鳥飼の地名

※市誌上299

 今ん津福、津福本、津福今、梅満、白山、大石、長門石、それ安武本、武島ば含めち、昔ぁ鳥飼ち言 よったごたる。なし鳥飼ち言うとかち言うと、大昔此処にゃ鳥ば養う役目ば持たされとった鳥養部ち言 う者どんが住んどったごたるけんぢゃなかろか。和名抄ち言う古か本に三瀦郡鳥養郷ち書いちゃるし、 そん三瀦郡の豪族か殿様んごたる権力者、「水間君(ミヌマノキミ)」ん事ば日本書紀の雄略天皇十年 九月の項に「呉の国か鵝鳥ば二羽献上すっとに筑紫まで運うで来たら、水間君が飼うとった犬が、そん 鵝鳥ば喰い殺したけ、びっくりして此ん大罪ば許してもらうため、鴻鳥十羽に鳥飼人ばつけて、天皇に ことわり言うて差し上げた。そっで天皇は此の大罪ば許さっしゃった。そして鳥飼人達ぁ十月に奈良県 の高市郡と十市郡にわけて配り置かれた」ち書いちゃる。こっで鳥飼ち言う役目んあったこつのわかる し、昔から鳥飼ち言う地名ぢゃったけん、如何も鳥飼人の居ったとこち言う考えは間違なかろごたる。

神 隠

※石原家記下118

 有名か享保農民一揆ん頃、天狗に取られち行方不明になっとった井筒屋の下男が三年ぶりにヒヨコッ と帰って来たげな。話ば聞いちみっと、とられたそん晩、家ん前で、「おい小僧ちょいと来い」ち六部 が言うけ、何んの気なし従いて行くと、どんどんどんどん歩いて朝方にゃ彦山についとったげな。そり から日本国中見物して、山は富士山から東北の岩手、磐梯山、高っか山で登らん山はなかごつ行ったげ な。面白かこつに泊っとこは、いつでんお寺さんで、顔合わす者な皆坊さん達ばっかりぢゃったち言う 。山とか寺ん模様ば井筒屋に来合せとった山伏に聞かせちみっと一ちょん間違うとらん。皆不思議がっ たげな。そりばって、送り帰さるっときんこつぁ、あんまりハッキリャ覚えんで、小郡の方から光行土 居さんきて古賀ん茶屋まで、安芸の広島ん何とかち言う院の山伏がついて来たげな。「もうこりからは 道ぁ知っとろけ一人で帰れ、俺はこりから筑前さね行く」ち言うて山伏ぁ別れたげな。こげんとば昔ぁ あ神隠(カミカクシ)おうたち言よった。

藤六比丘尼

※筑後志七、七17

 昔、久留米で飲んだくれで極道者の我が婿どんば打殺して遂電した女ごが四国巡礼になり、札所札所 で今までしてきた悪業非行ば懺悔(ザンゲ)して回ったが、婿どん殺しのこつだけはかくしとった。巡 礼の同宿同行ん者な話ば聞いて、信心会得されたお人ち感心しよったが、ある寺に着いて懺悔し勤行し よる時、頭ん髪の全部抜けち、ツルツルなってしもうた。女は本な尼さんになって久留米に帰って来て
、藤六比丘尼ち言わるるごつなった。心から改心したつぢゃろたいの。

曾我神社と仇討

※市誌上323

 三百四十年ぐれ前、犬の咬合がもとで、藤田五郎左工門が隣の都甲長左ヱ門ば斬殺して遂電した。殺 された都甲にゃ男ん子二人が居ったもんぢゃけ、五年後、兄の八弥が二十才、弟が十七になってお上の 許ばもろて仇討に出た。心当てもなか、たゞ足にまかせち藤田ば探して廻っとぢゃけ、どうしてんわか らん。虚無僧姿にまでなって苦労したが、五年たってん探し当てきらん。とうとう曾我兄弟ば祀ってあ る神社に二人お籠りして一チ七日の祈願ばした。七日目の朝、ウツラウツラ夢でんなか幻でんなかごつ して大阪堀江の近辺で、見事敵討七た同じ夢ば二人共見た。こりゃ曾我兄弟の神が、自分どんば導いて 下さったっぢゃろちすぐ大阪さん上って、ほんなこて昔の知り合いの手引きで播州に隠れとった藤田ば 見つけ、見事、敵討の本望ばとげ、丸々五年目に久留米に帰って来た。殿様も喜うで兄の八弥は三百石
、弟の八助は百二十石でお抱えになり、仇討都甲ち言うてばさろ評判になった。

高良川(大根川)

※三井めぐり48

 むかし弘法大師さんが仏法を広むるため諸国ば回って、風も冷とうなった十月の日暮前、この高良川 ばつとうて高良内の方さん行きよんなさった。腹のへっちゃったお大師さんな男やら女どんが川で大根 ば洗いよるとこに出会された。そっで、「すまんが愚僧にそん中んこまかつで良かけ大根一本ば喜捨し てもらえんぢゃろか」ち手ば合せち頼ましゃった。男も女どんもちょいと洗うとば止めちお大師さんの 方ば見たつぁ見たが知らんふりして又大根ば洗いだした。「まことにすまんが、一本御喜捨下さらんか
」大師は又頼ましゃった。そしたら一人の男が頭あげち「ホイト坊主にやる大根なこゝにゃ一本もなか ぞ、他所でもろち食え」ち大声で言うたもんぢゃけお大師さんな片手でそん男ば拝うで、だまって高良 内の方さん行つてしまわしゃった。お大師さんの姿ん見えんごつなっと、今まぢ流れよった水がスーツ と底にすいこまれち一滴の水も無かごつなった。大根洗いよった男も女ゴも大騒動したばって、水あ流 れてこん。そりからこん高良川は十月になっと水の澗れち大根な洗われんごつなってしもうた。

耳納山

※浮羽めぐり16 21

 (一)
 今から九百年ばっかり前の天喜、康平ち言う時代や、前九年の役、後三年の役ち、戦ばっかり続いて
、こん九州ででん弓矢の飛交いよった。奥州ぢゃ安倍の貞任一族が叛乱起して衣川で滅うでしもうた
が、九州ぢゃそりば知らん貞任の裾息子達が、筑前の鬼城で八幡太郎義家ん三方の軍勢と戦うて、ビク ともせんじゃった。義家は「もう抵抗してん、奥州ぢゃ一族亡うでしもうたつぢゃから、意味の無かこ つ、早よ降参せろ」ち鬼城の方に言うてやるが、「そげなこつぁ信じられん、最後まぢやる」ち言うこ つきかん。攻むりゃ手負に死人ばふやすだけぢゃけ義家は、奥州から貞任ん耳ば切って来らせ、そりば 城ん兵隊どんに見せち降参ばすすめた。鬼城の息子も軍兵どんも、そりば見てガックリ。ばって降参せ んな三千からん兵隊全部が自殺してしもうた。義家はムゾなげち皆(ミンナ)ん耳ば切ってこん山に埋 めて供養してやった。そりから耳納山ち言うごつなったげな。
  (二)
  康平ち言うけ今から九百年ばっかり前、田主丸の観音寺さんのにき、晩になっと妙な鳴声んして恐し か化け物が出て、牛でん馬でん取って喰い、女ご子供もさらうち言うもんぢゃけ、晩になっと皆な恐し ゅうして小便まりでん外さんな出きらんごつなった。こん話ば聞かしゃった観音寺の然廓上人が、仏法 盛んなこの地に、そげな化物が出て災するちゃ許されん。自分が退治しゅうち思い立たしゃった。その 晩、境内の大木の下に壇ば造って、一心不乱に悪魔降伏の読経ば続けらっしゃった。いつもん時間にな っと暗の空から、妙な声ん起って、サーッとびっくりする化物が降りて来た。頭が牛で鬼ち言う化物、 読経が何んかち上人に近よって喰おうでちした時、上人が振り撒く法水の体にかかった鬼は、たちまち 魔力の消えち、クタクタに坐ったかち思うと体んとけかゝった。上人な猶声はり上げて読経ば続けらっ しゃった。そっでとうとう牛鬼は頭と手だけ残して消えてしもうた。耳だけ切った頭ば都に送り、手は お寺に宝物として残し、切った耳ば山に埋めた。そりで耳納山ち言うごつなった。
  (三)    ※篠原稿
 神功皇后が三韓征伐に行て、戦死した味方ん者の耳ば片身に持って来らしゃって、こん山に埋めち供 養せらしゃったけ耳納山ち言うちげな。

油屋騒動

※筑後松崎史98

 宝暦ち言うけ、今から二百二、三十年前、久留米ん侍が大阪の油屋ち言う旅籠で患うて寝込うでしも た。久留米から介抱に来るち言うこつも遠すぎるし、困ったが幸い、此処のお清ち言う女中が親身にな つて看護してくれたけ、ようよ元気になって旅立ちが出来た。お互い若っか者同志、看護しよるうち仲 ん艮うなってもう妊娠しとったけ、立ちぎわ侍や「江戸詰ん終って二年後久留米さん帰っ時、間違わん ごつ迎えに寄って、連れち帰り晴れて女夫になる。くれぐれも体ば大切にして元気に子供ば育てておっ てくれ」ち約束して行った。お清はそん明けの五月、丈夫な女ごん子ば産んで、侍の約束ば楽しみに子 供育てよったが、二年たってん梨の礫で、何の便りもなかもんぢゃけ、たまらんな大阪にある久留米藩 の蔵屋敷問い合せてみたら、二年前そん侍ぁ江戸詰ば勤めち久留米さん帰っとるちわかった。びっくり 仰天してお清は二つになったばっかりの娘ん手ば引いて走るごたる気持で、ようやく久留米と目と鼻ん 筑後松崎までやって来た。はしたなかち思われてん不加んけ、此処ん油屋ち言う旅籠に宿とって、久留 米ん侍に迎い来るごっ便いば出した。腹も立つが、なつかしゅうもある。不安な気持で待った。返事は 「体ん調子の悪かけ明日か明後日来る、」ち言うこつ。いよいよ不安が太となった。ようよ明けん日の 昼頃来たが、別れた時のごたる元気はのうして青白か顔。可愛かはずの娘見てん浮かん顔。でんまー夫 婦の契ばした仲ぢゃけ、話しゃ山んごつある。侍やうまいとこ言うて親子二人ば、松崎のはずれん松林 ん中に連れこうで斬殺してしもうた。そげなムゲーこつせんでもよかろうにち思わるるが、実は侍や養 子の身で嫁御も居りゃ子供もおったもんぢゃけ、困ったあげく斬殺してしもたっぢゃった。侍や親子ば 殺して、知らんふりして油屋さん戻って夕食ばもらをうち注文した。ところが三人前、女中がお膳ば持 って来た「いや、もうあの親子は大阪へ帰ったから、俺の分だけで良か」ち言うたら女中が笑ながら「
二人りゃちゃーんと横にござるぢゃんの、ヂョウダンばっかり」ち言うたもんぢゃけ背中から水浴びた ごつゾーッと身の毛んよだって、侍やそこそこに油屋ば出て行った。そりから、親子ん幽霊に崇られち
、何処に行ってん三人前んお茶んでるもんぢゃけ気違(キチ)げんごつ、あらんこつば口走り、とうと 武士の勤まらんごつなって浪人させられてしもうた。そん後ある和尚さんの導で剃髪して罪ほろぼしの 諸国行脚に出て行き母子の霊安かれち、紀州の高野山に登って死ぬまで祈ったち言う話。

有馬猫化騒動

※筑紫野民譚集461

 久留米の八代目ん殿様、有馬頼貴が雲州松平出羽守の娘ば嫁ごにしたが、嫁御についてきた高尾ち言 う女中が、江戸屋敷で、ある時、殿様囲うで宴会しょった時、どっからか猫ば追かけち、飛び込うで来 た太か犬ばすばよう打殺した。殿様はその手際に感心されち、何か欲か物ば褒美にやろうち言わしゃっ たが、こん逃げて来た猫ば下さいち望うだだけぢゃった。そんすかっとしたとこば見て、殿様な可愛う 思うて愛妾にせらしゃった。何でん高尾、高尾ち言わっしゃる。そげんなっと前から居る久留米ん家中 から上ってきとる奥女中どんが、後から来たヨソモンに先ば越されたち、高尾ば憎うで、いっちょん言 うこつ聞かんなニクジばっかりする。高尾は困って自殺してしもた。そしたら高尾に可愛がられよった 奥女中どんがニクジしよった女中頭の老女ば主人の仇ち言うて、そん部屋に斬込うで行き、返って斬殺 さりゅうでちした。そしたら高尾が褒美にもろとった猫が飛び出て来て、老女の咽喉笛に噛みついて喰 い殺した。高尾と老女が死んだけ屋敷あ大騒動になったが、高尾の弟にお金ばやって隠便に片づけた。 ところがそん弟が金持って帰ろでちしょって殺された。そしたら屋敷内の火の見櫓ん下で弟ば殺して金 盗った足軽が猫から噛殺された。同じ火の見の下でそん次ぁ妊娠しとる殿様ん愛妾と女中二人が噛殺さ れた。そっでとてもいろいろ噂が江戸に流れた。猫はそうこうしとるうち山村典膳のおっかさんば喰殺 して生血ばすすって、おっかさんに化けた。ある晩宿直に当った典膳が殿様んお供ばして庭に出たら怪 しか影ん動いた。噂も立っとる時ぢゃけ、典膳な抜く手も見せん早技で斬付けた。勤ば終って家に帰っ てみっとおっかさんが風で落てて来た竹竿で眉間ば怪我したち言うてすぐ引込うでしもた。前から怪し かち見とった典膳な母ん部屋に忍うで行って見ると猫の姿になっとる。そこば斬ろうとしたら逃げられ た。とても一人ぢゃ手に負えんち、その頃角力に負け、しょぼくれとった、有馬藩お抱えの力士小野川 に頼うで、二人して火の見櫓ん下に行て、土蔵から火の見櫓に逃げ上ろうちした猫ば芽出度う退治して しもうた、ち言う話。此が有名か有馬猫化け騒動のあらましたい。

久留米の名の由来

※市誌上300

(一)
 昔々の大昔、日本全部にゃアイヌが住んどったげな。そりぱ高天原から来た者が攻め立てち、追出し たげな。アイヌん者な攻めて来た者は「日本の男ん子」ち言う意味のクルミち言うてえずがったげな。 そんアイヌ語んクルミが訛っていつかクルメになったっげな。
(二)
 昔あ、京町の日吉神社に祭っちゃる「玖留見神」がこゝんにきの氏神さんぢゃったけ、こん玖留見ん 訛って久留米ち言うごつなったつぢゃなかろうか。もともと玖留見ちゃ呉羽の訛ったつで、呉族の神様 ぢゃんの、呉族は服布地ぱ織る中国の呉ち言う意味で昔ぁあっちから移民のあったつぢゃろ、クレに関 係のあるクラウチ、クロダ、カンチンタンち言う地名でんあるけんの。
(三)
 昔々、こゝんにきゃ神武天皇の家来に大久米命ちおらしゃった入ん領地ぢゃったっぢゃなかぢゃか。 久米ちゃクリクリ目の意味のあるけ久留目から久留米になったっぢゃなかろか。

動かぬ聖観音(北野)

※篠原稿

 衆生済度のため全国ば廻りござった行基菩薩が豊後ん日田から久留米さね、筑後川ば下りござった舟 に、一本の木ん吸い着いたごつ、離れんなついてくるげなけ、行基菩薩は不思議に思われち弓削村ん七 ヶ瀬に上られて、木ばようと見っと観音のお姿ん見ゆるげなけ、そっで此処に小まか庵ば造って、お経 ばとなえながら、此の木で聖観音の御像ば彫らしゃったげな、出来上った御像はさすがに尊かお姿で、 誰でん思わず手ば合せち拝んだち言う。行基菩薩はこん像ば庵にそのまゝお祀りして、庵の名ば妙永寺 とつけらっしゃったげな。そりから村ん者な誰でん喜うでお参りしよったが、五、六百年もたった時こ こんにきゃ大雨んあと大水なって、こん聖観音さんも流されち、石崎の円勝寺の境内に上らっしゃった げな。そして不思議な事に、晩になっと光らっしゃるげなけ、尊か御像ち思うて石崎の者な、丁ねいに 御祀りしたところ、そけ七ヶ瀬ん妙永寺から御本尊さんの流れたけんち尋ち来て、引取りの相談したも んぢゃけ、そりゃ戻さぢゃち、気持よう石崎ぁ返事したげな。明けん日七ヶ瀬から輿持って迎えに来て
、さー輿に乗しゅでち抱えたらビクとでんせんな、とてん根の生えとるごつしてどげん動かそでちして みたっちゃ動かんげなけ七ヶ瀬ん者なガックリなって空ん輿ぱ槍いで帰って行ったげな。そん晩、石崎 の村世話人の枕上に聖観音さんの姿見せち「今迄七ヶ瀬の者ば助け、仏の恵ばあたえて来たが、こりか らは石崎に居って、衆生済度をする」ち言わしゃったげな。そりから石崎の者ななお信心するごつなっ たち言う話。

櫨の紅葉

※三井めぐり65

 むかし、こん筑後んどっかん櫨畑ん中に分限者どんの住んどらしたち。田ん中千町山千町ち言う物持 ぢゃったが、とてんシワンツで、偉ばっちらけーて、誰でんから嫌われとらした。嫌われとってん分限 者ぢゃけ平気なもんたい。いよいよ秋なって取りあげになった。人ば虫かなんかんごつ思うて人使いの 荒かこつが、稲刈りゃ朝ん暗かうちから晩な真暗なるまぢ何日でんやーやー言うてこき使う。あと一日 でそうよ刈あぐるごつなった六日目、長者どんな今日で仕舞かすと一日分、費用ば払わんちゃ良か、今 日どげんしてん終えかそち。ところが、今日に限って日の暮れん早ようしてどうしてん明日一日はかゝ るごつある雲行きなった。こすか長者どんな、よーしち背振ん山に沈もうでちしょったお天道さんの方 ば向いち、「もーし、お天道さん、まーちょいと沈むとは待ってくれんの、まー一刻沈まんなおってく れの」ち大声あげち大きな団扇であおいだ、あおいだ。と、こりゃどうか沈みょったお天道さんがすー つと、そりこそ真赤になって登らしゃって、ぱーっと田ん中一めん赤うなったと思うたら赤か火矢ん何 本も何千本も何萬本も長者どんの屋根に飛うできて、突きさゝった。お天道さんが赤かか、長者どんの 屋根が赤かゝ。とバーッち火の手ん上って長者どんの家から庭に積み上げとった稲山もメラメラ燃えあ がった。長者どんな早よ消せ、早よ消せ加勢せろち百姓どんに気狂のごつ命令したばって、だーりん消 そでちする者なおらんぢゃった。ポカーンちなって見物しよるだけぢゃった。メラメラ燃ゆる火の赤か こつ、赤かこつ、山でん畑でん空でん、人間でん赤うなって畑ん櫨も赤うなって、とうとう長者どんの 屋敷ぁ趾形もなかごつ燃けっしもうた。畑ん櫨もそりから赤うなって毎年秋んなっと燃ゆるごたる赤に 染むち言う話。

殿様の犬スベツ太郎

※筑後七、五18・石原家記上511

 昔、備中か備前のある村ぢゃ晩になっと得体の知れん化物が出ては人を喰い殺すけ、ほんにこまっと ったげな。ふしぎなこつ、こん化物が人ば喰い殺す前にゃしゃっち、「ウテヤ ハヤセヤ スベッタロ ウニ サタスルナ」ち言うげな。偉らか坊さんに聞いたら、「こりゃスベッ太郎ち言う犬に知らすんな ち言う意味ぢゃから、一ちょスベッ太郎ち言う犬ぱ探して来りゃ、わけのう退治するこつの出来ゅう」 ち言わしゃった。あたでスベッ太郎ば探したが見つからん。そんうち、参勤交代で有馬ん殿様がこん村 ば通りかからっしゃった。行列についとる大きなか犬がスベッノ太郎ちわかったけ、村ん者がわけば話 して犬ば拝借した。そしてそん化物ば退治したげな。噛み殺された化物なふとか古狸ぢゃったち言う。 こりゃあ犬の有難か話になっとるが、地元久留米ぢゃ反対に犬のため命ば落した腹ん立つ話の二つもあ る。一ちょは、お城の掃除役ばしよった身分の低か六左エ門ち言うとが話。ある日、六左エ門がいつも んごつお城ん中の掃除ばしよったとけ、野良犬の迷い込うで来て、祝んお供物ばくい荒すもんじゃけ、 役目柄、棒持って追いたくったところ、逃ぐるどころか、しかかって来る。ばって生物ば殺しちゃなん ち言うお上からん命令のある手前、シーシ言うて棒ば犬あたらんごつ振るばっかりぢゃった。そっで犬 ぁ六左エ門ばなめちなお仕掛って来た。フの悪かこつ、犬の飛び掛って来っとに振った棒ん先のちょい と当った。そしてそりが急所に当ったっぢょろ。キャンち一声泣いてドターッぢ倒れて死んでしもた。 さー大ごつも大ごつ、殿様の留守中、しかもお城ん中でんこっぢゃけ、留守役の有馬内記とか本庄加兵 衛とか偉か家来衆は閉門、掃除頭は閉戸ち言う科うけた。とほむねーこっち言いやとほむねこつばって
、そりよか泣いてん涙でん出らんち言うとは当の六左エ門たい。言い訳なしで打首なってしもうた。そ してその明ん年又犬ば殺した科で打首になった者がおっとたい。そりゃその、ちょうど九月の朔日(ツ イタチ)の朝、通町十丁目ん出口ん処に、たたっ切られた犬の一匹死んどつたこりも又大騒動んごつな って、誰が殺したか、五十日以内に犯人ば知らせた者にゃ銀五十枚褒美にやるち札の辻にゃ高札まで建 てち探しかかった。いくら将軍様からん命令ち言うたっちゃ、こげんまでせんで良かろにのーや。殿様 にゃ殿様ん立場んあったつぢゃろばってん。ようよ九月の終りなって、殺したつあ坪池八左エ門ち言う 御武家さんの仲間ちわかった。我が子が目の前で犬にかみつかれよっとば見たなら、将軍さんでん、殿 様でん、そん犬ば打殺すとは当り前ぢゃろもんに。前ん年の六左エ門と同じごつ、仲間も言いわけ無用 で打首。ほんなこつムゴか話たい。御時勢の違いぢゃったちゃ言うもんのの。

燈篭灯しと愛宕さん

※石原家記上449

 今から三百年ばっかり昔、通町七丁目に、ほんに愛宕さんば信仰する提灯屋のあったげな。ある年七 丁目が火事なって大分焼けち、提灯屋だけが焼け残ったち。そりも両隣ゃ丸焼けぢゃたけ、皆不思議が って聞いたら、愛宕さんからもろうて来た火ば大事にして、七月二十四日ん燈籠ん火種にして軒につる さげとるけんぢゃろち話したげな。そりから七月二十四日にゃ七丁目町内全部が、燈籠ばつるすごつな ったげな。勿論愛宕さんから火種ばもろうち来て。こん話のだんだん広ろうなって、久留米中が七月二 十四日に燈籠ば軒につるごつなったげな。もともと愛宕さんな有馬藩四代目ん殿様が芝増上寺の火の番 ば受け持たしゃった時、火事ん無がごつち、祈願して建てらっしゃったお宮さんで、火の神様んぢゃけ
、御利益のあっとぢゃろたい。

悪筆佑筆

※翁・耳袋一 221

 むかし役目がらちゃ言いながら、とても字の上手か祐筆の侍の居らした。こりゃ江戸でんこつぢゃい
、久留米でんこつぢゃいわからんがの。こん侍さんな非番の時ぁよう神社てん、お寺さんば見っとが好 きで廻りよらした。ところが、行く先先で不思議なごつ風釆の上らん、背のこまか一人の浪人ば見かく る。ある時ぁ鳥居の前に立って題額の字ば見ながら空にその文字ば書きよる。ある時ぁ絵馬堂ん中に掛 っとる絵馬額の文字ば見ながら空に手で字ば書きよる。そりも一心になって何遍でん書きよる。そん姿 ば見て侍さんなよっぽど字の上手か浪人ばいのち思うて、とうとうある日声かけらっしゃった。「そこ もとは余程の能筆家でござろう。いやいや如何にケンソンなさろうとも文字を見らるるそこもとの態度 を見ればわかるものぢゃ、よかったら当久留米藩に仕官する気ばござらぬか。その気がお有りなら拙者 が推薦致しましょう」「生来、実の悪筆でこざるが、悪筆でもよろしかったら、是非とも御取り成し下 さい」ち浪人な堂々と侍さんに頼うだ。そして祐筆見習ち言うとこで久留米藩の家来になった。祐筆の 侍さんな字の上手か部下ん出来たち喜ばしゃった。ところが喜うだつも束の間いよいよ字ば書かせち見 てガックリたい。その字の下手のなんのち、下手ん下に糞んつく、ほんなこて悪筆で下手糞、とても公 式の書類ぁ書かさるもんぢゃなか。ばって上役に、「この男は祐筆には不向きです」ちゃ自分が推薦(
スイセン)した手前言われん。男振りでん良かなら徒士に回さりゅうが、背は低し、面はビキタン踏ん せーだごつしとるもんぢゃけ困ってしもうて、使走りの小使どんさせござった。眞面目で尻ぁ軽るし使 うとにゃ使いよかけすぐ暇やるわけも出けんし。一月たち二月、三月ち日のたって行くうち、見習や見 習で、使走りばっかっで確(シカ)とした役目ば命ぜられもんぢゃけ、ぢーつと考えたろち言うもんた い。永か浪人生活からようよ抜け出たち喜うだが又何時浪人になるか知れん。心うちこうで字ば稽古せ にゃ、ち。そして嫁御に事情ば話して三年間里帰りさせち、一所懸命、祐筆の侍さんに付いて、字の練 習ばした。寝るとは二時間ぐらいにして心から稽古したもんぢゃけ三年たったら先生格の祐筆の侍さん より上手になって、見習からほんな祐筆になり、だんだん出世していったち言う話。

隠れキリシタンのこつ

 日本も御維新になって、キリスト教信心してもよかろうち言うごつなったけ、長崎からわざわざ三井 郡の今部落の隠れキリシタンに話し合いしゅうち尋ねて来た時の御井町の旅館(ハタゴ)でん話てん、 葬式のこつてん、安国寺やら徳雲寺さんのこつてんキリシタンについてん悲しか話のあるが、いつか又 ゆつくりなつてから話して聞かしゅうたい。

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