五穀神社(南薫町)
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※翁・久留米めぐり43
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今から二百五十年前の享保十三年、久留米藩ぢゃ金んたらんけんち言うて、夏収(ナツゲ)の三分の
一ば税金にして出せち百姓どんに命令したもんぢゃけ、たゞでさえ税金の多すぎって苦労しょっとに、
どうして出さるるかち上郡の者が一番さき蓆(ムシロ)旗立てち一揆ば起した。五千人から六千人ち増
えち百姓どんがいよいよ久留米さん押かけち来るごつなったもんぢゃい、藩の上役だんおろたえち、ど
げんしてええか分らんで困った。其時家老ぢゃ一番年の若か稲次因幡が、我が命ばかけち、百姓どんと
話ようて、一揆ば静め、税金ば取り止めてやった。ほんなこつぁ一揆ば起した頭領どんば罰せにゃんと
に一人でん罰せんな帰らせたけ百姓だん因幡ば神さんのごつ有難がったが、殿様(トノサマ)ん頼僮(
ヨリユキ)ぁ、思うた税金の入らんごつなったけ、ばさろ憎うで切腹ば命じたが、家老の岸刑部とか有
馬監物の嘆願でようよ小郡さん島流しにした。そして小郡の津古ん百姓屋で疱瘡にかゝつて三十五才で
死んだ。筑後八郡の百姓だん親うしのうたごつ悲しうで、その霊ば神杜建ててお祭りしゅうでちした。
殿様も毎晩(メーバン)稲次因幡が幽霊なって崇るもんぢゃけ、えずなって、神社建っとば許した。そ
っで出来たつが五穀神社げな。
註、本来「頼僮」の「僮」は左に彳を右に童を並べたものですが、プラウザの環境に無いのでよく似た 「僮」を用いています。
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五穀神社の菅公像(南薫町)
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※筑後二、二27
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罪もなかつに太宰府に流されて無念でならん菅公はずーっと都からついて来て、何かと慰めちくれよ った家来達ば集められ、「私は大願ば起して天拝山に登り、山上から天帝に罪の無いこつを申し上げ、
この無念さを晴らす為、魂は鬼となってでも残ることにする。おまえたちには大変世話になったが、今 となっては何もしてやることが出来ぬ、せめて私の像を形見にしてくれ」ち言われ、池に写った姿ば自
分で彫られ、家来達に渡されち天拝山に登って行かれた。そん時の像がどうした縁でか寺町の遍照院さ んに何百年も前から伝っとったけん、こん五穀神社に迎えてお祀りしたげな。そっでこの御神像に参っ
てお願いすっと、どげなこつでんかならず叶えち下さる、ち言う話。
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応変隊の鬼火(南薫町)
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※翁
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函館戦争ん終えち久留米さね帰って来た応変隊やぁ、そりゃーとてん気の荒かどこぢゃなか、ほんな こて狂犬(ハシカイン)の如つ、我が気に入らんと、見境なし刀抜いだり、あばれたりで此処にきの者
(モン)なヒロヒロしよったげな。そりばって町ぢゃ「一に応変、二に町々欽承隊、三に殉国隊ヘチャ モクレ」ち悪口言うてさげずみよったげなたい。気に喰わんとあすこん屯所さん連れ込うで、つくめ、
責め殺したりしよったち。そっで昼の日なかでんウメキ声んよう聞えよったけ子供でんエズがって遠う 道して来よったちおっかさんの話ござった。又「いつまッでん泣きよっと応変隊にやっぞ」ちおごらる
っとどげな子でんピッタリしよったちも話ござったたい。そりから暗うなっとよう、屯所んとこから火 の玉ん出て五穀神社ん楠の上さん飛びょったげな。祖父ちゃんのそりば見て「又誰か殺されたばいの。
ムゲーこつする奴どんぢゃ」ち言いござったち。
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