伊勢の宮の面(中央)
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※篠原稿
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戦争で焼くる前まじゃ紺屋町ち言うて芸者ん多か町のあったが、そこに伊勢大神宮さんば祀ったお宮
さんのあった。此処んお宮さんの中に二つお面の掛かっとったが、一ちょは猿田彦命の面、ま一ちょは
天鈿女(アメノウズメ)命のお面ぢゃった。氏子ん者(モン)な猿田彦ん面ののーなった時ぁ火事の出
来、天鈿女命ん面の、目かからん時ぁ大水の出っち言うてとてん大事にしよった。紺屋町ちゃ今ん三本
松公園の東北ん隈ぢゃった。
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汗かき不動(中央町)
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※住職
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昔、米屋町の妙泉寺さんに、汗かき不動ち言うて願ごつば叶えらっしゃる石の御不動さんの祀っちゃ
った。山門ば入って右んとこにござった。一心に願かくっと、水もかけんとに、じワーッと濡れち、ほ
んなこて汗かきござった。誰でんそりば見て「あーこげん一所懸命なって御不動さんの働いてくれござ
る」ちとても有難がって、参り手は一日何十人ちありよった。よう紺券新券の芸者どんも参り来よった
が、どげな願ぢゃったぢゃい聞いときゃ面白かっつろ。
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焼けずの弥陀(中央町妙泉寺)
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※住職
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祖母さん達ぁ妙泉寺ん御本尊さんは、焼けずの阿弥陀ち言うて、ほんに有難がりござった。なんでん
火事三遍も逢はしゃったげなが、不思議と焼けらっさんち。第一が百五十年ばっかり前ん初午火事ん時
のこつ。荘島から焼け出してお寺もそん風下ぢゃけ丸焼けするし、もう久留米ぢゃ四百七十軒も焼け
ち、ほんな焼野が原になったげな。ただそん焼野が原にポツンち一棟田町の土蔵ん残っただけぢゃった
げな。こん土蔵は細工町の者のつぢゃった。妙泉寺ぢゃ焼跡ん片付けどんしよったところが、土蔵ん中
に阿弥陀さんの御座るち、飛うで細工町から知らせち来たげな。お住っさんも門徒も半分なマサカち思
いながら片付くっとば止めち蔵さん行て見らしやったら、ほんなこて阿弥陀さんの立っちゃったげな。
久留米ん町半分が丸焼けんなる大火事で煙も火の粉も飛うで来よる最中ぢゃ、我が身守っとが精一パイ
とけ、誰がお寺からあげんとこまでこん太か本尊さんば運びきろか。しかも蔵にゃカギのかかっとに。
こりゃきっと本尊さんの、自分で難ばサケなさったつぢゃろち評判になったげな。二番目んとは大正六
年、本堂ん下に寝泊りしよった乞食(ホイト)が雨に濡れち、着物ば乾かしよって火事なった時、やっ
ぱ本堂ぁ焼け落てたが、なんと、そん時ぁ、ちようど親鷺さんの六百年大法要ばしゅうでち、日吉町の
能登原に補修してもらをでちあずけちゃったげな、そっで焼けんな済んだげなたい。三番目はこんだん
空襲ん時たい、新聞ラジオぢゃ日本軍がとてん強かごつ勝ったごつ言よるばって、どうも、そりゃあや
しか、東京でさえ空襲されよるけ、久留米も近けうちやらるるぢゃろち心配して今ん住職さんの阿弥陀
さんな疎開さすでちせらしゃったげな。そしたら先代の住職さんが老いの一徹、絶対本堂から阿弥陀さ
んな出しちゃなん。出すとかえって焼くるち言うてきかっさんげな。そりばって福岡も空襲されよる
し、先代ば都合良う言うて避暑に行かんのち追いやって、毎日夕方ん勤めん済んだなら本堂から裏ん納
骨堂さん移し、朝ん勤めになっと納骨堂から本堂さんなをしござったげな。毎日そげんしよってちよう
ど八月の十一日ん朝どうしたこつぢゃい、暗かうちから用ん出来て、とうと朝んお勤ん遅うなってしも
たげな。帰って来てさー遅うなったばって朝んお勤めしゅうち、納骨堂さん御本尊さんば迎えに行きよ
ったら空襲ん始まったげな、そっで本堂は又焼けちしもうたが阿弥陀さんな焼けんな難ばのがれらっし
ゃったげな。そりから焼けずの阿弥陀ち言うて誰でんお参りするごつなったち言う話。こん妙泉寺さん
の御本尊さんな寄木造りの御立像で、行基菩薩のお姿ば写したらしゅうして金泥塗りぢゃのうして墨染
の衣装になっとらつしやる。
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ふゆる石(中央町)
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※篠原稿
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あたしどんが小まか時の話ぢゃが、法雲寺さんの裏通りに御獄教会さんのあったたい。こん教会さん
の前ん小石が、どうしたこつじゃいふゆるけ、石が子ば生むとぢゃろち言よった。ほんなこてどんどん
ふゆるけ時々ぁへらしござったふうばって、やっぱ雨どんが降っとすぐふえよった。不思議な事(コツ
)ぢゃんの。
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犬に生れて報思(中央町)
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※鶴久二郎文庫
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昔ち言うてん文政の頃、細工町に柳屋ち言う呉服屋んあった。此処ん壇那さんの弥市ゃよっぽど運の
無かつか二遍もバンザイして、大阪辺りの問屋にゃ一文の支払も出けんち言うて店ば閉めとった。ばっ
てあんまり長う閉(シメ)とっとお客ば失うちしまうけ、「商売より他にゃ能んなか柳屋ばまー一ペン
助けち下さい」ち大阪辺りの問屋に泣きついて、ようよ近江屋てん越後屋から品物ば出してもろうた。
今(コン)だしっかり張り込みよったけ、どうやら見透しんつきかかっとった時、庄島から出た火事で
此処(ココン)にき一帯が焼けっしもうた。こん火事ば初午火事ち言うが、どうした運の良かこつか柳
屋だけは焼け残った。大阪にもこん大火事ゃあわかっとったけん「申し訳なかが火事で支払の出けまっ
せん」ち空言(シラゴツ)言うてやったら近江屋も越後屋も何んの促(サイソク)もして来んぢゃった
。焼跡にぼちぼち家ん建ち始むっと、柳屋は誰でんびっくりするごたる、土蔵造りの豪放な家ば建てち
、そりからとんとん拍子で忙しゅうなり、そりゃー此処にきにゃ見られんごたる呉服屋になった。そり
から十七年たった或る日、寝とっ処に身内ば寄せて「私や死ぬが、白か犬に生れ変って、こりから大阪
の大恩ある問屋さんの盗人ん番ばする」ち言い残して死んだ。大阪から来た問屋の番頭が、こん話は聞
いて帰って、早速主人に話すと、不思議なこつに此の二十日ばっかり前から店に白か小犬の迷(マヨヒ
)込うで来て、頼みもせんとに一晩中朝まで、店先に番しとるち言う話。猶主人な番頭の話が本なこつ
か、どうか、小犬ば弥市、ヤイチち言うて呼んでみっと表に居ったっちゃ、飛んで来て主人に尾ば振る
もんぢゃけ皆びっくりした。こん話ば聞いた者(モン)ないろいろ取沙汰して、町の評判になった。
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