もあるが、国分にゃ池ん他に 典太の屋敷跡ち言うとこもあるけ、こつちが本なこつぢゃろ。そうそう三池典太ちゃ荒木又右エ門が伊
賀鍵屋の辻で敵討の時三十八番斬りばやった、あん銘刀ば造った人たい。
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