お仙が塚(宮ノ陣)
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※老僧
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昔、こん上の片ん瀬で侍の下駄ばちょいと女中が履いたち言うて、泣いて謝罪(コトワリ)言う女中
にそん下駄ば無理矢理履かせち、足の甲から五寸釘ば打込うで、そん上「冥途まで履いち行け」ち斬り
殺して、筑後川に放り込うだげな。そん死体がちょうどこん五郎丸の浜に打ち上げられたもんぢゃけ、
村ん者がムゾなげち流れついた処ん岸に塚ば造って供養してやったげな。女中は身寄りのなかったっぢ
ゃろたいの。そっで女中の名前がお仙ち言う名ぢゃったけ、そん塚ばお仙が塚ち言うて、通る時あ皆拝
うで行きよったち。ところが夏の雨ん降る晩な此ん塚から火の玉ん出て、侍家(ゲ)ん方さん飛うで行
くとん見ゆるげなけ、村ぢゃ「怨うでん怨みたらずな、侍家(ゲ)に呪かけに行きよっとぢゃろ、無理
もなか」ち評判しよったげな。そして雨ん降る時ぁきまって女御ん泣き声ん聞えたち、此んお仙が塚も
終戦後五郎丸の砂浜ん無うなる河川改修で彼処さね移し、そりから共同納骨堂ば建っ時、又、納骨堂に
一諸に納めちしもうたけ、今ぢゃお仙が塚ん証拠になる片身ちゃ一ちょん残っとらん。
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思案橋(宮ノ陣荒瀬)
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※翁
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犯罪によっちゃ打首てん入牢てん、それお国追放てん言う刑罰のあった昔のこつ。お国追放になった
罪人ば此ん橋の処(トコ)まで曳いて来て「他国で又罪造っちゃでけんぞ、ええか。此リから西さん行
くと肥前、北さん行くと小郡通って筑前に行く。ようと思案して、何所(ドッチ)さんか行け」ち役人
が言うて、罪人の繩ばほどいて追いやりよったげな。罪人な後ば振リ返り振り返り思案しながらボトボ
ト行きよったち。そっで此ん橋ば思案橋ち言うとげな。
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幽霊屋敷(宮ノ陣)
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※翁
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昔、豪士が五郎丸のにきお城んごたる屋敷ば作って住んどった。或る日六部が尋ねて来たら如何した
こつか、そん六部ば斬り殺してしもた。そしたら其の晩から六部の幽霊が出て崇るごつなった。さすが
ん豪士も恐しゅうなって別の処(トコ)に新しゅう家ば建てて住んだ。そん新しか家にゃ幽霊や出らん
ぢゃったが不幸不運の続いてとうと豪士ぁお家断絶になってしもうた。村ちゃそん幽霊の出らん新しか
家は報身寺さんに引取ってもらい、初めん幽霊の出るお城んごたる屋敷ぁ誰でん恐(エス)がって無料
(タダ)でん貰い手ん無し、一人でん寄リつかんまま腐れちしもうたげな。
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宮の陣(宮ノ陣)
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※三井めぐり 3
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今から六百五十年ばっかり前、都で起った天皇のお家騒動がこん九州筑後まで巻込うで、初手からの
天皇方懐良親王及菊池氏と、横車押して造っ建てた、光明天皇方ん太宰小弐、大友とが正平十四年の七
月小郡の大保原で大戦を始むるごつなった時、懐良親王は宮の地に本陣ば造って戦の用意ばせらしゃっ
た。そっで此処ば懐良親王宮の一字ばとって宮の陣ち言うごつなった。
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遍万寺(宮ノ陣)
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※続市誌下 750
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六百三十年ばっかり前、小郡の大保原で南朝方も北朝方もばさろ戦死者ば出して引分けになった戦ん
無情さば悟った菊池武光の弟武邦が名も正西ち変え坊さんになって、懐良親王ば始めとして、敵も味方
もなか戦死者の冥福ば祈る為め、お寺ば宮の陣に建てた。そして一日一百万遍の念仏ばとなえたけん初
めは一百万遍寺ち言いよったが、後で今んごつ遍万寺ち寺号ば変えたち言う。ここの本尊さんな、懐良
親王の持仏ぢゃた阿弥陀如来さんげな。
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御供納(宮ノ陣八丁島)
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(一)
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※筑後三、七 17
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昔、八丁島に爺さんと婆さんとおらした。ある日、旅の若け者(モン)が夕立逢うて雨宿りしたが、
本降(ブリ)なったもんぢゃけ、一晩泊めちくれんのち頼うだ。貧乏はしとるが夫婦とも人んよかけ、
世話はしきらんが泊るだけならち承知せらした。日の暮れち夕飯になった時裏から娘が入って来て、晩
のおかずにしてくれんのち魚の煮つけば婆さんに渡した。旅の男は娘ば見て一目ぼれしてしもうた。と
てもベッピン。爺さんな「こん娘は近所ん者ぢゃが可哀想に一人者(モン)ぢゃけ近々(チコチコ)し
よるたい。見る通りの美しか女御ぢゃけ村ん男から嫁御に所望さるるばって、行かっさんな、こげんし
てまーだ一人暮しばしょる、名は「おかね」ち言う女ごたい」ち男に話した。明けん日も雨ぢゃった
け、旅の若け者(モン)な、よか口実にして又一晩泊めちもろた。夕飯時なっと又娘が裏口から来た。
男ん気持のわかったつか、おかねもいつもん「おかね」と違うち、恥ずかしがる。夫婦は子も居らんこ
つぢゃけ二人夫婦にしてやったなら、ち、爺さんな若っか男に婆さんな「おかね」にすすめらしたとこ
ろ、二人とも諾(ウン)ち言うけ、善は急げで夫婦になさしゃった。お兼ん小屋で生活始めたが、とて
ん仲の良うして評判になる程しぢゃった。一年たって二人ん仲に男ん子が生れた。男は子の生れたなら
止むぢゃろち思とった「おかね」ん夜歩(ヨザルキ)がやっぱ止まん。ある朝早よう、「おかね」ん草
履ば見たら、雨も降らんとにぬれとるけ男は不思議に思うて、その晩、晩ち言うてん真夜中、おかねが
いつもんごつ、こそっと起きて出て行く後ばつけち行た。おかねはつけられとっとば知らんな池ん中に
蛇になって入って行った。そりもんぢゃけ、男はピックリして家さん帰り、じーっとおかねが帰ってく
っとば待っとって、蛇になった姿ば見たがどげんなっとっとかち聞いた。おかねは泣きながら「私はあ
の池の大蛇ですが、私が小さい時、親の言つけば守らんな、人間の世界ば見ろでちして池から出て這い
回りよったとこば子供どんにひつかまって殺さるでちしました。そん時、あんたが通りかゝって私を助
けてくれました。そっで御恩返しばしゅうち、娘ん姿になってあん村に住みつき、あんたに会うため毎
晩おかずば届けによって待っとったつです。会うて話て見っとあなたがあんまりやさしいけんつい蛇の
身であるこつも忘れて夫婦になり子まで出来てしまいました。そっでも、あの池の主である私は一日一
回は必ず池に戻って勤めば果さねばなりません。私の本性ば貴男に見られたからにゃもう人間界に住む
こつが出来まっせんので今夜でお別れです」ち涙ばボロボロ流して言うた。男は「子まで出来たつに、
何とか思い止まってくれ、男手でこの乳飲児ばどげんして育てらりゃうか」ち、かき口説(クドイ)た
ばって、女ごは子供ば抱いて泣くばっかりぢゃった。いよいよ日の暮れち別るる時になった。女はきれ
いか玉ば一つ(イッチョ)男に差し出して、「もしこん子が泣く時ぁこん玉ばシャブらしてくれんの。
子供ばお頼みします」ち言うて泣き泣き池さん帰って行った。女が言うたごつ子供が泣く時、もろた玉
ばねぶらすっとぴたっと泣き止み、乳もなかつにすくすく子供は育って、二つになった時、あんまり不
思議かけ、村ん者が、子が持っとる玉ばダマクラかして取り上げた。さーそりから子は火の付いたごつ
泣いて、どげんちょーくらかしてん泣き止まん。男は往生してその晩、子ば抱いて池んとこまで来た。
池の主は子の泣声が聞えたつか、蛇の姿ば見せち「どうしてそう泣かすっとですか」ち男に聞いた。男
は村ん者に玉ば取られたこつば話した。蛇は悲しんで「あの玉は実は私の目玉です、も一つ目玉はあり
ますが、盲になつたらもう龍になることはできません。子が泣いていて可哀そうですが、私にはもうど
うするこつも出来ません」ち泣いて水に又沈んでしもうた。男はその言ば聞いて、生きっとったっちゃ
何の楽しみがあろうか、そりより夫婦揃うて池の中で子ば育てたがよっぽどましち、子供ば抱(ウダ)
いて身投げしてしもうた。そりからこん村にゃ不幸なこつの続いて、大水の入ったり、明けん年ぁ干照
りの続いたりでとても難儀するごつなった。悪か病気の流行ったり、火事で家焼かれたり、子供だん夏
なっとおぼくれち五人も十人も死ぬ。村ぢゃ、なしてこげん不幸難儀ん続くか原因がわからんな、とう
とう祈祷師ば頼うで祈ってもろうたところ、「五年前から池の主の崇りぢゃ、毎年十一月廿日に十才に
なる男ん子ば一人ずつ池の主に人身御供すれば、その明ん年は無事であろう」ち言う告げが出た。さー
そりからムゾなげ一年に一人ずつ男ん子ば人身御供で池に沈めよったが、あんまりムゾかけ、ちょうど
通りかかった全国行脚の坊さんに相談した。坊さんな「米三石三斗を人身御供の変りに池に供えれは良
いであろう」ち教えて立ち去らしゃった。坊さんの言われた通り米ばお供えしたら明の年は無事、息災
、五穀万作ぢゃったけん、次の年からそげんするごつなった、ち言う話。
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(二)
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※筑後三 七 17
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昔ち言うていつ頃ぢゃい、八丁島に筑後川から水ば引いて外堀ば造っとったお城んあったげな。こん
城ん殿さんな、カンシャク持で我が気に入らんと家来でん殺したり、無茶な税金ば取り上げたりでとて
も百姓からも嫌われとったち言う。殿様でんあんまりしたこつち思うて忠義な家来がある時殿様に忠告
したら、無礼者ち切腹命じて殺したうえ、以後の見せしめち外堀にある八丁島に埋けてしもたげな。殺
された武士は、あんまりの無法ば怨うで大蛇になって領内に崇り、大水やら干照り、そん上、人ば喰い
殺したり水に引込だりして災(ワザ)するごつなったげな。殿様は幽霊てんなんてんち思うて始めは馬
鹿にしとったが、不作不幸があんまり続くけ、家来ば大蛇退治にやったところ、逆に喰い殺されち、夢
で城内ば荒すち知らせて来たけ、恐しゅうなって、毎日毎日村ん者ば一人宛、大蛇退治の名目で人身御
供にやりよったげな。そん後大分災難も減って来たけ、年に一遍男と女ご一人宛ば人身御供にしたげな
。こりもずーっと昔止めち、今ん御供納めんごつ米三石三斗になり三斗三升に少うなり三升三合に減っ
て、やっと人身御供の形だけば残すごつなったつげな。
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(三)
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※翁・久留米碑誌 315
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今から四百年ぐれ前八丁島にも古賀の館(ヤカタ)ち言う、お城んあった。こん殿様に可愛か一人娘
んおった。天女んごつ美しかけ、どこん殿様からでん嫁御に欲しか欲しかち申込のありよったが一族の
高橋の方に嫁にやるごつ決めてしもうた。ところが嫁入の日も近うなった春、秋月の殿様から是非嫁に
くれ、くれんなら考えんあるち無理な申込ばして来た。そりばってもう決ってしもうとるこつぢゃけ、
殿様(トノサン)な、はっきり事情ば言うて断わった。秋月の殿様(トノサン)な断わられた腹いせに
薩摩ん島津と組んで、七月古賀の館に戦ば仕掛けて来た。殿様(トノサン)な娘は高橋さんやって約束
果してから戦争しゆうと思うて、早よ高橋さん行けち娘に言うたが娘は自分が居るばっかりに戦になっ
たけ、自分がおらんごつなったなら戦争にゃなるめち自殺してしもうた。殿様は娘ん健気な気持に涙し
ながら高橋にせめて首だけでん輿(コシ)入させたかち家来の掃部介に娘の首ば届くるごつ命じた。秋
月方の囲(カコイ)ばようよ切抜けち高橋さん馬で走ったが、途中で高橋の館も秋月、島津のため攻め
破られたち言う報せに、古賀の館ば振返って見ると、もう館も火炎につゝまれち、殿様も家来も多勢に
無勢で討死されたらしか様子。掃部介は、姫の首ば八丁島の池に静かに沈めかくして、「もうこれまで
ぢゃ、いさぎよう斬死にしょう」ち馬ば館の方に走らせ、勝ちどき上げよる敵の中に斬込うで行って、
深傷ば負うてん猶戦い、力尽きると近くの池に馬ば乗り入れ、敵が見守るなかで見事切腹して死んでし
もた。それからあと、娘の首ば沈めた八丁島には娘の怨霊が大蛇になって住つき、大水、旱魃、流行病
、家畜にも災ひばして皆、困ってしもうた。村ば通りかゝった六部にこのわけば聞いてみっと毎年十才
迄の男の子ぱ池の大蛇に人身御供すりゃ災難が消ゆるぢゃろち教えた。そりから毎年十二月十五日に可
哀想じゃが男の子ば一人人身御供にするごつなった。あんまりムゾかけ又、六部に相談してみっと、米
三石三斗で人身御供の代りにせよち言うたけん、そりからは米三石三斗ばお供えするごつなった。米三
石三斗ば三斗三升にへらし、しまえにゃ三升三合にへずって祭るごつなった。
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将軍梅(宮ノ陣)
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※浮羽めぐり 103
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正平十四年の八月ち言うけ、まーだ暑か時たい。足利尊氏に味方しよる少弐てん大友ばやっつくうで
ち、懐良親王さんな菊池武光達約四萬の軍勢ば引きつれち高良山の陣地から筑後川ば渡って宮の陣にお
つきなさった。敵の少弐、大友の軍勢ぁ六万ち言う大軍。懐良親王さんな自分が守本尊の阿弥陀さんば
取り出して、段の上にかざって紅梅ば一本、お手植えされち、こんだん戦いに必ず勝つごつお祈りしな
さった。そりから大保原の合戦に出て行かしゃった。将軍梅ちゃそんお手植ん梅ち言うこつです。
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五万騎塚(宮ノ陣)
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※久留米碑誌314・三井めぐり5
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むかし天皇さんのとこにもお家騒動の持上って、大もめにもめち、こん筑後ぢゃ大いくさんあったげ
な。初手からん天皇さん方にゃ肥後ん菊池一門、黒木ん五条一統が征西将軍懐良親王ば大将に立てて高
良山に陣取り、一方、あたで足利尊氏がおし上げてならしゃった光明天皇ん方は筑前の大宰小弐一門、
豊後ん大友一門が家来について、太宰府から打って出て味坂一帯に陣取り、炎天の七月十九日から戦い
始めち、八月六日ん夕方からは宮の陣から大保んにきで喰うか喰わるるかん大いくさになり、大宰小弐
方は我が子も戦死し、家来三千六百人も打取られち八月七日ちうやくりくり大宰府さね逃げていったば
って、征西将軍の方も千八百人の戦死者は出ーち、菊池武光も負傷するし、将軍さん自身も三か所ん深
傷ばおわしゃったもんぢゃけ勝つにゃ勝ったもんの後の始末も出来んごつぁったげな。そっでそこん田
ん中、あすこん畦、あっちん溝にゴロゴロ死んだまゝで、夏のこつぢゃけへーゴんつけち、腐った臭い
の風ん吹きよで高良山の上まぢして行きよったげな。そっで放(ホ)ったらかしちゃーあんまりムゴか
けち高良山の坊さんが、死体ば一ちょずつひととこに集めち大きな塚ば造って、供養してやらしゃった
げな。そりから五万騎塚ち言うとげな。そりばって何千ち言う死体ば集めてあっとぢゃけ爺さんの若っ
か頃まぢゃ梅雨ん晩になっと火の玉ん出よったげな。どうかすっと馬ん鳴声てん戦んときの大声ん聞え
よったち言う話。もう今どきゃそげんこつぁ無かがの。
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力士三吉川(ミヨシガワ)(宮ノ陣)
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※翁
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昔、此処んにき三吉川ち言う醜名(シコナ)ん角力取りが居った。勿論宮角力取りぢゃが、とてん強
うして、久留米藩内ぢゃ誰一人勝ちきる者なおらぢゃった。江戸さん登ってん、すぐ関脇か小結ぐれに
ゃ通用するち評判うっとった。得意手(エテ)は鉄砲ち言うて相手ん胸に、腕突っ張って一押しすっと
ぢゃった。ところがそん一押があんまり強うして相手ん胸板にヒビの入るもんぢゃけ、宮角力仲間から
封じ手にされちしもうた。ばって力ん有る上、手取りぢゃったけ、負け知らずでいよいよ評判づいとっ
た。ある年、江戸から、柳川藩のお抱え力士雲竜が下って来て、松崎の辺で三吉川ん話ば聞いた。「評
判のごつ強かかどうか試(タメシ)てみろ。ほんなこて強かなら弟子にしゆう。又殿様に本場ん角力と
草角力とん力ん差ば知ってもらおう」ち思うて、使ば三吉川にやって角力とるこつにした。お宮ん境内
で急ごしらえん土俵ば作って一番取ってみたら、雲竜が思うとったごつ、手応えもなかコロッと一と捻
りで勝負んついた。「評判な良かが、力は序の口がつでんなか。まちっと稽古して力つけらし。宮角力
ぢゃ大関でん、俺が見りゃまーだ角力になっとらん。いらんこつして暇漬した。早う柳川さん行かぢゃ
こて」ち雲竜が言うた。三吉川はこりば聞いて「今日は御抱え力士で柳川さん錦かざって帰りよった
け、花持たせち負けてやったつに、ふてーこつば、そげんこくなら江戸さん上っ時、まー一遍此処で勝
負しゆうたい。そん時ぁあんたが注文する手で、注文する方さん、こき投げちゃろけん覚悟しとかさい
」ち言い切った。売り言葉に買言葉、ほんなこて又帰りに同じ土俵で角力になった。雲竜は雲竜で取
って投げち、投殺してやっぞ、ち、えらい剣幕ぢゃった。ところが三吉川は得意の鉄砲でサッと攻めた
てち回帯(マワシ)ば雲竜に取らせんもんぢゃけ、雲竜は棒立ちなって攻め手んなか。「約束どうり、
どの手が良かろか、注文してくれ、又どっちさん投げられたが良かか言うちくれ」ち胸板に手あてとっ
て三吉川が言うけ、雲竜は面ぁ弁慶のごつ赤うなって息ゃ荒うして、もの言う段ぢゃなか。「あんたは
御抱え力士で本角力取り。宮角力取りの俺に負けたぢゃ顔が無かろ。そっで投ぐっとは投ぐるが、そん
前、俺が足ば土俵外さんちょいと出す、そしてあんたに恥だけはかかすめ」ち言うが早かか、西の方さ
んすくい投げした。が足が言うたごつちょいと出たけん雲竜が勝にゃ勝ったごつなった。こりが又又大
評判になって、江戸さん上って本角力取りなるなら久留米藩の御抱え力士にするち言う噂ん立った。と
ころが此ん噂が江戸に流れたけ江戸の角力取り達ぁもう見らん先から敵(カタキ)のごつ憎うで、皆で
寄ってたかって、角力とられんごつ、足腰の立たんごつしゅうち言う話の出来た。こりば知った雲竜が
こりゃおおごっち、すぐ三吉川に便りば出して、江戸にゃ来んが良かち知らせちやった。こん知らせば
見て「折角上ってん、どの角力部屋でん入れちくれんなら、命ぁ惜うなかが、何んならん」ち諦めち、
三吉川は今迄んごつ宮角力取りで辛砲して、ここんにきの大関ち言わるっとで満足した。三吉川はその
後中風になって角力取られんごつなってあん神代(クマシロ)ん渡のとこで茶店ばして五十六才で死ん
だ。が、こん渡の茶店ばしょっ時、雲竜が尋ねち来て昔の恩ばとても感謝したち言う。又こん話と別に
、三吉川は江戸さん上ったが、あんまり強かけ、皆から憎まれち、毒殺されたとか、暗殺されたとかん
話があるが、お墓に刻うぢゃるとから考ゆっと違うごたる。
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酒飲み河童(宮ノ陣)
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※翁
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昔、こん三条ん東ん端に、大きなか造り酒屋んあった。夏の夜になっと、こん酒屋に河童が酒飲み来
よった。店は閉めち番頭どんも寝てしもうた頃、どっからどん入ってくるもんぢゃい十二、三ぐれん小
供んごつぁるとの頭に皿んあっとが、ノコノコ酒樽の前さん来て、一升桝ば左手に持って、右手で樽の
栓ばキュッち捻って、ヂャーっち出す。そりがとても手付(テツキ)も良かが、桝から一滴でんこぼれ
んごつ出す。一ぺになっと又キュッち栓ばして、そりから飲みかかる。そりが又見もんで、桝ば頭よか
高う持って、顔ば上向け開けとる口に酒ばヂョーヂョー流し込む。不思議ち言うか見事ち言うか一滴も
口からこぼれん。河童は檀那どんの見よらすとば知っとっとぢゃい、知らんとぢゃい、一升飲うぢしま
うと、すまーして出て行く。或る晩こりば見つけた番頭が、檀那どんに言うたら、「うちん酒ぁ良かけ
ん河童どんまで飲み来よっとぢゃけ、たまの一升ぐれ心配せんでん良か良か」ち檀那どんな言わした。
不思議なこつに河童が酒飲み来るごつなってとてん酒ん売れゆきの良うなって、どんどん繁盛し始めた
。そりから何年かしてどうしたこつか夏になったばって河童が酒飲み一ちょん来ん。檀那んどんな「河
童ん奴も病気しとっとぢゃなかろか、死んだつぢゃなかろか」ち案じござった。ところが実ぁ番頭の一
人が、飲み来た河童にワルサしたけん来んごつなっとっとぢゃった。河童ちゃ自分にワルサさるっと決
してそりから寄っつかんごつなる。河童が酒飲み来んごつなってから、今迄繁盛しよった酒屋も不思議
と不幸ん重なって、後取り息子は酒屋ば嫌うて江戸さん上って学者になってしもうた。そっでとうとう
酒屋はしまえちしもうた。こん酒屋ん大っか屋敷ぁ大正の始め頃まぢくさるるまゝに残っとって倉は、
子供どんが遊び場になったち言う。
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河童と角力(宮ノ陣)
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※翁
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勝(マサル)しゃんげん、お父ちゃんが、ほんなこて河童と角力とっとらっしゃるたい。漁師ぢゃっ
たけ、よう河童も見えよったし、とてん可愛かち言いござった。そっで河童と角力とっとは良かばっ
て、そん後が体んきつして熱出して寝らにゃんごたるけ困るち話しござった。ばって魚獲り行かれんぢ
ゃった分な、次の日ちゃーんと余計獲るるげなけ、大かた河童どんが叉遊ぢもらおでち加勢すっとぢゃ
ろち笑いござった。昔から勝しゃん家(ゲ)は川庄屋ちか言う役柄ん家ぢゃったけ河童も仲良しなっと
ったっぢゃろの。
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