乳母が里(善導寺)
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※善導寺町誌343
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明治の始め頃、善導寺の木塚にトメしゃんち言うて、とても良う乳ん出る人んおらした。そっで誰で
ん乳もらいに来ござったが、トメしゃんな人ん良かけ、誰ん子彼ん子なし乳ばやりよつたもんぢゃけ噂
ば聞いち、しまえにゃ遠かとっからまで乳もらいのありよった。そげん乳のどうして出つとぢゃろか、
よっぽど良か物(モン)ば食いよっとぢゃろち、皆不思議がりよったが、トメしゃんななーに自分家
(ゲ)で作った芋ばっかり食いよったつげな。そんのわかってから善導寺んにきぢゃ唐芋ば乳母か里ち
しゃれて言うごつなったげなたい。
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古北の金刀比羅宮(善導寺)
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※媼
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天保ち言うけ百五十年ぐれ前んなろが、こんちょいと上(カミ)になる常持の金毘羅講の連中が古北
に養子来とる良八つぁんばさそて金毘羅参り行かしゃったげな、親類てん友達ぢゃけ、そりゃ賑ようて
参ったげな。あすこ此処見物して、いよいよ帰っとに旅寵から揃ろうて船着場までガヤガヤワイワイ言
うて来よったら、良八つぁんの結(ユ)うとった髪のバラッちとけち、サンバラになったげな。皆(ミ
ンナ)ん者な、舟に乗り遅るるけそんまんま、きりきり束ねて一諸に行こうち言うたばって、良八つぁ
んな昨夜見た夢んこつば思出ち、一舟遅れちくるけ、皆先行とってくれんのち、引返したげな。他ん者
(モン)なそんなら悪かばって一舟先帰るけち、舟に乗って出たげなたい。ところがとても良かお天気
ぢゃったつに急に模様ん悪なって、乗った舟は海の真中で、ひつくり返って、誰一人助からんぢゃった
げな。良八つぁんなそげなこつ知らんな、髪結い直して後ん舟に乗って向うに着いてからそりば聞かさ
れちびつくり仰天したげな。良八つぁんの昨夜ん夢ちゃ、金毘羅さんの「良八いそぐな」ちたった一言
、言うち消(キエ)らしたつげな。村ん者も話ば聞いてそりから良八つぁんと一諸に金刀比羅さんば祭
るごっなったち言う。もともとこん古北ん部落ぁ船頭さんの多かったもんぢゃけ、金毘羅さんの春秋の
祭りゃそーにゃ娠いよったもんたい。
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片袖神社(善導寺)
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※河童物語79
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(一)
日田の日下部長者の一人娘玉姫が、命の恩人草野の城主草野太郎常門ば頼って 木観音の慈悲にすが
ろうち、はるばる勿体島迄やって来たが、城主はもう妻を迎えちあるち言う話ば聞き、又妻は玉姫ば寄
せつけぬとんこつで、いよいよ天涯孤独(テンガイコドク)の身の悲しさに耐えかねち、あん堀に身投
げして死んだ。村ぢゃその哀れさに同情して神社ぱ建てて玉姫の霊ぱ祭った。死ぬ時衣の片袖ん岸の柳
にひっかっったままぢゃたけんで、こん社ば片袖神社ち言うごつなった。
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※善導寺町誌58・翁
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(二)
豊臣秀吉が島津征伐の時、草野の城主草野家清は肥後の南関に呼び出されち、騙討(ダマシウチ)に
逢うて連れて行った家来も皆斬死した。この報ば受けち草野に残った家来たちも追分まで仇討に出かけ
て、皆返り討になった。城に残った女どんなほとんど発心城で自害したが中に十二人の女中達ぁ勿体島
まで逃げて来て此処で身投げして死んだ。村の者(モン)があわれんでその霊ば弔うとに弁財天ば祭っ
て社ば建てた。
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浄土庵(善導寺、飯田)
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※善導寺町誌47
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今から七百七十年ぐれ前、こん善導寺の鎮西上人さんの弟子になろち言うて京都から入西ち言う坊さ
んの来らしゃった。一心に浄土宗の教えば戴くごつ、夜昼なしに念仏となえお参りしござった。ある晩
夢で阿弥陀さんが出てこられ、「こゝから十町ばっかり東南のとこに太かサルスベル(白日紅)の木の
ある。そこで浄土教の奥義ば伝ゆるけ出て来なさい」ち言わしゃった。明けん朝、そこに行てみっと本
なこて夏の朝の光りば受けち、美しゅう百日紅の咲いとるそん下に阿弥陀様のお像がすわっとる。こり
ゃありがたい事ぢゃ、不思議な事ぢゃとすぐ草野の殿様に申し上げち、お御堂ば建て、僧房ば造らしゃ
った。こんこつば順徳天皇も聞かれち、ありがたか勅額ば寄進せらしゃった。そっで正覚山浄土寺ち言
うごつなった。
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首切地蔵(善導寺)
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※篠原稿
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昔古北ん畑ん中に、荒使子から苦労してようよ小まか家ばって建てち、親子三人水入らずで暮しよっ
た茂平ち言う小百姓がおった。夫婦仲ようして行きょったつに、或る晩、強盗ん入えってムゾなげ小ま
か子まで打殺して逃げた、盗るごたる物もまーだ無かつに。そん後は誰でん恐(エス)がって家に住む
ごつある者な居らんぢゃったけ、家ば崩して桑畑にした。ところが不思議なこつ、そん二間四方ばっか
りんとこは、どげん肥(コエ)やってん、桑ば植えかえてん枯れっしもう。あんまり妙ぢゃけ、いろい
ろ調べて見たところが、昔、秀吉が薩摩征伐に下って来た時、発心城に立篭って反抗した草野鎮永が、
秀吉に負けち、命からがら此処まで逃げてきたもんの、とうとう取囲まれち逃げられんごつなって腹ば
切って、家来に首と刀ば此ん二間四方んとこに埋めさせた。そん怨が、こもりこもって一家斬殺とか、
桑ば枯かすとか災したつぢゃった。そっで此処に石地蔵さんば祀って、鎮永の冥福ば祈り、皆殺しに遭
うた悲しか茂平さん一家ば憐(イト)うで供養ばした。こん地蔵さんなそっで首切り地蔵さんち言うと
げな。
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善導大師坐像(善導寺)
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※三井めぐり部
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善導寺さんの三祖堂にお祭りしちゃる善導大師の坐像は重要文化財になっとるが、こん善導大師ちゃ
隣の国、中国の唐時代の偉かお坊さんで浄土門の開祖ち言われ、日本の法然上人なこのお方ん教えば大
方伝えちやっとげな。もともと此のお像は中国から渡ってこらしゃったつで、こゝに収まらっしゃるま
でとても不思議なこつの次々あったげな。第一が中国から博多さん渡りござつ時、玄海灘ん大時化(シ
ケ)になって舟ん沈没しゅうごつなった時、乗ってあったお坊さんが空に向ってナムアミダブツち、手
で太う書かいて大声あげち六字の名号ば唱えつゞけらっしゃったら、波の静かになって無事博多さね着
くこつの出来、空に向って書かしゃった六字の名号が舟板に残っとった。そん坊さんが陸に上ってから
松原に来てこんお像になっとらしゃった。そして自分が此処に置るち言うこつば善導寺開山の聖光上人
に前もって夢で知らせとらっしゃった。くわしかこつあ「舟板の名号」で話したけこつだけで止(ヤ)
めとこ。そうそんお像の首に巻いてある絹(キン)の襟巻の切布ば、妊娠しとっ時一寸直角(マッカク
)ぐらい戴いて腹帯に巻込うどくと、安産すっとは間違いなかち言われとる。
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善導寺の六地蔵(善導寺)
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※筑後二、十・19
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昔しゃ善導寺んにきゃ野原で所々、森のあったりして、追剥やら強盗どんがよう出て、そりゃ恐しか
とこぢゃったげな。晩になっと六人組の押入強盗どんが人ば斬殺しちゃ古か井戸に投げ込みよったち言
う。そりば聞かしゃった、善導寺開山の聖光上人が井戸ば埋めちそん上に小か庵ば造って念仏供ばして
やんなさった。強盗六人にも仏の道ば話して聞かせ、天に向って合掌礼拝さるっと原一面明るうなって
森や林の上に紫の雲ん棚引いた。そり見て強盗だん自分どんが罪の深さ恐しさば悟って、如何か弟子に
してくれち頼うだ。この六人の弟子ぁ罪の償ばしゅうち本堂ば建っ時、そりゃたまがるごつよう働いた
。そっで死んだ後、上人も村ん者も感心して六地蔵ば建てて供養してやった。
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女郎堀(善導寺)
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※寛延記151
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草野家清が熊本の南関に呼び出され、豊臣方から殺されたとのしらせに、草野城の留守を守っていた
家来はわずか百余人でしたが、追手を迎え打とうと、城に火をかけて肥後路さして追分に至り、小早川
の軍勢と華々しく戦い全員斬死しました。女子供は、思い思いに縁者を頼って草野城を落ちて行きまし
た。自害したとも言われます。そのうち特に十二人の女中衆は勿体島の堀まで逃れて来て、此処へ身を
投げて死にました。里の人々はかわいそうに思ってその側に祠を建てゞ祀ってやり堀を女郎堀と言うよ
うになりました。
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蜷貝(善導寺赤岩)
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※河童物語16
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今から千三百年ばっかり前んこつ。草野常門ち言う殿さんが串川山んてっぺんで見つけた榧ん大木で千
手観音さんば作るごつ仏様のお告げは受けたが、とてん運び出しゃきらん。そこで仏様に「仏様の言わ
っしゃるごつ観音さんは作りますばって、人間の私ぢゃ山から運び出しゃきりまっせん、どうか筑後川
さね出して下さい」ちお願いした。そしてお城さん帰ったげなりゃそん晩に降るこつ降るこつ大水ん入
るごつ雨んふったげな。そうして神代ん所さん大木の流れついとったち。ありがたいこつぢゃあるばつ
て神代から逆上らにゃでけんが、大水のごつ筑後川は荒れよる。そっで又常門な仏様に「折角山から出
してもらいましたが、私の家はまだこの上で木は下りすぎとります、どうか上ん方さね戻して下さい」
ち頼うだところ、筑後川に住んどる魚どんが大木に引ついて不思議も不思議ワッショイワッショイワッ
ショイちずーっと押し上げち行たげな。ごーつでん蜷貝でんみーんな加せしたもんぢゃけ大水ぢゃった
がわけのう逆上って行ったげな。そん時大木ん下に吸着いて押し上げよった蜷貝や、貝がらば川底でこ
すって半分にスリ切ってしもたげな。そっで赤岩ん附近の蜷貝ぁ半分しか殻んつかんごつなったっち言
うこつたい。
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善導寺の紫雲の楠(善導寺)
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※筑後二、十・22
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善導寺ば造らっしゃった聖光上人が、お師匠さんの源空和尚に言われて、仏教ば弘みゅうでち、此ん
九州ば回っとらっしやって、ちようど吉木八幡の永禅寺に来らしゃった時のこつ。其処ん石に腰かけち
、見渡す限り黄金色になった稲ん海原ん中に夕日で一筋銀色に光る筑後川やら、村々家々ん散ばりやら
で、あゝ良か処ぢゃなー、こん近くに仏教拡むる場所が欲しかもんぢゃ、ち飽かんな眺めござった時、
北ん方に、きれいか紫色ん雲ん棚引いとる、こんもりした樟の林ば見けらしゃった。「あーあの樟の処
ば仏法広むる本拠地にせよとのお告げか」ち感じられて、其処にお寺ば建てらっしゃった。そりが今の
善導寺さんで、あの天然記念物になっとる楠ば紫雲の樟ち言うごつなったげな。
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船板の名号(善導寺)
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※三井めぐり86
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今から七百六十年ばっかり前ん春の三月桜も散った十三日の夕方、聖光上人ないつもんごつ般舟道場
にこもって修行しょんなさったげな、一刻もたったろかお月さんな耳納山の上で境内やシーンと静まっ
とっ時「私は唐の国の善導です、あなたはこれまで仏法を修めて、人々を導いておられる。しかしもっ
と拡める事が出来るように一つ仏法の不思議を証明しょうと思います。早く筑前博多の津に私を迎えに
来て下さい」と言う声に上人なハッと眼を開かっしゃったところ、黄か衣ば着た、厳かな法師が一人立
ってあった。上人な「はい」ち言うて頭ば深う下げ「すぐにお迎えに参ります」ち御返事ばしなさった
ら法師はウナズキながらスーツと消えられたげな。善導寺から博多まぢゃ十里余の道、さー旅支度もせ
からしゅう上人な、月の光りば背なかに春の夜道は博多さねいそがしゃった。ようよ朝がた博多の松原
に着かしゃった、港まぢ後ちょいと。誰も通らん松原道、よする波の音に心もハズーでサクサクサクサ
ク長(ナア)んか松原道ばいそがっしゃったが、朝ん早かけんか、たった一人坊さんとすれちごうただ
けでさびしかごつぁった。ところが港について見りゃ今さっき宋からん船ん着いたばっかりち言うこつ
でザワザワして夢のお告げの御坊さんなどげんさがしてん見あたらん。船頭に聞いてみっと「そんお話
の坊さんでっしょか、(宋から一人乗んなさったお坊さんのそりも出帆しゅうでち纜ば解きかゝった時
でした。そりから港ば出て何日かとても良かお天気つゞきで楽な航海ばしよりました。ところが明日ぐ
れはなつかしか日本の島ん見ゆっとぢゃなかろかちゅう日の昼頃から急に雲行きの早うなって海あ波立
ち始めち、荒るるは荒るるはもう、こっでお終いか、さーいつ舟ん沈むかち、青うなって舟底に皆おり
ましたら、そん坊さんな、じーつと坐って合掌しとんなさったが、「南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏」ち
大声で念じられ、太か手で天に向って六字の名号ば書かれち、「皆(ミンナ)心ん底から南無阿弥陀仏
と唱えなさい、唱えれば名号の御徳で波もすぐに治まりましょう」そげん言うて猶高う南無阿弥陀仏ば
皆と一諸にとなえよんなさった。そすと何んと、風もやをなりあげん荒れよった波もだんだん止んでき
て、もとんごつ良かお天気になってしもうた。地獄で仏ちゃこのこつち皆、お坊さんば拝みました。が
不思議なこつに天に向って手書された六字の名号が舟板にはっきり写っとっぢゃなかですか。あんまり
不思議な方ぢゃけ名ば聞いたばってん言わっしゃれん。博多に着いたなら是非聞こうち思うとりました
け私どんも、そん坊さんば今探しよっとこです。」ち言う返辞。聖光上人は「その舟板に写った名号は
後で筑後善導寺に届けてくれ」ち言うが早かか、さっき松原ですりごうたお坊さんこそ善導大師に間違
いなかち飛ぶごつして元来た砂道ば引返さっしゃったが、坊さんな見あたらん。「あのゆつくりした足
運びぢゃからそう遠くに行ってはあるまい」と、又引返し引返して、初めの行きスリ会うた所んにきま
で来てひょっと海ぎわん一本の大松の根方に向うムキにスワっておられる坊さんば見つけられた。上人
は喜うで後姿を拝み、只今お迎いに参りましたち頭を下げて言われたが御返事がなか。そろっと頭ば上
げてよう見っとそりゃ善導大師の聖像。うわーこりこそ昨夜んお告げの具現ち喜うで、きつかつも忘れ
てすぐ善導寺に運うで立派なお堂に祀んなさつた。そりから一週間ばっかりして博多の船頭がひよくっ
と船板もって善導寺ば訪ねち来た。「上人様からこん船板ば善導寺に持って来てくれち、あん時頼まれ
とりましたが、帰って来たばっかりで忙しかったけつい忘れとりましたところ、この三晩、つゞけち早
ようこの舟板ば届けろち言う善導大師のお告げば夢に見ますけ、持って参りました」ち言うて舟板ば差
し上げたげな。持って来た舟板にゃはっきり六字の名号ん写っとったけ、そりから「船板の名号」ち言
うて善導寺さんの宝物になって今でん皆なが拝みよる。
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善導大師像の首巻(善導寺)
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※三井めぐり83
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聖光上人が善導大師のお像ばかるうて帰り路、山家(ヤマエ)んにきで日のくれたけん、百姓屋に宿
からしゃったげな。夜中になって騒がしかけ聞かしゃったら若嫁が難産で苦しみよるち言うこつじゃっ
た。聖光上人な善導大師像ば拝うで、お像の首に巻いちゃる絹の布を取はずし「こりば拝ませち腹ん上
に乗せて上げなさい、そすとすぐ産るるぢゃろう」ち渡さっしゃったところ、間ものう元気んよか赤子
ん泣声ん聞えて来たげな。そりからこの善導大師像のお首巻の絹ぁ安産のお守さんになって近郷近在か
らお寺さんに戴きくるごつなったげな。
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草野又六今が切リ時(善導寺)
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※初手物語206・河童物語89・翁
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今から二百六、七十年前ぢゃろ床島ん堰の出けたつぁ。こん堰ば造っとに毎日村々から合せち四千人
ぐれ公役(クヤク)に出らにゃんぢゃったげな。そりも朝んくろつから晩な暗うなるまぢ、やぁや言う
ち仕事させらるるもんぢゃけ、仕事の采配方ん草野又六ば皆ん者が憎うで「木六竹八茅(カヤ)九月、
草野又六ぁ今が切っ時」ち蔭口言うとったげな。そうこうしてようよ四ケ月かゝって堰ぁ出けあがった
げな。出来上ってみっと筑後川ん水ば引込うどるもんぢゃけ今迄ん旱照(ヒデリ)の心配や一ちょん無
かごつなったろち言うもんたい。そっで蔭口言よった百姓どんも苦労した効(カイ)のあったたいち喜
うだげなたい。こん堰のお影で、千四、五百丁も田ん中んふえたけ上納もそっだけ今迄よりか頭割りで
軽るなっぢゃろちの。ところが当(アテ)と褌ゃ向からはずるっで、殿様がどうしてそげん甘かろか、
何のこつぁ無か今迄よりか返って上納は多なって来たげなたい。よかさいわいにふえた田ん中ばっかり
ぢゃなか、全部藩内の田畠ば竿入れなわして、今迄ん一反一畝ぐれにきめち、上納ばやっきりもっきり
取り上るお触れん出たげな。草野又六ぁこん竿入れん時、又、采配なったもんぢゃけ、百姓だん堰造り
ん時のこつば思い出えて又ぞろ「木六竹八葭九月、草野又六ぁ今が切っ時」ち蔭口言い囃し立てたげな
。ばって所詮百姓は百姓、殿様にゃ刀向いきらんな泣き寝りで上納おさめにゃんぢゃったげな。憎まれ
者の又六ぁそりゃ殿様からばさろ褒められて、一人ニタニタして、何時本侍にしてもらわるっぢゃろか
ち楽しみしとったげな。ある日いよいよ殿様から呼(ヨビ)のかゝったげな。朝んうちお城まで出て来
いち。さー又六ぁ朝んくろつから出かけち行たげなたい。笑うめち思うたっちゃ、にたっとなるもんの
こげん時ぁの。お城に着いたら「うーん庭先待っとけ」ち言われたげな。かしこまって何時お声んかゝ
るぢゃろかちじいっと待っとったげな。ところがお昼になってんお声ん無かげな、夕るしなってんお呼
びんなかげな。もう腹んヘつて、腹んへって、ひだるかつ通りこしてうっ倒(タワ)そごたったげな。
もう御館に灯の入ったげな。そしたらようよ殿様ん縁先き出てこらしゃって、「又六、腹んへったろ」
ち言わしゃったもんぢゃけ「はい」ち返事したげな。そしたら「又六、百姓だんいつも、そげんひだる
かつぞ」ち殿様(トノサン)な言うてすぐ引込うでしまわしゃったち。又六ぁ力んこうけん無うなって
フラフラでお城ば下ったち言うこつたい。
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明星池(善導寺)
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※寛永記155
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善導寺さんの本堂の裏に今は狭もなっとる池ん一ちょありますが、こん池は善導寺御開山の聖光上人
さんの居んなさっ時、大衆加行(ケギョウ)ち言うて「五重相伝」その他色々ん修行ば皆ん者がすると
、この池で「香湯香水」とか「灌頂」んごたる儀式ば上人様んしてやりよんなさった、ち言う聖浄な池
で、上人様ん死んなさってからは、日の暮るっと不思議に、こん池から明か星の空さん登ったり又入っ
たり、久しゅうしよったけ誰でん明星池ち言うごつなったち言います。
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鐘池(善導寺)
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※寛永記155
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戦(イクサ)ん絶え間んなかったむかしのこつ。そん戦(イクサ)んどさくさに紛れち善導寺さんの
鐘ば強盗どんが押奪(オットッ)て、山内(サンナイ)ば出ろでちしたら、急に鐘ん重むうなってドン
ーンち取落てたげな。そしたら不思議や不思議鐘の落(ア)えた処(トコ)がどんどん、どんどん見る
見るうち深う広うなって澄み切った水の湧き出て来て、そりゃー底ん無か大きな池になってしもうたち
。そっでこん池ば鐘池ち言うごつなりましたち。善導寺さんの墓地ん南にある池がそりげなです。
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