河童の手(京町)

※久留米めぐり5

 昔、豆津橋のにきの百姓が夕方、岸の草ば刈りょったら、夏の盛りの暑(アツ)かっに、ゾコゾコ寒 けんして来たけ、刈った草ばひっかるち、家さん帰りかかったところ、後ん方から「オーイ、オーイ」 ち誰か呼ぶ者(モン)のある。後ば見たが誰も見えん。百姓ぁゾーッち頭ん毛の逆立してしもうて、も う一所懸命走って家さん帰った。帰ったもんの寒気(サムケ)んして、気持ん悪か。草ば厩に投込もう でちしたら草ん中に枯木んごつぁっとんまじっとる、よう見っと毛の無か猿の手んごたる。草だけ牛に やって其ん手のごつあっとば鎌と一諸に庭屋ん隈に置いて飯もちょいと喰うて寒気んするけ寝たところ が、夜中になって外でガヤガヤ人ん声んする。人ぢゃのうして河童どんが「手ば戻せ、早よ戻せ」ちお らびよっとぢゃった。百姓は庭屋に掛けとる鎌ば取って「やかましか、失(ウ)せろ」ち振り回して狂 うたけ、スーツと河童だん消えっしもた。がいっ時すっと、又「手ば戻せ、早よ戻せ」ち外で騒ぎ立つ る。気分の悪かつにとうと一睡も出けんな朝んなった。こげなこつの毎晩続くもんぢゃけ、家宝にする どこぢゃなかごつなって、七日目にゃ戻そかち言う気になった。が下手に戻して崇らるっと大ごつち、 人ん奨めで、河童ん手ば桐箱に入れち水天宮さんに納めちしもた。そしたら其ん晩から河童どんが来ん ごつなったげな。

筍と河童(京町)

※福岡県の郷土のものがたり一、160

 夏なっと河童どんが悪さして、彼処此処から水天宮さんにゃ苦情ん切りなし来る。胡瓜畑ば荒したと か、人間ば水さね引込うで尻から肝(ヂゴ)取ったとか、馬に悪さしたとか。そして十月の出雲でん神 さんの集りにゃ、全国の神さんから、さんざん文句言わるる。もう水天宮さんな往生しちゃった。そっ で毎年夏前にゃしゃっち河童どんば集めち、やくやく注意ば水天宮さんのせらっしゃるが、河童大将ん 九千坊は其ん時ぁハイハイち聞いとるばって、頭ん悪かつか、横着かつかすぐ悪さする。こりゃ一遍ギ ャフンち言わせにゃ直らんち水天宮さんな思いつかしゃった。春もしまえがた、平常(イツモ)んご つ、氏子総代どんに川祭の案内ば出さっしやっ時、こんだ、九千坊にも河童ん総代として出て来てくれ ち案内つけらっしゃった。九千坊は案内もろち「わぁ俺も人間並、宴会出らるるごつなったぞ」ち手下 どんに威張(エバリ)ちらかした。子分どんも喜うでお祝言うて、人間並になったち鬼の首でん取った ごつ考えた。いよいよ五月五日ん川祭。一張羅着て九千坊はエヘンエヘンち威張(エバッ)て会場さん 出て来た。いよいよ神事も済んで酒盛の宴会になって、宮総代さん達も河童に盃さし向け、良か調子な って来た。酒飲んぢゃ宮総代達ぁ出されとる御馳走ばとてもうまかごつして食う。九千坊も箸とって口 入れたが、とてん堅かこつのなんの、とてん人間のごつガブガプ喰われたもんぢゃなか。噛まるるもん ぢゃなか。吐き出すとも体裁の悪うして、ばってとてん飲み込まるるもんぢゃなかけ冷や汗ビッショリ 。「あーこりゃ、人間にゃかなわん、人間並ち喜うで大威張りしたが、やっぱ、河童は河童がつしかな か」ち、ほうほうの態で川さん逃ぐるごつして戻って行た。噛まれんとも、堅かつも道理たい。水天宮 さんの宮総代に出さしゃった御馳走は筍ぢゃったが、河童ん大将にゃ青竹ん輪切りば煮付けして出しち やっとぢゃった。そりは畜生の悲しさ見破りきらんぢゃったったい。其りからこっち水浴び行く時ぁ水 天宮さんのお守札ば入れた青竹ん小筒は首さげとくと河童がきろうち寄りつかんごつなった。

京の隈(京町)

(一)

※筑後一、三、4

 壇の浦の戦に負けて、こん久留米まで落ちて来らっしやった安徳天皇が、二十何才かで到頭(トウ ト)死なっしゃる時の言いつけ守って、按察使局は筑後川ん横の鷺が原にお社ば建て、天皇の御冥福ば 朝とのう晩とのうお参りしてお祈りしよった。そん姿ば見た一人の坊さんが、「私も平家ゆかりの者ぢ ゃけ天皇さまの御供養ば致します」ち言うて法華経九萬部ば修めたけん、その「経九万」が訛って「経 クマ」になり「経の隈」に変り「京の隈」になったつち言う。

(二) 

※三井めぐり6

 元暦五年ち言うけ村上天皇の時ぢゃろ。此処んにきゃ長雨ん上、大風ん吹いて、大水、山崩れん続い て、とてん難儀しよった。食う物に困る、着る物に困る、住む家は流さるるか、流されんでん吹倒され とるち言うこつで、困るこつばっかり、もう目も当てられん様子ぢゃった。こん難儀ば見兼ち、性空上 人の御弟子の隆信ち言う坊さんが、この災難ば早う収むるごつ、法華経一万部読経ん願ば立てち、村ん 者が口を揃えち、「晩になっと背振の風穴にゃ昔から山姥が住んどるし、蛇ケ谷にゃ竜が居る、七曲峠 にゃ化物が陣取っとるけ止めなんせ」ち止むっとば振り切って「今日から五十日したなら迎えに来てく れ」ち言置きして、恐ろしか背振山の東の峯に寵らっしゃった。そりから約束の五十日が来たもんぢゃ け、村ん者が夜明けば待っとって皆して迎えに登って行った。ようよう東の峯について見たつぁ、後も う一千部残っとるお経ん上にうつぶせになっちゃる隆信さんぢゃった。ゆすってん、おろでんもう隆信 さんな息の切れち冷とうなっちゃった。村ん者な拝みながら泣きながら、ここに三重の塔ば建てちお坊 さんの供養ば後々まぢして感謝した。そして残った一千部ん法華経ば持って京の隈に埋めちやった。そ りから此処ば「京の隈」ち言うごつなった。

(三) 

※北筑雑藁3

 昔ち言うて何時頃んこつか、ある人が多分沙門か六部ぢゃろの、日本六十六州に夫々お経ば一部ずつ 合せて六十六部たい、納めち回り、久留米ぢゃ此の西の端の高か丘に埋めたげな。今梅林寺さんのあっ 処(トコ)たい。そりから経文ば埋めた西の隈ち言う意味で「経の隈」そりが「京の隈」になって明治 の初め京町ち変ったつたい。

平家河童(京町)

※筑後五、十一、33

 今から八百年ばっかり前んこつ。壇の浦で負けた平家ん連中は、九州さん逃げち来て、とうと、此ん 高良山に追い込まれちしもうた。もう何処さん行ってん源氏に味方する者ばっかりぢゃけ、嫌(イヤ) でん此処で追うてくる源氏と又戦(イクサ)たい。良か二つにゃ此ん高良山ならどげん源氏が攻めち来 たっちゃ、坂んきつうして下から上は見えんが、上から下は手に取るごつぁる。一人で百人相手したっ ちゃ負けはせん。平家ん者な、都合良う行きゃ天下ば取り返さるるか知れんち思うた。源氏は太宰府ん 方からと日田、草野ん方から攻めて来るに違いなかけ、そん時ぁ彼処で防ぎ、此処で戦う、ち考えて、 それぞれ守らせとった。ところが戦上手の源の義経は、夜中に五百頭からん牛ば集めち、角に松明ばき びっつけ、平家が守つとる陣の後、宗崎ん方から攻め上った。こりが裏ば掻くち言うとぢゃろ。さー平 家はビックリして戦うどころか山本ん方さねバラバラになって逃げた。夜中んこつぢゃけ、ようわから んが草野ん方から源氏に味方ん草野永平が攻むでち高良山の方さね来よるごたる。平家ん者(モン)な 向(ムキ)ば変えち筑後川ん方さん下って逃げた。ようよ岸まぢ来たが舟ん無か。しっつもっつしよる うち後から源氏の大軍が勢のって攻めち来た。「もうこりまぢ」ち皆筑後川に飛び込うで平家はしまえ ちしもた。そしてあんまり無念かけ、源氏の天下ば苦しめちやろうち皆河童になってしもうた。

夢見の達磨(京町)

※久留米めぐり10

 明治の終えか大正の始め頃ん話ぢゃが、梅林寺さんに猷禅ち言う偉か和尚さんのござった。ある日ん こつ東京から骨董屋が尋ねて来た。猷禅さんな三生軒ち言う隠居屋んごたる部屋にござったけ取次の小 僧が、東京から骨董屋が達磨持って訪ねて来とりますち言うたりゃー、「ああ夢見の達磨かすぐ此処 に」ち言わしゃった。骨董屋が持って来たこの赤銅の達磨さんな、もと東京の大きな店に伝わっとった 相当古かつばって、代の変って若主人がお払い下にしたもんぢゃが、骨董屋ん店に飾っとったら、三生 軒、三生軒、ち声出す。そりもお客の居らん時言うもんぢゃけ、こりゃ達磨さんが会いたか人ん名ば言 いござつとぢゃろち、店ん大将が禅宗関係の人達ば調べ、こん梅林寺さんば尋ねて来たっぢゃった。猷 禅和尚さんな又、毎晩続けちこん赤銅ん達磨さんの夢ば見ござったもんぢゃけ、東京から達磨さん持っ て来たち聞いてあー夢に見よった達磨ばいのーちピーンと来らしゃったつげな。「夢見の達磨ば見せて んの」ち和尚さんから言われち骨董屋の大将はビックリしたげな。

日輪寺(京町)

※久留米めぐり11

 安徳天皇が白口村でおかくれになったけ、御亡体(オナキガラ)ば笹山に納めて、京隈の日輪寺でお 供養ばせらしゃったち。そして有馬ん殿様が笹山にお城造らっしゃる時、邪魔んなるけお墓まぢ日輪寺 さん移さしやったげな。

法泉寺の猫(京町)

※筑後七、七、25

 昔、法泉寺の何代目ん和尚さんか昼寝しちゃったげな。ところが寺ん飼猫が、どっからか藁すぽばく わえち来て、和尚さんの体ん長さば計るごたるこつば何べんでんしちゃ寺ん縁の下さん降って行くげな 。そりば小僧さんが本堂ん方からジーッと見よって、あんまり不思議かけ縁の下ば調べち見たら地泥 (ヂデ)ば人間のちょうど入るくれ掘っとる。こりゃ和尚さんば喰殺してこん穴に埋むでち、なんべん でん和尚さんの体ば計りょったつばいのち思うて、打殺そでち棒持って追いかけた。ところが猫は素早 う飛うで日輪寺ん前ん秋葉神社さん逃げ込うで松の木の高(タカ)っかとこさん登ってしもた。そっで 鉄砲射の名人ば呼うで来て鉄砲で打殺した、ち言う話。

法泉寺の毘沙門天(京町)

※筑後七、七、25

キリシタン大名の小早川秀包ん時ぢゃろか、毘沙門さんの像ば見て「こげな邪神な、筑後川にホシテち 来」ち家来に命じたげな。家来やほんなこてドブーンちほたくり込うで家に帰ったところがそん晩に大 熱(ダイネツ)のさして家ん者(モン)まで熱病にかゝったげな。家来や夢で毘沙門さんから「命令と は言え理不尽な行いぢゃ、すぐ法泉寺の大榎の中に祀れ」ち、きつう言われたもんぢゃけ、フラフラし ながら昨日ホシテた岸さん行てみっと、流れもせん沈みもせんな毘沙門さんの浮いとらしたもんぢゃ け、すぐ法泉寺の大榎の影に置いて帰ったげな。そしたら不思議なこつ我が熱も引いち、家ん者(モ ン)も熱ぁ下っとったげな。大分そりからたって、もう毘沙門さんば榎の穴に祀っとっとも忘れられち しもうて、ちょうど州天和尚さんの時、寺男があんまり榎の繁っとるもんぢゃけ薪になっとしゅうち、 枝下(オロ)しに登ったところがさでくりおてち大怪我したげな。こりゃ何かん崇ぢゃろか、木の精の 崇ぢゃろかち言いよったげな。又そんあと、榎にナバん生えたけそんナバば取りょって、ようよ榎の穴 に毘沙門天さんの祀っちゃるとば見つけ、勿体なかけち鎮守堂は建ててお祀りしたげな。こん毘沙門さ んな首の無かったつか、戸田ち言う武家が夢の告げで、木像に首ば造ってハメ込んで、上から色ぬりな わしたち言う話。

狸の怪(京町)

※筑紫野民譚集459

 昔、京町の北川ち言う人ん屋敷の前に大きな榎のあった。こん榎から晩になっとパラパラ砂ば狸ん奴 が撤くち言うこつで、日の暮るっと誰でん怖(エズ)がって通りよらんぢゃった。ところがある晩急用 んあって、どうしてんそこん下ば通って行かにゃんごっなった若侍が、腕にゃ覚えんあるし、何(ナ) ーにち思うて通りかゝった。とパラパラち砂ん降って来た。ほーやっぱ噂通りばいのち思うたとたん、 こんだ目の前に垣の出来ち通られん。若侍ぁ腰から煙草入れば抜いて一服つけち、気ば落つかせ、ポン ち煙菅(キセル)ば収めたと同時右手で大刀ば抜くが早かか垣ば直二つに斬りつけた。手応えのあって バターンち垣あ倒れたが、フッち無うなって、そん後にゃ真二つに切り割られた古狸が死んどった。そ りからこっち、もう砂ふりゃ無かごつなった、ち言う話。

千代松社(京町)

※筑後一、三、4

 源平の最後ん合戦、壇の浦の戦で負け戦を感じ取った平家方は安徳天皇ば九州にお逃しするとが精一 杯の有様で、お守りする者(モン)もわずか十人ばっかり。そん中に建礼門院に仕えとった按察使局ち 言う官女も交っとった、この官女は天皇ばお守して久留米まで逃(ノガ)れち来て、天皇をお育て申し 上げよったが、天皇が若うして亡くなられたけ名ば千代ち変え尼になって御冥福ば祈った感心な人。又 平の清盛の女房二位の局ばお祀して尼御前社を建てたりもした。こん千代尼ば祀ったつが千代松社で水 天宮さんの境内にある今わの。

水天宮の御札(京町)

(一)

※筑後共七・16

 久留米でん話ぢゃなかが、明治になってんこつ。熊本ん玉名で、死んだ叔母さんが、昼の日中、裁縫 しよる座敷(ザシキ)さん幽霊なって出て来て、「後に残した子どんが心配で往生されんなおるけ、す まんが供養ばしてくれんの」ち頼だげな。「ない。供養はして上げまっしょばって主人に話すとに何の 証拠も無かと、寝とばけとったつぢゃなかかち言われますけ、幽霊なって頼み来らしゃったち言う証 ば、何かくれんの」ち言うたげな。そしたら「そりゃそげんたいの」ち懐中(フツクラ)から幽霊や紙 切れば一枚出して渡したげな。開(アケ)ち見たらそん紙切れは水天宮さんの御札ぢゃったげな。

(二)

 明治も終ごろ、久留米ぢゃなか浮羽郡でんこつぢゃが、二つになる娘ん子が、さむかったけ大火鉢で 木端(コッパ)ば燃やしょったつに足突込うで大火傷ばした。おっかさんなピンクリして、どげんした なら良かかウロゥロするばっかり。親父が思め出て水天宮さんの御札ば水つけち、火傷ん上に貼付け、 一所懸命水天宮さんにお祈りしたら、痛みのとれ、傷もちゃーんと良なったち言う。

水天宮の神剣(京町)

※筑後七、七、13

 今から二百年ぐれ前、どっからか一人でやって来た六部が、小森野に尼御前水天宮ば祀ってそん後、 篠山祇園寺の役僧になったが、祇園寺にあった五智如来の御守札の版木ばもろうて、水天宮さんの御守 札にして配ったち言う話のあるが、こりゃどうものーや。又水天宮さんの神剣も、この六部が上妻の南 長田ば夜中通りよってフワフワ出て回りょる火の玉ば柳川領ん小まか森まで追いつけち、そこにあった 祠ん中から手探りして、椿の模様ん錦の袋に入っとる剣ば見つけ、こそっと持って来た剣(ツ)ち言う が、何処ん水天宮さんぢゃい、ちーった可笑かごたる話。

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