第三節 大木町の溝渠(堀割)

     一 郷土の溝渠

 溝渠とは、主として潅排水溝であると同時に貯水池の性質を兼ねたものである。従って、潅漑時のみ導水する所の普通導水溝とは区別される。溝渠では、堀またはクリークと呼んでおり、筑後川下流の三角洲平野の中に広面積に亘って分布している。大木町の在る三瀦郡はその名の示すように水招の地であり、低湿な郷土に日本有数の溝渠地域をつくっている。溝渠の開発には、歴史があり、すべてが同時代に堀削されたものでなく、新旧の別がある。しかし、溝渠地域の住民との関係は密接且つ重要なものであり、農業、漁業、運輸、防禦、その他多方面に亘って利用価値が大きいものがある。筑後川下流平野の溝渠については、郷土史家先人の研究調査によって詳らかにされている。

 (一) 溝渠の分布
 筑後川下流左岸地域では、三瀦、山門、八女の三郡と柳川市にまたがって溝渠が発達しているが、三瀦郡はその中心をなし、その中で、特に、大木町はその密度が大である。溝渠の分布地域は、大部分が五メートル等高線以下の地域であり、五メートル以上の地域にあるのは、山ノ井、花宗両河川の中間地域だけで、三瀦町の生津から大角・侍島に至る線以東に局限されており、しかもその地域はわずかに〇・一メートル前後高いだけである。
 溝渠地域における特色ある分布とその形態は、或る地点を境として明瞭に区別することは出来ないが類型的地域を捉えることはさほど困難でない。木佐木地区、大莞地区の東部が最大密度地域であり(一平方キロ当り)堀の延長は一六キロメートルとなって現われている。東部を除く大木町では、一〇キロ−一三キロメートルとなっている。しかし最大高密度地域は筑後川より離れた部分、即ち、溝渠限界線に接近して存在し溝渠が多くなって急激に高密度となっているが、この部分から海岸と筑後川に向って逐次減少して行く。三瀦郡内の各町村の溝渠面積が総面積に対する比率で最大が二二・五パーセントの大莞地区であり、大溝、木佐木地区は一三・七パーセントから一八・七二パーセントである。

 (二) 溝渠の発達と変遷
土地改良前の溝渠
 溝渠は、時代と共に変遷している。溝渠側壁は、開削当時は単調な直線的、又は曲線的なものであったが、波浪によって浸蝕され、岸崩れによって、屈曲し幅員を増大し浚渫によって深度がたもたれる。
然し竹や樹木などを植えて破壊を防ぎ、又、浸蝕破壊された個所は、埋立によって復旧され、自然的変遷より人為変遷が急激に行われている。溝渠の発達過程については、色々の事が考えられるが、時代背景、開発様式及び生活上の必要等を考慮せねばならない。前述のように、規則正しい溝渠地域、比較的排水潅漑に便利な三瀦郡周辺部の溝渠は、筑後川岸の小区域を除いて、その大部分は、条里制時代に完成されたものと思われる。
 牟田集落地域、すなわち、大木町の木佐木、大溝、大莞の一部などは、条里制時代までは一つの潟湖を形成していたが、荘園時代となり、戸数の増大と共に周囲より内部の低湿地に向って掘削されたものと推定される。
 低地三瀦の大部分は、低湿地であり、雨後あるいは洪水後には相当低湿地状態を持続したものと思われる。住民は、この低湿地に溝渠をつくり土盛りをし、屋敷を高燥にし宅地とした。又米作りのため溝渠を掘削し、洪水時には長期間に亘る浸水による水腐れを防ぐ貯水槽の役をつとめさせ、掘り取った土を、地ならししては田地面の高度化をはかって浸水を防ぎ、一方平時は潅流水の給源とした。即ち、溝渠は低湿地を開発するに当って、排水と潅漑の両者を兼ねた農耕文化の貴重な一基底ともいえる。いま、発生の歴史によって溝渠の特色を考えれば条里制時代に起源をもつ溝渠は、整然とした形態をなしている。荘園時代の掘削によるものは、比較的に不規則であるが、これの多くは統一的支配に入る前の地方豪族が割拠する時代に豪族に保護されて、新らしい土地を開拓したためと思われる。
 荘園時代に掘削された牟田集落の地域は、溝渠密度の大きい地域であるが、山ノ井川、花宗川等は現在の状態ではなく、用水源は極めて不安定なものであり、上流の河川からも、筑後川からも、ともに旱魃時には水の供給がのぞめなかった。溝渠は現在においては、その面積及び容積において過大と思われる程であるが、これは当時、水田耕作に必要な潅漑水を溝渠内に貯水させ、特に旱魃に備えて、余剰水を貯えておく必要があったからである。藩政時代に入ると溝渠は統一的に系統づけられた。田中吉政は南部地域の開拓につとめ、花宗川・山ノ井川・太田川を開削し溝渠を系統化して潅漑水の配給をよくした。

 (三) 溝渠の形態
 溝渠網の中でも、その排列に一定の形向をもつ規則的な地域があり、また、これに反して不規則な溝渠地域がある。なお、両者の漸移地帯としてその中間性を現わす地域もある。
 最も規則的な地域は、東部の高密度な地域にある。なかでも、五メートル等高線以東が最も整然としている。蛭池附近では、ほぼ、東西と南北に直交する幾多の溝渠があって、格子型をなすものがある。
然し、溝渠間の間隔は一定していない。溝渠は、直交式であるが、概して正方形でない。溝渠の幅員も比較的に同じで、集落附近の溝渠密集部でも、不規則な屈曲をなすことは稀である。溝渠は、相互によく連絡しており、支溝渠の発達はすくない。
 東西と南北の主要溝渠は、ほぼ、同一様式で並び、その手法において統一的及至は計画的と見られることが多い。この地域を極として、西進すれば、溝渠の整然性や規則性は減少している。大溝地区の横溝を経て、木佐木地区上木佐木に至る線以東には、東西性の溝渠が認められる。これに交わる溝渠は、大溝地区前牟田附近のように直交する地区もあるが、多くは稍斜に交っている。しかも、それらの溝渠は、連続的ではない。主要溝渠は、東西にやや平行的に並ぶが、花宗川が屈曲するのと同一の理由で屈曲している。これらの溝渠は、ほぼ、その延長が筑後川に直交するように配置されている。主要溝渠問の南北及び東西の支溝渠は、断続的であり部分的には曲線状になっている。随って屈曲も多く、稍不規則になってくる。然し、これ等の地域には、系統が異っている溝渠列がある。
 これは、久留米、柳川両市間の道路西側にあるもので、慶長年間(一五九六−一六一五)田中吉政が街道新設の際掘ったものである。この溝渠は、北部より八町牟田附近までよく連続する。花宗川以南においても、柳川に通ずる道路の西側が掘られている。旧街道(柳川市金納附近)は、もとは、この道路の西側の溝渠中を縦走していたが、県道が東側に移動した際、その道路建設用の土として、旧街道が取り除かれたため、二列の溝渠は一つに併合された。溝渠の幅員の大きいのは、そのためである。また、県道に沿って、溝渠が連なっているのも、道路を築造した際の土取りの跡と思われる。
 この地域の外側は、更に、不規則なものとなっている。中でも、江上地区の南部から、大溝地区の池の上、大川市本木室附近が、最も、不規則で一定の系統がない。この地域に入ると、主要溝渠も直線状のものが少なく、すこしずつ屈曲している。その他の支溝渠は、一層屈曲して連続性を欠く傾向が著しい。また、他の溝渠と全く連続のないいわゆる田堀もある。この地域の溝渠は、幅員も深度も部分的には大であるが、一般的には狭少となっている。
各溝渠は、斜交するのが普通であって、全般的に不統一不規則である。ただし、山ノ井川が筑後川と合流する附近においては、曲流状の溝渠がある。これは、自然に発達した河流(江湖えご)の曲流を、溝渠として営んだものと思われる。内部の地域は、多くの人為的変化をうけて、自然流路を失ったのに対し、河岸部では、今にその痕跡をとどめている。内部は、相当広面積の地域であるから、江湖が多くあったものと思われる。それが、溝渠を掘ったために、河道が直線化されたのであろう。
 山ノ井川の一部では、屈曲したところもあるが、一般には直線状をなしている。それは、人為的影響によるものである。

 (四) 溝渠の構造
 溝渠の側壁は急峻であり、底部は平坦で、中央部は稍深く、一般に両側は対照的である。流動溝渠(流れ堀)の側壁は、直ちに底部に達するが、貯水溝渠中には側壁に段が出来ていて、深度も稍大なる場合が多い。その他、側壁と底部との境が、不明瞭で全体に円味をおびるものがあり、又底部のないものもある。
 これは、幅員の小規模な溝渠である。しかし、以上のような形態は、基本的なものであって、実際には、これが複雑に組みあわされている。側壁の上部には、葭、その下段には真菰等が繁茂し、側壁の上段部及びその下には、柳、竹などや樹木が植えられて、護岸の役目をはたしている。溝渠底は、これを区画するために、土堤(せき)が横断的に設置されている。幅員の大きいものは、縦に区画堤が設けられ、溝渠の利用範囲、特に減水期の利用区画を示している。又、溝渠の諸所に、水量を調節する樋管(いび)と堰○(なめし)がある。両者は、別々の所にあるものが主であり、同一場所にあるものはすくない。堰○は、一−二メートル上表水を流し、樋管は、深部の水を流している。然し、両者を全部開放しても、溝渠内の水を完全に排水することは不可能である。このような閘門のある所の多くは、橋梁として利用されている。溝渠の流水によって浸蝕されることは僅かであり、上流や田畑から運ばれた物質が沈積するから浅くなり、これを防ぐために、冬になれば、泥土揚げ(ごみあげ)をする。用水堰から溝渠に導入する部分に設けられた閘門(主に堰○)は、規模が大きい。
 主要幹線は、深度と幅員がとても大であり、連続的に一様である。継続的或は局部的の溝渠は、規模が小である上に一様性がない。木佐木地区蛭池附近は、三瀦郡内で最も同一規模の溝渠が密集して発達している地域である。また、大莞地区より下流にかけては、規模が最も大である。全般的にいうと、三瀦地方は東に向うほど規模が減少している。又、西南部の干拓地に行くと、再び規模が減少する。幅員と深度とに分けて溝渠を考察すれば、概して、溝渠幅員は、分布形態が規則的な東部地域では均一であり、漸次中央部に進むにつれてその幅を増し、南縁部では再び東部より小幅員となっている。又、同一地区内においても、主要溝渠と集落内の溝渠(内堀)とは幅員を異にし、一般的にいう内堀は、集落地以外の溝渠、すなわち外堀よりも幅員の小さいのが普通であり、断片的な支溝渠ももちろん同様である。
一般に一つの溝渠は同一幅員をもって延長し帯状をなす場合が多いが、他の溝渠との交叉点や或る地点を境として、急激に幅員が増大したり、減少したりすることがある。
 築造の時帯状になめらかに掘られたものであろうが、それが、流動や岸崩れによって次第に側壁が破壊されたり又、改修されたりして屈曲に富んだものになることが多い。堰○のうしろは、渦流によって幅員が増大している。深度についても、三瀦郡の東北部の地域に浅く、南西部に増大する傾向がある。
ただし、堰○のうしろなどは、局部的に非常に深くなっている。これは、堰○樋管を通じて流動させる場合に生ずる渦流によって深くなったと思われる。然し、溝渠は局部的の深さよりも、実際的には平均深度の方がより重要な意義がある。溝渠の平均深度は二メートルー二・五メートル前後にあると思われる。幅員と深度と延長数とは、溝渠地域における貯水量を決定する上に重要な要素をなすものである。
低地は溝渠の開さくがなければ、殆んど平坦に近い土地であるが、開さくによって、五−六メートルに達する起伏を、溝渠網の全地域に与える至ったのである。掘り取った土は、附近一面に盛土として用いられ、土地の高度を若干高めたものと思われる。また宅地を高めるために土盛をしたことが、集落附近に溝渠が密集している一因でもある。宅地は通常田野面よりも〇・五−一・〇メートル前後高い。この地域の溝渠は、宅地として乾燥させると共に、耕地面の潅漑排水を計るために築造されたもので、掘削前の起伏量が、殆んど、零に近い所に六メートル前後の起伏を生じたのである。

 (五) 溝渠の役割
土地改良後の溝渠
 溝渠は、潅漑に利用するのが第一義であり、排水を目的としたものではない。然し、裏作時期になれば排水用として、耕地の乾燥を図る。又、稲作期間中でも、雨量の多い時には、余水の排水路として利用される。溝渠地域の潅漑水源は、主として、矢部川本流とその支流星野川である。花宗川は、矢部川本流より、山ノ井川は星野川よりの用水河川である、両河川の水量調整は、引入口で自由にすることが出来る。山ノ井川の中流以下は、小支流を入れて自然河流の形態をとるが、花宗川は、それとは異りすべて人工潅漑水路である。四月上旬から、用水河川に水を通し河川に設けた堰○から溝渠中に水を導入する。山ノ井川には、井龍、獺橋、田高田、正原、花宗川には、酒見、観音丸、大井手、平松など堰○がある。
 春水は、上流の堰○を開いてこれを導入し貯水する。そして、漸次下流に及ぶようになっている。導入された潅漑水は、主要溝渠を流れ、所々に設けられた堰○や樋管で水位を保ちながら、次第に支溝渠に満たされて行く旱魃時には、上流部で大半の水はせきとめられ、溝渠地域まで流下する水はごく僅かであるから、夏水は上流の余水ということになる。溝渠の水を調整するのは、堰○と樋管である。花宗川も、溝渠化された流れである。
 溝渠の中には、副次的な流動溝渠もあり、また、時には流れ、時には貯水するものもある。山ノ井川上流にある樋管堰○は、潅漑用であり、その下流部と筑後川に沿っている部分は、排水用である。溝渠網内にあるものは、大部分が潅漑用であり、各潅漑区域内では、それぞれ水位を異にする所がある。
 花宗川と山ノ井川の開削以前の水田開発は、用水堰よりの給水に依存したというよりも、むしろ天水によるたまり水に頼ったという方が事実であろう。従って、水の調節は、旧村の村単位になるのが自然の勢である。貯水様式としては、溝渠貯水の様式をとったのであって、区域内に普遍的に貯水し、これから直接潅漑する揚水潅漑法を発展せしめたのである。
 以上は、昭和五五年(一九八〇)に着工、現在進工中である県営干拓地等ほ場整備事業着工以前の状態であり、工事中の現在において、山ノ井、花宗両河川の水源に変りはないが、溝渠においては、貯水溝渠と排水溝渠が明確に区分され、又ほ場も拡大され、農道も増幅されて、完成後は、大木町の水田風景も大きく変貌するであろう。
(山ノ井川、花宗川の水利については第三章水利の項参照)

 (六) 溝渠の埋立
 溝渠は、現在新設されたものは殆んどなく、電力による潅水機の設置とともに、溝渠も以前ほどの面積と容積を必要とせず、かえって行きづまりの溝渠は各個人の使用区を小規模に個人的に埋立ている。
特に家屋附近は溝渠に塵芥物を捨てるから埋まって行く速度が大である。個人の埋立は、減水期に奥部を埋立たり溝渠を横断したり溝渠の側部を埋立たりするから、極めて徐々に行われ畦畔の外に縁田として、普通の田より三〇−六〇センチ低いのが普通である。縁田は、溝渠の水位が高い時には自然に潅漑される。埋立は潅漑排水に支障のない支溝渠を主とし、時には幅員の大きい主要溝渠の側面も施行する場合もあり、相当な面積になっている。
 埋立の原因は色々あるが、前述のように潅漑水が種々の人工施設により容易に且つ多量に得られるようになったこと、即ち、花宗川や山ノ井川の開削、揚水堰の完成、筑後川からの電気揚水などによって潅水し易くなったため貯水用としての価値が減少したことなどが主な原因と考えられる。そこで、却ってこれを埋立て耕地面積の増大をはかる様になった。
 然し埋立は、貯水、排水、土地の乾燥化等に深い関係をもっているから、単に潅漑水の問題ばかりでは解決出来ないのである。埋立地は、概して、溝渠密度が大であり、筑後川より揚水して潅漑水の最も得やすい北部が比較的に多く、三瀦郡も南部方面では少ない。
    二、変貌して行く溝渠
 昭和五五年着工の、福岡県営干拓地等ほ場整備事業により、大木町の溝渠も慶長年間(一五九六−一六一五)における田中吉政の掘削による整備以来の改革により、未曽有の変貌を遂げつつある。

(一)〜(三)省略