第二章 歴  史

第一節 原始時代

   一 縄文時代

(一)縄文時代の生活と石器
 旧石器時代(三万−一〇万年前)に阿蘇山が大爆発して、それまで頼戸内海が多良
岳、雲仙岳の麓まで入り込んでいたが噴火により、北部九州と南部九州が陸続きとな
り残された海が有明海となった。当時の有明海は現在の倍以上ともある広い内湾で島
や州があちこちに点在していた。その後、筑後川、矢部川、嘉瀬川等の河川が上流よ
り土砂を運び、又干満の差が激しい潮流が海泥を押し上げて来て、川と海の堆積作用
により筑後平野が生れ、干潮には干潟となり満潮には潟島となった。
 紀元前十万年頃、明石原人、三日美原人、聖嶽原人が現れ、現在の日本人の祖先は
約三万年前頃といわれている。
 樹上の生活を送っていた原人の仲間は、時代が経つにつれて次第に、その数が増え、
仕方なく木から降りて地上を這い廻るに余儀なくされた。そして彼等は身を守る為に群をつくり石や棒を持って敵対した。そうする間に石や棒を加工し、より一層の改良を加え、使用目的にあった道具を発明した。打撃を加えた簡単な礫石器、石核石器、剥片器を利用し中期になると武器、利器とし、後期には剥石器が使われるようになった。この様に旧石器時代人は打製の石器を日常の器具として使用した。
 打製石器は、大体一〇センチ−二〇センチ程の楕円形、四角形、台形の石器で動物
を殺したり木の実を砕いたり、細長いのは肉を切裂くのに使用した。新石器時代になると、研磨した磨製石器が現れ石斧、石庖丁、石皿、石槌、石棒、石偶、石鏃、石槍、石
剣、耳飾り等が造られた。又同時に黒曜石や骨角器(鹿の角、魚類の骨で作った器具)も武器、狩猟、魚猟の用具とした。石棒は性器崇拝、又祭祀用、武器に使用したと言われている。
 此の頃の大木町は有明海の底であった、古代人にとっては海産物の宝庫でもあり東
支那海への玄関でもあった。今私達は二五〇〇年前の海底の真上に安らかに生活して
いる。

1  土器の発見
 土器は偶発的に発見された。竹編や木皮で作った籠に水を入れた。水が洩るので粘
土で穴を埋めた。それが何かの拍子に火中に倒れ塗った土だけが固り、竹や木は焼け
てしまった。それが土器の最初である。
 土器が出来ると食物の煮炊、調理、保存等が可能となり、食物の種類、採集などの範
囲が広まり食生活が非常にひろくなった。調味、料理方法が複雑になった割には、食料を毎日、毎時間、採集して歩く手間が省け家族の団欒の時間が多くなった。この余暇を利用して生活の充実を図るようになり、文化の向上へと進んでいった。
 ※ 日本最古の土器は長崎県の福井洞穴から発見されたもので約一万年前と言われている。
 2〜5 略

 (二) 稲作の伝来
 「稲作は、いつ、どこから来たか」の難問は現在のところ確証は難しい。唯、縄文時代の晩期頃のことであろうとだけである。しかし、伝来のルートとして三通りのコースがあるのは間違いないことで、まず第一に中国の長江(揚子江)あたりから直接、北西部九州へ東支那海を渡って来た。第二には中国南部から台湾、琉球列島を島伝いに渡って来た。第三には中国南部から中国大陸を北上し朝鮮半島を経て海峡を越えて来た。この三通りである。しかし、第三の経路については寒冷地に適さない稲作が寒い中国大陸を北廻りしてまでも来たであらうか疑問である。
 いずれの径路にせよ、北西部九州に上陸し瀬戸内海を通り、東日本に拡がり、弥生後期には青森県辺りまで進出したようである。
 北部九州一帯で検出された炭化米の原産地は中国の江南一帯であるとされ、北部九州各地で稲の栽培が縄文晩期には行われていたことは確かである。島原半島の筏遺跡、又福岡板付遺跡などで「コメ痕」の土器が耕作具(木鍬)、収穫具(石庖丁)又水田の一部が水路と共に発掘された、唐津の莱畑遺跡からも板付より古い水田遺構が発見され、多量のコメも確認された。近くでは八女市長崎より前三世紀の炭化米が出土した。いずれにしても日本の稲作の発祥は北部九州である。

 (三) 集落の発達
 原始人の暮らしは、唯食べて寝るだけの繰り返しで山野、河川で草木の芽や実、貝類、小魚類を取ったりの採集生活であり岩陰、洞穴、木の洞穴など雨露を凌ぐだけの穴居生活で身分の上下、貧富、強弱、生活の狩猟、勢力の領域範囲もなく自然の摂理に従った悠然たる暮らしであった。以後、縄文時代早期になると、精巧な石器・実用的な土器の出現により、鳥獣(魚類、貝類、鳥類)植物(木の実、芽等)等今迄より捕獲・採集が容易にでき、保存も良くなり、採集生活から狩猟の生活時代へと変った。この頃になると人工的な洞穴、掘立小屋など、一時的であれ仮の住居生活が始った。そして個々の生活から少数の連帯生活に移った。

縄文時代の住居
 中期になると、一辺が四米程の粗雑な竪穴住居となり、その中に家族四、五人が住んた。中央に炉があり、方形屋根、又円堆形の茅葺となった。
 後期時代には、丘陵地帯から次第に低地に移動しはじめた。それは稲作の伝来により、稲耕作のための水田が必要となったからである。
 弥生時代には稲作の関係上次第に集団生活を営むようになり、自然的に住居が必要となり、共同生産、外敵防御上、生活の合理化等のために定住を強いられた。米の貯蔵に伴い南方系の高床式倉庫が移入され、後の貴族住宅の原形となり、北方系の竪穴住居は一般庶民の住居祖形となった。
 古墳時代になると、一辺四、五米の隅丸方形で、炉が中央にあり、平地住居で地面を直接床面としたものや、小石を敷きつめたものや、又低い土床(ベッド)を設け、窯は煙が外に出るように隅に造った。
技術の進歩により稲作の生産が増大し、人口が増すにつれ水田の面積も広くなり、散村的なものから集村的へとなり定住生活への基礎となった。集団生活により生産物、生産用具、又土地、建物等を他の集団よりの侵攻を防ぐ為、有力者が集団の支配者となり、実権を握り小集落集団を形成した。それが「ムラ」となり小さな「クニ」の誕生となった。
 古来より大木町は水沼の地と呼ばれ、交錯したこの掘割が人と水と住との調和を保ちながら今日に至った。此の溝渠は何時どの様にして掘られたであろうか。およそ本町に人が住むようになったのは、北東部つまり十間橋、八竜脇など弥生時代の遺跡にみられるように、かなり古くから生活していたと思われる。その外の地域は、律令政時代以後であって、特に大薮地区に見られる条里制の、一の坪−五の坪などの地名が判然と現存しており、其の後、豪族が権力にまかせ先を争って私有地を拡大した。
 又、大溝、木佐木地区の西鉄線以西、大莞地区西半部は荘園時代に開拓された荘園集落で一名牟田集落ともいう。
 当時は、今日のような山ノ井川、花宗川など未だ形が出来ていない時代であったろう。稲作に、必要な灌漑用水、飲料水を充分確保するには必要以上の掘割を確保せねばならなかったであろう。
 この様にして平安時代になると点在的な地形で、各個分散していた民家を、結合した結果、幾重もの周壕となり複雑な形状となった。
 本町の環壕集落は平安時代頃までには、ほぼ完成されたもので、掘割は農業用、生活用水の為のものであったが、後には自然的に防御の用をも足すようになった。それは平安、鎌倉時代になると中央は、もとより各地に反乱が起り筑後にも波及し、集落民の保護を兼ねた防衛上の改溝が一部には行われ、中央に館を構え、周囲の壕を巧みに利用した。
 集落の中から有力なる家族が他の土地を開発し、其所へ移住し集落を構成し、新しい名田を開拓した。
それが発展して新しい村落となった。本村、新村、上・中・下、東・西・南・北のつく地名が多いのも其の名残ではなかろうか。

   ニ 弥生時代

紀元前三〇〇年より紀元後三〇〇牢の間を弥生時代と呼ぶ。
(一)十間橋遺跡

十間橋遺跡同出土品
 現地は洪積世と沖積世が交錯する三瀦中部湿地帯と北部微高地帯の境界に位置し、行政的には大木町と三瀦町とに分れる。南は大川市、柳川市方面の南部低地帯となっている。有明海の潮の干潮は六米にも達し、沈んだり浮いたり丁度「海月クラゲす漂える」とある如く島や津等の付く地名が多く今に残っている。
 それでは旧三瀦郡の中部だけが何故に沼沢地として残されたであろうか。それは筑後、矢部の二大河川の沖積作用により大川市、柳川市一帯で合流し、その合流地点が早く洲や島が形成されたが、内側は潮溜りとして取残された結果という。
 例えば福間の地名でもわかる様に「美乃布の隈」つまり海岸や河口が入り込んだ所となっており、それがつまって「布隈ふくま」と転化し後に福間となったのではなかろうか。生津、清松、高江、江口、蛭池、笹渕等の地名にしても当時の地形そのまゝのように思える。当時は山ノ井川などあろう筈もなく十間橋、八竜脇は当時の沿岸線沿いにあったと思われる。現西鉄線を跨り約一万坪に点在する。
 甕、高杯、坩、石庖丁、その他多数の土器片が出土した。
 ここ十間橋及び八竜脇付近は大木町歴史の発祥地ではなかろうか。一七〇〇年以前すでに吾々祖先の弥生人が住居を構え生活していた。彼等は稲作技術の発達により八女西部の丘陵地あたりから新境地を求めて移動して来たと思われる。
 この肥沃な広野で農業の傍ら有明海の魚貝類を捕獲し、自然に恵まれた豊かな生活を送ったであろう。
 此の頃、大陸から朝鮮半島を径て青銅器、続いて鉄器が伝わり農具、漁具に豪族は武具に使用し始めた。
 しかし一般庶民は石器や土器が主であったので此の時代を金石併用時代という。

当時の海岸線
十間橋遺跡略図八竜脇より望む

 (二) 省略

 (三)水沼と邪馬台国

中国の三国誌「魂志和人伝」の項に記載されている邪馬台国については、九州か大和か学界で論議されて以来久しいが未だ定説はない。何時、解決されるか今のところ全く予測はつかない。
 それで、こゝでは九州説(特に筑肥平野)について述べる。

1 邪馬台国の位置
「帯方郡から……狗邪韓国に至る……末盧より東南に陸行すること五百里で伊都国に至る。東南して奴国に至る百里である。東行して不弥国に至る百里である。南して投馬国に至る水行二十日である。南して邪馬台国に至る女王の都するところである水行十日、陸行一月である。帯方郡から女王国に至るには一万二千余里である。」
「又、女王国の東千余里、海を渡って国がある。みな倭人の国である」
 当時の魏の一里の長さは現在の日本流で云えば一町、つまり百米であって末盧、伊都間は、四・五里、伊都、奴国間は約三里、奴国、不弥国間は約三里であり実側と略等しい距離にある。
 それでは投馬国はどこか、「延喜式」記載の地名も「倭人伝」の伊都、奴国、末盧国等として現在の地点に求めることができるように投馬国も類似地名として「上妻」「下妻」「三瀦」辺りとし久留米附近も含まれるであろう。戸数五万余戸である。又「邪馬台」も「ヤマト」とも読め、筑後の「山門郡」、肥後の菊地「山門郷」は明らかである。
高床式倉庫
 邪馬台国とは筑肥に跨がる広大な国で、戸数七万戸を擁する強大国であった。現在こそ行政区画は別だが、当時は同一の「ヤマト」としてであり、区画制は七世紀中葉以降のことである。古墳にもみられるように、全く筑後文化圏に属し、その南は火の国であった。
 行程として末盧より不弥国までは「倭人伝」通りの順次式で間違いはないが、投馬国、邪馬台国への行路はあいまいで魏使もそこまで足を運ばず伊都国の役人等から聞き記したのであろう。行程にしても不弥国より南して投馬ではなく、狗郡韓国から水行二十日(九州を西廻り平戸、島原、三瀦)であり、又邪馬台国へは狗邪韓国より水行十日、伊都に上陸し奴国、不弥国を径て陸行一月と解するのが自然であろう。
「女王国の東、海を渡って‥‥」とあるのも「女王国から海を渡ってではなく」「女王国から東へ千余里行ったところから海を渡って」と解すると筑後附近から二五里程の別府湾あたりから海を渡ると四国、山陽方面を指すことになる。

2 邪馬台国時代の生活と卑弥呼
「魏志和人伝」を要約すると次の通りである。
 倭国の男子は、大人も小人も顔や体にいれづみをしていて好んで沈んで魚や蛤を捕える。男は冠はなく髪をみづらにして木綿の布で頭を巻く、着物は幅が広く、縫ってはいない。女子は髪をうしろに束ね結んで、風呂敷様のものゝ中央に穴をあけ頭を貫いて衣る。稲や綜麻あまを植え養蚕をして絹をつくり、木綿や絹布も産する。牛、馬、豚、羊、鵲はいない。
 戦う時は矛や楯、木の弓を用いる。弓は下が短く上が長い、矢は竹で矢じりは鉄や骨(魚獣)でつくる。
 気候は温暖、夏冬いつも新鮮な野菜がある。みな裸足で父母兄弟は寝るところが違う。食事は高杯を使い、指でつまんで食べる、屍を葬るには、棺に入れ槨はなく土を盛り上げて塚をつくる。喪は十日以上、その間肉を食わない。中国に来る時は持衰して旅に出た。
 真珠や青玉を産し、山にはあかつきがありやまぐす、トチ、クスノキ、ボケ、クヌギ、スギ、カシ、山椒、橘などがある。おゝざるや黒雉もいる。
 話がまとまらない時は、骨を灼き吉区を占う。人はみな酒好きである。上流の人は四、五人の婦人を持ち、貧賎の者も二、三人の婦人がある。婦人は貞淑で嫉妬せず盗みもない。法を犯した場合は、妻子を召しあげ、重い者は一門一族を滅す。租税もある。庶民は大人と道で会うと、草の中に逃げ入り、話しかける時は両手を地につけて恭敬の様子をみせる。
 女王国は、もと男子の王が七、八〇年もいたが倭の国内が乱れ幾年も戦争が続いたので、人々は相談して一女子をたて、王とした、これが女王卑弥呼である。鬼道(シヤーマン教)に仕え民衆の心を魅惑した。
 経百余米という大きな塚を造り殉死、奴卑百余人、男王を立てたが国中、服せず、女王の女、壱与を立て王とした。
 今話題の吉野ケ里遺跡は弥生中期の「クニ」の可能性が強い、すでに物見櫓跡や城柵に相当する土塁がある。又同時代としては、我が国最大級の墳丘墓が確認され楼閣、矢がささったままの人骨等からして、当時「クニ」と「クニ」との間に戦いが繰り返されたことを物語っている。又弥生後期から古墳時代初期の周溝墓の存在が明らかで、謎の邪馬台国の時期と一致している。環濠は女王卑弥呼が登場する直前の倭国大乱の時期に相当する。

3  神話のふるさと西九州
 高天原、高千穂峰、天ノ逆鉾等と云えば神話であって歴史とは全く無関係で雲の上での出来事としか思われていないが実は其れが身近かで併も筑後地方に実在の国々、神々達であったと思われる。
 「倭人伝」に記された国々は筑肥(筑後、肥前)平野、有明海沿岸及び博多湾を中心とした西九州での歴史物語であるように考えられる。
国稚くにわか浮脂うきあぶらの如くにして海月クラゲす漂へる時、葺かびのごと萌騰もえあがる物にりて…‥…天の沼茅ぬぼこ‥‥‥、き給へば潮…‥…潮積りて島となる。是、於能コ呂島なり」オノコロシマは即ち「凝島(ころじま)」であって、洲潟のことである。筑後川、矢部川の二大河川が上流より有明海に土砂を運び、干潮により一旦は沖へ流されても潮は島原、三角海峡あたりで満潮に出逢い逆流される。これを操り返すうちに泥砂は両河口附近に沈澱し洲を成し島となり陸となり、三瀦、山門、佐賀、神崎等の各平野が造成された。つまり自凝(おのこ)ったというわけである。
 岐、美二尊は御子、水蛭子(ヒルコ)を生み給いき、此の御子は葦船に入れて流し棄て、次に淡島を生み給いき、これも御子の数に入らず、この地は蛭池ではないか。葦が生い茂り、蛭が澤山いて、人の住むに能わず少さい島であるから御子の数に入らないのであろう。同地、三島宮に、今なお古宮として別に祠ってある、蛭子の末社ではあるまいか。大角三島神社内の淡島宮は、淡島の本元らしい。又、近くに淡島明神(大角古賀)を祠る小宇堂もある。
一説によれば、天照大神は肥前の大女王であり、又、須佐之男命は肥後の大王、大国之命は遠賀川流域の大王であり、猿田彦命は筑後川流域の大王であった。豊葦原ノ瑞穂国は、肥後の有明海沿岸、葦原ノ中ツ国は北部九州とある。
 天ノ逆鉾についても、天ツ族系のアマで有明海北部、筑後川河口一帯で、サカホコは佐嘉地方の鉾で、銅鉾文化圏を指すものではなかろうかとある。
 豊葦原ノ中ツ国のアは天ツ族系で豊葦原ノ瑞穂国はホで邇邇藝命系であり、中ツ国は北部九洲、瑞穂国は西中部九州であり、アヅミ系、ホヅミ系のそれぞれの国である。
 高千穂峰も、特定された場所でなく、黄金色のたわわに実った稲穂を高く積み上げたところという意味である。景行紀に「朝日は杵島の山まで、夕日は阿蘇の山まで蔭を落す」とある。それ故に「御木国」と名づけた此の木はクヌギで高さ九百七十丈もあったという。このことは、景行天皇(倭建命?)の勢力範囲を示すものであって、倭建命は別名、倭男具那ともいう。恐らく倭人伝の鬼奴国で、玉名地方ではなかろうか。
 猿田彦神について、古事記の天孫降臨の項に、上は高天原を照らし、下は葦原ノ中ツ国を照らしとあるように、猿田彦神がおった八巻(やちまた)は、この中間ということになる。それではヤチマタは何所か。猿田彦のサルは、ハルタヒコ、サリタヒコとも解され、その言葉の意味からして、巴利国に関係が深く、高天原と中ツ国の中程にあって両国を照らしていたというから、最も要衝の地として挙げられる地として原田辺りではないかと考えられる。又葦原ノ中ツ国は、筑後平野北部から博多湾方面で仲哀大王(タラシナカツヒコ)の奴国のナカのナカツではあるまいか。
 又、同神は、御名を宇受売(猿女君)に譲り、阿佐賀(三瀦町下里)に()しける時、貝漁に出て溺死し給うた時の其の御名を底土久御魂(土甲呂)と謂し、海水の泡立つ時の御名を都夫多都御魂(津福)、沫咲く時の御名を阿和佐久御魂(青木、アハキの転化)と謂う。土甲呂には猿渡の姓もあるが、これらの土地は猿田彦の所領であり、水沼の県主猿大海は同神の子孫ではなかろうか。特に三瀦、八女地方には「猿田彦大明神」の辻石が多い。
 天孫降臨はアマクダリと読まずにアマクダスであって、邇邇藝命が饒速日命を降す戦いであるから(くだ)すと読むべきである。猿田彦神を道祖神とするのはヤチマタに由来するもので、サエの神で農業神でもある。高天原、中ツ口の両地方を照らす大王とあるように天照大神のテラシと同じように天皇クラスであろう。因みにタラシとは天皇のことである。高天原も邪馬台連合国の一国家であったということになる。
 天御中主神は肥前の三根町、神崎町一帯の最初の王で弥奴国のミナでミは海、ナは水田で海に面した水田耕作地帯である。又弥奴国は物郡氏発祥の地でもある。
 建速、勝速についても、邪馬台国時代から奈良朝時代の初期までは有明海を速日と呼んだ。須佐男命は建速須佐男命と呼び勝速日天忍穂耳命と共に、二人はそれぞれ有明海の中部以北の湾岸や山中にかけて勢力を張っていた。
 以上の様に、神話は、有明海を中心にして各部族が相争った古代邪馬台国の姿である。特に須佐男命の物語は筑後川(天ノ安河)をはさんで天照軍と争い、邪馬台国連合軍の追討に勝てず根の堅洲の国(母の伊邪那美国)に追われた。根の堅洲とは奴の河口の洲即ち馬須支郡(益城郡)であろう。この争いにより天照は悶死した。此れが天ノ岩戸かくれである。この様に度重なる各部族の闘争により、邪馬台国は小国家群を次々に連合し、邪馬台国連合国家が成立した。これも一つには、狗奴国に対抗する為でもあった。
 ※ 邪馬台国の邪は「長い渚や入江」、馬は「海岸平野の耕地」、台は「岬や小丘の畑地」とある。

4 有明海(北部沿岸)と大和(奈良)盆地
(1) 邪馬台国は七万余戸、人口を一戸平均四人程度として、三〇万人余となり大和でも稲作はあったにせよ未だ未開発で此れ程の人口を賄うだけの稲作は発達していなかったであろう。又、倭人伝には魚貝類が主食だったともある。勿論塩分も必要だったであろう。当時としてはその塩分を大阪湾から陸送するのは甚だ困難であったであろう。
(2) 女王卑弥呼は南の強敵である狗奴国の男王に苦しめられたとあるが、狗奴国は肥後の中南部辺りが定説である。九州と大和とでは余りにも距離があり過ぎる。
(3) 物部氏の祖は高良大社の「天慶神名帳」にある磯上物部神であり、応神大王の東征に従い大和に神社を建て祀った。
(4) 高天原から有明海岸に降臨した三女神(田霧姫、市杵島姫、端津島姫)を祀った水沼君、宗像君、安曇連は共に此の三女神の子孫である。
(5) 卑弥呼の宗女、壱与が二六六年に晋に遣使した直後、歴史上から姿を消し、又大和の鋼澤も忽然として消え、三世紀末頃に突如として、大和には古墳文化が発達した。これは明らかに九州勢(応神大王)が大和へ東遷したことを意味する。彼は威力を誇示するために巨大古墳を築造した。大和神武系に古墳の伝統はない。
(6) 邪馬台国(吉野ケ里・山門)では、すでに優れた鉄器が製造され、強固な軍事力、優れた文明力を以て応神大王(神話では神武天皇)は東征し大和朝廷を成立せしめた。
(7) 大和盆地に北部九州と相似した地名、名稱等が多いのは北部九州人が東遷した証拠である。

     三 古墳(大和)時代

 (一) 古墳について
 天照大神の天ノ岩戸、伊邪那岐、伊邪那美の黄泉の国の話等、古墳の発生は三世紀後半に遡る。卑弥呼の死(二四〇年−二四八年)前後の時期ともある。
 弥生後期には、石棺を土中に埋葬するだけでなく、塚を造り石棺を直接埋葬する古墳形式でもあった。
古墳とは四世紀末から七世紀にかけて造られた豪族の墓であって、一般的には前方後円が多く円墳、方墳も見受けられる。古墳とは古代の墓という意味だけでなく、特別な性質をもっている。墳丘を有し石室が有り、死体を石やその他で造った棺に入れ副葬品が豊富に埋葬されている墓のことである。
     1-8  −(中略)−

9 水沼近傍の古墳
 大木町には古墳と呼ばれるのは全く見当たらないので、近郊の古墳を参考までに簡単に挙げる外はない。
 水沼地方の東北部は、洪積台地で古墳の宝庫である。八女丘陵の最西端に当り多くの古墳が点在する。
 双子塚(荒木、銅鉾、円筒埴輪出土、前方後円)、豆塚(荒木、土器出土、円墳)、御塚、権現塚(大善寺、埴輪、石斧、石鏃、土器出土)、御塚は前方後円、権現塚は円墳で二重濠がある。十連寺古墳(西牟田、円墳、箱式石棺)、烏帽子塚(三瀦、鋼剣、土器出土)、御廟塚(三瀦、銅剣外出土)、烏帽子塚は国乳別皇子(景行天皇の皇子)の墓と呼ばれている。
 広川の石人山古墳は石人、石棺として有名、前方後円墳である。岩戸山古墳は盤井の寿墓(生前に造ったもの)として石人、石馬、石楯、別区など全国的に著名である。近くに弘化谷、善藏塚、茶臼塚、乗場塚、童男山等がある。久留米には、日輪寺、浦山、高田町の石神山、瀬高町の王塚、車塚、権現塚、大道端等ある。
 尚、大善寺の御塚古墳は水沼ノ君、権現塚は猿ノ大海の墓ともいわれている。

 (二) 水沼ノ君と其の時代
 此の頃の大木町は未だ陸地の成生は完全ではなく、各所に沼や潟が多く島と呼ばれる所が多かったと思われる。
  水沼ノ君
 小国家の王を君又は命と称する。水沼ノ君とは古代豪族が社会的、政治的に地位を誇示するために自ら称したものであり、県主、国造等は大和の大王から下賜された「(カバネ)」である。その他臣、連などある。
水沼ノ君は景行天皇の次妃である襲武媛(ソノタケヒメ)(熊襲武の娘ではないか)が生んだ国乳別皇子(クニチワケスメラミコ)は君の始祖である。又、四番目の妃、高田媛が生んだ武国凝別皇子(タケクニコリワケノヒコミコ)(又国背別ノ命とも)が祖とも伝える。この様に景行天皇の子孫には相違ない。
 日本書紀に「十年(四六六年)九月呉ノ大和朝廷こ献ジタル、ニ鵝ヲ身狭村主青(ムサノスグリアオ)(一説には物部阿遅古連(アチコムラジ)とも)ガ筑紫二到ル時ニ是ノ鵝ヲ水沼ノ君(別本ニ筑紫嶺県主泥麻呂(チクシノミネノアガタヌシドロマロ))ノ犬ガ噛ミ殺シタ、君ハ恐怖憂愁自ラ黙シテ能ズ鴻十候(羽)卜鳥養人(トリカイビト)ヲ献ジテ以テ罪ヲ贖イ請イ天皇ノ許ヲ得、十月献ズル所ノ鳥養人等ニヨリ軽ノ村磐余ニ所ニ安置ス」とある。
 彼は宗像ノ君等と共に、葦原ノ中ツ国の宇佐島(又、別記には長島(ウサジマ)、海の北の道中に座す號けて道主貴(ミチヌシムチ)と曰す、大善寺夜明は天ツ神の御子を始め多くの神ゝの坐せし海の北道の長島の北の端)に降臨した日ノ神、三女神を玄界灘に浮かぶ沖ノ島の祭祀に関与した祖の物部阿遅古連水軍氏族の末裔の海人族である。これは筑後川流域及び有明海、更には八代海沿岸一帯に点在する古墳の壁画にみられる様に舟形、波状紋、蕨手文、其の他海洋航海に関した絵画を描いたものも北西部九州の地方豪族達が如何に航海の術に巧みで大陸及び朝鮮半島との国際交流があったかを窺わせる。
 火ノ君(肥後)も同じく江田舟山古墳(五世紀末−六世紀初期)の出土品からして、金銅製のきらびやかな冠帽、金製耳飾り、歩揺付の沓、銘文入りの鉄刀など多量の副葬品を見るにしても対外交流があったことは事実である。
 猿ノ大海(猿田彦の子孫?)は水沼ノ君より前に水間の県主となり、国乳別皇子を奉じて水間の政権を預かった。サルは古語で米の意味であり綿津見族(海人族)の長(オサ)でもあった。
 景行大王の九州征西の折、加牟豆萬(上妻)に到り「十八年七月、前山(御前岳?)ヲ越エ栗崎(高田町黒崎?)ヲ望ミ山峰重塁美麗ニ感ジ其の中ニ神ハ有ルカ、彼曰ク女神有り其ノ名ヲ八女津媛卜云フ常ニ山中ニ居ル、故ニ八女ノ国ノ名、此ノ故ナリ」と奏す。
 又、田油津媛が魏と通じ反乱を謀てたので、神功皇后は弓頭の国乳別皇子、舟師の長(磯良)と共に、三舟山大善寺近くから船出し途中、鷹尾島(大和町)に上陸し軍備を整え元年三月山門県(夜万止)に到り「土蜘蛛田油津媛を誅ス 時ニ兄ノ夏羽、軍ヲ興シテ迎エ来ルニ妹誅サレシト聞キ逃ゲノビル」とある。因みに弓頭神社(三瀦町)は国乳別を祭神とし、末社に美都波能比売(水の神)、波邇夜須比売(埴輪部)を祀る。
 皇后は凱旋の折、筑後河口(当時は海)に到り塚崎(三瀦町)を指して「崎が見える」と云いしにより、此の地点が今の酒見に訛ったとある。この事は次に掲げる三韓征伐の凱旋帰還と相似しており征韓は皇室に対する謳歌であり、田油津媛の征伐を誇大、美化したものであると言われている。
 「筑後地鑑」に神功皇后三韓征還の折、「皇后ヲ援ケ軍艦風波ノ災難ヲ定、皇后帰朝ノ後此処二鎮座スルヲ請フ茲二因リ社ヲ築キ後代渡商舶洋風波ノ難ヲ祈ル其ノ霊験不可勝計云々」とある。こことは白鷺が舞い降りた津のことで、皇后は武内宿禰に命じて、少童命(海神)を祀らせた。後に、征伐の際の舟師ノ長、安曇磯良は、この地に社殿を営んだ。
 桃桜沈輪(ユスラスンリン)は、肥前川上の住にして、性狂暴で鬼とまで嫌われ、俗に云う土蜘蛛で悪の限りを尽し、筑後地方にまで進出した。各地で百姓、住民に暴動を続けた。困惑した葦連は、朝廷に鎮圧を奏上した。
勅命を受けた藤大臣が下向し、葦連卆いる兵と共に、夜陰に乗じて松明をつけて桃桜沈輪を探し出し、一刀のもとに首をはねたところが、宙に空に舞い上がったので矢を放って射落とした。三六八年のことである。鬼夜の松明は之に起因するものという。
 藤大臣は其の後、筑後で政治を司った。死後、高良玉垂宮の諡を賜った。

 (三) 国造磐井他
 水沼ノ君の勢力圏を引き継いだのが磐井である。彼は筑後ノ国造田道命(孝元天皇の子大彦命)の五世孫である。磐井は筑紫国御笠郡を本拠としていたが、対外交流が盛んになるにつれ、筑後川中下流、及び有明海、博多湾にまで進出するようになった。其の勢力は、肥国、豊国にまで拡がり、火ノ君とも婚姻関係まで結び、九州の北半を占める一大勢力を持つに至った。一方海洋に於いても、玄界灘より東支那海まで掌握し、其の権力、財力は中央を脅す程になり、君より国造に任命された。
 五二七年、任那が新羅の軍により、併合される事態になった。百済と提携して、任那を奪還せんと、近江毛野に命じ、六万の軍勢を率いて、渡海させようとして、磐井に援軍を依頼した。併し彼は逆に、筑紫、肥国、豊国と連合し朝廷軍に反抗した。勿論、新羅からの要請があったのは事実である。
 「日本書紀」によれば、「磐井、乱語揚言シテ言フニワ今コソ朝廷ノ使者トシテ遣ワサルトモ昔ハ吾ガ伴デアリ共二肩摩リ合ワセ一緒二共器、共食シタ間柄ニシテ今ニナリ戦ハズシテ伏セヨトワ何タル無礼ヲ申スカ……天皇、大伴金村、物部大連麁鹿火、許勢大臣男人等二詔シテ筑紫磐井反抗ス西域ノ地、今誰ガ将タルカ大伴大臣僉曰ク正直、仁勇、兵事二通ズルワ今、麁鹿火ノ外ニナシ……天皇、秋八月ノ朔二詔シテ曰ハク磐井従ワズ汝徂キ彼ヲ征セヨ朕ワ長門ヲ制ス筑紫以西ヲ汝制セヨニニ年ノ冬十一月甲寅の朔甲子二大将軍物部大連麁鹿火、親ラ賊ノ磐井ト筑紫ノ御井郡ニテ交戦ス旗鼓相望、挨塵相按……万死ノ覚悟デ磐井ヲ討タント俄二官軍動発襲ス彼勝ツマジキヲ知リ独リ豊前国上膳県二遁南山峻嶺ノ曲二終テヌ官軍追イ尋ネシガ蹤ヲ失フ怒リテ石人ノ手ヲ撃折ス」とある。
 その子、葛子は、父磐井の罪を償うために、粕屋の屯倉を献上し死を免れた。
 「風土記」に「筑紫ノ磐井謀叛シケルニ討手ヲ遣ハシテ誅ス磐井ガ母ヲ捕エケルニ彼女、天皇ノ御前二出デ磐井謀叛スト云ヘドモ母ガ罪ニアラザル旨ヲ委ク奏シケルニ母ガ命ヲ助ケ給フ由見ユ」とあるが後世の人の作添とも言われている。
 六六三年、大和軍は第一軍と併せ、兵員三万二千の軍勢を擁し、国運をかけた大出陣だった。動員は、筑紫、肥・豊国など、西日本全域に及び、国造の指揮のもとに多数の農民がかり出された。大和、百済の連合軍は、新羅、唐連合軍に、最後の決戦に挑んだが、我が連合軍に利あらず、同年、白村江の戦いで惨敗に終わった。亡命を希望する百済人を伴い、大和軍は帰還した。ここに仲哀朝より、幾世紀に及ぶ半島攻略は終止符をうった。
 六六四年、中ノ大兄皇(天智天皇)は新羅攻略の失敗により、外敵の侵入の恐れに対する防衛策として対馬、壱岐と筑紫に防人を置いて、辺境警備に当たった。又太宰府周辺の防備には、水城を築き、「遠の朝廷」を強固にし更に大野城、基肄城を築いた。高良山・女山等の要所にも、山城(神籠石)を築き、中央より石上麿呂・石川虫名等が下向し各地の城を検視した。
 大伴部博麻は、上陽(カムツヤメ)(上陽町)の出身で「持統紀」に次の如くある。
 「持統四年(六九三年)十月丁酉軍丁筑紫ノ国上陽東S大伴博麻ハ新羅送使大奈末金高等二従イ筑紫ニ還ル」……「乙丑軍丁大伴博麻二詔シテ天豊財重日足姫(アメノトヨタカライカシビタラシ)ノ天皇七年百済ヲ救ウ之役汝唐軍ノ虜トナル 見ユ天命開別(アメミコトハルキワケ)天皇三年泊ル土師連富杼(ホド)(ヒノ)(オユ)・筑紫君薩夜麻・弓削連元實兒四人ハ唐人ノ大和侵略ノ計ヲ聞キ奏セント欲セシガ衣粮無ク達スル能ズ博麻ハ土師富杼等二我汝ト共二本朝二還ルヲ欲スレドモ衣粮無キ故我身ヲ賣リ衣食二充ツ富杼等天朝二通ズ……」彼は自ら奴隷となり旅費を稼ぎ富杼等を無事に帰国させ朝廷に唐・新羅連合軍の大和侵略計画を奏上した。其の功により「尊朝愛国売身顯忠」として官位を受け○五疋綿一十屯、布三十端、稲一千束、水田四町を賜る。

  第二節  古 代

    一 飛鳥時代

 (一) 大化の改新
 中ノ大兄皇子(後の天智天皇)は、六四五年、聖徳太子の中央集権の国策を基礎に、政治を受け継ぎ、藤原鎌足等と国勢の強化を計り、新しい政治を始めた。年号を大化と改め、文武天皇(七〇一年)の大宝律令より、元正天皇(七一八年)の養老律令により完成され、実に一五〇〇條の律令が制定された。

1  氏姓制廃止
 六四五年、大化の改新により廃止された臣、連、国造、県主等の氏姓とは、大和朝廷に対して、政治上の功績度合、家柄(血統)の高低を表示するもので、政治的な支配組織であり、地位を世襲した。又、一般民の民部(カキベ)、職業人の品部(シナベ)(陶郡、服部、織部等の半島よりの帰化人)が貴族、豪族の私有化から六七五年に解放された。
 同時に朝廷の経済的発展の基礎となった屯倉(ミヤケ)(朝廷の農場、穀物倉庫等)、有力なる氏族の田荘も廃止された。

2 行政改革
 全国を七道(西海、山陰、山陽、南海、東海、北陸、東山道)と畿内とした。
西海道は、十一ケ国(筑前、筑後、肥前、肥後、豊前、豊後、日向、薩摩、大隅、壱岐、対馬)に、筑紫ノ国が筑前、筑後、豊前の三国に分れ、丈ゝ太宰府、御井、豊津に国府(国衙)が設けられ、国司が国内を統括し、郡には郡衙(大善寺宮本)が置かれ郡司が郡内を司った。
 筑後は十郡山本、御原、生薬、竹野、御井、三瀦、上妻、下妻、山門、三毛(也末毛止、三波良、以久波、多加乃、三井、美無万、加牟豆万、志毛豆万、夜万止、三計)となる。
 三瀦郡は八里(後に郷)高家、田家、三瀦、鳥養、夜明、荒木、青木、管綜(廉待は下妻郡)となる。
 郷名は和名秒(九〇〇年、日本最初の漢和字書、源順著)によれば名称は明らかでないが古今を対比して推定したものである。
 高家郷(多加部)=江口、富重、久富、熊野、蔵数、西牟田東南部、生岩、福土、大
            角、蛭池 
 管綜(ツツエ)郷=江上、楢津、大依、六丁原、笹渕、横溝、上白垣、下林、中木、上・中・下
       八院 
 田家郷 (田部)=奥牟田、中牟田、八丁牟田(又は西牟田、城島、木佐木の説)
 廉待郷=蒲池、大莞、田口、昭代の北部
筑紫国の名義(ミヨウギ) 〇木 菟=此の地形、木菟の如し故に此の名あり
       ○鞍摩盡=筑前、筑後両国間の峻狭の鞍グラ盡の坂があり往来の人の駕
         は鞍下が摩り盡くされると土人云う
       〇人命盡=両国の堺に荒猛神あり往来の人、半生半死其の数極めて多く
         人の命盡神と云う、筑紫君、肥君等之を占、甕依姫之を祝祭す。其れ以
         後は行路の人神害被らずとある。
       〇山木盡=其の死者を葬る為に此の山の木を伐り棺輿を造ったので山木
         盡くしたと云う。
        外ニ筑石説、いつくし説等有り
筑後の国の名義 筑紫後国とあり、筑前にたいしての名義で、筑紫乃美知乃支里とある、持統四年「筑後国上陽(カミツヤメ)」とあるのが最初である。
三瀦郡の名義  古代の水沼の県で「和名抄」に沼ニ由有テ負セタルベシ土地ノ様モシカ思ハル所ナリ」
 水間、美奴萬(ミヌマ)美無萬(ミンマ)が何時の時代にか転訛して美都萬(ミツマ)と呼ばれるようになった。
又、三妻、三沼、水瀦のように当時三瀦は、沼沢地であったので真沼から起こったであろう。大化の改新に伴い地方でも郷里制が施行された。
地方行政制度
〇国司 朝廷より主に貴族が地方官として任命された。任期六年(後に四年)守、介、
    椽、目、史生の五階級からなる。
○郡司 地方の豪族(旧県主等)が任命された。
   戸数は百戸−千戸程度で戸数により上郡、中郡、下郡、小郡の四段階に別れる。
〇里長 (後に郷と呼ばれる)住民の中から選ばれた。
   戸数は二十戸−三十戸。後には郷となり五十戸程度となる。又、保と云い五戸を
   単位とした。
   里長(郷長)は行政上の基本単位で戸籍、計帳の作成、口分田の班給、税の徴集
   などに携わった。

3 公地公民制
 大化の改新により、一般の人民も公民となり、土地も公地となって、班田が収授され、土地公有制度が成立した。此の制度により、六才以上の男子は、田二反、女子は其の2/3の口分田を受けた。併し間もなく、酷しい租(口分田の課税)、調(各戸に課した現物税)、庸(労役義務)と云って、男子は六十日間、国司の令により労働の雑徭があり、又、二十一才の男子は衛士(一年間の都の警固)、防人(三年間の九州警備)の兵役義務に酷使された。
 一方、高位高官には、職分田、五位以上の官吏には位田、功田、寺社には寺田、神田が贈られた。こうして公地公民の原則は大きく制限を受けた。又、一般公民の下に、公奴婢(政府の私有人)、私奴婢、家人(個人使用人)にも公民の1/3の口分田が下賜され、賎民と云う差別民が加えられた。彼等は、奴隷で、家畜同様に使役され売買もされた。
 農民は、過酷な納税や労役の苦しみに耐えられずに、班田使の目をのがれ、口分田を放棄して、村を逃亡して浮浪人になったり、貴族や寺社に使用される者が続出した。
 かくして公地公民の制は次第に揺れはじめた。

     ニ 奈良時代

 過去に於ては、天皇が即位する度毎に、宮廷の所在地も変わる慣習であったが、大化の改新以後、国交関係の対面上唐の長安にならって、元明天皇の和銅三年(七一〇年)に大規模な平城京が造られた。
以来、僅か七十有令年の短い期間ではあったが我国の歴史上重要性を占める時代である。古事記(七一二年)、日本書紀(七二〇年)、同時代に風土記も書かれた。七〇八年には最初の和銅開珎の通貨が発行された。

 (一) 道君首名                      

道君首名の墓
 太宰管内誌に 「彼ハ幼こシテ律令ヲ治メ吏職暁習ス、和銅ノ末筑後ノ守卜為ル肥後国ヲ兼治ス人二生業ヲ勤メ修教耕営ノ為ニ田畑ニ野菜、果実ヲ植エ養鶏等ニ及ビ典事ヲ宜ク盡ス、行教ヲ案ジ遵ハザル者アル時ハ勘当ヲ加フ始メ老小竊カニ之ヲ罵り怨ム其ノ実収アルニ及ビ悦服セザル者ナシ、又陀池興築シ広ク濯漑ス肥後味生池及ビ筑後往陂池是也、是二由リ人、利ヲ蒙ル、今皆首名ノ力ナリト吏事言フ咸、首卜稱ス、卆スルニ及ビ百姓之ヲ祠ル」 とあり、以上、要約した。
 彼は藤原不比等、刑部(オサカベ)親王等と大宝律令の選定に努力し、僧尼令(大宝元年六月)を大安寺で講じて正七位から正六位に叙せらる。
 七一二年遣新羅使となり翌年帰朝後和銅六年八月丁巳従五位下道君首名、最初の筑後守となる。
 七一八年養老二年、正五位下、五六才にて死去す、大善寺の印鑰(インヤク)神社境内にある乙名塚は彼の墓?と伝えられる。※印鑰 (官印と官庫の鍵)

 (ニ) 条里制
 大化の改新により施行された土地の区画制のことであって、一坪の面積が一町の正方形で六町の正方 形を一里となす。(一町は約一〇〇米)
 一区画は東西南北共に六里の正方形三六里を以てし各区画の列を条と呼ぶ。(図面参照)



 大木町でも七一三年道君首名が筑後守として下向し、荒地を開墾整理し、各坪毎に縦横に畦道、用排水溝を設けた。大薮地区の一、三、四、五ノ各坪、三八松区の内一ノ坪、外一ノ坪等があり、又、大角地区には、口分田と云うホノケが残っている。此れ等は当時の条里制の名残であって、現在では耕地整理により殆どがその面影を知る由もない。
(三)荘園の起こり
 公地公民の制度は、過当な租税、苛酷な労役を生じる結果となり、農民は土地を棄て浮浪人同様の生活をして、豪族、寺院等に労働力を自ら提供した。そこで朝廷は七二三年に三世一身の法を設けたが、期限が近づくと、土地は国に返却せねばならぬので、耕作を怠り自然に田地は荒廃した。その上、村の人口は増える一方で、食糧が不足してきたので、墾田の永世私有法(七四三年)を制定した。しかし、この制度も多くの財カ、労働力を持つ寺院、豪族、貴族等の私有地を広めるばかりとなった。これが初期荘園の起こりとなった。こうして班田収授の法は完全なまでに崩壊しはじめた。
 ○ 国府役人の組織
   守(国司)=大国 従五位上
    〃    上国 従五位下
    〃    中国 正六位下
    〃    下国 従六位下
 筑後国は上国に位置し十郡七十郷、百八十七里である。
 守一人、介一人、大橡、小橡各一人、大目、少目各一人、史生三人
 郡には大領、少領、主政、主帳があり丈々事務を執った。

   三  飛鳥・白鳳・天平の仏像

 (一)〜(三) (略)
 (四) 大木町の仏像・仏画
1 仏  像
 ○ 観音像 (前牟田清浄院)

清浄院観音像
 観音菩薩は、菩薩の中では最も広く崇拝され、大慈大悲に富み三十三に変化して苦悩を除き忍辱、柔和の相を有し、多くの観音が成立し、本来の観音を聖観音と呼ぶ。阿弥陀如来の左脇侍で、宝冠には阿弥陀の化仏(化身仏)をつける。身には、天衣、条?、裳をつけ手に蓮華を持つことが多い。
 ここの観音像は元来、九品寺(一一一〇年頃の創建)の本尊であったが同寺の火災から消失を免れ現在は清浄院内の小宇堂に安置されている。面長で均整のとれた優美流麗な姿態は将に現代の八頭身美人型である。愛撫に満ちたやさしい目、今にも語りかけんとする唇、整った高い鼻、衆生の悩みを聞き入れるふくよかな耳は仏師の憧れの姿体像でもあったのではなかろうか。
 木像、立像、像高九七糎。
○ 観音像(吉祥無量院)
無量院観音像
 大同元年(八〇六年)唐より帰朝した慈覚大師が瀬高清水寺山中に毎夜怪しげな光を放つ霊木(合歓ノ木)に、立木のままに刻んだと云われる。立木仏で三体(瀬高清水寺、京都清水寺、無量院)の観音像が彫られ、この無量院の像は、真中の部分であると云う。本町では、最古の仏像と思われる。表面の塗色は、剥落し朽ちかけた箇所もあり、時代感がうかがわれる。正面下部の歯車形の白い装飾は、今尚、燦然と光り輝いている。豊満で重量感があり、清浄院のそれとは対照的で面白い。
因に本像が彼の作であるか否かは詳かでない。
  木像、立像、像高一・二三米。

 2 仏  画
 信仰礼拝の為に、諸々の仏を描いた仏教絵画で、三尊図、祖師図、浄土信仰による浄土変相図、来迎図、密教の蔓茶羅、禅宗の頂相(禅宗の高僧肖像画)画、及び神道と融合して成立した本地垂迹画等があり壁、板、絹、紙等に描かれた。
 蔓茶羅とは、心髄を得るという意味で、悟りを得た場所から道場を意味するようになり、壇をつくり仏弟子が集まる所から諸仏の集合像を壇、板、絹などに描き悟りへの過程の教理を仏像を通して象徴的に描いたものである。蔓茶羅には胎蔵界・金剛界(大日如来の教義)や法華、尊勝、仏眼、仁王、愛染などの別尊曼茶羅がある。
 ○ 阿弥陀如来三尊来迎 (筏溝西向寺)
 平安時代中頃から浄土信仰によってもたらされた仏画、西方浄土の教主阿弥陀如来が本願とする衆生を救うために観音、勢至両菩薩をはじめ聖衆を連れて人間世界に往生者を迎えに来る情景を描いたものである。山越阿弥陀三尊や三尊像だけの来迎図などがある。この図は源信の作と伝えられている。
 源信は七高祖の一人で、平安中期の天台宗の高僧恵心僧都という。良源に仕え天台の教義を究め浄土教の基礎を築いた。

 3 飛鳥・天平時代以降の仏像・仏画
(1) 仏  像
〇 如来像 (前年田清浄院)
  如来とは如(真理)から来た人の意味で、三界(欲界、色界、無色界)に悟りを説く完成された仏とある。裳と袈裟を着し装身具や宝冠をつけないのが普通である。
  誰が何故に、何の目的でこの寺に奉献したかは定かでない。鋳造年代は、像裏に天正三年(一五七五 年)八月の刻銘が明記されている。僅か十糎足らずの像であるが、貴重にして稀少な如来像である。
 銅造、立像、像高九・五糎。
〇 二尊像 (蛭池二尊寺)
 同寺の本尊ではないが由緒ある二尊であって、此の寺の二尊名は、これに由来するものである。天正以前の或る日、名もない旅の憎が、若宮八幡宮(前牟田平松野)に二尊(阿弥陀如来、釈迦如来)を奉納した。のち同宮の火災により直ぐ側に小堂を建て二尊を祀った。天正元年(一五七三年)現在寺院に安置された。
  阿弥陀如来、木造、立像、像高(台座より光背まで)三五糎。
  釈迦如来、木造、座像、像高(台座より光背まで)三四糎。
二尊像閻魔大王像
〇閻魔大王像(蛭池二尊寺)
  大王は地獄に住み、十八人の将官と八万の獄卒を従え、死んで地獄に落ちる人間の生前の善悪を審判、懲罰して不善を防止する大王で其の像は元来、普通の仏像に以て左手に人頭をつけた旗を持ち水牛に乗ったものであったが、何時の頃からは判明しないが、現在では中国の服を着て、忿恕の形相をしたものが多くなり、当寺の像もそれである。像裏に一七九七年の作造とある。
 木造、座像、像高九十三糎。
 その外、福間の板碑に刻まれている阿弥陀如来三尊像。無量院(吉祥)の石仏群。薬師寺(横溝)の薬師如来石像等、価値あるものが多い。
無量院の石仏群薬師寺の薬師如来阿弥陀如来三尊像
(2) 仏  画
 ○ 飛翔天女(前牟田清浄院)
  天上界に住み、頭に華鬘(ケマン)(欄間などにかける装飾仏具)を付け、羽衣を着て天上を飛行し舞楽をよく奏でる。吉祥天女と共に天部形で仏法の守護神である。建立当時よりの寺宝で、材質は紙で、顔料が使用されている。惜しむらくは少々破損しかけているが今尚、極鮮明な色彩が輝いている。
〇 七高祖 (大薮円照寺)
  七高祖とは、釈尊以後、親鸞の開宗に至るまで弥陀の他力本願を宣布し、西方浄土の往生を勤めた、七人の高僧で竜樹・天親(インド)、曇鸞、道綽、善導(中国)源信、源空(日本)を指し、親鸞の選定した高祖である。聖徳太子像と共に一六三七年の再建当時より伝承されてきたものである。

飛翔天女七高祖(仏画)

     四 平安時代

 (一) 藤原摂関政治と荘園の成立
 班田制が崩壊し農民の実情も判然とせず、口分田の班給も止まった。奴婢の制が消え、下人、所従の賎民が生まれた。農民の中でも権力者は開墾や土地の冗収などにより、私有地を拡げ、不輪粗化(免税)して開拓地に自分の名を付けて権利を主張した。いわゆる名田であり、所有者を名主といった。名主は名田を国司の干渉からのがれる為に中央の有力な貴族、寺社(権力勢家という)に名義上の寄進を行い、自分は預所として実権を持っていた。寄進を受けた者を領家といい其の保護を受けた。更に権力者を本家と呼んだ。かくして荘園は成立した。此の様に国司の任免権を持つ藤原氏一族の摂関家に荘園の本家、領家職が集中したのは自然の勢いであった。かくて藤原氏を中心とする貴族政治は荘園の富の力によって築き上げられた。中央の貴族は国司に任命されても遥任(代理)を送ったり、又任期が切れても重任して留まり重税をかけ莫大な財力を貯えた。

 (ニ) 院政と荘園の発達
  後三條天皇は荘園の刷新を図り、記録荘園券契所を設け、荘園の乱立抑制に着手した。白河天皇は、天皇の位を譲り上皇となり院庁で政治を執った。即ち院政である。此の事は藤原氏の専政勢力を抑制するためであった。天皇は皇太子同然の立場となり、自然に摂関の実権は失われた。それに伴い藤原氏の政治力も衰えはじめ、荘園も院が実権を握るようになった。白河、後鳥羽上皇は後に出家して、法皇となり厚く仏教を信じた。各地に寺院を建立したので、出費を確保するために、国司として富を貯えた地方の中流貴族を中央の官職に起用し、新しい政治組織を造った。其の後、地方の国衛領は国司の私物化同然となり、実際には陰の実力者である武士が支配するようになり、武士の間で争いが激しくなり、所領を中央の権門勢家(院庁)に寄進して、政治的保護を受け、武士の支配下にある農村でも、権力ある豪農は所領田を同じく院庁に寄進し国司に交渉して税を納めない不輪田(免田)の権利(不輪権)や国司や検田使が荘園内の検視を拒絶する不入の権利を強引に認可させた。かくして荘園は全く政府の支配の外にある地域となった。その保護の下、全国的に荘園村落が爆発的に多くなり、院庁 、寺社、貴族等の広大な土地は全国の半分を占める荘園となり、其の残りが国衙領として残った。
〇 三潴荘
 平安末期、三潴荘には十三ケ荘があり不輪田(免田)になす為に努力したが仲々許されず仕方なく権門に寄進し、国司の干渉からのがれた。当時北筑後は一二四ケ村、山口高(収穫高)七万五六八五石、南筑十一ケ村、山口高一万四三六〇石四升とある。
 高三瀦、荒木、酒見、浜武、木室、八院、四郎丸、藤吉、江上、白垣、堺、上小法、下小法の各村。
 この内高三瀦、荒木は国衙領であったが、後に三瀦ノ庄に編入された。その後、夜明、西牟田、是丈、田脇、築河更に安武、横溝、木佐木、四郎丸を加え一大庄園となった。大木町でも此の時代になると人口の増大につれ戸数も多くなり、北東部方面より次第に内部の南西部の沼沢、牟田、湿地帯へ向かって開拓された。牟田地名は湿地帯、古賀地名は荒野と云う意味で荘園の拡大により開発された地域で一名荘園集落とも云う。八丁牟田、牟田口、絵下古賀、大角古賀、前牟田、大角牟田、荒牟岡、奥牟田等がそれである。又各地に名田と思われる地名も多い。例えば八郎左ヱ門、甚左ヱ門分、六郎三、小四郎、地頭分、四郎、太郎等あり、屋敷のつく地名も他町に比して非常に数多い。

 (三) 武士の起こりと源平の争い
 平安時代末期の院政時代になると、仏教信仰が高じ、大寺院は広い荘園を持ちそれにより勢力を拡大し、多数の僧徒(僧兵)をかかえ、朝廷も暴動を武士に命じて鎮圧した。藤原氏など貴族間、皇族間内にも争いが絶えず、それぞれ武士を味方に相争い、保元(一一五六年)の乱、平治(一一五九年)の乱となった。源氏を倒した平清盛は、皇族と姻族関係をもち武士として藤原氏にかわり政権を握った。清盛は太政大臣となり、一族は荘園、知行国を手中にして、平氏の全盛時代を築いた。しかし、院庁、寺院内にまでは権力が届かず、又地方の武士にも信頼が薄く、不平武士も多く其の中でも、特に源氏が先んじて蜂起し、木曽義仲についで、源頼朝、義経の挙兵により一ノ谷、屋島の戦いの後、ついに壇ノ浦の決戦で滅亡した。時に寿永(一一八五年)四年の春であった。
 「平家にあらずば人にあらず」と栄華を誇った平家も盛者必衰の埋の如く遂に壇ノ浦にて安徳天皇を奉じて滅び去った。生き残った平家の一門は全国に落武者として南へ北へ落ちのびて散って行った。勝者と敗者のならいとは云え、これ程悲哀な末路はない。日本歴史上、最も悲惨であったのが、この平家と豊臣氏の没落であろう。両者とも中央政権を欲しいままにした末路としては余りにも悲しい物語である。
 頼朝は御家人となった武士を、全国に派遣して各国に守護、荘園には地頭職を置き、平家の政権下にあった九州には、土肥実平が鎮西奉行として下向し、三瀦庄には和田義盛が地頭職に任命された。

 (四) 大木町近傍の源平ゆかりの地
朝日寺=「三瀦郡夜明山朝日寺ハ神子栄尊和尚ノ開基也、伝言、尊ハ平判官康頼ノ男
    也康頼鬼界ケ島ヨリ帰洛ノ時、肥前筑後ノ間ヲ漂泊ス藤原氏女嬖リ男生ム‥‥
    禅学ヲ究メ蛍雪ノ功積ミ遂ニ五岳ニ登ル聖一口師ヲ師トシテ法ヲ嗣グ肥前水上
    山万壽寺ニ住ミ兼テ当洲朝日寺ヲ創ス」
山川の七霊ノ滝=ここ山川にも平家の残党が逃げのびてきた。しかし敗者の平家を迎
    える者とてなく迫害を受けた。そんな中で「おん身達は平家の公達なり。鎌倉の
    野武士に負けてはならじ。今一度勝負を迫られよ、我等も援助つかまつらん」と
    地方の豪農、豪士等が協力し決戦を挑んだが、源氏の追討軍に攻められ山へ
    谷へ南をさして落ちのびて行った。その中に七人の女官もいたが、もう逃れる
    すべもなく、これを最後と断崖から滝壷に身を投じた。この滝が七霊の滝であり、
    女官達はその後ナマズに化身して水神となった。
六 騎=貞応元年(一二二二年)、平益信等、六人は沖端に落ちのび漁業を生業とせし
    により之が漁民の祖といわれる。
両同院=長門石にあり両同院江南山と号す。平重盛建立といい伝えられている。平家
    の旧臣に長門石地方の豪族執行利左衛門尉藤原種継なる者あり。平家の残
    党安徳帝を擁し久留米地方に来るや種継、主上を両同院に迎え奉ったという。同
    寺の趾には玉ノ井地蔵尊がある。俗に七木地蔵尊という。
水天宮=伊勢(千代尼)大和国の両官の女、高倉平中宮に奉仕したる官女なり。壇の
    浦戦後久留米に遁れ来て、水天宮の大神を祭った。其の後平知盛の孫、済と
    いう者が肥後から来たのを千代尼は養って後継とした。これが当宮の神官真
    木家の先祖である。
     ※済は肥後に落ちた少将平知時(知盛の子)の末子である。
石丸山(大角)=鹿ケ谷での密議が暴露し、俊寛僧都は平康頼等と共に鬼界ケ島へ流
    罪と決まり、彼は護送される途中此の地に赴き暫しの旅宿をとった所と古老は
    伝えている。
宗清寺(筑後市)=平弥平兵衛宗清の「宗清」から名づけた寺名である。壇ノ浦での滅
    亡後、宗清は尾島に逃れ市の塚(一ノ塚)に寺を開き、平家一門の霊を弔った。
    慶長一九年、鶴田の地に移した。境内に宗清の墓が建っている。
 その他、久留米の十三塚、浮羽郡の知盛墓、平家館跡等があり、筑後市尾島、立花町など平家にゆかりの地は、多く残っている。

〇 此の時代の関連寺社
イ 大安寺、円通庵=大安寺ハ江上村ニ在リ医王山卜号ス延歴(七八二年−八〇五
      年)年中ノ草創ニシテ江上三郎長種寺田三町三段ヲ寄付ス中世其地悉ク
      退転ス甞テ大根越大安寺殿ノ位牌ヲ安置ス 末寺同邑光西寺、同修林菴、
      横溝村円通菴共ニ今ハ 廃セリ 大安寺ハ江南山ノ末院ナリ
ロ 山王社=延歴年中江上三郎長種、比叡山坂本山王宮ヲ勧請ス慶長年中、田中吉
      政神田百石ヲ寄付ス
ハ 栄勝寺=牟田口村承平三年(九三三年)建立、古大伽藍ニテ子院六坊アリ其名地
      名ニ残レリ栄林菴、珍壽菴、化宗菴、高元菴、陽勘菴、龍義菴、境内広シ、
      善見山卜号ス
ニ 広門神社=横溝村、元慶二年(八七八年)郡司境伊賀摂津国ヨリ勤請ス

愛染明王像
ホ 明王寺=牟田口村、本尊ハ愛染明王(元来インドノ神デ愛
        ノ神)、明王像ハ行基ノ作卜云フ 同寺ハ愛染山
        卜号シ山本郡千光寺ノ末院ナリ。建久六年(一一
        九六年)源頼朝ノ草創ニテ天正五年蒲池武蔵守
        宗雪の嫡男源朝臣鎮並ノ再興。今門前二愛染明
        王堂アリ
へ 清水寺=山門郡本吉村、大同元年(八〇六年)慈寛大師の
        草創、洛東清水寺ニ同ジトアリ 唐より帰朝し毎
        夜奇しき光を放つ一本の合歓の木を見て立木の
        まま観音像を刻むとある。
卜 九品寺=江上村にあり西方山と号す。天永(一一一〇年−
       一一一三年)年中大友ノ家臣豊饒美作入道永源草
       創シ寺田三段三畝寄付ス。田中吉政其田ヲ没収セリ九品宗ノ徒是ヲ守ル。
○ その他
 元慶三年(八七九年)正月七日紀朝臣令影ノ後任二四年三月十六日従五位下都朝臣御酉筑後ノ守トナル元慶七年六月三日ノ夜群盗百余人御酉館ヲ囲ミ御酉ヲ射殺財物ヲ掠奪ス傍吏呼声ヲ聞キ直ニ兵仗ヲ発セシガ群賊逃散シ夜間ニテ追捕デキズ。仁和元年十二月二十三日首謀筑後橡従八位ノ上藤原ノ近成、従少目従七位上建部公貞道、左京ノ人大宅朝臣宗長、初位上日下部広君、正六位上藤原朝臣武岡、初位在原朝臣連枝、初位下太秦公宿禰宗吉等裁カレ近成、広君ハ斬刑他ハ除名、近流徒ニ処セラル
 承年元年(九三一年)四月七日右衛門佐純乗五千余ヲ相添テ筑後国へ指向ケ大弐公頼ノ籠セシ柳川ノ城ヲ囲ミケル‥‥‥天慶四年(九四一年)四方重々囲ミ食攻メシタリ。

五 省略