御井町(1)   目次に戻る

湯薬師(御井町)

※筑後二、三、7

 天正十八年ち言うけ四百年ちょいと前ぐれん時、此処湯薬師さんのにきで、そらぁムゴかこつのあっ たち。こん頃は戦国時代ぢゃろけ、仕様んなかち言いや、そりまじばってん、高良山の大将鏡山安実と 佐賀の城主の竜造寺隆信と、お互に戦争せんち約束して鏡山から竜造寺の方さん自分の嫁女ば人質に差 し出しとった。ところが鏡山はどうも謀叛起して、豊後ん大友と手にぎって、こっちさん攻めち来るご たる模様ち竜造寺が聞いたもんぢゃけ、そん人質とっとった鏡山の奥方ば、佐賀からわざわざ引っぱっ て来て、高良山のお城からよう見ゆる岩井川ん此ん湯薬師さんのところ磔(ハリツケ)にして打殺した 。そりもただん磔ぢゃのうして、あんた奥方ば真裸にして恥かしめたげなたい。ほんにどげん腹ん立っ たっちゃ、そげなムゴかこつするもんぢゃなか。あんまりムゾかったけ、そん後村ん者が供養塔ば建て てやったげなたい。

自得さん(御井高良山)

※筑後一、十三25

 高良山の座主第五十五世の伝雄僧正さんな歌、読み書きもとてん出来ちゃったが、勤皇の志士とも広 う交際(ツキヨ)うて肝魂も太かったけ侍のごたるとこんあった。ある年の暮.見知らん侍が尋ねち来 て、「あるこつから武土の意地で人ば殺し国元ば遂電、方方身は隠し、流れ流れとったが僧正さんの徳 を耳にしたけん御相談に来た、僧正さへ御心に従いますけ一喝を賜り助けち下さい」ち頼うだ。よう見 るともう罪の深さば充分知って善人になろうと一心になっとるとがわかったもんで、「山に匿うわけに ゃでけん、せめて山下の清水観音堂の堂守でもして、殺した人の後生を願うたが良かろ」ち訓さっしゃ った。武士はそりから頭ば丸めち仏門に入り、殺した人の冥福ば祈るかたはら、村の者が感心するごつ 骨身借しまず働いて・雪の日も雨の日も托鉢に出た。そん無垢な姿に行く先々から自得さん自得さんち 信頼され、昼飯、晩飯ば出してくるるとこも多うなった。そのうち観音堂ば修復したら良かろち進めて くるる者も出てくるごつなった。中でん片原町の紅屋次吉ち言う人が中心になって骨折ってくれた。自 分の努力とそげなこげなの喜捨善意で何年目かには、とうとう御堂建替えが叶うた。自得は思いのかの うた御堂で懺悔(ザンゲ)供養の毎日ば送りょったが、そこ艱難辛苦何年ち親の仇ば探し求めとった若 侍がやって来て、名乗を上げち斬ろうとした。自得は「もう覚悟も出来ていつ討たれても悔はなか、こ の位碑の前で斬って下され」ち念仏唱えて坐った、参りに来とった信者達が、中に入って「まー待って 下さい、この自得さんは今日まで殺した方の供養のため、こげな御み堂まで建られて、人殺しの罪ばつ ぐないござる。どうか、掟とは言うても、この上あなたが人を斬り悪業輪回をいたさるるな」ち止めた 。若侍は気ば静め自得さんば見つめ、そん大悟した姿に討つこつば止めて、ただせめてと自得さんの衣 の袖ば切り取って国に帰っていったち言う話。

御手洗池(御井)

※翁

 高良さんの御手ば洗うて、清水で口ばすすいでそりから山に登らっしゃったち言う話で、こん池ば御 手洗池ち言う。

朝妻(御井)

※ふるさと御井二 32

 昔、弘法大師さんの此処んとこに来て、喉んばさろ乾かっしゃったげな。大方夏んこっぢゃろたい。 崖ん下ん木の葉ん積っとる処ばあせらっしゃったげなら、冷たか清水の湧き出て来たげな。そこでアセ リヅマち此処ば言わしゃったつの何時かアサヅマに変ったつげな。

不動金しばリ(御井)

※ふるさと御井二 45

 昔あ、娘が家出したり、大事なかもんのわからん時ぁ、不動さんに願かけよった。どうして不動さん に願かくっときくとかち言うと、手にもっちゃる法繩で、もうどこさんでん動かれんごつして、見つか し良かごつしてやんなさるけんげな。こりば不動金縛、ち言うとたい。そりゃ何処ん不動さんでん聞か っしゃるが、高良山の不動さんが一番効果(キキメ)んあるち言われとった。鳥居くぐって高速道路ん 下から旧参道ば三〇米も登った左手にござる不動さんたい。初手は下向(ゲコウ)坂んほんな下んとこ に祀っちゃったつば御一新の時、応変隊のバカどんが「仏様てんなんてん糞くらえ」ち谷さん突落(オ
)てとった。そりば勿体なかち村ん者(モン)が此処さん運うで祀ったつげな。願の叶うたなら鉄ん鎖 ばお礼に上ぐるもんぢゃけ、今でんばさろ御(オ)み堂ん中にかゝっとる。

お杖さん(御井)

※ふるさと御井二 50

 今から三百年ばっかり前んこつ、高良山の下に鹿児島教内ち言う信心深か人が居った。どうしたこつ か流行風邪で寝ついてしもうて、なかなか直らん。こりゃ我が信心の薄すかつばいち、いよいよ高良大 菩薩ば念じ、家ん者(モノ)も一所懸命信仰するごつなった。ある晩、夢で「おまや、よう信心するけ
、此処に来国次の名剣ばやるぞ、疑わんなこりでどげな悪魔でん打払うが良かろう」ち大菩薩が言うて 消えらしゃった。明けん朝、目のさむっと枕元に杖ん如たるとん立てかけちゃる。教内や喜うで、こり が昨夕(ユンベ)んお告げん剣か、ああ、ありがたやち拝うで、手に取るや打払うた。そりからち、言 ううもんな、こじれこじれしとった病気もどんどん良か方に向いて間ものう元気になった。こん話ば聞 いた代理座主の厨さんが、座主に報告。座主は「大菩薩の賜った物ば、町人の家に置いとくとは恐れ多 かこつ」ち、御井寺に寄進させらっしゃった。ところが、大風ん吹いたり大雨ん降ったり、又病気の流 行ったりでロクなこつぁなか。「こりゃ、お杖ば元んとこに置いとけ」ち言うお示しじゃろち座主は黒 塗の箱にお杖ば修めち、教内の家にもどさっしゃった。教内さんの家ぢゃ御太刀庫ち言うて祠ば造って 祀り、病人が、お杖ば借り来っと気持よう借してやりござった。このこつば聞かれた第五十世座主の寂 源憎正がありがたか杖の由来ば書き留めちゃんなさったげな。今残っとる書付玉垂宮御杖の記は、そん 書付が破れてしまうけ第五十七世座主亮恩僧正が書写してやっちゃっとち言う話。いーっ時前まぢゃこ んお杖さんば宮の陣辺から、サナボリすぎにゃ借り来て、病気にかからんごつお籠りしたり杖ん下ばく ぐったりしょったが、もう止うでしもて忘れられとるごたる。

高良山と武内宿禰(御井)

※高艮山物語22

 昔々、武内の宿禰大臣がばさろ天皇さんから信用されち、こん筑紫ば治めに高良山に来てござった。 大臣があんまり信用さるるもんぢゃけ弟の甘実内宿禰がやきもちやいて、「兄の武内の宿禰は筑紫で、 三韓と話合うて、謀叛起そうでちしよります」ち、あってあられんすらごつは天皇さんに申し上げた。 あんまりすらごつが上手ぢゃったけ、天皇さんな腹けーち、討手ば高良山にやって大臣ば殺そうでちせ らしゃった。そんこつば知った大臣な天皇の命令なら仕方なかち死ぬ覚悟ばしてござったところ、壱岐 真根子ち言う、そりゃ大臣に瓜二つの家来が「大臣がもし此処で討手に殺されでもしなさったなら、甘 実円がそん後どげな謀ばして、天皇さんばやっつくるかわかりまっせん、嫌でん弟の甘実内のすらごつ ば天皇さんにわかってもろうて、日本の安泰ば計って下さい。もう直(ヂキ)討手が来まっしょけ、私 が大臣の身代りなって自殺します。そっで早よ都に登ってはっきり無実ち言うこつば天皇さんに申し上 げて下さい」ち言うて、ほんなこつ自殺した。大臣な討手が来る前、高良山ば出て、都さん登り天皇さ んに無実であるこつば申し上げらしゃった。天皇さんな兄弟ば向い逢わせち、どっちが本なこつか調べ らっしゃったが、どっちも言い分は曲げんもんぢゃけ、探湯(クガタチ)で神の裁きばして、大臣の言 うとかほんなこっちはっきりした。そりから大臣な晴れて又高艮山に来て筑紫ば治めらっしゃったち言 う話。

妙見神社(御井高良山)

※ふるさと御井二 56

 今から九百年ぐれ前、国府の役人に岩田ノ澳磨呂ち言う人が府中に住んぢゃった。永いこつ眼ば患う ち、医者にもだいぶん通うち養生しござったばって一こうに良うならん。あすこん医者、此処ん目薬ち そりゃいろいろやってみたが良うならんもんぢゃけ、高良山の尋覚ち言う、舜覚少僧都の一番番僧さん に相談せらしゃった。尋覚さんな話ば聞いて、「そげん養生して良うならんなら、もう妙見菩薩の仏力 におすがりするよか他にゃなかろ。一心にお願すりゃ、必ず願ば聞いてやらっしゃる仏様ぢゃから疑は んな妙見菩薩に参りなさい」ち教えらっしゃった。そりば聞かれた澳磨呂は三ん七の二十一日間、一心 不乱に菩薩ば念じて、五十万回の読経ばせらしゃった、万願の夜明前、ついウトウトした時、妙見菩薩 がお出になって、右の御手で眼ばさすってやらしゃった夢ば見た。ハッとして眼ば覚ましたら、何と目 はりっぱにようなっとった。何見てん鮮明(ハッキリ)、木も鳥もはっきり見ゆる。さっそく澳磨呂は 菩薩の御像ば刻んで、御堂ば建ててお祀り申し上げた。御堂の落慶式は嘉保の二年八月十一日ち書いち ゃるげな。そりがこの妙見さんの起りげなたい。

馬蹄石(御井)

※高艮玉垂召神秘書122

 むかし村々がどげなくらしむきになったぢゃかち思うて、山ん上から高良(神)さんな馬ん乗って、 一足飛(イツソクト)び下りてこらしやったげな。そん時、馬ん後足が旧参道ん九丁目附近の石当って ポコッちホゲたげな。そりからこん石ば馬蹄石ち言うごつなったちゅう話。

袴着天満宮(御井)

※ 筑後二、五16

 菅原道真公が太宰府に流されて来らしゃって、どうかして無実の罪ば晴そうでち、こん高良山に願か けに登らっしゃったつが延喜元年ち言う。千年以上前たいの。道真公は太宰府ば出るとき人目につかん ごつ普通ん者(モン)のごたる姿で此処まで来られち、此処で着物着替え袴ばつけち参らっしゃったが
、そん時ここん石の上に指で天ち言う字ば書いて、この文字が消えんなら.決らず我が無実の罪なるこ とがわかるであろうち言わしゃったげな。あとで此処に神社ば造って袴着の天満宮ち呼ぶごつなった 。

矢取(御井)

※篠原稿

 神功皇后さんに従いて武内宿禰さんが敵ば攻めござったら、あんまり敵が強かもんぢゃけ持っとる矢 ば射尽してしもうて困らしゃった。そこに白髪白衣の老人が敵の方から宿禰さんの矢ば拾い集めち来て 宿禰さんに差し出して消えた。宿禰さんな弓矢八幡大菩薩の御助けち喜うでその矢ば使うて戦に勝たし ゃった。そっで凱旋して来てすぐ神社ば今ん矢取の何処かに建てて矢取大明神ば祀って感謝せらしゃっ た。こりが矢取の名の由来げな。矢取ち言う名のほかにイシバシちもあるが、こりゃ坊ノ津街道筋ぢゃ ったけ高良川に石橋のかかっとったち言う意味ぢゃなかろか。  (翁)

高隆寺(御井)

※高艮山物語36

 高良山なもともと神さんの社ぢゃったが、千三百年ばっかり前、阿曇多知尼の乙女に仏さんの乗りう つらっしやって「仏法を信じて仏教ば伝めろ。この仏教の功徳は無限である。お寺を建てち、仏像を祀 れ。寺ば建てる場所はこ処んにきにある」ち隆慶に知らせらっしゃった。又隆慶も夢のお告げで、家来 の者どんと力ば合せち、藪ば切払い、林ば開いて、岩ば除け、平地ば造り、そこにお寺ば建てらっしゃ ったが、そん時、隆慶の家の東北に珍らしか光りが見えたけ、尋ねて行くと光よる霊木が一本あった。 そっで仏像ば造ったが、開墾しよっときー寸八分の黄金の仏像も拾うた。そげなこつ、こげなこつで高 良山にも初めちお寺ん出来た。そん寺ば高隆寺ち言う。

不濡山(御井高良山)

※高良玉垂宮神秘書134

 今から千百年ぐれ前、光孝天皇さんが太政大臣の褸(フサ)継ばお使者にして、高良さんの、御祭礼 ばしなさった。そん時ばさろ雨ん降ってこん高良山も大雨ぢゃたが、どうしたこつかお使者の通らっし ゃる道ぁ、いっちょん濡れとらんぢゃった。お使者はこん不思議なこつば天皇さんに申し上げてそりか ら高良山ば不濡山ちも言うごつなった。

琴引ノ宮(本宮)

※高良玉垂宮神秘書134

 高良神社ば琴引の宮ちも言うが、こりゃ今から七百年ばっかり前、隣ん国の元が日本ば攻めてくるご つぁる模様ぢゃけ、亀山天皇さんが全国の神社二十三社にお使者ば出して、国家安全、敵国降伏ば祈ら っしゃった時、こん高良さんにも太政大臣どんばやらしゃった。文永十年の十月三日んこつ大臣どんが 一所懸命社殿でお祈りしよらしたら、御神殿の方から、静かに琴ん音の流れち来た。祈りば聞いて下さ ったっぢゃろち皆ありがたがって、天皇さんに申し上げた、そりから琴引の宮ちも言うごつなった。

お仙が塚(御井) 

※媼・ふるさと御井一 17

 高艮山座主麟圭の家来に錦江ち言う山侍(サムライ)が居った。麟圭の片腕ち言わるるやり手で高良 山の麓に屋敷もって手下もうんと居ったが気の短うして皆からはエズがられとった。ある日この屋敷に お仙ち言う娘が行儀見習ち言うこつで女中に来た。お仙な器量も良かが、気立もやさしか上、働き者ぢ やったけ、いっ時すっと下男からは勿論、同僚の女中達からも可愛がられよった。夏の焼きつくごつァ るあつか或日お仙な錦江ん隣部屋ん掃除ばしょった。と思いもかけん夕立のザーッと来たけ、急いで縁 からそこん庭下駄つっかけち洗濯物はぬらさんごつ取込み走った。干物(ホシモン)ば取り込うで来た 時、意地悪の茶坊主が庭下駄ば見つけ「はいとる下駄は、どなたのもんか知っとるか。こん無礼もんが
」ち大声あげちおごった。そん声で錦江が出て来て茶坊主から有るこつ無かこつば聞いて、カーッとな って「そげんこん下駄がはきたかなら一生はいとくごつしてくるる」ち、ムゾなげ泣いてことわり言う お仙ばひっつかまえち、ぬいどった下駄ばはかせち、足の上から五寸針ば打込うだ。そん悲鳴に女中も
、下男も飛出して来たもんの、こん様ばみて目ばつぶった。「おまい達も殿様ん物ば勝手に使うとこげ んすっぞ」ち茶坊主がおろだ。お仙の足ぁ赤か血で染って、倒れち起りきらん、顔は真青.いっとき肩 で大きな息ばしょったお仙がスッと立ったかち思うと、よろめきながら茶坊主と錦江が話しよる座敷に 血の下駄んま上って行て「余んまりしたこつ。この怨は七代まで祟って思い知らすぞ」ち鬼のごたる形 想でにらみつけた。茶坊主も錦江ももうたゞガタガタふるうばっかり。口もさけ、目もさけたち思わる るその形相のまゝお仙な身ばひるがえして井戸に飛び込うだ。引上げられた死体ば受け取った女御(オ ナゴ)親は「あんまり、あんまりしたこつ。お仙本に痛かっつろ、くやしかっつろ。こん怨ぁ七代どこ ろか錦江の家んつぶるるまで崇り殺して晴せ。おまいが力で出来んなら俺も加セする。どうか崇るしる しば見せちくれ、こんいり豆に花ばさかせちしるしば見せろ」ち泣(ネー)てお供えに上げたイリ豆ば 外さん撒いた。そりから不思議なこつの次々起った。錦江が子供が気狂(キチゲ)になり、茶坊主が生 れ在所にゃ悪か病気のはやって、お仙が塚にまいたイリ豆からは、芽ん出て花ん咲いた。ムゴかこつさ れた怨、執念ちゃ恐しかもんで今でん錦江ん家にゃしゃっち気狂(キチゲ)ん生るるし、悪か病気や一 番初めに茶坊主の在所に流行るち。

座主麟圭の幽霊(御井高良山)

※篠原稿

 今から四百年ばっかり前、久留米の殿様小早川秀包にあんまり盾つくもんぢゃけ、邪魔者は殺せち言 うこつで、高良山の座主麟圭やだまし討されたが、よっぽど無念かったつぢゃろ殺された麟圭の墓から 鬼火の出るちゅう噂ん立った。そん頃三井寺んお和尚さんな墓の上にはえとった松の木の枯れたもんぢ ゃけ、切り倒させち薪にせらしゃった。ところがその晩、山侍の久保田の嫁御が留守番しとっと、表で 人声んするけ戸ば開けたら、赤か法衣ば着た坊さんが立っとった、「何故(ナシ)松ば切り倒したか、 ありゃ大事か松ぢゃったつに。不届千万(フトドキセンバン)」ちとてんやかましゅ言う。嫁御は、主 人が留守ち思うて狐か狸の悪さしよっとぢゃろち戸ばピシャッと閉めち、狭間んコからじっと見たら、 坊さんの姿は消えち、墓んとこに大きな赤か火の立ちのぼった。朝帰って来た主人にそんこつば話し、 三井寺に話したところ和尚もびつくりしてすぐ坊さん達ば連(ツ)んのうてお墓に参り供養した。そり からぷっつり墓からは火の玉は出らんごなった。

安養寺の阿弥陀像(御井)

※筑後二、三7

 行基菩薩つぁんな日本中ば回って、橋の無かとこにゃ橋ばかけて皆の便利ば計り、又堀ば掘ったり堤 ば築いたりしちゃ干魃から農作物ば守ってやり、そん傍、仏の慈悲ば話して教えば拡めなさった。御井 町安養寺の本尊さんなこの有難か行基菩薩のお刻みなさった阿弥陀さんげな。

東光寺の本尊(御井)

※ふるさと御井二  58

 今から九百年ぐらい前、高良山十四代の座主安邏僧都に実邏ち言う学徳申し分のなか、しかも情深か 御弟子さんの居らしゃった。ある時布教ばすまして筑後川ば舟で帰って来よったら「俺ば水からあげて くれ」ち言う声ん何べんも聞えち来る、実邏は空耳ぢゃろち思うとった。舟ん者なエズかったが、もう すぐ岸に着こうかち言う時又「あげてくれ」ち水の底からはっきり大きな声ん聞えた。不思議に思うて
、川ん中ばよう見たら仏さんの見えたもんぢゃけ、今んとはこん仏の声ばいのち、すぐ川に入って抱え 上げち、高良山に帰って座主にお話した。「おまいが情深かけ仏がお頼りなさったっぢゃろう、大切に お祀せろ」ち座主が言わしゃったけ、岡に草葺の小まか庵ば立てゝお祀りした、こりが東光寺の始めげ な。

北院の薬師さん(御井高良山)

※高良山古代史年表

 今から千二百五十年ぐれ前、こん筑後も肥前も悪か病気の流行ってバタバタ死ぬもんぢゃけ、座主の 隆慶上人が救世妙法で、薬師如来の御像ば刻み、北院に祀って悪疫退散を祈らしやったところピシャッ と病気の止まってしもうたげな。

行倒れの観音(高良山観音寺)

※高良山の史跡

 高艮山八ケ寺の一つで、此処ん観音さんば、行倒れの観音ち言うが、どして言うとか今はちょいとわ からん。

高良山観行院の虚空蔵菩薩(御井)

※高良山の史跡

 今から千百年程前の貞観年間に高良山座主八世の宗照の門弟隆鑑法師が、求聞持法の百日間の業ばし とる時に.はっきりと見えた虚空蔵菩薩の御姿ば写し彫りにして安置しただけあって、観行院の菩薩は なかなか御利益のあるち言う噂ぢゃった。 

高良山宝蔵寺の観音(御井)

※高良山の史跡

 今から八百三十年ばっかり前ん話、高良山第二十一代座主の順覚上人の高弟聖覚坊が、肥前の平戸港 に衆生済度の旅で立よった時、港の人で笠縫部の磯見磨と言う者(モン)が、ある夜(バン)海中に光 る物ば見つけ、掬い上げち得た観音聖師の御像ば、夢のお告げで高良山に安置したかち申し出たけん、 はるばる高良山に持って帰り宝蔵寺にお祀りした。御利益あらたかな仏像。

汚れずの仏像(御井高良山) 

※高良山物語羅

 延宝三年の四月一日ち言うけ三百年ぐれ前になるが、こん時ぁ三日三晩大雨大風ん続いて、山から流 れ落る水ぁ滝の如っなって、高良山の寺々は敷石の流れち堂の傾いたり、こき倒れたり中にゃ山崩れで 泥に埋まってしもうて、そりゃもう目もあてられんごつなった。お経さんも記録も泥ん中に漬って、ど こから手つけて良かかわからんごつぁった。ばって不思議なこつ祀っとった仏像はどん寺んとでん泥に 埋っとつてん、いっちょん汚れんな、傷みもしとらんし、こっだけん災害ぢゃっても坊さんな一人も外 傷(ケガ)しとる者なおらんぢゃった。見に来た寺社奉行ん侍も、誠に奇特なこつぢゃち殿様に報告し た。

高良山の怪事(御井)

※南筑国民騒動実録

 今から二百二十年ばっかり前の宝暦四年の二月になって高良山に不思議なこつの起った。夜中になっ と山ん上に真昼間んごつ何千何百ち言う提灯、松明のとぼって、木ち言う木にゃ白旗、赤旗ん何千何万 ち立てられち、風に吹かれとる。そりゃ恐しかごつあった。そして、耳の破るるごつぁる声ん饗いち来 る。役人がいそいで山さん調べに登っと、全然何んも見つからんし聞えもせん。そげんか事の十日間も 続いた。不思議ぢゃ不思議ぢゃち言よったところ、今度(コンダ)十五日頃から各郡に十才にもならん 百姓ん男ん子が、取ッつかれたごつ「俺は高良玉垂宮の乗移っらっしゃたつぞ。この三月に入ったなら 久留米ん領民な全部力合せち立上れ。立上ってここんとこ何年ち無茶な税金ば取上げとる郡の役人たち ば踏潰し、殿様ん力ば笠に着て、我々の上前ばはねち金持なっとる商人どんばやっつけろ。十五日もし たなら昔んごつ平和になって騒動は収まる。殿様ともあろうもんが、我が遊ぶとこ作っとに、こん神聖 な山ん大木は、どんどん切倒してしまうちゃなっとらん。上が上ぢゃから下が悪かこつするのぢゃ。こ りから世の中を正すため百姓は全部立上って戦え。俺の言うこつがしらごつかどうか、よーと見ろ」ち 大声で言うて、側にあった、五十人ででん動かしきらんごたる大きな石は軽々持上げ押し上げポーンち 投上げた。そして二丈ぐれピーンと飛上って、がばっち倒れち気失うてしもうた。こりば見た者なもち ろん、この話ば聞いた者も、どうもこりゃ何か起るばいち心配したが、一村だけに起ったこつぢゃ無 うして各村々にこげなこつぁあった。こん神懸(カミガカリ)り、高良山の怪事んあってからすぐあん 有名な宝暦一揆ん起った。

Copyright SNK, All Rights Reserved.