大隈(オオクマ)天満宮の御神体(梅満)
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※筑後志153
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もともと大隈(オオクマ)にゃ氏神さんなあったつばって麟圭と良寛が、高良山の座主になろうでち
兄弟喧嘩始めたおかげで、肥前の竜造寺、豊後ん大友が、此処んにきで大戦争始め、そん側杖で、つん
燃やされちしもうたげな。そっで、ま一ちょお宮ば建てにゃんごつなったが、そん頃はそげん大隈にゃ
人ん住んどらんぢゃったもんぢゃけ、急にゃ建てきらんな、お宮ん焼け跡に、千年の松ち言うて松ば一
本植え天満宮さん代りにお祀りしよったげな。ところがある年、大隈も水つかりゃせんぢゃろかち言う
ごたる大水のいって、村中そん一本松のとこに集まって水の増ゆっとば心配して見よったげな。上から
何んでんプカプカ流れち行く、家でん流れよったろたい。と皆んな立っとる岸さん何かスーッち流れよ
って来たげな。拾い上げち見っと天満宮さんの御神像げなたい。はー勿体なかちすぐ小まか祠ば造って
粗末ならんごつお祀りしたげな。ところがこん御神像は上の方ん長門石の天満宮さんの御神体ぢゃった
げな。長門石ぢゃ大水で氏神さんの流れて行かしゃったもんじゃけ、ばさろ心配して探しかかったげな
。ばって大隈に流れ着いちゃるち知れち、喜うですぐ貰い受けに来て持って帰ったげな。そりから又一
ケ月もせんな大水の出たげな。そして不思議なこつに、又そん御神体の流れてこらしゃったげな。そう
たいそん千年の松の処さね。そっで大隈ん者も長門石の者も、此処さねこげん続けち流れて来らっしゃ
っとは、神様が此処ばよっぽど好いちゃっとぢゃろ。こりゃ此処にお祀りしたが良かろうち考え、正式
に長門から大隈さん御神体ば贈って祀るごつなったつげな。
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宮の木長者(梅満)
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※久留米めぐり32
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昔、津福に宮の木長者ち言わるる分限者どんの居らした。子は娘ん子一人ぢゃったけ、目に入れたっ
ちゃ痛なかごつムゾがって、育っとば楽しみしとらした。おかげで年頃になり、隣村ん西野長者の息子
と縁談のきまった。いよいよ嫁入りの日になったら如何したこつぢゃい、昨日からん雨ん止むどころか
大降りなって大水の入ろごたる荒模様。とてん嫁入りゃ日延べでんせにゃち仲立ぁ気もうだが、黄道吉
日で決めたこつぢゃし、うっ立ちの時刻も近うなるし、ばって土居や増えちくる水で通られんごつなる
。こりばジーッと見よらした宮の木長者どんな、よーし勿体なかが、稲束敷いち嫁入りさしゅうち心ば
きめち、近所から隣村から、勿論我が家(エ)に小積うどる稲も出し集めち、土居の上にずーっと敷並
べ、ようよ娘ば嫁入りさするこつが出来た。そりから何年かとてん長者どん同志うまいとこ仲良ういき
よった。ところが或る年ひどか旱魃で、西野長者ん作男どんと宮の木長者ん作男どんが水喧嘩始めち、
死人まぢ出す騒動になった。そっで今まぢ都合良う行き来しよった長者どんたちぁプッツリ出入りせん
ごつなり、娘は一人残して来た親にでん逢い来られんし、宮の木長者は下男どんが手前、孫見げでん行
くわけにゃいかんしで、到頭二十年目に、娘に逢いたか、逢いたかち言いながら死んでしもうた。そっ
ぢゃけ誰でん、「いくら長者どんでん、どげん娘ん嫁入りが大事ち言うてんあん時、あげん稲束ば土居
敷いたりしたけん罰の来たっぢゃろ」ち、其ん後噂しよったげな。長者どんな死ぬとん自分でわかった
つか、家にある財産やら宝物(モン)ば人にわからんごつ、或る処(トコ)に埋めちしまわしたげな。
そしてそん場所ば知らする文句ば歌に残しちゃるち言う話ぢゃがそりゃあたしゃ忘れたけ言いきらん。
稲束敷いた土居や稲土居ち言うて明治ん中頃まぢ津福から安武さん行くとこに残っとったげな。
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