純金の観世音像(野中町正源寺)

※筑後一。十三20

 百四、五十年ぐれ前んこつ、合川ん鵜川さんの祖母さんが、自分家ん竹藪ば拓くとに鎌で薮の根ば払 いござったら、何かカチンち鎌ん先に当ってピヵッち飛うだげな。「おーう」ち思うて飛うだ方ば探さ っしゃったら、一寸八分の観音さんでそりが純金で出けとったげな。そりもんぢゃけ、こりゃこげな仏 さんば家に置いとくと罰の当るち、福聚寺さん持っていたて和尚さんに相談せらしゃったげな。「こり ゃ尊いお像でうちに安置するよか、殿様ん祈禧寺になっとる、日渡の正源寺に安置したが良かろう」ち 和尚さんの言わしゃったげな。そっで正源寺さんに上げらっしゃったげなたい。そりからとてんマング リの良うなって鵜川さんな栄えらっしゃったち言う話。

戸剥門 (野中町)

※久留米めぐり41

 野中ん了徳寺さんにゃ扉んなか山門(サンモン)の建っとるが、こりゃ戸剥門てろん矢受門ち言うて 昔からこげな話のついとる。今から四百年ばっかり前、高良山の麟圭ぁ太閤秀吉から、あんまり横着か ったけ領地ば取り上げられた。そりばってん兵児垂るごっぁる座主ぢゃなかった。新しゅう久留米ん城 主になった小早川秀包が、太閤さんの命令ぢゃけんち言うてん、上納ば納むっどころか、かえって領地 ば広なそちするもんぢゃけ、秀包はヨーシち腹けーち高良山ば攻め落そうでち戦しかけた。が、どっこ い戦上手に麟圭に歯のたたん。秀包も家来どんも負けどんしたなら我が恥ぢゃけ、もう死もの狂いで攻 めたてた。ちょうど筒川ば挟うでの戦いで、あんまり攻め方んひどかもんぢゃけ、さすがん麟圭も防ぐ とに大事ぢゃった。とうとう矢受けん足らんな、了徳寺さんの山門(サンモン)の戸まで引っぺーで盾 (タテ)にして戦うたもんじゃけ日の暮れち、こん戦は勝負なしで引分けた。そりからこん山門ば戸剥 門ち言うごつなったち言うこつ。

八六塚 (野中町)

※翁・筑後国里人談第二十七話

 明和年間ち言うけ今から百十年ばっかり前ん二つぢゃが、西野中ん百姓ん子供兄弟が、ある日お天気 も良かもんぢゃけ仲良う草刈り行ったげな。ちょうど八(ヤー)っと六(ムー)っぢゃったげなたい。 どんどん畦から堀の横さね刈って行きよったら、二羽ん雀か喰い合うち目の前さん落てち来たもんぢゃ け、二人共ワーッち雀ば取ろでちして堀ドブーンち落てこうだげな。そりば見た村ん者が助けに走って 来たばって筒川越ちぢゃったけ間に合はんなムゾなげ、子供だん死んだげな。さー親ん嘆や見るも可哀 そうで、こりば知った近所ん者が、あんまりムゾかけち、そんおてこうだ処ん横に塚ば作って供養ばし てやったげな。そん塚は死んだ兄弟の年ば合せち、八六塚ち言うごつなったち言う話。別の話しぁ雀ば コウチ堀におてたち言う。そっで兄弟はなかようせにゃんち。

ヤンブシ塚 (野中町)

※翁・久留米路の旅情16

 あたしどんが子供頃あ諏訪神社ん東の方ん筒川ん横にヤンブシ塚ち言うとんあって、雨ん降る晩な、 火の玉ん出るち、えずかりよったが、こんヤンブシ塚ちゃ、昔、肥前の竜造寺と豊後ん大友宗麟が、ど っちも一万以上の兵力でこん筒川ば挟うで大いくさばして死人がばさろ出たもんぢゃけ、どんこんしょ んなせ穴堀ってそこに埋めた塚げなたい。ところが此の頃さがしげ行てみたら、何処ん此処ん家ん建っ てもういちょんわからんごつなってしもうった。

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