薬師如来(山本町永勝寺)

※柳坂山むかしもの語

 今から干三白年ばっかリ前。天武天皇の御后が病気せらしゃったけ、それ医者よ薬よ、やれ加持祈祈 祷よち養生せらしゃったが、なかなかすっきりならんな、とうと此処ん御本尊薬師如来さんにすがらっ しゃったげな。そしたらすぐ良うなんなさったち。そっで霊験あらたかな御本尊さんち噂ん高うなって
、水勝寺さんな九州ぢゃ珍しかごつふとかお寺さんになったち。ところか豊後ん大友宗麟が此ん筑後ば 攻めち来て、自分がキリシタンちゃったもんぢゃけ、邪教は焼き払えち家来どんに命令して、手向う者 な斬リ殺し、宝物なおっ盗って水勝寺は灰になしてしもうた。ようよ戦(イクサ)んしまえたけ逃げと った村ん者も柳坂さん戻って来て、こん有様にガックリなった。こげん焼けとるけもう御本尊も脇士の 日光、月光菩薩も十二神将の御像もお寺と一緒に焼けちしもたちゃろち思うとった。ところが山ん陰に
、御本尊さんは真中(マンナカ)に全部の御像か焼けも焦けもせんな立ってござった。こりゃ自分で難 は避けちやっとぢゃった。そって村の者な力あわせて草葺ぢゃあるが御み堂ば建てた。ちっとづつでん 昔のごたる寺にしゅうち皆、はりこみよったところが、何年かして毛利秀包が久留米城主になって来て
、又々邪教焼払いば命じて永勝寺ば焼きたくってしもうた。此ん時も不思議なこつに全部の仏像は、自 分で山ん陰さん難は避けられち無事ぢゃった。村ん者も信者も、こん仏力に感心して、いよいよ深う信 ずるごつなった。ばって仏教は邪宗ぢゃち言う毛利の殿様の目ば怖(エズ)がって今度(コンダ)ぁ仮 の庵も造らんで、山向うん鉄ば堀った跡ん穴にかくした。何年かたったら毛利に代って田中吉政が殿様 になって来た。そしたらこんかくしとった山から晩になっと光明んさすもんぢゃけ、吉政の家来か探し に来て御像ば見つけ、吉政に報告した。吉政は勿体ないこっぢゃち言うて村民が庵ば建つるこっば許し て、お祀りさせたち。

御供の小豆飯(山本町永勝寺)

※柳坂山むかしもの語

 昔、永勝寺さんぢゃ、この十一月の十二日にゃ千光寺さんからまで坊さん達ば呼うで来て、ふとかお 祭ばしござったげな。そしてこん祭の時にゃ小豆飯ば炊いて仏様に御供えして、祭のしまゆっと勿体な かが穴堀って、こん小豆飯は埋めっしまいこざったげな。なし埋むっとかち言うと、こん小豆飯ば喰べ どんすっと死ぬち昔から言われとったけんげな。ところが、あの有名か百性一揆んあった享保ん頃、埋 むっとんせからしかったつか、うっかりしてか外に捨てたげなたい。そしたら鳥が飛うで来て、そん小 豆飯ばつついて喰うて、パタパタち二、三遍羽ばたきしてコロッと其処(ソゲ)死んでしもうたげな。 こりば見た信者んもんな、昔からん言い伝えと仏様ん霊力にビックリして、そりから後ぁ、しきたり通 り穴堀って埋むるごつなったげな。

千光寺(山本)

※久留米碑誌369

 八百年ばっかり前、肥前の背振山ん葉上庵で、中国から持って来た茶の種から苗木造って皆んなに、 茶の栽培ぱ教えござった千光上人が、ある晩、東の方ん空ぱ見らしゃったらパーッとまぱいかごつ光り の出とるとこん目についた。こりゃ良かこつの前知らせち見当ぱつけて尋ねて来らしゃったところが今 の千光寺さんのとこぢゃった。とても山も木も水もきれいかったけ、此処(コケ)お寺ぱ建てち、千光寺ち名づけらっしゃった。

榧木(カヤノキ)観音(山本)

※三井めぐり79

 今から千三百年以上も前ん話。此処んにきば治めとった殿さんの如たる草野の太郎常門ち言う人が、 山本に居らしゃった。狩が好きで、よう犬つれち山さん入りござった。ある日いつもんごつ猟に出らし ゃったが、どうしたこつか朝から一匹でん一羽でんエモノん目かからん、犬も走り回ってついて来るば って目にかからん。覚えんなどんどんどんどん山ば入って行きよったら、いつの目にか虹峠も越えち豊 後領まで来てしもた。雨もパラつき出して日も暮れかかる、困ってしもて一晩泊まっとこぱ探して、山 ば下りよったら大きな屋敷の目についた。すぐ門ばたゝいて案内ぱ頼むが、屋敷ぁ気色(キショク)の 悪かごつ静かで誰でん居るごつぁる風ぢゃなか。つかつか内さん入って玄関口立ったら、お経ん声の聞 えちくる。又頼もうち言うたらお経ん止んで、ようよ中から娘が出て来て常門見るなり泣き出した。わ けば聞くと、こ処はこの附近一番の分限者で原の長者ち言われとった日下部春里の屋敷で、千人からん 家来も居ったつぢゃが、父の春里が夢のお告げでこの上ん串川山に生えとる千年もたつ榧の大木で干手 観音さんば刻もうち切り倒しゃしたもんの深山(フカヤマ)んこつぢゃけ山出ししきらんな、そんまま にしとった崇で毎晩鬼が出て来て身内ば一人ずつ取り殺し、もう今夜は一人残ッた自分ば鬼が取り来る け、別れの御経ぱ上げよっとこぢゃったち話した。常門な弓矢にかけちゃ自信のあるもんぢゃけ、「心 配せんな、今夜は寝ときなさい。私が鬼は退治する」ち、つれち来た犬三匹と夜の更くっとぱ待って、 何時鬼が出て来てん良かごつ弓に矢ばつがえとった。常門がちょいとウトウトしょったら犬がホえ出え た。鬼よさー来いち常門な構えなをして鬼門の方ばニロどった。と、さーつと風ん吹いて来たかち思う と鬼が現れた。犬三匹が三方から飛かかり、ホエかゝる。鬼が犬に気ば取られた時、観音ば念じ常門な ネライ定めち矢ば射込うだ。命中すっと同時に耳のつん破るるごたる音んしてパッと鬼ぁ消えた。夜の 明くっとも待ちきらんごつして鬼が流て行た血ば伝うて行くと、話の串川山ん大榧んとこさん出た。見 ると切倒されとる大榧にブッスリ矢のぬかっとる。昨夜の鬼ぁこの榧の霊かち妙な気持で矢ば抜いたら 急に回りん黒うなってポッと目の前に坊さんの現れち、「この木は千手観音の霊木である、この霊木に 矢ば射込むとは不届き至極、ぢゃがこの霊木で千手観音を造って供養するなら、罰は消え、身には徳が 重なるであろう」ち言うて又パッと消えた。常門な霊木に手ば合せ「仰はわかりましたが、この深山か ら霊木を出すとは人間の力ぢゃどうしてん出来まっせん、どうか霊力で川まで出して下さい」ち頼うだ 。まーそげんして山ば下って山本まで帰って来たところ、そん晩から大雨になって二日目ん晩にゃ不思 議や不思議、神代ん浜にそん榧の木ん流れついて光りよった。村からの知らせで常門なかけつけち来て
、うやうやしゅう手ば合せ、「此処までお出下さって有難うございます。しかし私の館はこの上流です 。どうかもう一ペン上さん戻って下さい」ち祈った。そうすっと又、その晩上流さん逆上って来らしゃ った。常門が身を清めち、岸の霊木についとる枝ば斧で切り払うたところ、赤か血んすたすた出て来た 。「ああ勿体ない」ち持っとる斧ぱ投げ捨てち、その霊木ば拝うだ。其処ばそっで勿体島ち言うごつな った。そりから千手観音ば造って観興寺にお祀りしたち言う話。

池の谷(山本)

※筑後国里人談第一話

 昔、山本町と八女郡の境になる升形峠ん横に、たった二丈たらずの池んあったげな。こゝんにきぁ初 手から八女郡側ん草刈場所ぢゃけ、いつもんごつある百姓が一人で草刈り出て来とったげな。ところが 夕方近うなってんその百姓が帰って来んけ、兄弟どんが心配して峠さん尋ねち来て見たげな。と池ん側 に弟ん鎌てん畚(フゴ)てん、散らぱって、大声でおろうでみるばって何んの返事も無かげな。下って 一軒屋ん者に尋ねたら、「見かけんがの。ただ前もそげんこつのあってから、村ん者なあん池ん主が取 ったっぢゃろち言よるがの」ち話したげな。兄弟だんどげんも仕様なせ帰って、親類集めち、わけぱ話 たげな。そりば聞いち、皆腹けーて明けん日、村中に加セしてもろて、池ば埋めかけたげな。大方五、 六合も埋めた時、どっからか熨斗目(ノシメ)ん上下(カミシモ)ば着た十二、三才になる、立派な男 ん子が、三方に玉ば一つ乗せち、目八分に持って出て来て、皆ん前に置いて、「私はこん池に住んでも う何千年ちなりますが、こげん池ば埋めらるっと居っ所が無うなって困ってしまいます。どうかこん宝 の珠ば上げますけん、池ば埋むっとは止めち下さい」ち頼うだげなが、人ば殺す蛇(ジャ)のくせ何言 うかち、猶埋めかゝったげな。小供は一所懸命なって「こん玉は一チョですが、ひもじゅうなった時一 ペンなむっと腹一パイなって、とてん元気の出てくる宝ん玉です。こりぱ差し上げますけ、埋むっとば 止めち下さい」ち、せからしかごつ言うけ皆面倒になって「せからしか、あっちうせろ」ち言うて三方 ば蹴たくり返して「こげな玉が何なるか」ち玉ば踏んだくったげなりゃ、不思議なこつ、そん玉は白か 水なって南西の方さん、六、七町流れ出してそん男ん子は牛の子んごたる鳴声あげち白水の溜まった所 で一晩啼き明したげな、そりから白水の流れた処ばベンコ谷ち言い、啼き明したとこば「一夜の淵」ち 言うごつなったげな。そりから「一夜の淵」ば、四、五町下った処にある淵にそん男ん子は隠れて住ん だち言われ、そん淵ば「池の谷」ち呼ぶごつなったげな。

平礼石(山本)

※三井めぐり76

 大保原の合戦で勝ち戦にゃなったもんの、懐良親王は三ケ所の深傷ぱうけられち、こん山本で亡くな んなさった。家来と山本ん者な、やさしうして下さっとった親王様の戦死ぱ悲しゅうで千光寺さんの上 ん山にお祀りしてお墓ぱ造った。そうして下ん方から朝晩お参りすっとはもちろん、下ーん方ば通っと きぁ、こん石の上にきちんとすわっておごうだ。そん石がこの石で平礼石ち言われとる。

懐良親王の御墓(山本)

※三井めぐり44

 西征将軍の宮、懐良親王さんな、とても百姓にやさしかお方ぢゃった。高良山に残っとる願文見てん わかるごつ「こげん九州で何遍でん戦のあって百姓が苦しむとは、私が至らんからです、どうか私ぱ責 めち、早よ皆が楽になるごつ御神力ば下さい」ち、ほんにやさしか親王さんぢゃった。そっで足利尊氏 の家来と大保原で大いくきしなさって、刀創槍創、三ヶ所に傷ば受けられち、柳坂さん引上げちおいで になって養生なさったが、肩に受けられた疵(キズ)が、こん八月の暑さで化膿どんしたっぢゃろ、と うと亡くなんなさった時は村中ん者が悲しゅうだげなたい。そして菊池武光の家来達と一諸になって千 光寺の上ん丘で泣き泣き火葬にして、御骨ば葬ってその上に立派な塚ばついたげな。そりばって負けた はずの足利尊氏の方が日のたつにつれち勢の強うなって来たもんじゃけ、親王のお墓ば荒さるるかも知 れんち、村ん者が心配してお墓んすぐ下に供養塔ば建てち、敵の目ばごまかしたち言う、そん供養塔が 今でん三っ建っとる、真中ん太か宝篋(キョウ)印塔が懐良親王の供養塔で、そん両側ん宝篋印塔が家 来の一条大納言父子の墓ち言われとる。

福厳寺太刀塚(山本)

※筑後国里人談第六話

 文政五年のこっち言うけ、今から一五〇年ばっかり前ん話たい。放光寺村ん福厳寺に、大酒飲みの坊 さんの居らしたげな。そりゃー大酒飲みち言よか浴びるち言うた方が良かごつ朝から飲みよらしたち。 そっでん門徒ば何百軒ち持っとらす寺なら良かろが村ん門徒だけぢゃけ、酒代に困っちゃ寺ん物ば片 っパシから売りよらしたち。そげんしてもう売る物の無かごつなったもんぢゃけ寺ん前の大きな松に 目ばつけち、こりば通町ん六丁目の油屋清右工門に売りつけらしたげなたい。太か良か松ぢゃけ高こ 売れたげな。和尚さんな喜うぢ、寺ん側(ソバ)の荘作親子と近辺の百姓七、八人に頼うで松ば堀り 上げさせたところが、根の下から石棺の出て来て、石蓋ば取って見たら、こりゃどうか中に太刀の一 振り入っとったち。和尚さんなこりば見て喜ばすこつ喜ばすこつ。ところがところたい。そん晩から 和尚さん始め松やら石棺ば掘った者全部が大熱の差して、ガツガツ震のきて、ウワごつ言うち、村中 が大心配。もうこりゃ太刀の崇に間違いなかけち、明け朝、村ん者が太刀ばコトワリ言うち石棺に戻 して又、元んごつ上から泥ば盛ったら昼頃から五、六人の者な熱の引いたげなが、和尚さんと荘作親 子、そすと伊助ち言う百姓は熱の引かんまんま、とうとう死んでしもうたげな。

王藤内の墓(山本)

※翁・筑後志421

 昔、千光寺さんの開山何百年祭かで、お寺ん中に舞台造つて村中大賑いぢゃったち。そん時、芝やん 出し物が曽我兄弟の仇討ぢゃったげな。ところが晩になったらその役者どんな勿論、役者ばやとーた村 世話人達まぢ全部大熱のさして、そりゃー大ごつなったげな。遠かとっから医者どんぱ呼うで来たりし たげなばってなおらんげなもん。何日たってん熱の引かんげなたい。そうしたある晩、和尚さんの夢枕 に「王藤内の墓のあることを忘るるな」ち白装束の神さんのごつぁる人ん立たしゃったげな。和尚さん な村ん者、役者全部とつれだって王藤内の墓でコトワリの供養ぱせらしゃったげな。そしたらケロッと 熱の引いてしもうたげな。王藤内ちゃ曾我兄弟に討たれた工藤祐経ん身内ぢゃったけ崇ったっぢゃろた いの。役者だん「こげん太からめに逢うたこつぁ初めち」ち言うてホロホロくようぢ上方さん戻ったげ な。そりからこっち千光寺さんぢゃ曾我兄弟の芝やでん祭文でん崇らっしゃるち言うてせんごつなった ちう話。

狐の祟り(山本)

※篠原稿

 山本んにきの話ぢゃが、山辺に久吉ちシコ名もっとる狐が居った。正月になって何処かん家ん鏡餅ば 盗って来て、あんまり太かけ後で喰おうち畠ん野菜ん根元に埋めとった。ちょうどそりば野菜引き来た 婆さんと、そん息子が見つけち、「ほーこげんとけ、お鏡餅のある、久吉狐が贈り物ぢゃろ、ありがて こつ」ち言うて持って帰って食うちしもた。ところがその晩から妙なこつばかりしたり、言うたり親子 ともするごつなった。久吉狐が腹けーち取っ憑いたったい。火ばあつこうたりするけ、危うしてなん。 困った村ん者皆んなで親子ば、ひっつかめち、神主さんば呼うで、狐落ばしてもらうごつした。割木ば 三十三杷燃やして、そん炭火ん上ば渡らしゅうでちしたが、どげんしてん渡らん。そりば見て神主さん なきびしゅう「渡らんなら渡らんで良かろう。その代り三声鳴いて間違いなく山に帰れ」ち言い渡さっ しゃると、キャン・キャン・キャンち三声鳴いて二人共、打倒れた。そりから正気になったげな。

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