御井町(2)   目次に戻る

高良山神火去来(御井)

※石原家記下19

 享保二年ち言うけ、二百六十年ばっかり前ん六月の朔、高良山の御神輿が瀬ノ下に着かしゃったら、 その晩火の玉ん太かつの高良山から出て、ずーっと篠山んお城の上さん飛うで来て、そりから瀬ノ下さ ん行て又高良山の方さん戻り、又来たり何べんかしよって、しまえにゃ御神輿の乗っとる御座舟ん上 に、留っていっ時グルグル舞いよったげな。そうこうしよったらスーツと高こ上って一気に高良山さね 戻って行たげな。こげなこつぁ他所にもあったこつで、秋葉の魔火ちゅうて、遠州にもあるごつ耳袋ち 言う本に書いちゃる。

高良山の一つ火(御井)

※北筑雑藁 12

 高艮山な不思議なこつの多うある山ぢゃが、昔から一つ火ち言うて、晩になっと手毬(マリ)位ん火 の玉ん、上ん神社んにき出て、そりからフワフワ飛うで山んあすこ此処さね行くげな。御一新の頃だん
、とても忙しゅう山ん中ば飛うで回り裏ん耳納山のにきまででん飛うで行きよったげな。こりゃたぶん 高良さんが山ん木ばとても大切しなさるけ、下の神が晩になっと盗まれんごつ見回りしござっとぢゃろ ち皆言よったげな。

肥後に通じとる高良山洞穴(御井高良山)

※篠原稿

 高良山から二十里ばっかり離れとる肥後の迫間川ん上、鳳来んそばの大岩ん下に洞穴んあるが、あん まり奥の狭もなって深かけ誰でんどこで終えとるか知らんぢゃった。ある時白か鶏ば一羽追込うで見た ら、そりぎり出て来んぢゃったけ、こん穴はどうなっとっぢゃい、やっぱ分からんばいち言う話しなっ た。ところがそん鶏が高良山の洞穴から、ひょくっと出て来てコケコッコーち、いさぎゅう鳴いたもん ぢゃけ、こりゃ肥後ん穴と高良山の穴は続いとるちわかったげな。高良山の中腹に御天ち言うとこんあ って、其処にまーだ誰でん入ったこつのなか洞穴んあるが、こりゃ座主が殺された時、その魂が掘って 中にかくれたち言われとる。

独鈷水(御井)

 高艮山座主即心が、山士達の飲料水に困っているのを見かねて、祈念して独鈷で岩を打ち砕いたとこ ろ清水が岩の下から流れだし尽ることなく湧き出た。山士達は法の偉力に頭を下げ、この泉を独鈷水と 呼んだ。即心は極楽寺を再興した人である。

勝 水(御井)

※筑後三、一 20

 福童原の合戦に負けた懐良親王の軍勢は、高良山に陣取って南朝の勢力挽回を計ったが、北朝の侍大 将了俊に夜昼なしに攻められち、八百人ばっかりが討死してしもうた。敵の今川勢も三千人以上の兵力 ば失うたが、猶高良山を攻め立てて来る。こっちは大将ん菊池武光も死んで、わずか十二才の菊池賀々 丸が侍大将で軍勢も減ってしもうたいま、とても今川勢に勝つこつは難しかと思はれた懐良親王は最後 の合戦で、全員討死の決心をされた。菊池一族、それに残った武土たちば集められて別れの杯をなさっ た。陣中で酒は無かけん、毘沙門獄の奥に湧いとる清水を汲んでの水杯。皆がさー、いさぎよう討死し ようちその杯を飲み干した時、どうしたこつか今まで十重二十重に高良山ば取り囲んどった北朝今川勢 が、さっさと太宰府さん引上げ始めた。稲の穂の色づき始めた筑後平野ば太宰府さして幟幡(ノボリバ タ)ば秋風に踊らせながら、ホラ太鼓ば鳴らして引上げて行く。懐良親王はこりば見て天の助け地の助 けち喜ばれ、こりも一重に毘沙門天の御偉力と感謝され、別れの水杯に汲んで来た谷の清水ば「今から 勝水と言おう」ち一喜こびなさった。

瀬戸坂(御井)

※高良玉垂宮神秘書132

 高良さんが、天から下りて来られち高良山に登って行こうでちせらしゃったら瀬戸坂で、高牟礼の神 さんが立ちふたがって、「昔からこの山は俺のもんで、俺りゃず一つとここに住んどる高牟礼ち言うっ ちゃが、誰ことわっておまや登っとか。こりから一歩でん登らせん」ち恐ろしか剣幕で両手拡げち止め らしゃった。高良さんな、びっくりして、「俺は天照大神からの命令で高良山に登って、こん筑紫の国 ば治むでちしょる、高良の神ぢゃ」ち言わしゃった。「ふてーこつ言うが本なこて大神さんの命令なら
、そん証拠ば見せろ」ち高牟礼の神さんな言返さっしゃった。「よし良うと見とけ」ち言うが早かか馬 に一鞭くれ二足飛び頂上さん上ってしまわしゃった。高牟礼の神さんなアッケにとられちもう何も言わ んな高良山の上から下ん方ん今とこに家ば移って住わっしゃった。

愛岩山の山鳴リ(御井)

※筑後二、七15

 昔ち言うて文化十年ぢゃけ百七十年ぐれ前んこつ。朝妻で久し振り明日(アシテ)から七日間芝屋ん あるち言うこつでどこん部落でん町屋でん楽しみして弁当ん用意忙しかった。春も三月桜は散ったが、 もう麦野にゃ雲雀の上り鳴きしとる時ぢゃけ、そりゃ浮き浮きで、矢取部落もそうよ、見げ行くとこに なっとった。ところが部落の肝焼さん達三人が三人ともそん晩、愛宕さんのゴォーゴォ山鳴りしよる夢 見たもんぢゃけ、こりゃ何かあるち考え、折角弁当ん用意も出けとったつば、「矢取ん者な今日ん芝居 見にゃ行ちゃでけん」ち早や触ればまわした。ぶつぶつ若者(ワケモン)だん言うたばって、村世話人 の言うこつぢゃけ聞かんわけにゃいかんけ、矢取からは一人でん見に行かんぢゃった。忠臣蔵かなんか ん演しもんぢゃったろ、大人満員で札止の大盛況んところに、楽屋から火の出て、見物人が我先き立上 って狭まか木戸口さん逃ぐっとば包こむごつ、あっち言う間に火の回って、蓆(ムシロ)席仕立ん芝居 小屋ぁもう火の海になり、囲の竹矢来で逃げ道ぁなし折り重なって、阿鼻叫喚(アビキョウカン)とう とう何十人ち死人の出て、そりゃ傷人(ケガニン)は何百人ち言うこつで、えらいこつなった。明けん 朝矢取ぢゃ部落総寄りばして、「矢取あー人の怪我人も出さんぢゃったが、こりゃ愛宕さんのおかげ、 今日はみんなで愛宕さんにお礼参り行こう」ち、大人は勿論、赤子まぢ抱いてお礼参りに行ておこもり した。そりからこん火事のあった三月十一日ば「愛宕さん寵り」の日にきめち毎年部落中がお寵りする ごつなったち言う話。

神籠石(御井町)

※翁・三井めぐり63

昔々、こーんにきゃ毎日々々大雨大風で、山抜け、山潮、それ大水ん続いて、ようよお天気になった時 ぁ家はクズレたり、流されたりして田ん中は砂泥、それ岩んごろごろして稲植ゆる段ぢゃなかった。百 姓だん困って高良さんに頼み行た「もう田植もすぐせにゃん時季になりよりますとに、とてんこりば元 んごつすっとにゃ何年何十年ちかかります。どうか神さんの力で助けち下さい。」そこで高良さんな天 さね行たて、鬼どんば連れち来らしゃった。そして鬼どんに「一ヶ月でこん広か筑後ば元んごつせろ」
ち命じらっしゃった。鬼だんハイち言うが早かかもう大きな石てん、流れ木てん、小石か箸切ればあつ かうごつして片付け始めた。一段ぐれん田ん中ん泥てん砂てんな、手で掬うごつして立派に元んごつす る。鬼だん一服もせんな働く。晩になったっちゃ止めんな働く。百姓だんもう感心するばっかり。そげ ん働くもんぢゃけ一ヶ月位かかるとがたった四日で終えっしもうた。立派に元んごつぁる筑後に、片付 いてしもうた。高良さんなよろこうで鬼どんに「ありがと、ありがと、きつかっつろ、早よ天さん戻っ てゆっくりしてくれ」ち言わしゃった。ところが鬼の大将が「高良さんも知っちゃるごつ、私だん夜昼 働えて一ヶ月のとこば四日で仕上げました。そっでまーだこん筑後ばゆっくり見物しとりまっせん。天 にゃ一ヶ月ち言うて下って来とりますけ、そりまぢゃここに居らせちもらいます」ち言うた。高良さん な、そりもそうたいち思われち許さしゃった。ところが鬼だんおとなしゅうしときゃ良かが、村ん者に 酒飲うぢゃ喧嘩吹っかくる、女ゴん子にゃわるさする、うえとる野菜やふんたくる。もうのぼせ上って
、それ文句どん言うなら、誰がおかげでこん荒地ば立派にしたつか恩知らずち、猶わるさする。とうと 百姓だん高良さんに言いあげた、高良さんな鬼どんば集めち「一ヶ月つぁ良かち言うとったが、こげん わるさすっなら天さん帰れ」ちおごらっしゃった。鬼だん鬼どんで「寝っとこでん定(キマ)っとらん け、わるさするとです。どうか、こん高良山ば私どんが寝っとこに下さい。そすっと悪さは絶対せんな おとなしゅうして又百姓どんが困っとっ時ぁ加勢します」ち言うた。どうせ一ヶ月ぁ居って良かち言う た手前、こりゃ何んとか考えぢゃこてち思われた高良神(サン)な、武内宿禰とコソコソ相談されち、
「うんそりゃこん高良山ば寝っとこにして良かろ。ばってちゃーんと場所ばきめにゃでけん。そんため にゃこん高良山の廻りば三人抱えの大石で囲うでそん囲の中に居るごつせろ。そしてそん石囲は今夜中 に作れ。あすなさ一番鶏の鳴くまでに作りきらん時あ、そんまま天さん戻れ」ち言わしゃった。鬼だん そりば聞いて喜うだ。こん山ば石で一回りするくれんこつなら朝飯前ち。さー鬼だん一所懸命、石ば運 うで来た。高良さんも武内宿禰も、「いくら鬼でんヒトバンでこん山ば石囲いするこつぁ出来ん」ち思 うて寝らしゃった。ところが、山番が飛うで来てまーだ暗かつにもう大方石囲いの終ろでちしょります ち知らせた。武内宿禰は高良さんと何か話ばして大きな団扇ば持って来らしゃった。そして高良山のて っぺんに行って団扇ばバタバタさせながら「コケコッコー」ち大声で鶏の鳴きまねせらしゃった。そり ば聞いた鬼だん「あっりゃ、もう夜の明けたつか」ち言うて約束のごつ、天さん戻ってしもうた。そっ でこん神籠石あ途中まぢで切れちつながっとらんとたい。

背くらべ石(御井)

※翁・豊国筑紫路の伝説68

 今から千七、八百年ばっかり前の話。九州征伐に来られた仲哀天皇さんが筑前でのうなんなさったけ
 、そんかわり皇后の神功さんが筑前から道々、賊どんば征伐して筑後に進うで来らしゃった。いよい よ山門の大将田油津姫ば征伐せにゃんが、あいてがとても強かもんぢゃけ家来の中にゃ戦う前からえ すがる者が出けち来た。大将ん家来の武内宿禰も、この調子なら勝ちきらんか知れんち思うち、神功 皇后に「今までん賊よりか、とてん強かけ、よっぽど用心ばして戦わにゃ勝ちきりまっせん、家来ど んが勇気だすごつして下さい」ち言うた。そりから皇后さんな家来全部ばつんのーて旗崎から高良山 のてっぺんに登られち、天の神地の神に祈らしゃった。そうして山ば下りょんなさった所が登っ時ぁ 無かったつに道にいっちょ石の立っとる。神功皇后さんな喜うで、全部の家来に「今ここに神のお示 (シメシ)が出てきた。この石よか、あたしの背が高っかったなら戦いに勝つが、低かったなら負く るち言うお知らせぢゃ」ち大声で言われた。家来だん石の方が高っかしとてん皇后さんが背くらべで 勝ちゃなさらんち思うたが、皇后さんなそん石と背くらべせらしゃった。ところが皇后さんがその石 の所に行かしゃったら高っか石がスブスブっち低うなって皇后さんがチーッと高こうなった。高こう ならしゃったら石ぁ沈むとば止めた。さー家来だん、そりば見て神々が自分達ば勝せちくれなさる、 こんならよーしうんと戦うぞち勇気ば出した。そげんして山門の田油津姫ば征伐に出かけられたち言 う話。こん背比石ぁ高良山旧参道ん馬蹄石の上んにき今でんある。

府中与市(御井)

※初手物語198

 今から二百五十年ばっかり昔のこつ、府中にそりゃ走っとの早ようして、腹にちょいと一巻き巻いた 晒布一反分の余りば地土(ヂデ)につかんごつ、ず一つと引っ張って走り、とてん評判者の与市ち言う とが居ったげな。仕事も何ーにんせんな毎日ブラブラして暮しよったけん、誰でん不思議がっとったげ なりゃ、あっ時福岡藩から久留米藩さん「この者、当福岡藩内にてあまた盗みを働き、去る夜、盗みの 現場を取り押えたり。名を尋(タダ)すに貴久留米藩内府中に住い居る与市と申す故送り届ける故、処 分されたし」ち与市ば引渡さっしゃったげな。そっで与市ぁおしおきのさらし首になったげなたい。与 市ぁ走っとん早かつば良かこつにして、晩な遅ーまぢ近所ん者と遊うで、皆が寝てしもうちから、韋駄 天走りして福岡さね行て盗うぢ、又チュウヤクリクリ久留米さん走って戻って来て、朝んなっと知らん ふりして起って遊びょったもんぢゃけ、近所ん者な、盗人てんなんてん、いっちょん思わぢゃったつげ な。

耳のある白蛇(御井)

※篠原稿

 今から三百年ばっかり前の話。高良山座主の寂源さんがいつもんごつ中の谷ば通りござったら、四、
五寸ぐれん白蛇が前ん方ばチョロチョロして行く。ジーッとしゃごうで見っと頭に耳のついとる。こり ゃ珍しい蛇ぢゃ仏の使いかも知れん。万一鳥獣にとられたら大変ち思うて衣の袖に入れて寺さね持って 帰らしゃった。寺の庭なら大丈夫、ところが一ッ時したら今まぢとても良かったお天気が黒う曇ってき たかち思う間ものう天の底ん抜けたごつ大降りの雨になって風まで出て来た。ひどなった雨風も小半刻 ばっかりでさーつと止んで晴れち来た。白蛇はどげんしとるかち庭ん方ば見っと、何と満水になった水 盤の中から湧き上る雲に乗って天さね昇って行きよっとこじゃった、ち言う話。

高良山の大牛(御井)

※筑後二、七15

 誰でんまーだ見たこつぁなかばって高良山にゃ、そりゃぁ太か牛の一匹住みついとるげな。晩になっ とノソー、ノソー山ん中ば歩きまくって朝方になっと目につかんとこに入ってしまうげな。そげん太か 牛の居っちどうしてわかるかち言うと通った跡んちゃーんとあるげな。木ん枝のおしょれとって草でん 牛の踏んでいったとこはずーっとたおれとるげな。昔の話たい。

馬ん目抜き鳥(御井)

※高艮山物語115

 江戸ん者な生き馬ん眼ば抜くち言うが、こん筑後にゃ、そげなムゴかこつする者な一人でんおらん、
が昔から高良山にゃ夜中に馬ば襲うち目ん玉ば抜き取る鳥りんおるち言われとる。ほんな名はシイち言 うて、夜中になっと柿ば食う。そして厩ん馬ば見つくっと目ん玉ば食う。こりがあっち言う間んこつげ なけどげんも防ぎょうんなかげな。そっで府中一帯ぢゃ厩ん側(ソバ)に柿ば植ゆるもんぢゃなかち言 うて、ほんに柿の木ばきらうたもんたい。そりばってんもう馬飼うとる者がおらんごつなったけ、そげ ん柿の木ばいやがるこつも無うなったたい。

金明竹(御井)

※翁・ふるさと御井二 61

 高良山に黄なか孟宗竹んごつある竹ん生えとるが、こん竹は日本が外国と戦争すっ時こげな色に変っ て、新しか竹ん黄なかまま生ゆる数だけ戦争は続くち言われとった。一本が一年で勘定するとげな。日 清戦争ん時も日露戦争ん時もそげんぢゃったちゅう話。大東亜戦争になってからはどんどん生えち今あ 大藪のごつしげってしもうとるが、戦争はしまえっしもとっとにのーや。な、こん竹ば金明竹ち言いま す。

高良山杉の祟(御井)

※篠原稿

 高良山の杉ば伐って家ば建っと、かならず崇のあって、火事なったり、材木のあえかかって死人、怪 我人の出たりしてろくなこつあなか、そっで高良山の座主ん部屋に「青山の木々の梢を伐るならば、人 の梢はあらじとぞ思う」ち言う歌でいましめた額のかかっとる。勿論高良玉垂の神の詠ましゃった歌ち 言う。こりゃ町別当ん酢屋権兵ェの話。

高良大明神の鞜(御井)

※筑後二、七 15

 昔々、高良玉垂の命が、もうこん世で、みんなにしてやらにゃん事ぁ全部して終わっしゃったけ高天 が原に帰んなさっ時、いつも履いちゃった鞜ば奥の院の大杉ん根元に置いときなさった。そっで皆(ミ ンナ)がこん鞜ば神様の身代りにして奥の院に小まかお社ば造って祀った。こん鞜ぁ今は高良神社の宝 物庫になわしちゃるち言う話。

高良山の鎧(御井)

※筑後二、三11.同二、七15

 高良山にゃ昔から高良大明神の天から着てこらしやった神の鎧ち言うとんあったげな。こん鎧やちゃ ーんと神社の宝物庫に入れちゃってん、外国と戦のときゃ、見えんごつなるとげな。高良さんの我が身 にこん鎧ばつけち、白か馬に乗って戦いの加勢ばせらすけん、目にゃ見えんばって、出て行かっしゃる 晩な馬ん足音んはっきり府中にでん聞えたち言う。惜しいこつこん鎧や島津が高良山ば焼打したときわ からんごつなったが、いっ時して彦山に有るち知らする者のあったけ、寂源座主さんが返してくれち彦 山に相談せらしやったら三百両払うなら戻シまっしょち言う返事ぢゃったけとうとう諦めらっしゃった げな。

船釘の神剣(御井町)

※筑後志104

 むかし豊後に紀ノ新太夫行平ち言う有名な刀鍛治がおったげな。ある日んこつ、とても品の良か、り っぱな、小姓が一人訪ねち来て「私は遠い筑後一ノ宮高良玉垂の神の使いの者だ。今日はるばる参った のは他でもない、一振の利剣を神が欲しておられるので是非鍛えてもらいたいからやって来た。筑後に も有名な刀鍛冶はおるが、我が神玉垂の命は、もとをたどれば紀姓の出である、あなたも又その紀姓を 名乗っている。それ故神は同姓のあなたに望まれたのだ」ちおごそかに言うたげな。頭下げたまま行平 は、「おぼしめしはありがたいかぎりです、が残念なことに、今私の手元には御剣を造る程良い黒鉄 (クロガネ)を持ち合せておりません、誠にお望に添えないことがくやまれます」ち申し上げたげな。 そりば聞いて小姓は残念がりながら又来るであろうち言うて帰って行ったち。そりから何日かたった朝 方、言うたごつ又小姓が尋ねち来たげなが、こんだは、ばさろ古うなっとる船釘ば一ペ差し出して、 「良い黒鉄が無かなら、この鉄を使うて刀を鍛(ウ)ったが良かろう」ち一言言うたげな。行平ぁ神様 のお望ならばち、三、七、二十一日体ば清めち、一心不乱、そん船釘ば材料にして刀ば造ったげな。そ うして見事な一振の刀ば鍛え上げち、その小姓に渡したち。こん剣は高良さんの御神宝の一つになって 今でんあるげなたい。

万福長者(御井町高良山)

※老人大学生

 昔々、肥前の神埼に、そりゃぁ高良山ば信心する百姓が居った。その日暮しの水飲み百性で、やっと らこっとらくらしていきよったが、そん中からほんなチビッとずつばって、おさんせんに貯めちゃ毎年 六月一日の兵子かき祭に持って参りよった。ある年の六月一日いつもんごつお賽銭もって筑後川んとこ まで来たらわるさ坊どんが五、六人よって打殺せ、皮ばむけち、何んか囲うでそうどしよる。よって見 てみっと、小まかクチナワばつかまえて竹で突っこくりょる、赤かクチナワはもうぐったりなって死の ごたる。百姓はムゾなって、「そげなこつしちゃでけん、クチナワでんそりゃ珍しか赤クチナワでまー だ子供ぢゃねーか。さー銭ばやるけ、俺売ってくれ」ち、そん赤かクチナワば買うち、「今からこげな 子供どんに見つからんごつ草ンかげおらにゃんぞ」ち言うて逃してやった。お賽銭の無うなったばって
、ことわり言うてお参りしとこち、渡ば渡って、高良山についた。お宮さんの前に行てみたら不思議な こつ、自分が名前でお賽銭の奉納しちゃる。間違いぢゃろち思い思い拍手打って、「私しゃ今年はお賽 銭ばあげとりまっせんとに上っとるごつなっとりますが、何んかん間違いでっしょ」ち念じたら本殿か ら神さんが出てこられち、「いやさぁきおまいが高良神にかわって浜であの子供どんから蛇ば買うたっ ぢゃから、ちゃーんと奉納したこつなっとる、不思議がるこつぁなか。今からも高良神を念じて心ば正 しゅうしてくらせよ」ち言われて消えられた。有難いこつもあるもんぢゃち帰りゃ喜うで筑後川ば渡し で渡って家さん帰りかかったら誰か呼び止むる。ひょいと振返って見ると天女のごたる美しかお姫さん の立ってごさる。「私のごたる水飲み百姓に何の御用でっしょか、呼び止めらるるごたる覚えはありま っせん」「いやいや私はあなたが此処で先刻助けてくれた赤蛇の母親で、高良神様からこの筑後川をお あずかりしている筑後川の竜王です。あの子蛇は人間世界がみたいと常日頃言っておりましたので、大 人になって出て見るが艮いと、さとしておったのですが、今日は私も高良神の方へ出かけていました。 留守を良いことに人間界に出てあんな目にあったのです。あなたが通り合せていなかったらどうあの子 がなっていたか、思うとゾッと致します。お礼と言う程のものではありませんが、この手箱をさし上げ ます。この箱がある以上いつまでも良いことが貴男に続くでしょう。しかし蓋を明けてはいけません、 中を見てはなりません、どうか大切に」ち言うて黒漆塗の手箱を渡すとお姫様は消えっしもうた。正直 者の百姓は手箱ぁ神棚に上げて、いつもんごつ、せっせと働きょったが、どうしたかげんか、日照りん つづいてん稲は枯れん、大水かぶってん稲は腐れんで、どんどん金ん貯って村一番、国一番の分限者に なり、万福長者、万の長者ち言わるるごつなった。こりも高良さんのおかげちいよいよ信心しよった。 ある年の稲の取り上げんこつ、何千町ち言う田ん中ん稲ん取り入れ、荒使子何千人、しいしい言うて刈 り取ってどんどん片方ぢゃ倉に入れ、まーちーっとで総容(ソーヨ)しまゆるち言う時、背振さんお天 道さんの沈みかからっしゃった。あと十分でしまゆるとにち、長者は腰にさしとった扇はさっとひらい て、「お天道さん、まーちーと待っとってくれんのー」ちあおいだ。そしたところが、あら不思議、沈 みよったお天道さんが山から一尺ばっかり上さん登らしゃった。おかげで取り入れは全部済んだ。よろ こうで長者は明けん日、取り上げんしまえた祝ば家で何千人ちようで初めた。「皆な、きつかっつろ、 ごくろ、ごくろ、酒はあるけ飲みきるしご、御(ゴ)つォは食いきるしご、えんじょせんなやってくれ
」ちお礼言うて自分も酒飲みよったら天から紙切れん一枚舞い込うで来て長者んお膳の上に落(アエ) た。紙にゃたった一字「満」ち書いちゃるだけ。長者はまーだまーだ目分にゃ幸福の満ちてくるち言う 知らせち考えち、「そーたいあん箱は見りゃどんくれ福の残っとるかわかろ」。止めときゃ良かつに神 棚から手箱ば下して、皆ん見よっとこで、箱ん蓋ば取って見た、なんと空っぽで白か煙の出てくるだけ
、長者も皆もアヂャちたまがっと同時にそん白か煙がどんどん広がって家屋敷、森、田ん中、長者が持 っとるとこ全部に舞うて行ったかと思うたら、バーッち火になって燃え上り、一面火の海になって長者 も荒使子どんもそん火に巻かれち、全部が全部、皆が皆、灰になってしもうたげな。こん長者屋敷の跡 にゃまーだ、敷石てん瓦ん破れてん出てくるけ本なこてあった話ぢゃろ。

若衆塚(御井)

※ふるさと御井二 50

(一)
 昔ぁ仏様の身変りが神様ち言われとったもんぢゃけ高良山も、本手どんの玉垂宮さんなそっち除けに なってお寺が二十七、八も建って天台宗の九州本山のごたる模様ぢゃった。坊さん、寺ざむらいそして 寺小姓ち言う若衆までおって、そりゃぁ賑かなもんぢゃった。ところが明治の御一新で神様の御身内の 天皇さんが天下ば治むるごつならしゃったけ、「神様の身変りが仏様」ち逆になってしもうた。逆にな っただけなら良かったが、排仏毀釈ち言うて仏像てろん仏具ば放(ホ)してち天皇さんにあたで忠義面 する者んがばさろ出て来て新政府も困るごつあった。特に高良山の座主亮俊が佐幕派ぢゃったもんぢゃ け久留米ん百姓てん町人ば集めち出けた勤王派の応変隊ち言う兵隊どんが、高良山に登って来て不動さ んば突ッ転がす、石の地蔵さんの首ぁ刎ぬる、寺は打(ウチ)くすずで、そりゃ乱ボーローゼキ、した か放(ホー)でのこつするもんぢゃけ、気の弱か者(モン)な山ば下りてしもたが、寺侍やら若衆だん 腹けーち応変隊と戦うたろち言うもんたい。ところが多勢に無勢ぢゃけ、どんどん斬りたてられちとう と皆んな国分とん境の丘んあすこんとこで斬殺されちしもうた。勝った応変隊の奴だん御井町で町の者 に難題吹かけち皆から毛虫のごつきらわれたが、斬死した若衆達ぁムゾなげ良か人ぢゃったつにち皆が 同情して、殺されたとけ塚ば建てち年々供養ばしてやるごつなった。そりが若衆塚たい。

(二)                   ※媼

 平家が壇の浦からようよ九州ん此処まで逃げち来たもんの、頼る者なおらず、源氏からは追手ん来て
、肥後まぢ逃ぐうちしたか、此処で見つかってとうと斬り殺されっしもうた。あんまりムゾかけ塚ばつ いて祭ってやったつが若衆塚げな。

蝉丸塔(御井)

※筑後三、四32

 むかしゃ高良山にゃお寺ん二十ぐれあってお宮さんよりお寺さんの方が有名ぢゃったげな。そんお寺 さんの中に、盲僧琵琶の九州本山ち言わるるとこんあって、ここん盲ん坊さん達ぁ手わけして一年中九 州はビヤ弾いち回って正月の二十日にゃ、しちゃっち戻って来て盲の餅割の行事ばしょらしたげなたい 。荒神ビヤも平家ビヤもそりゃ上手で、そん中にでん「今蝉丸」ち言わるるキリョゥん良かビヤ法師の 居らっしゃったち。男前でビヤ上手ぢゃけ。そりゃ1何処行たっちゃ若っか女ん子達にゃ勿論ババさん 達にでん蝉丸さん蝉丸法師さんちもてよったげな。ある年の暮れ、都から使の来て御所に勤めよち言う 命令は見せち、そん上手のビヤ法師ば連んのうち行ってしもうたげな。都さん上ったそん年の正月の餅 割り行事も終まえたある日んこつ、そんお寺にひょこっと女ごが蝉丸さんば尋ねち来たげな。よそは回 りよって二世ば契っとったっでしょたい。蝉丸さんに会わせちくれ、添わせちくれち泣くげなもん.そ りゃ真剣で目の色も変っとるげなけ、和尚(オショー)さんな往生して、都に行たち、本なこつば言う たなら後追うち都迄でん行くぢゃろが、そすとビヤ法師の出世の妨げになる、さーどげんしたもんぢゃ ろか。困った困ったち思案しよるうち、蝉丸塔んあっとば思い出ーて、「娘さんよう聞かんの。あの蝉 丸ぁ去年の暮、ここに帰って来っとは来たが風邪が元で死んでしもうた。そっであん塔ば建てち供養し よる。もう此の世の者ぢゃなか、あきらめち里さん早よ帰んなさい、」ち言わしゃったげな。娘はそり ば聞くとワーッち大声あげち泣きくづれち、いつまっでん立上りきらんぢゃったち。和尚さんも、盲法 師達もいろいろ慰めちやったげなが、娘は「家ば飛び出して来たっぢゃけいまさら帰って親に会わする 顔んなか。此処に居って蝉丸さんの供養ばする」ち言うて府中の女郎になって、死ぬ迄供養ばしたち言 う話。むぞか話たい。

磐井川(御井)

※高良山物語23

 今から千五百年ぐれ前、此処んにきば治めとった筑紫の国造は磐井ち言う人で、なかなか智慧もあ り、皆(ミンナ)ん者ばよう可愛がりよったが、だんだん力ん出来て来たら、大和朝廷の命令ば聞かん ごつなって、九州独立ば思い立ち隣の国新羅と手くんだもんぢゃけ、大和朝廷はビックリして物部の麁 鹿火(アラガイ)ば総大将にして筑紫さん攻めて来た。磐井は此の三井郡一体で戦うたが、多勢に無勢 で高良山の下、御手洗池から流れ出とる川んとこまで逃げて来て、此処でとうとう殺されちしもうた。 そっでこの川ば磐井川ち言うごつなった。ところが別の話ぢゃ磐井や此処で斬殺されたっぢゃのうし て、戦ん途中で、こりゃ勝目ん無かち見て取って一人チュウヤクリクリ豊前の上膳県さん逃げちしもう た。そっで取り逃して口惜か大和朝廷の軍勢だん、磐井が死んだなら入ろうち造っとった、八女ん岩戸 山の豪放なか墓ばこつくずして、墓ん飾りにしてある石人てん石馬てんの首ばこき落てたり、手ばこき 割ったりして暴れた。こん恨か知れんが八女ぢゃそりからこつち不具(カタワ)んなったり病気する者 が多うなった、ち。こりゃ昔の本にも書いちゃるこつばって、ちーった判官贔員の話ぢゃなかろかの。

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