筑紫楽の始り

(一)

※筑後二、一〇、23

 壇の浦の海戦に負けち、九州柳が浦に上(アガ)ってようよう高良山に立寵ったとこば義経の松明つ けた牛の追落しにかゝつて筑後川まで逃げのびたもんの、舟んひっくりかやって、平家一門なとうとう 河童になってしもうた。河童ち言うてん水の神様ぢゃけ、もともと平家方ぢゃった筑後では大事に祭ら るるごつなった。そっでち言うわけぢゃなかが、河童水神なさすがに京育ちだけあって時々昔の夢ば追 うて陸さん上っちゃ、笛、鐘、太鼓、笙、の合奏ばして舞い遊(アソウ)でなつかしがる。そん音楽の よさに諸々(モロモロ)ん神様たちが感心されて、「この音楽ば合奏してくるるなら我々諸神も心が和 うで五穀豊穣にしてやらんわけにゃいかん、どうか広う末代まで伝ゆるごつされたがよかろう」ち水神 に言わしゃったもんぢゃけ、そん音楽ば筑後ん者(モン)に教えらっしゃったち言う。今でん此ん音楽 は善導寺さんてん、草野ん祇園さんに残っとる。

(二)

※筑後五、十一、33

 筑後川に入って河童になった平家の一門が無念のあまり、人てん牛馬に害ばして、いよいよ平家は悪 う言わるるもんぢゃけ、生き残っとった水天宮やら高良山の元ん女官たちが、北野ん千代嶋岸に寄って
、京でしよった合奏に合せ、国家安泰五穀豊穣、平家鎮魂の舞いばしたところ、そりから人にも馬にも 害のなかごつなった。そっでこりば筑紫楽ち言うて何処にでん教えて回ったち言う。

(三)

※河童物語49

 建久二年ち言うけ八百年近か昔、草野ん殿様んとこに夜中河童ん大将が出て来て、助けば求めたげな 。「今まぢ呑気にくらしよった筑後川ん河童ん大将でございます。魚も多か苔(コケ)も多かけほん に良ございましたが、今年に入ってから、見たこつもなか茶色ん河童どんがこん筑後川に居(イ)つ こでち、下(シモ)ん方ば攻めたくって、下(シモ)ん家来がだいぶん殺されたり傷(ケガ)させら れたりしたけんで、こっちから、加勢に出しましたが、とてん太刀打の出来るこつぢゃなかち報告の 来ました。そして明日ん晩な、こん庄ン前まぢ攻めち来(ク)っち、果し状も来とります。先祖伝来 の筑後川ば外国の河童におっ取らりゅごっあ、ありまっせん、どうか胡瓜ばメゴ十架ばっかり明日ん 昼までに巨瀬川に投込うで助けち下さらんでっしょか、お願いします」ち涙流して頼だげな。河童ぁ 胡瓜ば食うと一人で百人力、外傷(ケガ)したとこにつくっとすぐようなる薬にもなるち言うごつで 、「そんくれなら朝んめに投込うぢゃろ」ち殿様は言うて、明けん朝二十架もドブンドブン放り込う じやらしやったげな。そん夕方から筑後川ん水ぁ雨も降らんとに濁り始めち、高波の立ち始め、晩に なっと、戦ん時のごたる声ん川からしょったげな。が夜中になってピタッと静かになったげな。殿様 (トノサン)な、はーもう戦あ終えたばいねち思うてウツラウツラしござったとけ、ガヤガヤ、ドン チャンカンチャン賑かな囃子の聞えち来て、昨夜ん河童大将が家来ばズラリ引連ちお礼に来たげな。 そして笛、鐘、太鼓、笙、ち言うごたる楽器で合奏しながらお礼の踊りば舞うたげな。こりがばさろ 珍しうもあり、良かったもんじゃけ、草野ん者(モン)に教えちくれち殿様が頼まっしゃったところ 、河童どんが、「やさしかこつです」ち皆(ミーンナ)に教えたもんぢゃけ、そりが今ん草野風流に なったっち言う話。

男の子授け地蔵

※続市誌下744

 発心公園の東谷の上ん地蔵鼻ち言う丘に祀っちゃる地蔵さんに、男の子ばお授け下さいちお願いすっ と、男ん子の産るゝち言われ、そっでこん地蔵さんば男の子授けの地蔵さんち呼うどるが、どうして効 果んあっとかち言うとそれにゃこげなわけんあっとたい。今から四百年ばっかり前、薩摩征伐に来た秀 吉に、肥後ん南関に呼び出されち殺された草野鎮永の留守ばあづかっとった発心城のわずかな家来達は 無念の余り負けちゃわかっとって肥後さん仇き討(カタキウチ)に出かけて行き、残された女達は男が まちっと多かなら、こゝで一戦して自分達も忠義ば尽さるっとに残念なこっぢゃ、まーいっときしたな ら秀吉の軍が此処さん攻めち来るぢゃろうが、おめおめ捕虜になって恥かしか目に合うより、戦死の夫 ん後を追うたが良かち百人ばかりの者が此処に来て自殺した。あんまりムゾかこっぢゃけ土地の者(モ ン)が此処に地蔵さんば祀って供養してやった。男の力が欲しか、多勢の男ん居ったならち思うて死ん だ思いが、大方男の子ば欲しかち言う願いば叶えてやらっしゃるとぢゃろち言われとる。

塩買いの弥陀(専念寺)

※三井めくり90

 昔、あんまり大雨ん続いて山つきゃぁ山潮山崩れ、平地は筑後川ん大水で、家は大方流されち、夏ち ゃ言うてん着のみ着のまゝで、ようよ残った家ん軒下借らにゃんごつあった。もちろん喰い物にでん事 欠いで、そりゃ難儀になっとったが、なんちゅうてん塩ん無かつが一番困っとった。道ゃ崩れとるし、 久留米さん出るこつもでけん。ようよ雨んやんで朝から青空ん見えち、ちっとずつ跡片付けばしゅうか ちお寺に皆んな集って話合いよったら、塩ばいっぺ積んだ牛車ば引っ張って「御注文の播磨ん塩です。 受取って下さい」ち見知らん商人がやって来た。誰も注文した者(モン)な無かもんぢゃけ、びっくり して、ワケば聞いたら「十日程前、旅姿ん御坊さんの私の家(ウチ)やって来て、ちっと遠かゞ塩ば筑 後は草野村にある専念寺に届けちくれ」ち言うて道順もようと言われ、お金ば払うて行かしゃったけ届 けた次第です。ち言う話ぢゃつた。皆んな奇特なお坊さんもあるもんたい、こりも仏の御かげち、あら ためち御堂ん仏さんばお拝もでちして、又ピックリ。本堂ん上(アガ)っ段のとこに古鞋の一足脱ぎ捨 てちゃって、汚れた足跡んそこから本堂さん続いていとる。足跡ばつけち行ったら御本尊さんの下まで ついとるもんぢゃけ、ようと見っと勿体なか足に泥んついとったげなたい。誰でん、ぺたーっち坐り込 うで手合せち、ただお参りするばっかりぢゃったち言う話。そりからこん阿弥陀さんば塩買いの弥陀ち 言うごつなったげな。

青吐坂(アオトザカ)(草野)

※翁・篠原稿

 草野にゃ竹井城と発心城ち言う二つの大(フト)か城跡が残っとるが、どっちも草野氏のお城で、な んべんも戦さんあっとるけん、もうどん坂が青吐坂ぢゃいわからんち思うとったら竹井城ん登り口にあ るち、年老の教えちくれらしやった。なしこん坂ば青吐(アオト)坂ち言うかち言うと、登っ時、急に 息の苦しゅなったり、目眩のするげなけ。そっでむかしゃ怖(エズ)がって誰でん通ろでちゃせんぢゃ ったち。戦ん時、敵の攻めち来よっとば、早よ城に知らしゅでちした百姓が、こん坂で敵に追いつかれ ち切られたけ、怨んで祟っとぢゃろち言うう話と、菊池武光がちーっとん家来ば竹井城に残して大保原 方面の戦いに出て行っとったとこば小弐の方に寝返り打った一隊に襲われち、こん青吐坂で全滅したち 言う話二つが残っとる。

腰かけ石(草野)

※筑後二、十〇、22

 昔、聖光聖人が腰かけられち北ん方ば見よって紫の雲んたなびいとる下に楠ば見つけられ、そこに善 導寺ば建てなさったち言う石が今でん吉木八幡さんの側(ソバ)ん永禅寺にあります。腰かけ石ち言う とります。

矢作(ヤハギ)(草野)

※篠原稿

 神功皇后さんが熊襲ば征伐に来らしゃった時、吉木の八幡さんに戦勝ば祈願されち、此処で、八幡さ んのお告げ通り矢ば作らしゃったけ矢作(ヤハギ)ち言うごつなった。此処んにきの竹が一番弓矢造っ とにゃ良かったげな。

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