第一章 自然・環境

第一節 大木町の地勢・人口

  一、沿  革

 この地方は、古代(弥生時代)、″水沼の県″と称していた。水沼のいわれは、この地方が当時、水鳥 の棲息する茅、葦の茂る沼沢地であったことからいわれたものらしく、そのためか現在でも各地で貝穀 等が多く出土している。水沼が三瀦に変ったのは鎌倉時代の末期といわれている。その時代、当町は柳 河立花藩であったが、元和七年(一六二一)久留米に有馬豊氏が領主となり、これより久留米有馬藩と なる。明治四年の廃藩置県により、久留米・柳河・三池の三県が合併して三瀦県となり、明治九年三瀦 県を廃し福岡県となる。そして明治二二年、町村制が施行されると同時に大溝・木佐木・大莞の各村が 生まれ、昭和三〇年一月、町村合併促進法により、大溝村・木佐木村・大莞村の三ケ村が合併して大木 町が誕生した。町名大木町は、旧村名を合成して、大木のごとく町が発展することを願って命名された。

 二、地理的・自然的条件

 (一) 位置・面積
 本町は、東経一三〇度二六分、北緯三三度一二分、福岡県の南部筑後 平野の中央に位置し、標高四 ・五b、東西四・七`、南北七・〇`、総面積一八・四三平方`の平坦な農村である。東に筑後市、西 に大川市、南に柳川市・三橋町、北に三瀦郡三瀦町・城島町に接している。近傍都市への距離は久留米 市へ一五`、福岡市へ六〇`、柳川市ヘ七`、大牟田市へ二四`となる。交通条件は、町の中央を東西 に国道四四二号が走り、九州自動車道八女インターチェンジが八`の距離にある。また、主要地方道と して久留米・柳川線が南北に走り、大木町と久留米市を結ぶ広域交通の幹線道路であると同時に町内の 南北地域を中心市街地と結節する町内幹線道路となっている。さらに、南北に西日本鉄道の大牟田線が 走り、福岡市へ一時間、久留米市へ三〇分、大牟田市へ四五分と通勤通学圏内へのそれぞれ交通の幹線 として重要な機能を果たしている。


 (二) 地形・地質
 本町北部の町境を西流する山ノ井川、中南部を貫流する花宗川の沖積によって形成された第四紀新層 河成水積土の肥沃な土地と豊富な水、さらに気象条件に恵まれた平坦な水田地帯である。町は、筑後川、 矢部川の激しい沖積作用による有明海の自然陸化(河海域沖堆積)によってつくられ、地下八bぐらい まではシルト質粘土で八b〜二五bまでは微砂からなる積層で二五b〜三〇b前後で轢層に達する。平 均標高四・五bのほとんど高低差のない低湿地の上に展開している。土壌は肥沃な埴土でおおわれ砂礫 の露出はない。土性は強粘土質で排水、浸透ともに悪く、地下水位は、約〇・五bである。河川は、北 部町境を流れる山ノ井川、中南部を西流する花宗川が筑後川に注いでいる。いずれも矢部川本、支流か ら分流された人工河川であり、クリーク網を通して農業用水を供給している。その昔、荘園時代に湿地 をなくすため、土地を掘り下げて土盛りしたあとに縦横の掘り割(クリーク)ができた。このクリーク の面積は土地面積の一六・四%を占め、日本有数の溝渠地帯を現出している。このクリークは重要な用 排水路として機能している。


 (三) 気  候
 本町の気象・気候は、本町内に観測地がないので九州農業試験場(筑後市)の観測地によるものとす る。筑後地方の気候区分は、西九州内陸型の有明気候区に属していて、この気候区の特徴は、夏は暑く、 冬は平地のわりに寒い現象を示し、年平均気温は一六度で九州の他地域との差は小さいが一日の昼夜の 気温較差は大きい。また、八月の最高気温の平均は、二七・五度で福岡県平均より、〇・九度高く、一 般的に高温多湿である。春先に中国大陸からの黄砂がみられ、梅雨最盛期または、その末期に集中豪雨 にみまわれることがあるが年次的変動が大きい。年平均降水量は、一九四三ミリで秋から冬にかけては 雨がやや多い傾向にある。日照時間は、一九六九時間に達し、福岡県平均の一七〇〇ミリを二〇〇ミリ 上回っている。一般に初霜は一一月中旬から晩霜は四月上旬となっている。年間の無霜期間は、二一〇 日と県内でも比較的長く、このような気象条件のもとで肥沃な三瀦農業地帯を形成し、さらに梅雨期の 長雨や集中豪雨、台風による災害を除けば大木町は、恵まれた気象条件下にある。

 三、人  口

 昭和三〇年、合併当時一万四四九八人であった町の人口は、その後、高度成長期をつうじて若年層を 中心とする人口の流出が続き、五〇年の人口は一万二五二八人となり、二〇年間に一九七〇人の減少を みた。しかし、安定成長期への移行後は、若者の∪ターン、町内における宅地開発の進行等もあって、 人口は緩やかな増加傾向に移り、平成二年には、一万三二三二人にまで回復している。  世帯数の変化をみると、三〇〜五〇年の人口減少期間中も一貫して増加を続け、平成二年の世帯数は、 三二三〇世帯となっている。世帯数の増加は核家族化の進行と通勤圏の拡大による転入世帯の増加によ るものである。一世帯当たりの人口は昭和三〇年の六・一人から四・一人となっている。人口の年齢構 成をみると、町においても、高齢化傾向が着実に進んでいることがわかる。総人口に占める六五歳以上 の人口割合は、昭和四五年の一〇・七lから昭和六〇年には一四・〇l、さらに平成二年には一五・八 l(全国一一・九l、福岡県一二・三l)に上昇している。他方、一四歳末満の年少人口の割合は、昭 和四五年の二三lから平成二年の一九・八lに低下している。いうまでもなく、町内における出生率の 低下を反映したものである。出生率の低下と長寿化の傾向は、将来においても持続するものと考えられ るから、人口構成の高齢化はさらに進むであろう。

第二節 大木町の動・植物

   一、植  物

 植物とは生物界に於いて動物と対立する一群で、木本、草本、菌類、藻類、バクテリア等で種類、形 状は様々で地球上広範囲に生活、繁殖し種類も非常に多く人類を始め他の全ての動物と密接な関係があ る。主に液体又は気体を栄養物として吸収し、無機物を摂取して体質を生成する、主な生殖は花、胞子 などである。

 (一) 植物と自然との関係
ススキ
 陸地に植物が出現したのは今から約四億年前のことである。その最初は藻から進化してきたシダ植物 である。それより五〇〇〇年後には地球を森林が覆った。  日本は南北に長く又、東西に拡がっているので、東西南北、気候、地質も違う、従って各種の植物が 多い、もし地球上から植物がなくなったら、人間や動物は生きて行く事が出来ない。草食動物は勿論の こと、肉食動物も草を食べる草食動物を食糧としなければならないからである。  植物の光合成は、根が吸収する水分と葉の気孔から摂取した炭酸ガスを原料として葉の葉緑体の中で 光のエネルギーによって澱粉を作る働きである。それにより人間は酸素の恩恵を蒙る。
(二) 大木町の植物の変遷
 植物においては、動物のように急速な移り変わりはないが着実に変化が起りつつあるのは確かである。  戦後、耕地整理その他の事情により森や林が次第に姿を消した。本町特有の水辺の植物についても、 ダイモン竹、柳、どんぐり等も減り水面では、在来の浮草に変り、外来の種がはびこってきた。道端で は、帰化植物の代表として、セイタカアワダチソウが憎い程までに繁殖している。又庭先を見ても大木、 灌木が年を追って減ってきた。
<八丁島の楠群>
 今、樹木らしいものを求めようとするならば神社の境内、寺院の山内だけにしか見る事が出来なくなっ て来ている。そこで町でも、国の緑化運動の一環に呼応し水と緑の町のシンボルとして、イチョウ、コ スモス、スイレンを町木、町花として指定した。外にも楠、松、黐の木を天然記念物に指定し、緑地化 に勤めている。又、水と森の遊歩道、水辺の小公園等、予定されていると言うから殺風景な本町も詩情 豊かな明日の田園都市に生れ変わるだろう。

 (三) 省略

 (四) 大木町の植物
1.水辺(クリーク)の植物
 水辺の植物といっても、非常に種類が多く、多種多様である。
 岸辺には、ヨシ、ガマ、マコモなどが立ち並び、やや深い所には、底に根や地下茎があり葉を水面に 浮かべるスイレン、アサザ等があり、これ等の茎は、水面に出たり沈んだりしている。  ハスの葉は、水上に立ちあがり、キンギョモ類は全体が水中にある。  ウキクサは水面をただよう。水辺の植物の特徴は、しなやかで水の流れに従いやすく、浮葉は水分を はじき、空気を入れた部屋が発達している。ホティアオイの浮袋がそうである。葉だけでなく、茎や根 にも空気が通る道や部屋があるのも水辺の植物の特徴であり、次の様に分類される。 @湿原植物(アヤメ外)C定着沈水(クロモ外)F浮遊沈水(タマキモ外) A定着挺水(ハス外)D浮遊挺水(ホティアオイ外)
B定着浮葉(スイレン外)E浮遊浮草(ウキクサ外)
-(以下略)

 (五) 大木町花・町木(昭和六三年一〇月ニ○日指定)

 ○ コスモス(秋桜)
コスモス
 キク科の一年生草本で、メキシコの原産。明治時代に輸入され、コスモスとは「飾る」「美しい」と 云う意味である。優美な花は日本人の心にしっくり溶け込んでいる。茎は線状に細裂し、秋に開花する。 花色は白、淡紅、深紅等がある。別名あきざくらという。高さ約1.五b程になる。
 ○ スイレン(睡蓮)
 スイレン科の多年生水草で、世界中の熱帯地方から亜熱帯地域に分布する。末の刻頃に開花するので、 ひつじぐさとも云う。大きな根茎があり、泥中に沈下し、茎を水中に浮かべる。葉は光沢があり、七、 八月頃開花する。色は白・紅・黄色がある。多数の花弁があり、花の直径は四、五糎。別称、はくせん、 びゃくせんとも云う。
 ○ イチョウ(銀杏、公孫樹)
 イチョウ科の落葉喬木。高さ約三〇b、葉は扇形、葉柄があり、秋に黄変する。雌雄異株、雌の木に 秋、黄色の種子を結び、中に白黄色の硬質の核果ができる。これがギンナンである。
 天に向かって大きく伸びる木、大木町を表徴することから、町章にも指定し、大きな希望と進歩と発 展を表す木である。

イチョウ睡蓮

 (六) 大木町の特産植物
  ○ イチゴ
 イバラ科の多年生草。野生のものは小灌木で、栽培種は多年生草本である。イチゴとはセイヨウイチ ゴ、キイチゴ、ヘビイチゴ等の総称であり、本町では、栽培種として主に「博多とよの香」がある。外 に「女峰」等もある。
 ○ ヒシ
 ヒシ科の一年生草、池や沼、河川に自生し、根は泥中に届く。葉は菱状三角形、葉柄はふくらんでい る。夏に四弁の花が咲き、堅い果は食用にする。最近では、主に水田に商品として育成し、食用の外に 焼酎の原料用として出荷されている。
 町内でも近年ヒシを原料としたヒシ茶も製造されるようになった。
 ○ イ(藺)草
 イグサ科の多年生草本。湿地に自生する。大木町周辺では水田に栽培する。地下茎を持ち、地上茎を 出す。茎は細長く、地上約一米に伸びる。中に白色の髄があり、葉は退化し、葉の基部で褐色の鞘状を なしている。五、六月頃葉の先端に花穂をつける。花は小さく緑褐色である。茎は花莚、畳表、髄は灯 心に使用する。

 (七) 大木町の特殊な樹木
 ○ 蛭池の榎と宿り木
榎と宿木
 樹高約二五b、幹回り三・四b、樹齢約四〇〇年といわれる。遠方からでも確認出来る。  ニレ科の落葉喬木で、暖地に多く自生し、高さ約三〇bに達し、直径も一bから三bにも生長する。 樹皮は厚滑で、灰色、葉は楕円形である。初夏に淡黄色の両性花を開き、球形の小核果を結ぶ。材は薪 炭、器具などに使用する。
 江戸時代には、街道の一里塚に植え、参勤交代や旅人等の憩の場にした。その際に茶の接待、炊事用 に役立った。火付が良く、火力が強いので重宝がられた。果実は甘く、樹皮の煎汁は漢方で薬用とされ る。今でも、江戸時代に植えられたエノキが、巨木となって残っている。私達が子供の頃は、紙鉄砲と 共に、この果実を使ったエノキ鉄砲として遊んだものである。又、実を取るため枝の先まで登りすぎ、 堀に落ち込んだ記憶が蘇る。
 又、宿り木は、この榎に寄生している。ヤドリ木科の常禄灌木で、闊葉樹に寄生する。茎は又状に分 枝し、上端に細長い濃緑の葉をつける。雌雄異体にして早春に淡黄色の小さな単性花を開き、球形緑黄 色の果実を結ぶ。

 ○ 笹渕の山桃  近郷まれにみる樹齢を誇っている。樹高こそ一〇b位にすぎないが、今でも、幹回り二・八bあり、 六二年の台風で根元近くから、半分に裂けるまでは、三・五bもあった。樹齢約五、六百年位だろうと 云われている。
 ヤマモモ科の常緑喬木で、高さ約一二〜三bに達する。葉は長楕円形で、雌雄異株で黄紅色の小花が 咲く。紫紅色の直径約二糎程の核果を結ぶ。果実は食用・果実酒として珍重される。暖地に自生する。 外に蛭池に幹回り三米一五糎がある。
上牟田の黒松笹渕の山桃
 ○ 上牟田口の黒松(妙行寺内)
 樹高四米、幹回り一・四bで、樹齢四百年以上の黒松がある。宝永三年(一七〇六年)下牟田口より、 現地に移転されたという。当時より現在の大きさだったと云うから、如何に年輪を重ねているかが窺わ れる。
 ○ 大莞小学校のユーカリ
 樹高約二〇b、幹回り二・四bで、町内では恐らく、ここだけではないだろうか。樹齢約八〇年位で ある。
 テンニン科の常緑喬木で、育成が早く、オーストラリアが原産である。樹高百bに達する。葉は約三 十a程の鎌形で革質、全体が白粉で覆われ芳香を発する。若い枝に出る葉は、楕円形を呈する。春芽の つけ根に、一個又は数個の緑白色の花を開き、半球形四稜の果実を結ぶ。材は船舶、建築材に用い、葉 からはユーカリ油をとる。
ユーカリ八町牟田のチシャ
〇 八町牟田のチシヤノキ(西元寺)(松揚、チシヤ)
 樹高約一五米、幹回り二・八b、樹齢約二百年以上といわれる。
 ムラサキ科の落葉喬木で、樹皮と葉がカキの木に似ているところから、「カキの木だまし」の異名が ある。六、七月頃、白色の合弁花を開き、果実は球形で、熟すると黒褐色になる。別名チサノキ、チサ とも云う。
 ○ 石丸山の植物群
 二重の堀に囲まれ、面積約一五〇〇平方b程で、町内稀にみる植物の群生地である。その数、約六〇 種類にのぼる。
 而し、この周辺も近いうちに耕地整理が計画されており、又一つ緑地が消え去ろうとしている。
センダン石丸山の植物群
 ○ 福間の栴檀
 高さ約一五米、樹齢約百年といわれる。幹回り一・八五bである。
 センダン科の落葉喬木で、暖地に自生する。葉は、羽状の複葉で、春に葉のつけ根に淡い紫色の五弁 花をつける。楕円形、又は球形の核果を結ぶ。果実は、ヒビ薬として珍重され、材木は建築・器具等の 用材となる。別称、あみの木。
 以前は、各地に自生していたが、最近は数少なくなった。「センダンのあるところ、子供集まる」と 言われる様に、この木には、セミ、カミキリムシ、カブトムシ等、子供がのどから手が出る程に欲しい 昆虫類が樹液を吸うために、夏になると群がってくる。この昆虫を目当てに、子供達が丈々網、クモの 巣や蝿取紙をつけた長い竹を持って、息をこらして、そっと近づいたものである。

   二、動  物

 (一) 動物の進化
 今から約五億年位前の古生代カンブリア紀から、シルル紀の四億年位前の間は三葉虫時代であった。  四億年前後のデボン紀になると、魚類の時代となり、その中の或るものは、胸びれ腹びれ等が次第に 発達して、陸上に這い上がり、肺が出来て、空気を呼吸する様になった。  現在のシーラカンスは、この時代の生きた見本でもある。やがて三億年位前(二畳紀)になると、両 性類の時代となる。そして二億年から一億年前(中世代)には、爬虫類の全盛時代となる。現在の亀は、 両生類と爬虫類の中間のようなもので、その直系の代表でもある。この爬虫類から進化したものが、鳥 類である。
 また、爬虫類と哺乳類との中間種が生まれた、これが哺乳類の先祖であり、この時代を新生代と呼ぶ。 それより猿から人間へと進化して来た。

 (二) 大木町の動物の変遷
 こゝ数十年の間に、町内の地勢風土も変わり、動物も絶滅したもの、或いは絶滅の危機に直面したも のも多い。
 昭和初期頃までは、あちこちに〇〇山、○森など、樹木や雑草が生い繁り、鳥類・小動物が棲み、古 老によれば狸、野兎さえもいたと言う。道を歩けば、牛馬車、農耕用牛馬に出逢い、イタチも目の前を 横切っていた。牛、馬は各農家には必ず農耕用として家族同様、大事に飼育されていた。今町内では、 殆ど見られなくなった。鶏にしても殆どの家庭で、五羽、一〇羽位は飼っていた。生んだ卵は、病人用 として重宝がられた。今では早起鶏の声も余り聞かれなくなった。
 又、夏ともなると、夕暮れを待ってウチワを持ち、ホタル狩りを楽しんだものである。カボチャの茎 に入れたホタルを持ち帰り、蚊帳の中に放ち幻想にかられて、すやすや眠りに就いたものである。  少年の頃、堀岸に釣糸を垂れ、じっとウキを見つめていると、どぶんという大きな音と波に驚かされ、 対岸を見やると黒くて長いカワウソが飛び込み泳いで逃げて行く姿を度々見受け、びっくりして早々と 引き上げた事が思い出される。
 又日本古来の秋田犬、柴犬などに替わり、チワワ、ドーベルマン等、外来種が重宝がられ、三毛猫が 減りペルシャネコ、シャムネコ等が多くなり犬猫病院まで誕生した。
 江戸時代、大莞地区には有馬藩主のツルの専用狩場があったと云われている。今では其れに変わり優 雅な白サギが大空狭しと乱舞し、乗用トラクターの後について餌をあさる田園風景と変わった。  以前は全然いなかったエツが、山ノ井川にも遡って来るようになり、セーベーが姿を消し、それにそっ くりのイヅミダイ、ブルギル、ブラックバスが侵入して来た。三月の雛節句にかかせなかったタニシも 減り、稲・堀岸を荒らすジャンボタニシが激増した。カヤ野の草競馬、庭先の闘鶏、各堀での鯉釣大会 など今では古き良き時代の思い出として懐かしい。
 戦後、町内でも急速な社会事情の変化により、耕地整理、住宅急増、護岸工事、生活汚水等による環 境悪化のため、動物の棲息、生息に大きな変化が生じた。
 現在、動物の種類は一二〇万種類と云われており、又、今後の緻密な調査により其の種類は増えてい く事と思われるが、又一方では絶滅していく種もあるであろう。
 世界的な人工悪環境により、野生生物が姿を消し、毎日のように約一〇〇種類程の生物が死滅してい ると云われている。
 我が国でも、環境庁の発表によると、野生生物の調査の結果、絶滅寸前が一一〇種類、絶滅の危機に さらされているものが一一四種類、存続の弱い稀少種が四〇〇種を上回り、六三〇種近くが絶滅の危機 に直面している。その原因の四四%が乱開発、乱獲にあるとされ、まさに人災である。
 今、我々は、種の保存、育成の為に何をなすべきか。これ以上の死滅を防ぐことが、緊急の責務では ないだろうか。
 以下本町内に棲息する動物をまとめてみた。
 (動物においては飼育種、鑑賞用種を含む)

 (三) 大木町の動物の現況
 1.哺乳類
 ○イノシシ科        その他多種       トサケン        ドーベルマン
   ランドレス      ○イヌ科       ダックスフント       その他多種
   ヨークシャ        アキタケン    チン           ○ネズミ科 
   パークシヤ       シバケン     ポメラニアン       ハタネズミ
   ハンプシヤ        チワワ       ペキニーズ       ドブネズミ
 ○ネコ科           シェルティ      セッター        カヤネズミ
   トラネコ         スピッツ       コリー         ハツカネズミ
   ミケネコ         ブルドツグ      テリア         ジネズミ
   シャムネコ        シェパード      ボクサー        アカネズミ
   ペルシャネコ       ポインター     セントバーナード    ハムスター
−(以下略)

 (四) 大木町の特殊な動物
1.カササギ(鵲)
 国指定天然記念物  大正一一年一二月指定
 指定区域     大木町、筑後市、柳川市、大川市、三橋町、大和
           町、瀬高町、山川町、城島町、外佐賀県
 カラス科の白黒まじりで、烏より少し小さい。肩羽と腹面とが白色である外、全羽毛は黒色で、金属 光沢があり尾が長い。村落付近の喬木、電柱に大きさ直径 八〇a−一b位の巣を作る。巣の高低によ り、その年の台風が判断されると云う。ヨーロバ、アジアの中北部、北アメリカに分布し、日本には一 七世紀に豊臣秀吉の時代に朝鮮より移入されたという。その名は朝鮮語の「カンチェギ」に由来する。 異名のカチガラスは、カチカチと聞こえる鳴き声による。欧州では不吉な鳥とされるが東アジア一帯で は吉鳥、幸福の鳥とされている。韓国では、家の近くで鳴くと親しい人が訪ねて来る知らせと云う。  又カササギが翼を拡げて、陰暦七月七日の夜、織女星に会うために彦星が此の橋を渡って行くという 伝えがある。
 「魏志倭人伝」にカササギは居ないと記録されている。
 別名、カチカチ鳥、高麗ガラス、コーゲガラスとも云う。
 推古天皇の時代に、新羅よりカササギ二羽と孔雀一羽を献上されたと「日本書紀」にある。  雑食性で主として昆虫類、ねずみ、小禽類、鳥の卵、小魚、 米麦、野菜、果実等を好んで食べる。  指定当時の立看板には次の様な項目が書いてあった。
   ○ カササギを捕獲せざること。
   ○ 営巣中(一月−五月)には巣に近寄らないようにつとむること。
   ○ カササギの巣にカラスを近寄さないようにつとむること。
   ○ カササギを捕獲し又巣を妨害する者は処罰されることあり。
2.エ  ツ
 エツは山ノ井川でも近年正原辺りまでのぼってくるようになった。

朝鮮・東支那海に分布し、日本では有明海と筑後川だけに棲息する。産卵のため四月−六月に久留米辺 りまでさかのぼる。中国ではその姿からして刀魚とも云う。我が国では、丁度、葦の葉に似ているとこ ろから次のような伝説がある。
 或る雨の降る日、一人のみすぼらしい旅の僧(弘法大師)が渡し場(恐らく大川市辺りだろう)にあ らわれ、舟が着く度に何かお願いしているようであった。しかし一向に舟に乗る様子でもなかった。そ こで一人の船頭が不審に思い、恐る恐る尋ねると渡し賃がないことがわかった。それでかわいそうに思 い「私が渡してあげよう」と云って快く向こう岸へ渡した。すると舟から降りる際に、彼は一枚の葦の 葉をちぎり「若し困ったことがあったら此の葉を川面に浮かべなさい」と云って一礼し立ち去った。  その後、間もなく船頭の船が古くなり、新造するにも金がなく、日夜貧しく暮らしていた。そんな或 る日ふと旅僧のことを思い出した。早速、葦の葉を川に浮かべた。すると不思議なことに、葉はたちま ち川一面にエツの群となった。男はその魚を沢山取って、新しい船を買い入れた。その後、家内一同、 安らかに暮らすことができるようになったということである。

(五)〜(六)省略
三〜四 省略