第1章 原始時代の大城村
筑後川沿岸の沖積層に位置する大城村はその構成村落である塚島・千代島・中島の村名からもうかヾえるように筑
後川と深い関係をもち、その発生は筑後川沿岸の開発の歴史と歩みを共にしたものと推定されます。
「筑後郷土史」(伊奈健次著)には、約二千年昔の筑後一圓について次のように述べてあります。
「当時三井郡平野は多く水を湛え、所々に沼沢地があり葦茂り点々としてその間に島浮かびその島々には原始諸部
族が住んでいた。筑後川の河口は水縄山下に開き年々定期的な氾濫によって流される沃土は漸次三井平野を形成しつ
つあった。この深き入江は三潴郡堺に於て狭くなっていたらしい。即ち京隈が東より千栗・曽根崎が西及び北より突
出していたらしい。」
以上によって大城村一帯の低温な沼沢地帯がしだいに沃野と化していく過程がうかヾわれます。
塚島古墳
当時沼沢地帯の島であったであろう塚島には塚即ち古墳の所在地として貴重な遺跡が残っています。
豊比盗_社の祭神豊姫命の霊廟と言伝えているこの古墳は、円墳ですが年々の洪水のために崩壊して原形をとどめず
約一畝にわたる地域に壘積された巨岩群です。筑後川沿岸の低地帯に古墳が残っているのは稀なことですが、その稀
な古墳の一つが塚島古墳です。しかもこの古墳一帯には合甕棺の埋没が多く、古墳時代よりもっとさかのぼって古い
弥生式時代(約二,000〜二,五00年昔)にこの一帯に原始部族が居住していたことがうかがわれます。古墳の規模
からみて、この一帯に相当の勢力をもつ部族であったのでしょう。あるいは耳納山麓地帯と北方花立山麓地帯の中間
にあってこの広漠たる沼沢地帯を掌握した有力な部族の據点として、当時大城村一帯が重要な位置にあったかとも想
像されます。 |