第三節 中  世

    一 鎌倉時代

 (一) 守護地頭の設置
 壇ノ浦で平家を滅ぼした源頼朝は、平家の残党狩りと頼朝の命に叛いた弟義経の探
索を理由に、諸国に守護職・公領荘園に地頭職の設置を朝廷に願い出て、鎌倉殿(頼
朝)の御家人となった武士たちを、守護・地頭に任じ諸国に派遣した。
 国ごとに置いた守護職には、「御家人の大番(京都警備)催促 謀反人や殺害人の
逮捕」といった警察権を与えて治安に当らせ、公領・荘園に置いた地頭には其処の警
察権と年貢の徴収に当らせ、兵糧米として反当り五升を徴収できた。
 これらの、守護・地頭も初めは没収した元平家の領地などに置かれたが、後には全
国に及んだ。
 頼朝は御家人となった彼らに以上のような義務を負せる償いとして、経済的保証を
与え、管轄地の収穫物から定められた収入を得られるようにし、その土地内の住民支
配を許した。
 このころまで、平家の勢力がまだ残っていた筑後国も、文治二年(一一八六)草野
次郎大夫永平が打破って平定し、そのことを鎌倉に注進したので頼朝の推挙をうけて、
筑後国在国司・押領使に任ぜられた。
※在国司(受領任地にいる国司)押領使(律令制定以外の臨時の官で兵を率いて兇徒
鎮圧に当たった)

 (二) 三瀦庄と地頭
 建久三年(一一九二)源頼朝は、征夷大将軍に任ぜられ鎌倉に幕府を開いたが、その
彼が死んだ後、元久元年(一二〇四)二代将軍頼家が暗殺され、承久三年(一二二一)
には三代将軍実朝の暗殺、有力御家人の殺害とつづいた討幕主謀者の所置を強行した
北条義時は、名ばかりの将軍を補佐し、源氏に代って鎌倉幕府の政権を握った。
 この乱のときに、討幕を計画し朝廷に加担した貴族や武士の所領三〇〇〇余か所は
幕府に取り上げられ、御家人への恩賞として与えられその一族が配置された。
  この所置は幕府を開いて日の浅い政権の上に立った頼朝のときと違い、執権北条氏
の強硬な姿勢がうかがわれる。
 これ以前、三瀦庄は時代的には衰亡の事情を明らかにしにくいが、平安末期から室町末期までの史料五四を残している点では、筑後のうちで第一に注目される庄園である。東寺文書抄に「三瀦御庄村村次第、五郎丸村、福吉村、江上村、白垣村、堺村、上小法村、下小法村」とある。これは年代を欠くが平安末期のものと思われる。文治五年(一一八九)の文書には三瀦庄内に、高三瀦、酒見、濱武、木室、八院、五郎丸、藤吉、江上、白垣、堺、上小法、下小法、荒木の諸村をあげている。以後時代が下ると共に村数を増して、夜明村、西牟田村、是丈村、田脇村、簗河村を加え、室町時代には更に吉祥寺今村、安武村、木佐木村、葦塚村、大隅四王寺 村を加えた。そこで三瀦庄の最盛期の四至の大体は北は安武村、東は荒木村、西牟田村、南は中牟田簗河村、濱武村、田脇村、西は四郎丸相、酒見村を限ってその中に藤吉村、夜明村、高三瀦村、江上村、横溝村、白垣村、木佐木村、八院村、木室村、堺村、上小法村、下小法村、吉祥寺今村、是丈村、葦塚村、大隅四王寺村などを包含した一大庄園であった。(新考三瀦郡誌)

 これらの村落に北条氏が地頭職を赴任させたのは、頼朝によって和田義盛が文治五
年(一一八九)三瀦郡地頭職を停止されてから五十年後のことである。

 (三) 西牟田氏の補任
 伊豆国三島郷の藤原家綱が西牟田村の地頭職に補任され下向して来たのが、延応元
年(一二三九)と「寛延記」に記されている。
 西牟田弥次郎家綱が寛元元年(一二四三)寛元寺を建て、翌年の寛元二年(一二四
四)伊豆国から三島神社を勧請し蛭池に祀った。
 このころ、鎮宗和尚が蛭池に慶雲寺を建てる。『新考三瀦郡誌』年表によると
 文明年中西牟田重家の弟家村(牟田筑前守)広池(後蛭池と改む)村に住む。
 西牟田城落城し家種(家村の末子)蛭池村に住む。此所を本屋鋪という(一四八四)。
 この間、牟田氏の氏神と菩提寺として崇拝されていたが、西牟田家が滅亡した後の慶
雲寺は頽廃して、その跡の周囲に繞らされていた溝渠も今は埋められ、ただ一樹がその
所在の跡に残されているだけである。
 西牟田氏は各地を開拓して、その一族に守らせ、大閣秀吉九州下向のころは五万石
余の所領があったと伝えられ、一町当り石高を一六石五斗(「筑後将士軍談」天正一五
年(一五八七))で換算すると、三〇三〇町になるので、一村の地頭から大名衆と呼ばれ
るまでに成長し、これだけの領地を拡げるには、なみなみならぬ努力と苦労があったこと
とおもう。

 (四) 蒙古襲来
 文久五年(一二六八)、高麗の案内役を伴った元の使者が太宰府に来て、朝貢を要求 したが、無力の朝廷に代わった鎌倉はこれを黙殺する。そのご、二度の使者も拒絶され、三度目の使者が日本への遠征をほのめかしたので、鎌倉の執権職は、文永八年(一二七一)には九州に異国警固番役を設けて、京都大番役に当たる御家人のうち九州の御家人は筑前から肥前の沿岸にかけてその警備に当たらせた。
 文永一一年(一二七四)来襲した元、高麗軍が北九州に上陸し、進んだ兵器と戦法によって日本は負け戦だった。暴風雨により幸い危機を脱することが出来たものの、再びの襲来に備えて、建治二年(一二七六)博多湾岸に石の防塁を築き、上陸をくい止めることにした。
 この時の鎮西奉行は大宰少弐資能で、彼の指揮により鎮西の御家人たちは人夫を動員して博多津に集まった。
 筑後からは田尻種重・神代良忠・黒木・星野・河崎・西牟田永家・草野永綱・酒見教員・末安兼光らが参加している。
 弘安四年(一二八一)、再び元軍は大軍を率いて九州北部の各地に押し寄せた。西国の御家人たちは総力を尽して防戦に努め、双方に死者が続出したという。筑後から参戦した田尻種重・種光兄弟が討死した。西牟田弥次郎永家は肥前の松浦湾にある鷹島で戦功をあげ、その賞とし肥前国神崎郡中数ケ所を受領している。
 蒙古の軍船が壱岐に現われた五月二〇日以来各地で激戦が繰返されたが、七月晦日の台風で一夜のうちに数千といわれた蒙古の船は一隻も残らず打ち砕かれたという。
 この戦に功績のあった御家人たちは各々恩賞を授かり、弘安六年、龍造寺六郎家益は筑前国比伊郷・筑後国荒木村の地頭職を補任される。
 また、横溝馬次郎は弘安七年に蒙古襲来に備えての警備の催促をうけ、九年後の永仁元年(一二九三)に勲功があったと恩賞を約束される(横溝文書)が、恐らくこの時には没官領や御家人を地頭とし置いていない庄園はほとんど残っていなかったのであろう。その約束が実施されたのが嘉元三年(一三〇五)にやっと配分されている。このように地頭や土豪は京都大番役も異国警固役も自費が条件づけられていた。異国相手の戦争では恩賞も充分には行き届かず、武器などの調達に先祖伝来の所領の田畑など、売り渡したり質入れしたりして金策したので、永仁五年(一二九七)幕府は「徳政令」を出し、手放した所領を無償で取り返せるようにした。
 結果として、一時のがれに過ぎず、その後借上といった金貸しの反発があり金策に困るようになった。
 このころは北条(得宗)一門とその家臣の勢力が伸びそのあおりを受けた御家人の不満が高まっていって、各地で反幕運動が展開されて、鎌倉幕府の終末が近づいていった。

     二 南北朝時代

 (一) 北条の残党
 倒幕の計画が発覚して、隠岐に流されていた後醍醐天皇が元弘二年(一三三二)島を脱出し中国で勢力を増して、元弘三年(一三三三)これに応じた足利高氏(尊氏)が六波羅探題を、新田義貞たちが鎌倉幕府を攻め落とし、北条高時は自殺して幕府は滅びたがしかし、公家と武家とでは反幕府という点で同調したに過ぎず、足利高氏は後醍醐天皇の皇子護良親王、新田義貞たちと対立して護良親王を追放し、更に義貞を破って京都に攻め上ったが敗れて建武三年(一三三六)高氏は九州に遁れ落ちた。
 一方、大友・少弐たちに攻められた九州探題北条英時も元弘三年(一三三三)博多で討死したが、その子の規矩高政は糸田貞義と共に、北条の一党、平家の残党の子孫、各地の反逆の徒党を集めて、その勢三〇〇〇余騎で兵を挙げた。
 宗像大宮司は一五〇〇余騎で規矩高政の立籠る帆柱山の城に攻め寄せ、城から打って出た三〇〇〇余騎と戦ったが、高政には長野氏、宗像勢には少弐氏が加勢して双方の軍二万余騎で六〇日余に亘り激戦をくり返した末、高政は討たれ、長野は降った。
 糸田貞義は筑後国三池郡で、黒木・問注所・草野・星野の各氏を味方につけ、堀口城を築いて二〇〇〇余騎で立籠ったのを、大友刑部が八〇〇〇騎で攻め、三〇日かかって貞義を滅し、規矩・糸田の首は京都へ送られた。『筑後将士軍談』
 (二) 軍忠状と禁制
 糸田貞義を滅したこの合戦に三原種昭は自分の軍功を大友具簡に上申して軍忠状を頂き、荒木村地頭代理の荒木家秀は、一品親王が太宰府に御座の時、馳せ参じ御宿直に勤仕した事を奉上し、鎮西奉行所から軍忠状を下賜された。
 元弘三年(一三三三)鎌倉幕府は滅びたが、全国に亘り北条一族が守護職であったため、後醍醐天皇側に就いた宮方、足利高氏に従った武家方、北条の残党の鎌倉方の三派が分立して各地で戦った。九州の鎌倉方は大友・少弐に主謀者が討たれたため、一味同心した地頭・庄官(荘司)、土豪は離反して武家方・宮方に別れ戦に備えて立籠った。
 九州では肥後の菊池氏が宮方について武家方に対抗し、都落ちして九州に遁れてきた高氏に反抗し手こずらせた。
 尊民は建武三年(一三三六)に菊池討伐のため筑後国下妻郡鶴田村に陣を置いたが、このとき各地の神社仏閣のために次のような禁制を与え、味方の軍勢やその他誰彼なく押し入って掠奪したり暴れたりしないように保護している。
   禁則
                        筑後国西牟田村寛元寺
 右軍勢ならびに甲乙人等、濫妨狼籍致すべからず。若し違犯の輩あれば、罪科
 に処すべきの状。件の如し。
  建武三年子五月日 (花押)
                              『筑後将士軍談』
 当時は軍功をあげても直に恩賞はまず不可能であった。それで参加した地頭や土豪(地侍)は、戦いを指揮した守護職や鎮西奉行に、この件を文書で上申して次のようなことを認める旨の保証や書状を貰い後々の証拠とした。

 筑後国御家人荒木六郎入道宗戒女子代。子息弥六藤原家有申す。軍忠の事。
 今月二十三日。牛津肥前守、溝口太郎入道以下凶徒。筑後国長田河原に打ち出
 し候間、大将佐竹次郎殿の手に属し、軍忠を抽き候い了んぬ。此旨を以って御
 披露有るべく候。恐惶謹言
  建武四年八月二十五日 藤原家有
          御奉行所
                   『筑後将士軍談』
 右は自分の功績を報告したもので、これに奉行から認めた旨の花押(書判)をしてもらった。
  馳せ参るの条、尤、神妙なり。
  弥、戦功を抽くべきの状、件の如し。
    貞和七年三月十五日            花押
          荒木六郎四郎殿
                             『筑後将士軍談』
 このような「下文(くだしぶみ)」も、参陣した地頭・土豪に与えられた。

 (三) 懐良親王と筑後
 後醍醐天皇が建武三年に吉野に移って二年後の延元三年(一三三八)、尊氏は北朝の光明天皇に奏して征夷大将軍となった。その翌年、後醍醐天皇は吉野の行宮で崩御、尊氏は南北両朝の戦死者の追善供養と国家安穏の祈願のため、諸国に利生塔を建て、「安国寺」を設置した。筑後では御井郡神代村の万法寺をこれに設定した。
 将軍尊氏は一色範氏を鎮西管領に任じて、九州の宮方(南朝方)討伐の指揮をとらせた。
 菊池は武家方(北朝方)と戦うために筑後へ出陣。宮方の筑後武士には松田・溝口・草野永久・星野孫六・黒木大膳大夫・西牟田弥次郎・諸富平三・南条・蒲池・深沢などがあって、武家方には武藤・引地高経・酒見十々丸などが見える。『九州治乱記』
 興国元年(一三四〇)、後醍醐天皇の皇子の懐良親王は九州平定のため西下、興国三年に四国から九州に向かい、薩摩に上陸し谷山城に入って六年滞在。正平二年(一三四七)、肥後の隈府城に入り、同六年、五条・菊池・恵良氏らの勢をうながして北上し、筑後の溝口城を攻め破り瀬高庄を経て筑後国府に入った。
 同七年、懐良親王の臣、五条頼元は南朝のために祈祷するよう寛元寺へ令旨を伝えた(寛元寺文書)。
この年以降、南朝方の威勢ふるい、正平一〇年(一三五五)、懐良親王は菊池武澄と肥前南を占領し、同十四年には菊池武光と豊後高崎城に大友氏時を包囲したが、少弐頼尚が肥前で挙兵すると聞いて急ぎ筑後に戻り、筑後川北岸一帯で頼尚と戦った。これが大原合戦である。頼尚は破れて太宰府に逃げたが同十六年、親王はここを攻め落とし征西府を置いた。
 しかし建徳二年(一三七一)、今川了俊が九州探題となって下向し、文中三年(一三七四)に宮方は太宰府を失い、高良山から星野に撤退した。
 天授元年(一三七五)、懐良親王は征西将軍を良成親王にゆずって引退し、上妻郡矢部に入って弘和三年(一三八三)この地で死去した。元中八年(一三九一)ごろには良成親王も矢部の山中に籠り、翌九年に南北朝が統一された。

 (四) 上・下八院の起こり
 奈良時代終り頃の延暦五年(七八六)木室村へ八院殿という公家が下向した事に由来する八院村は、風浪神社が祀られている酒見村の北東に隣り合うており、永仁五年(一二九七)伏見天皇の勅願寺となった浄土寺の寺領であった。
 この八院村におかれた地頭が年貢を滞納するようになり、その解決策として領家の浄土寺・宝琳寺側と地頭の白垣氏側とで八院村を折半(下地中分)したのが上八院・下八院の起こりで、あるいは更に中八院に分村したのであろう。この件について、建武三年(一三三六)両寺の雑役をしている快潤が訴えたことがある。
 すなわち、当国三瀦庄八院村を折半した一方の領家側の田畠・屋敷・牟田(低湿地)、荒野は()状(訴状)()書(訴状に添える証拠書類)に書く通りで、これを白垣八郎入道が乱妨浪籍致しますと告訴したのである。
 早速、西牟田村の地頭である西牟田弥次郎が守護代の依頼をうけたのか、白垣八郎入道の道義に反した侵略行為をやめさせようとしたが、八郎入道は不平をいって立ち退かないので、ついに守護代が出向いて処理をした。

 (五) 筑後と守獲職
 このころの筑後の守護職は、豊後守護の大友氏が兼務していた。ところが、将軍尊氏に緑切をされた足利直冬は(北朝)貞和五年(一三四九)に九州に下向して肥後国に入り、これに馳せ参じた詑磨別当守直、河尻肥後守守幸や近隣の兵を以って、将軍の監代(かんだい)(探題職の代理か)の任にあった宇都宮大和守を追い落した『九州治乱記』。
 そして、大友一族の詑磨守直に次のような筑後国守護職や地頭職宛行状を恩賞として乱発した。
筑後国守護職の事
右、先例を守り、其の沙汰致すべきの状件の如し 
貞和五年十一月十九日       花押(直冬)
  
   詑磨別当太郎殿
                          『編年大友史料』
下す    詑磨別当宗直
 筑後国竹野四箇郡地頭職
 肥後国山本荘地頭職
 肥前国山田荘地頭職
右は恩賞の地となし前に同じく宛行う所なり。早や先例を守り、領掌すべきの
状件の如し。              (足利直冬)
  貞和五年十一月十九日         御判
                          『編年大友史料』
下す   詑磨徳一丸
 筑後国三潴間地頭職の事付領
                 家職
右、恩賞の地とし、宛行う所なり。
早に先例を守り領掌すべきの状、件の如し。 
  貞和五年十一月十九日         花押(足利直冬)
                           『編年大友史料』
 その後、正平七年(一三五二)一一月、守護代一色右馬頭頼行が肥前の国府から太宰府に帰るところで、小俣七郎が「廻文」を出して武家方の侍たちを催促して筑前へ討ち入ったので、直冬・少弐頼尚は観音寺で防戦したが、直冬たちは破れて浦の城に退いた。
 守護代は引き続き浦の城を攻めたので、城兵は支えることも出来ず、直冬・頼尚は自殺する覚悟でいたところ、高良山に陣どっていた菊池武光がこのことを聞きつけて、急いで浦の城へ応援に駆けつけ、守護代の軍勢を追い払って直冬・頼尚たちは命拾いをした『九州治乱記』。
 結局、詑磨別当への書状のうち、三潴(はざま)庄(現柳川市)以外は貰ったといふ名ばかりで何の効果もなかったであろう。
 くだって正平一九年(一三六四)に大友氏時は先祖相伝の所領、所職を将軍足利義詮(よしあきら)に注進している。
すなわち「氏時当地行散在所領所職等の事」によれば、所領は相模・上野・越後・美濃・伊勢・豊前・豊後・筑後・肥後にわたって五十四か所におよび、所職は豊後国で守護職・在国司職(受領)・検非違使・惣追捕使職・税所職を、また筑後国において守護職を兼務と記している。
 更に、同文書には「筑後国守護職・同国鷹尾別府・同国生葉庄・同国三瀦庄半分」と記されており、本領の豊後国所職以外は、一門支流(庶流)や譜代の家臣を目代(もくだい)(国司の代理)・守護代・郡代・地頭代として任地に派遣して年貢の進納や領民支配に当たらせた。

     三 室町時代

 (一) 大友氏の筑後統治。
 大友家の筑後支配は応永二三年(一四一六)、大友親著(ちかつぐ)が足利義持より筑後守護職を安堵されて以来のことで、途中、菊池持朝が守護職となったが、大友氏と戦って敗れ、再び大友親繁が所職となり代々つづいた。
 大友義長の永正一二年(一五一五)一二月二三日の「条々」のうち
『一、諸郷庄ニ以目付耳聞可知時宜之事、 一、当国之者一人二人つつ可有筑後在国之事』という記事は大友氏の筑後対策上注目されるものである。
 目付耳聞はスパイの役目をするもので、聞耳を立ててこっそりと、いろいろの事を探り出すのである。(『筑後戦国史』)
○豊後参り
 大友家には『八朔太刀馬の儀式』という儀式があった。これを豊後参りといって大友領国内の大小名は毎年八朔(陰暦八月一日)の日に、良馬一頭を柞原(ゆずはら)八幡宮に奉納するため従者をつれて府内に上り、大友家当主の検閲を受けねばならない。杭に、それぞれの家名、氏姓を記した立札を立て、知行の大小、官位の上下順に整列して、順次点検を受けるのである。
 それがすむと、柞原の森を出た神輿は、衣冠束帯の正装をした大宮司はじめ、多くの供奉者がつき従い、別府湾を左にのぞみながら、高崎山のふもとをえんえんと長蛇の列をなして生石(大分市生石)の祭場へとつづく。もちろん豊後以外の領国から参府した大小名も、これに随従するのである。おそらく絵巻物を見るようであったにちがいない。
 大友屋形(当主の別称)は生石の祭場まで動座して、三六間に造った屋形桟敷の正面に着座し、左の控桟敷の上座に公方衆や、その代理がすわり、右上座には同じく公方衆、大小名以下各国の使者はじめ、名ある武士が序列にしたがって椅羅星のように並ぶ。
 ちょうど江戸幕府全盛時の諸侯参勤の地方版ともいうべきもので、九州に覇をとなえた大友家の勢威のほどが知られるが、大友家にとっては支配地の大小名たちに、武威を示す絶好の場所であった。
 こうして参府した諸豪たちはあらためて、大友家の威風にひれ伏し、忠誠を誓わされるのである。このような儀式を無視して、もし参府の礼を欠けば、異心ある者として、たちまち誅伐された。
 天文年間、筑後一五城の旗頭蒲池鑑貞はこれを怠ったため、府内に呼び出されて斬られた。『西国盛衰記』にこの蒲池誅殺の模様がかかれている。(筑後戦国史)
 そのころの筑後国には、上蒲池(上妻郡)・下蒲池(山門)・問註所(生葉郡)・星野(生葉郡、竹野郡)・黒木(上妻郡)・河崎(上妻郡)・草野(山本郡)・丹波(高艮山座主)・高橋(御原郡)・江上(三瀦郡)・西牟田(三瀦郡)・田尻(山門郡)・五条(上妻郡)・溝口(下妻郡)・三池(三池郡)の大身一五家があって、これを筑後の一五城と称した。しかしこのうち江上・高橋はのちにそれぞれ肥前・筑前に移ったので、実際は一三城となった。
 この中で筑後一五城の旗頭といわれた、柳川の蒲池氏の勢力がいちばん強く、その強大になることを恐れた大友氏は親治のとき、蒲池筑後守治久の次男和泉守親広を、新たに大名分として別家を立てさせ、蒲池本領のうち六〇〇余町を割いて、上妻郡山下に居住させ、族臣矢加部大学を家宰(家老)とした。これが上蒲池の始りである。
 また、大友家は蒲池氏を手なづけて従わせるため偏諱(へんき)(支配者が被支配者に自分の名の一字を贈ること)を与え、また朝延の官位も「(かみ)」「(すけ)」などの高官の補任手続きをとるなど密接な従属関係をつくったが、大友家は蒲池氏ほか大名の諸氏を大切に扱うだけで、政治には干与させずもっぱら軍事面に酷使した。
 大友政親による蒲池親久への小字名允許(いんきよ)(許可すること)に関する左のような文書が、『蒲地物語』に記されている。

    一字之事     頼久
進之候  恐々謹言
 三月十二日 政親判
蒲池兵庫頭殿
 
 また、筑後国内の直参衆に、上妻・三原・安武・町野・小河・菅・麦生・酒見・津村・江島・酒井田・坂田・甘木・辺春・谷川・行徳・古賀・高三潴・林田・木室・荒木・水田・隈・稲員・諸富などの国人の諸氏があり、大友家は「高一揆衆」または「一揆合衆」としてよい待遇をし、官位の奏請(天皇に奏上して裁可を得ること)をおこない徴税の任に当たらせ、地頭の役目をさせた。かれらは頭数で二四頭、あるいは三三頭と呼ばれた。
 大友家は筑後統治策として、蒲池氏ほかの大名分と高一揆衆を区別して対立させ、それぞれ牽制させながら飴と笞を与えて領国支配の道具につかった。次は上筑後の名家、上妻氏の上総介任官所望に対する大友親安(義鑑)の返書である。

上総介所望之由承候、可存知候、恐々謹言
 三月十五日        親安(花押)
上妻新左衛門殿

 このように偏諱を与えたり、官名を所望する者へは「官途推挙状」を認めて朝廷に奏上したが、後には功績があった者には大友氏自身で官名を名乗らせた。
 大友氏が守護職兼在国司から守護大名へ、ついで戦国大名化した頃には荘園制は解体し、地頭職も亦その存在がなくなっていた。地頭や土豪で勢力が強くなった大身のものは大名衆といわれ、それ以下のものは一揆合衆または高一揆衆という国人衆(地侍)といわれた。
 前に述べたように応安四年(一三七一)、今川了俊が探題となって、次第に宮方を攻め応安五年太宰府を落し、永和元年(一三七五)菊池氏の本拠近くまで攻め寄せ、少弐冬資を謀殺しこのため島津氏が離れ探題は肥前塚崎へ退去。弘和元年(一三八一)に、今川軍は隈府城・染土城を攻め宮方を追い落し、それより九州もしばらく平穏だった。
 しかし、了俊は讒言により失脚し帰京した。
 その後、応永三年(一三九五)、渋川満頼が九州探題職に任ぜられ下向して来たが、大内氏を後楯にして少弐氏と戦い義俊・満直・教直と引きつがれた。
 応仁ノ乱(応仁元年(一四六七)のころ、筑後犬塚城には渋川氏が居り、綾部城を追われた同族渋川氏が一時立籠った。
 天文二年(一五三三)、探題渋川尹繁(ただしげ)の長男義長が討死し次男尭顕(たかあき)の離反で、探題職としての渋川氏一三六年の歴史は終わった『九州治乱記』。

 (二) 筑後の雄 蒲池氏
 三瀦・上妻・下妻・山門の各郡をその勢力圏に納めた蒲池氏は「筑後一五城の旗頭」ともいわれ、同じ三瀦郡を基盤とし、隣接して勢力を持つ西牟田氏と共にその名は高く、屈指の大名衆であった。
 享保七年(一七二二)に蒲池豊卓(とよたか)(豊庵と改む)が書き記した「蒲池物語」に、その栄枯盛衰をしのぶことが出来る。
 その概要は次のとおりである。
 嵯峨源氏の小源次正という者が万寿四年(一〇二七)に肥前国松浦に領地を給って下向し、子孫は松浦党として栄えたが、正の子孫の一人に源三円という者があり前蒲池家の祖とされた。夫より代々相続して、弘安外冠のとき唐津に於て軍忠があり、北条相模守・同武蔵守の感状あり、応安の頃征西将軍宮の令旨あり、こうして源三円より十二代蒲池出羽守がときになって家運が衰えて勢力が弱まり、その上に後継ぎ子息もなく死去した。
 一人娘があったが、まだ幼く家は絶える寸前であった。しかし、成長するに随って家の落ちぶれたのを悲しんで、地元の産土神から伊勢・熊野詣をはじめ、ありとあらゆる神仏に祈願し朝夕にこのことを嘆いていたが、氏神三島明神もその心を汲み取ってはくれなかった。
 ある晩のこと、夢枕に神の御告げがあり高良山に参籠した。
 話かわって宇都宮弥三郎朝綱八代の孫に三河守久憲という者が居た。この祖父壱岐守貞久は応安四年(建徳二年<一三七一>)吏部親王に従って九州に下向し、翌年に今川了俊が九州探題となって下向した折は、菊池武政に従って宮方として戦い、功をあげたが、その後の各地での戦いにふるわず、子の懐久、更に孫の久憲のときになっては付き従う者も居なくなり、居所も定まらずうろついていたがこの久憲も不思議な夢を見て高艮山に参詣したところ、神前で蒲池の娘と出合った。
 そこで互いに「夢のお告げ」を語り合って悦び、これこそ明神のお引き逢わせと手を合わせ、夫婦の縁を結んで家に帰った。応永(一三九四〜)のころであった。
 つまり、蒲池三河守久憲と名乗って、蒲池家再興をした。これを後の蒲池八代の祖といっている(『蒲池物語』)。
蒲池城の跡
 応永年間、蒲池久憲は城郭を拡張して住民を東方へ移転させ一市街とし、鹿島明神を勧請した『三瀦郡誌』。
 応永三年大友親世の催促に応じて久憲も竹井原に陣取っていたところ、菊池武朝は合志六郎に命じ、一夜のうちに隈府から駆けつけて筑後の軍を攻め破った。更に攻め立てられ親世は後退し、筑後勢は菊池氏に降参してしまった。
 同年四月、菊池氏と蒲池氏は連合して大友氏を破ったが、大友氏は大内義弘と謀って菊池氏を破ったので、菊池氏・蒲池久憲と子の義久を始め国侍たちはすべて大友氏の幕下となった。『蒲池物語』

 (三) 犬塚城主
 九州探題渋川氏の居城は、代々肥前国綾部郷にあったが、渋川教實の時築城年月は不明だが、筑後国三瀦郡犬塚村の北辺に城を築き長男の相模守政実に守らせた。この政実は文明七年(一四七五)に犬塚城で死去している。綾部城主である父教直も文明一一年綾部で死去、家督は政実の弟万壽丸が継いだが家臣によって殺され、その弟の刀称王丸が継いだ。
 しかし、延徳元年(一四八九)少弐高経に綾部城を攻め落され、犬塚城へ移る。延徳三年、少弐高経の義父となった大友政親は筑後の国士(くにざむらい)を催促して刀禰王丸の籠る犬塚城を攻め、抗しきれなくなった刀禰王丸は肥前勝ノ尾城へ遁れた。
 大友政親は犬塚城を筑後一五城の旗頭といわれた蒲池繁久に預け、蒲池繁久は弟の刑部大輔家久を城番とした。家久は犬塚氏を名乗り、大友氏の偏諱を受けて家久を繁貞と改めた。後、家久は出家して浄静と号し、大薮村に円照寺を開基したが、現在の寺の北二・三百メートル先に奥牟田村字風志庵という庵寺の跡で、円照寺の前身と伝える地がある。
 「円照寺開基帳」には天正元年(一五七三)とあり、藤原姓犬塚氏系図『犬塚清司蔵』によれば、家久は明応(一四九二)〜永正(一五二〇)中の人と記されていて、犬塚城主となった頃にしては、年数にあまりの隔りがある。参考(三瀦町史)

 (四) 龍造寺氏と蒲池氏
 衰退する少弐家中にあって、被官(家臣)の龍造寺氏は享禄三年(一五三〇)神崎の田手畷において大内軍を破り、以後、少弐の中心勢力となる。
 大内氏は龍造寺の抱きこみをはかり成功する。龍造寺氏は大内氏と通じながら少弐家とも旧交を保ちつつ、両面外交を取りながら、次第に勢力をつけていった。これを心よしとしない少弐一族の馬場頼周(よりちか)が少弐冬尚に「当家が栄えないのは龍家(龍造寺の呼称)が宿敵大内氏に通じたからで、今のうちに討たなかったら、大きなわざわいのもとになる。」と冬尚のこゝろを煽った。
 しかし龍家には家兼(剛忠)をはじめ、子の家純、孫周家、純家、頼純などの勇将が多く、まともにいつたら手ごわい相手である。冬尚は各方面の少弐友好の諸氏に少弐への仮装軍事行動を取らせ、龍造寺党にこれの討伐を命じた。家兼は策略とも知らず、弟盛家や嫡子家純、家門はじめ、一門・郎党を各方面へ分けて出動させた。結果は龍造寺軍の惨敗で佐嘉へ逃げ帰ったが、勝ちに乗った有馬・波多の兵たちが佐嘉に迫る。これと合せて、冬尚の命で肥前東部の高木・小田・馬場・横岳・犬塚・姉川・神代の諸勢も佐嘉城に攻め寄せた。家兼にとっては、少弐の命で出兵したのに一門の多くを失い、やっと帰城すると、今度は味方のはずの少弐の軍に包囲されている。驚く出来ごとであるが、この討伐の立案者の頼周(馬場)が、「冬尚公が、今回貴家に軍をさしむけたのは貴家が大内と内通したことによるもので、ここはひとまず下城して、この地を離れ、それぞれの所で謹慎しておられたら、冬尚公も許されるでせう」と説いた。
 家兼の老臣鍋島清久らは頼周や冬尚のことを疑って、籠城をすすめたが、家兼は頼周の言葉を信じ、開城して落ちのびることにした。天文一四年(一五四五)正月のことである。
 頼周の指示した柳川城主蒲池鑑盛は、落ちのびてきた家兼主従を暖かく迎え、一木村(大川市)に住まわせ、食糧・衣服などを贈ってもてなし、家兼主従は二ケ月あまりの流寓ののち、鍋島清久らの力で、仇敵馬場頼周を討ち、佐嘉に復帰することができた。鑑盛は彼らの復帰をこころから喜び、この時家臣をつけて送らせた。
 家兼は剛忠入道と号し、後世佐賀の人たちから”剛忠さんの時代”といって慕われた仁愛の将であった。
 天文一五年、龍造寺山城守家兼は当時として珍らしく九三才の長命で、水ケ江城で世を去ったが死にのぞんで「曽孫、長法師を還俗させて龍造寺の家を継がせよ」と遺命した。
 曽祖父家兼の遺命どおり還俗して龍造寺の家を継いだ長法師こそのちに九州三強のひとりになる龍造寺隆信である。
 天正一九年(一五五〇)、大友家に家督相続をめぐる内紛が起こったが、大友義鑑の嫡子義鎮派が庶子の塩市丸派を粛清して、当主の座についた。世に″大友二階崩れ″といわれているが、大友と密接な関係がある筑後国人として、この内紛は関心深い出来事であった。
 この年、肥後の菊地が反大友の軍事行動を起こしたが、筑後でもこれに応じて、西牟田親氏、三池親員、溝口鑑資が大友に背いた。これに対して、高良山座主や蒲池鑑盛、同鑑広、田尻鑑種、星野鑑乗は大友に属し、筑後の地は戦雲におうわれたが、まもなく、豊後勢が来て反大友の城を攻めたので西牟田氏始め次々に降伏した。
 また、その翌年、少弐・大友と戦い九州に勢力を伸ばしていた中国の雄、大内義隆が家臣の叛逆によって死ぬと、豊前の大内方の諸将に動揺が起きた。そこで大友義鎮の弟八郎晴英が大内家に入り、大内義長と名乗って当主となったのを機に、九州より旧大内勢力の一掃に乗りだす。
 九州の勢力図が塗りかえられ、大内にかわって大友が幅をきかし、肥前でも少弐氏が息を吹きかえして、大友の援助で龍造寺氏を圧迫する。隆信が龍造寺本家を継ぐに当っても、大友方の横槍がはいり、肥前国内一九の城主たちが、いっせいに大友について隆信を攻めようとした。
 このとき、蓮池の深町理忠(みちただ)が隆信に和議をすすめてきた。隆信は六年前の馬場頼周の苦い例があるので、なかなかきかなかったが、理忠が人質となりて刀をはずし城中に入ったので、疑いを解いて開城を承知し、一〇月二五日夫人や一族家臣七〇余人を連れて域外に出た。
 隆信らはこのときも、家兼のときと同じく筑後へ落ちた。
  爰に筑後国蒲池鑑盛と云人ハ下筑後にて威をふるひ武勇のほまれ有
 和歌管絃にも長じ情ふかき人也しかバ公の浪々を、あわれみ-----(肥陽軍記)

 とあるように柳河の蒲池鑑盛は宗雪と号し、当時三二才の男ざかり。かれは前回と変わらず暖かくこれを迎え、かつて家兼が住んだ領内の一木村(大川市)に住まわせ、三〇〇石を扶持し、家臣原野恵俊に隆信一家の面倒をみさせた。隆信の家臣たちも小坊村(大川市小保か)に住んでそれぞれの生計を立てたのである。
 隆信は流寓中、佐嘉の旧臣たちと連終を取り、復帰の機会を狙つていたが、二年後の天文二二年七月二五日、佐嘉城奪回のため、鹿江勢の舟で住みなれた一木を発った。鑑盛は隆信の再起に協力して三〇〇の精兵を選んで、佐嘉へ護衛させた。まもなく隆信は佐嘉城を奪回して、次第に勢力をつけて来たがこれも鑑盛の協力が大きく、龍造寺にとって蒲池家はまさに恩人であった。隆信は蒲池家との縁を深くするため、鑑盛の子鎮並に娘(養女とも云う)をめあわせた。

 (五) 蒲池宗雪の最期
崇久寺の鑑盛の墓碑
 天正六年(一五七八)八月、大友宗鱗は日向遠征の軍を起す。この前年島津氏は日向の伊東義祐父子と戦い、その居城飫肥城を奪った。彼は豊後の大友家をたよってのがれた。義祐の子義益の未亡人阿喜多は宗麟の姪であった。
 この当時、大友家の武威は九州最大で、六州の大守として君臨し、宗麟の命令一下たちまち豊後、肥後、筑後の領国各地から数万の軍勢が動員され、蒲池鑑盛も子の鎮並と参陣した。大友軍は兵三万五〇〇〇に、伊東の旧臣や北日向の兵を合わせて五万といわれる軍勢で、宗鱗の宰臣田原紹忍が総指揮を取り、耳川を渡河し道々島津家久の軍を破って進み、一〇月二〇日島津の将山田有信が守る新納院高城に迫った。高城は日向中央部に位置し、薩摩進入ルートの補給中継になくてはならぬ要所である。九州山脈の水を集めた耳川は、途中に険しい峡谷をつくり東流して、美々津の北で日向灘に注ぐ。
 古来、耳川を制する者は日向を制するといわれてきた。高城は、険崖の上にある城で、本丸と深い谷を隔てて二の丸、三の丸とつづき、本丸と二の丸との間に大堀切があった。この高城の攻防で大友軍の指揮系統のみだれから、救援に来た島津軍に大敗した。この戦を耳川の戦いという。
 柳川の蒲池宗雪(鑑盛)もまた、敗軍の中で一族郎党とともに潔く自害して果てた。
  『蒲池物語』に、
 「蒲池宗雪モ催促ヲ待タズ出陣ノ用意アリ、此ノ来筑後二十余人ノ旗頭ニテ義ヲ守ル異士ナルモ其身老体ニテコノコロ病苦アリケレハ遠陣叶ヒ難シトテ嫡子蒲池八代左衛門尉鎮漣ヲ大将トシ、池末・成清・山口、冨安・矢加部・大木・田尻・中山・本郷・原・九野・大谷・小溝・阿部・内田・西川・今村・岩井・鳥巣・松浦・古賀・池上・中村ヲ始一族郎従七百余人相添テゾ指向ケル」
 とあり、病苦を押して自ら出馬したのである。しかし大友一途の父宗雪に対して、子の鎮並は反大友の立場をとり、意見の対立があったようで、鎮並は落馬して気色悪しといって半途より引返している。
 なお宗雪最期の模様は、
 「自ヲ白髪ニ兜ヲ戴キ、先陣ニ進ミケルガ手勢八百余人ヲ引分テ河水ヲ一文字ニ打渡シ、敵ノ真中ヘ切ツテ入、二町計ヲ切立追崩シ、猶モ進ンデ戦シガ、其ノ日ハ恙モナカリケリ、次ノ日又一番ニ進ミ、味方敗北スレドモ一足モ退カズ義久ヲ目ニ掛テ、合戦数刻ヲ移シ見レバ、手勢ワズカニ討ナサレ吉弘以下ノ諸将モ、大方討レヌト見エシカバ、在家ノ一村有ケルニ走り入テ、腹掻破テ失テンケリ、相従フ者ハ八十余人一度ニ自害シテ伏シタルハ楠正成ガ湊川ノ最後ノ様モ是ニハ過ジト思ハレタリ。」(筑後将士軍談)
 とあり、最後まで大友のために尽くしての生涯であった。

 (六) 籠造寺の筑後経略
 天正六年(一五七八)、大友軍が耳川で大敗した頃には、隆信は肥前国内をほとんど勢力下に入れた。筑後の大身蒲池鎮並はすでに隆信に加担していた。
 隆信は大友、島津両者が戦うすきをついて、二万余の軍勢をもつて筑後に出兵し酒見村に陣をしいた。隆信の陣に参じたものは下蒲池をはじめとして、三井の豊饒(ぶにょう)中務大輔。山本郡草野の草野鑑員(あきかず)・下田の堤貞之・西牟田の西牟田鎮豊などのはか、安武・酒見・城島の諸氏が従った。
 しかし筑後には、まだ大友恩顧の城主も多く、上妻郡の戸原入道紹真、三池郡の三池上総介鎮真、山下城主(上蒲池)蒲池志摩守鑑広らは龍造寺に従わず、それぞれの城に籠ったので、隆信はまず戸原城を攻めるため龍造寺信家、同信門、副島光家、鹿江信明らを向かわせたところが、上妻郡の生駒野城主河崎鎮堯が、多くの軍兵をもって戸原を救援したので、これを攻め落とすことが出来ず退却した。
 戸原城は峻険な山上にあり、季節も一一月下旬で将兵も難渋していたので、隆信はここで時を無駄についやすことの不利を考え、ひとまず鉾先を変えて筑前に入るため、十二月朔日酒見の陣を払ってすぐ筑前に発向した。
 筑前には大友五城(立花・宝満・荒平・鷲ケ岳・柑子岳)があり、立花道雪・高橋紹運・小田部紹叱・大津留宗雲・臼木鎮次の諸将が守備していた。大友の筑前五城はいずれも要害であり堅城だったから、隆信も案内者の進言を聞き入れ、情況視察だけにとどめて佐嘉へ帰城した。
 筑後国は大友の支配が長かったので、耳川役までは十五城のうち親大友派が多かった。この中で秋月同様、大友に反抗したのが調一族の星野氏であった。
 翌天正七年(一五七九)三月、隆信は二万三〇〇〇人の大軍を率いて再び筑後に出陣した。まだ降礼をとらない山下の蒲池鑑広や三池の三池鎮実、田尻鑑種らを討つためである。
 隆信の第二次出兵に先だち、大友方であった山門郡鷹尾の城主田尻鑑種が甥の蒲池鎮並のすすめで龍造寺の陣に来て神文を交わし、隆信の配下になった。大いに喜んだ隆信は両人を案内とし山門に兵を進め、竹井村(山門郡竹飯)に着陣、これより三池鎮実を討つため、三月二〇日その居城古賀城へと向った。
 鎮実と鑑種は義兄弟の間柄で鑑種は鎮実に人質を出すようすすめたが、これを拒んだので隆信は直ちに討伐を命じ、周辺の青麦をことごとく切り払った(九州治乱記)。
 いよいよ三池攻めが始まり、先陣田尻・二陣蒲池・三陣鍋島・四陣神代・五陣横岳頼続、そのほか筑紫広門、豊饒鎮連の軍勢は山城めざして進んだ。三池の城の城兵はよく城戸を守って戦ったが、田尻、蒲池の一、二陣がこれを破った。鍋島信生は、神代勢と城内に攻め入ろうとしたが二の木戸を守る城兵の激しい抵抗のため鍋島方から多くの戦死者が出た。城中の士気いよいよ盛んで、早朝から、一〇時間以上戦いがつづいたが、夕刻になって大雨となり、佐嘉の軍は一時陣を払って後退した。この夜、城主三池鎮実以下風雨にまぎれて出奔したので、城は龍造寺軍によって占拠された。
 三池城を落した鍋島は二〇〇〇の兵を率いて隣境の小代忠親の本城筒城へ攻め登り、忠親と父宗全を降伏させた。かくて隆信の兵威は筑後に浸透しっつあったが、まだ上筑後の山下城主蒲池鑑広は降伏していない。この鑑広は蜑ヘ蒲池の分家で「上蒲池家」と称し、六〇〇余町を有する筑後の大身で、蒲池鑑盛(宗雪)とはいとこの間柄で、宗雪同様、大友への忠貞を守り、隆信へ従おうとはしなかった。そこで同年四月八日、肥・筑両国の兵二万を以つて攻めさせた。
 鑑広は、そのころ大友軍が星野親忠を攻めるため、生葉郡に在陣していたから、後援をたのみとし将兵よく防いで戦った。籠城すでに数ケ月、城中の士気なお盛であった。ところが頼みの大友軍は一一月の初め本国へ帰陣してしまった。
 豊後軍の撤退後、鑑広は秋月種実の仲介で降伏を申し入れ、同月二日隆信の陣へ来て降礼をとった。
その後、上妻軍の戸原親運も降ったので、隆信は筑後及び肥後北部を完全に勢力下に収め、一二月三日高良山の陣を払って佐嘉へ帰城した。

 (七) 鎮並籠城三〇〇日
 父鑑盛に反対してまで龍造寺についた鎮並であったが、やがて隆信から離れ自立しようとする。離れることは背くことで、権力者にとっては謀反である。謀反は討たねばならない。かくて隆信による蒲池鎮並謀殺といふこととなるが、鎮並殺害は天正九年説(九州治記・西国盛衰記・肥陽軍記)が多いが、『九州治乱記』は鎮並が天正八年すでに隆信から離反して、柳河城で反旗を翻したことを記している。
謀反の原因は前年肥前勢が戸原親運を攻めた時、鎮並の留守中国政に関する問題が起こりその処理に陣中を抜けたことがわかり、忠貞を欠く者として佐嘉方の印象を悪くした。
 二年前、龍造寺に随身してより、隆信のために、母の兄弟の田尻鑑種とともに案内役としてたびたびの合戦に戦功を立て、その忠貞は自他ともに認めるところであった。それだけ「異心ありとか、忠貞を欠くとか」の噂になることは、鎮並にとっては逆に隆信への不信となり、心中おもしろくなかった。不信をもつと隆信の仁愛に欠けた残忍さが目立ち、その彼に臣従することを潔しとおもえぬようになったのではなかろうか。
 叔父の田尻鑑種は、甥の鎮並の心底を疑ってそれとなく注意していたが、その叛心が濃くなったので、隆信へそっと知らせた。隆信は鍋島信生と、鎮並を討つ方針を固め、天正七年一二月初め田尻鑑種を呼んでその方法が相談された。肉身の甥を売る。これも乱世を生き抜くためであった。
 一二月九日に隆信は、田尻鑑種へ筑後国内で一〇〇〇町、そのほか鑑種が望んでいた津留村、浜田村一三〇町を約束し、嫡子政家との連判で神文を与えた。
 天正八年正月を迎えて、なお隆信は柳川攻めについて密談している。この年二月十日、鎮並が居城柳川城にたてこもったことが、鑑種より隆信に通報され、酒見の鍋島信生からも知らせがいった。
 隆信は一万三〇〇〇の軍勢を嫡子政家に与え大将として進発させた。先陣は内田兼能、鍋島信生は酒見から筑後衆を率いて出陣し、田尻鑑種は三池・山門の一門郎党を連れ参陣し、山下の蒲池鑑広、西牟田の西牟田鎮豊、肥前からは龍造寺家晴など各軍の旌旗が柳川の周辺をうずめ、二月一三日城は包囲された。その後も各地から軍兵が集り二万余の軍勢となる。
 一方、鏡並もかねてから佐嘉勢の来攻に備えて、搦手の水辺に乱杭、逆茂木を打ち、兵船を浮かべ、追手には大木戸を構えて防御盾をめぐらし、防戦能勢をとった。
 さすがに九州の堅城といわれた蜷城は、城兵の勇戦で肥前勢の攻撃に耐え、容易に破れなかった。
もっとも筑後衆の中には、蒲池に同情する者たちもいて、佐嘉の手前参戦しているが、蒲池は筑後一円に多くの知己系類を持つ家であったから、隆信への畏怖を背に眼前の鎮並への同情と、複雑な心情で臨んだことだろう。
 梅雨期にはクリークの水が溢れ、城外を水浸しにして攻城軍を悩ませた。だが籠城三〇〇日に及んで、さすがに城中にも疲労の色がみえて来た。この時、田尻鑑種は肉親の情を利用して鎮並をくどき、和議を結ばせることになり、鏡並は一二月二八日、大将の陣に来て降礼をとったので、肥前勢は囲みを解いて去った。『歴代鎮西志』には、鎮並の弟統春が一二月八日、酒見の館におもむき鍋島信生と会い合意に達したので、初めて軍を撤退したとある。又肥前方より横目として田原伊勢守を付け置くことになった。『九州治乱記』によれば、隆信はこのとき娘を配する約をしたとあるが、一説には剛忠亡命のとき約束したとあり、いずれの時期が正しいのか、また隆信娘とは誰なのか、あるいは養女なのか、その辺のところは不明である。

 (八) 謀殺された鎮並
 天正八年冬、蒲池鎮並は伯父田尻鑑種のすゝめで、いったんは隆信に降伏したが、翌九年ひそかに島津氏によしみを通じて、再び佐嘉に対して敵意を持つにいたった。次の文書(『九州治乱記』所収)は、島津の将伊集院忠棟が蒲池十郎(鎮並)に送った天正八年と推定される一二月一八日付の返書である。
これによると、鎮並は佐嘉に降伏後一ケ月たらずで島津幕下となることを望み、使者を遣って人質を出していることがわかる。読み下しにすると
 図らずも御当家に対し、御幕下と為る可きの旨、連々御懇望の赴に任せ、このたび一著致し、既に質人を差し出され、これらの儀使節を以て仰通られる段、尤も感心の由思召さるる儀に候。
  向後に於て毛頭疎意有る可からず之通誓紙心底を顕され候事、御面目之至候か、永代忠貞を抽んでらる可く事申すに及ぶ無く候。私よりも飜法印又々申達候。御納得となし候恐々謹言。
    一二月一八日          伊集院右衛門大夫忠棟(判)
   蒲池十郎殿

 島津に一味した鎮並は、西牟田鎮豊に使者を遣わし、伊集院忠棟の書状を見せ、佐嘉と手切れして島津の幕下となることを勧めたが、鎮豊は同意せず、家臣を佐嘉にやってこのことを須古にいる隆信に報せた。また、鎮並の動静を監視していた付人の田原伊勢守からも、かれの逆心を認める注進があった。
 再度の叛逆に激怒した隆信は、鎮並誅伐を考えたが蜷攻めで苦労しただけに、何とか蜷に出撃せず、討ち果たす計略をめぐらせた。
 そこで、田原伊勢守・西島美濃守の両名を蜷に遣わし「去年の冬、貴家と和平いらいまだその礼を受けていないので、近日中に佐嘉へ、まかり越されたし。新館で猿楽など興行いたそう。そちらからも猿楽の芸者たちを同導されるように」と伝えさせた。
 しかし、鎮並は病気と称して返答もしなかったので、両名は鎮並の母と伯父の左馬大夫鎮久に会い、「隆信父子の心に異心はありません。このことは神に誓って偽りありません。どうかお家のため須古にお出で下さい。もし御承知なきときは、隆信公の和平の礼をふみにじることになり、蒲池家にとって後難となりませう。鎮並公身辺については神文をもつて御誓いします」と熱心に説いた。
 これを信じた母と伯父は、かわるがわる鎮並を説得したので、彼も遂に佐嘉行を決意した。
 「さて鎮並の母儀、田原と秀島へ対面あり、此度佐嘉の首尾、弥々然るべき様頼み申すの由にて、両人へ黄金一枚づを得させられけり」(九州治乱記)
 と記されているように、金品を贈って鎮並のことをよろしく頼んだ。『肥陽軍記』には、かれら両名は謀略の使者として礼を受けることは武士の本意でないと考えてこれを返したとある。
 鎮並は五月二六日、母に暇をつげ、両使がつき添って蜷を出発、同行は伯父鎮久をはじめ、親類、家人、芸人等一行三〇〇余人(九州治乱記)であった。出発日についても五月二六日(鎮西要略)、同二八日(肥陽軍記)と諸説分かれる。
 鎮並の一族、大木兵郡少輔統光(むねみつ)(大木城主)は、このことを聞くと、急ぎ後を追い途中で鎮並に出合い、「気でも狂われたか。まだ佐嘉とは戦時状態にあるというのに、敵地に出かけて行くなど以っての外でござる。もし不慮のことでも起きたら、取り返しのつかぬことになりますぞ。どうかお止め下さい。」としきりに諌めた。だが鏡並は「貴殿の忠言もっともではあるが、このようにいったん出立しながら、引き返すなど見苦しいことである。運があれば死地にあっても助かることがあろう。」と統光のせっかくの諌めもきかず、千年川(筑後川)を渡ってその日の夕方佐嘉に到着した。
 鎮並は田原・霧島の案内で佐嘉城に入り龍造寺久家(政家)に会い、昨冬以来の和平の礼を述べ、互いに挨拶を交わし、久家は大いにもてなしにつとめた。
 その夜鎮並は本行寺(城北にある)に泊り、翌二七日は滞在し、その日の夕方、須古の隆信より酒肴が贈られたので使者とともに宴を開いた。
 翌二八日未明、鎮並一行は隆信へ謝礼のため本光寺を発って須古へ急いだ。一行が与賀馬場にさしかかると、待ち伏せていた小川・徳島以下の龍造寺の軍勢が一度に起って四方を取り囲んだ。
 鎮並は伯父鎮久に「蜷で思ったとおりであった。あなたの勧めで、この計略に落ちたのは、かえすがえすも残念である」と歯噛みして言った。鎮久は返す言葉もなく、「敵を信じたのが不覚であった。
この上は二心がなかったことを、只今お目にかける所存」と云うや馬を駈け入れ、龍造寺の汚い仕打を憤りののしり、与賀大明神の屋根にのぼって、上から弓で射通し、矢種がつきると、飛び降り、敵中に斬りこみ、堤左馬亟と戦ってついに討死した。従者たちもめいめい抜刀して激しく戦ったが、衆寡敵せず、斬り倒されていった。
 『九州治乱記』には討死一七三人と記されているが、残りは負傷したり、捕えられたりしたものと考えられる。鎮並は死期の迫ったことを知ると、残った従者たちに防矢を射させ、自分は傍の小家に入って、老女の沸した湯をつかって、主従三人刺しちがえて絶命した(西国盛衰記)。『歴代鎮西要略』には、鎮並の首は隆信の家臣馬場刑部少輔がとり、その霊を祀ったが、それから辻堂の名が起こったと記されている。

 (九) 有明海の首舟
塩塚城の跡
(大和町北城)

 鎮並を謀殺した隆信は、時を移さず高尾城にいる田尻鑑種に、柳川の蒲池残党討伐を命じた。否と言えば鑑種とて破滅へ追いやられる。鑑種には、今は柳川を討つより外なかった。
 鎮並の母は鑑種の姉である。彼はまず、佐嘉に於ての鎮並誅殺を告げ、直ちに柳川城を退去して支城の塩塚城に移ることを命じ、姉と幼女を高尾城へ引き取った。『歴代鎮西要略』では鎮並の摘子統虎を高尾城に招き、また鎮並の弟蒲池統春以下を佐留垣城に移すとあり、『九州治乱記』は柳川城にあった統春は鑑種に、「われらは龍造寺に逆心などありませんので、この城を退出します。」といったので、鑑種は佐嘉へこのことを報告したところ、隆信はこれを許した。
 そこで統春ら蒲池家中のうち一〇〇余人は柳川城を出て、田尻領の佐留垣村(現山門郡大和町)へ引き退いたとある。また柳川城に残った蒲池統康、豊饒鎮連ら男女五〇〇余人(一説には一一〇〇人余)は支城の塩塚城へ移された。ここにも田尻の謀略が働いた。柳川城で篭城されては、討伐に日数がかかり、それでは佐嘉へ面目が立たないので、言葉たくみに柳川残党の勢力分散をはかったのである。柳川城には龍造寺家晴が入城して残党退治に当った。
 鎮並謀殺四日後の六月一日、田尻鑑種は二七〇〇の兵をもって、親類、縁者の入っている塩塚城を攻めた。佐嘉からは鍋島信生の送った水町丹後守信定、中野兵庫助ら六〇〇余の加勢があったが、これは鑑種が討ちもらしたりすることへの目付の役も兼ねていた。
 田尻と蒲池の兵たちの間には兄弟や縁つづきのものが多く、身内同士を共食させようとの残忍な隆信の意図が、対戦する両家の兵の身を凍らせ足を釘付けにした。然し周囲は佐嘉や肥後(小代親忠(親伝)の兵が取り囲み脱走に目を光らせている。
 卯の刻(午前六時)から押し寄せ、敵味方とも兵糧もとらず午の刻(一二時)まで、六時間に及ぶ殺し合いが行われ、城方は統康・鎮連はじめ五〇〇余人全員が討たれた。主力になった田尻勢も親類被官、雑兵など討死一〇八、手負い八三六人の揖害を出している。(九州治乱記)
 つづいて、隆信より佐留垣城にいる統春も討ち果たすよう命じてきた。鑑種は、これ以上の親類同士の殺し合いをなんとか中止させるため、隆信に「かの統春は龍造寺家へ異心なく、自ら統康らと離れて城を出たもので、そのため柳川残党を容易に討つことができたのです。その彼を討つことは約束を違えることになり、これだけはお許し下さい」と必死に頼んだが、隆信はこれを許さなかった。
 鑑種もあきらめ、塩塚落城二日後の六月三日、兵をもって佐留垣城の蒲池統春らを攻めた。再び身内同士の戦いとなり、田尻勢は涙を振るって斬りつけていった。肥後の小代親伝の兵も加勢、ついに統春以下柳川残党一〇〇人余りはことごとく討死した。
 塩塚、佐留垣で討ち取った首は、隆信の実検に供するため首化粧をし、佐留垣分は二艘、塩塚分は一艘に積みこみ、田尻の兵が護衛して有明海を静かに進んだ。やがてこれらの首は隆信の実検に供された。
 隆信がこの討伐に参加した肥後の小代親伝へ礼状を出したそれに対する小代よりの返書がある。
 貴礼令拝見候。仇蒲池鎮並事、連々、就悪行顕然、今度輙御成敗候。千秋万
 歳候。彼残党、於佐留垣城楯篭候之處、筑州衆申談、即時討果候。被聞召付
 候段、外聞之至忝候。弥弥可抽忠節之覚悟、不可有緩疎候。猶石田内記方
 可有御達候。可得御意候。恐惶謹言。
  六月十二日                 小代伊勢守親伝(判)
   龍造寺殿
    参貴報
 塩塚をのがれた蒲池の女子供たちは、津留の渡に辿り着いたところ、肥前の追手につかまり、つぎつぎと討れたという。
 また塩塚で戦死した駿河守統安の怨霊が龍造寺へ災いをなしたので、隆信は沖端に二宮明神を祀ってその霊を慰めた。(筑後国史)
 鎮並の夫人や嫡子統虎丸については各書一定しないが、娘は祖母(鎮並の母)とともに、田尻の懇願で助命されたとある。鎮並夫人は、塩塚城の塩塚左京をたのんで隠れていたが、田尻兵庫の軍勢が攻めこみ左京はこれと戦って戦死、攻城の将田尻兵庫も討死した。このとき、夫人とともに婦女一〇八人が城南のツカという所で自害したといい、のちそこに寺を建て地福寺と号したと記されている「筑後戦国史」

 (十) 徳女の涙
崇久寺の徳女の碑
 蒲池鎮並には一四才になる摘女、徳姫がいたが、龍造寺から攻められたとき、乳母に守られて危難をのがれ、縁者を頼って島原半島の有馬領へ落ちのびた。
 島原の城主、有馬修理太夫義貞(入道名=仙岩)は大の龍造寺ぎらいである。かれの娘は政略のため龍造寺政家の妻となっているが、心服して和議を結んだのではない。父祖いらいの所領を奪われた恨みがある。
 徳女は、この有馬仙岩の城へ、素性を隠して女中奉公にあがった。その年も過ぎ、翌年七月、七夕祭りの頃となり、城中では女、童たちが集まって、それぞれ竹の小枝に願いの紙片を結び、楽しげに興じていた。だが、徳女は、ひとりうつすらと涙ぐんで打ちしおれていた。それまではしゃいでいたまわりの女衆は、徳女の様子を不審に思い「なぜ、衣掛けをなされぬ」と言った。徳女は涙とともに、次の一首を詠んだ。
 いざさらば、何をかかげん 七夕に 泪の外は 身にそわばこそ
 この歌が城主有馬仙岩入道の耳に入った。何かわけがあると思い、彼女を召し寄せてその素性を聞いた。徳女は今は何を隠そうと、柳川以来蒲池家離散の悲しみを包み隠さず打ちあけた。これを聞いた仙岩は驚き、「鎮並殿の息女とは知らず、今までの無礼は許されい。御身の父上鎮並殿とはもともとゆかりのある仲、海路を隔てて争乱のさなかに行き来もならず、つい疎遠になっていた。しかし、おことのことがわかった以上、どうかこの仙岩を親と思って心丈夫にして過ごされよ。時期をみて必ず隆信を討ち、おことの無念を晴らして進ぜようぞ」とやさしくいたわった。この記事は『西国盛衰記』を筆者が平易に訳したものである。(『筑後戦国史』)
 『今村家記』には徳女の名は民となつている。また当時一四歳ではなく、幼少だったのを敵に見つからぬよう葦の中に隠してようやく助け、成人ののち有馬へ宮仕えしたと記している。徳女、のちに大友一族巧網(くたみ)宗歴の子内藏丞(くらのじょう)の妻となり、寛永九年六六才で歿した。崇久寺にその碑があるが、自然石の表面には「見性院心空妙安大師蒲池徳女」と記されている。

 (十一) 観音丸遺跡
 昭和五八年八月一九日、二〇目と八月三〇日〜九月二日に亘る圃場整備事業に伴う試掘調査により次の遺構や遺物が検出された。
観音丸遺跡略図
1 遺 構 
イ、木棺墓
  一号木棺墓 南北一・七五b、東西一・二五b
  墓壙は隅丸長方形で棺は南丸九一a、東西六八a、横臥屈葬にて板材・歯が遺存
  す、性別年齢は不明
  二号木棺墓 南北一・七b、東西一・二七b、長方形で 歯、脚部の骨の遺存し横臥
  屈葬、性別、年齢不明
  何れも副葬品はなく一五世紀代ものもと思われる。
ロ、土壙
  三号土壙 隅丸長方形で東西二b、南北一・六b
  四号土壙 円形状の隅丸方形、南北一・七b、東西一・六b、深さ一・四六b、井戸
  跡と思われる。
  五号土壙 方形、二b×一・九b
ハ、柱穴群  二〇個程度の柱穴が検出され内一個から柱痕が検出され、他の一個からは 柱材が出土した。此のように建物があり人が住んでいたことは明らかである。
2 遺  物
イ、銅銭 七種類二八枚が一、三、五号より出土、太平通宝(九七六年)、景徳通宝(一 〇〇四年)、祥符元宝(一〇〇八年)、淳祐元宝(一二四一年)等の実銭である。
ロ、土器 右の各墓、各壙より出土す。土師器、白磁、青磁、陶器、瓦質土器、石製品多数出土す。
  上記の出土品などから、一三世紀(鎌倉時代)より一五世紀(室町時代)ごろ、この観音丸に豪商が住んでいて、舟で花宗川を下り遠く博多や中国大陸と交易していたのではないかと推定される。
○観音丸と蒲池氏、柳川城主蒲池鎮並(しげなみ)の子で宮童丸といって鎮並戦死の時に六歳、それを蒲池の族池末宗可(亦宗圓と稱す)携え去って筏溝村に来る。此村及び蒲生・牟田口は鎮並の裔地なるを以て三ケ村の堺に居宅を構えて蟄伏す。圍りに(ホリ)を数多廻す。
 その内五、六段許り也。蒲池村の三島祠を勧請し、薬師堂、地蔵堂を建て浄光院と名づく。此の宅跡を今門の内と云う。『筑後将士軍談』
観音丸遺跡
○大薮村砦跡と上蒲池氏
 三瀦郡大薮村に天正一二年(一五八四)山下城主(上妻郡)蒲池鑑廣砦を構え、大木・中村・末吉の党を送って之を守らせた。物語、地鑑、実記、と『筑後将士軍談』は記している。
 しかし、吉永氏の(『筑後戦国史』)の年表によれば鑑広は天正八年に死すと記している。蒲池氏・犬塚氏系図には天正七年病死となっている。この大薮村砦跡古老にきけどその処在を知る人なし。

○大薮の薬師仏
 『筑後将士軍談』によれば、大薮刑部少輔藤原盛吉見三瀦郡大薮村長福寺薬師佛厨子、天正十一年所記銘文と記される。現在もこの銘文そのまま残っている。

     四 安土桃山時代

 (一) 筑後の争乱
 蒲池鎮並を謀殺した隆信に対して、諸豪たちの間にその非道さを憤る声があがり、筑後国内でも、天正一〇年二月、猫尾城主、黒木兵庫頭家永が反旗を翻した。龍造寺政家、鍋島信生(直茂)は肥・筑の兵五〇〇〇で、猫尾城へ押し寄せた。
 直茂は、猫尾城が地形がけわしく、敵をむかえうつのによい地にあるのを見て、力攻めをやめて兵糧の欠乏を待った。家永はその不利を知って、発心岳城主草野長門守家清を通じて和議を申し出た。直茂はこれを許し、家永の嫡子四郎を人質にして陣を解いた。
 この年六月、織田信長は京都の本能寺で、明智光秀の軍勢に襲われて自害している。中央、地方を問わず下克上の機運が全国を覆っていた。
 八月に入ると、それまで龍造寺にとって筑後最大の協力者であった田尻鑑種反逆の噂が立った。九月に入り、鑑種は島原の有馬晴信とはかって島津家に使者を送り幕下についたという風聞が立った。鑑種は一〇月に入るといよいよ抗戦の構えに入った。龍造寺政家は肥筑三万の軍勢を率いて鷹尾域(大和町)に攻め寄せたが、これに屈せず防戦した。佐嘉勢は多くの死傷者を出したので、退いて遠巻きの状態となった。
 隆信は戦況が進展しないので、みずから指揮に当ったが、今度も亦鉄砲に撃たれ多数死傷し失敗して退いた。数度の攻撃はことごとく撃退された。隆信も須古に帰り、政家、信生も押さえを残して柳川へ帰城した。この間鑑種は急使を立てて島津に援軍を頼んでいる。
 また、田尻と時を同じくして、辺原城主(立花町)辺原入道紹真も佐嘉に敵意を表わし大友軍を引き入れようとした。筑後の叛将討伐に追われる龍造寺は田尻攻めをそのままにして、辺原の攻略にかかった。
 天正一〇年(一五八二年)一〇月、三手に分かれた佐嘉勢によって戦いが開始された。上蒲池の蒲池鎮運や西牟田城主家親等筑後衆も鍋島の手に加わって戦ったが、辺原の猛撃を受けて多くの損害を出して退いた。鍋島の家士、武藤貞清は火矢を放って城中に火をつけ、また中野清明も火をかけて回ったので、火はたちまち城を包んだ。城主辺原紹真は、ついに城を脱出して落ちのびていった。『筑後将士軍談』では、三月一一日辺原の落成を記し、城主鎮信(紹真)はじめ、城兵ことごとく討死したとしている。
 黒木、田尻、辺原と前後して、戦火は黒木家永の弟益種の蒲船津城(三橋町)にも飛んだ。一族郎党や婦女子まで立籠った。
 「信生公勢をあつめて蒲池舟津(蒲船津)を責給ふ。益種力をあらわしうちたたかいけれど一陣すでに破れたり。下村生運、富岡喜左衛門允など入かえ入かえ責戦い、ことごとく責崩して城中に押しこむ。益種安からず思い、つき出でつき出で戦いけるが終に討死して蒲池舟津責落さる」(肥陽軍記)
 天正一〇年もやがて終わり、翌一一年正月になって、島津の方より田尻の応援として伊集院若狭守が率いる三〇〇余の軍勢が海路到着し、兵糧を城に運び入れ城兵を励ましたので鷹尾・津留・堀切・江浦の各城兵の士気が大いにあがった。
 田尻鑑種の籠城は一年三カ月に及んだが、天正一一年一一月二七日、龍造寺との間にやっと和議が成立した。これまで一度和議の話があったが、居所や領分のことで決着がつかなかったのである。仲介は秋月種実がした。同じ大蔵の血をひく田尻氏の滅ぶことを憂いたからで、蒲池鎮並の二の舞いになっては、せっかくの籠城も意味がない。それに鍋島信生は田尻のそれまでの軍功に対して亡びさせるのに忍びなかったから、田尻への和平を強く進めたのである。秋月はのちに島津に属して、大友方と戦うが、この頃はまだ龍造寺側であり、隆信父子の信任が厚く、筑前における相談相手であった。
一二月下旬、鑑種は堀切の端城に移り、同二五日、嫡子長松丸に対し堪忍分として新地二〇〇余町があてがわれた。一方応援の島津軍も鷹尾城から去って行った。

 (ニ) 島原沖田畷の決戦
 天正一一年(一五八三)夏、島原の有馬仙岩(暗信)も、島津の肥後出陣にともない、これに通じて佐嘉に反抗し、龍造寺の本格的な有馬討伐が翌年に入って行われるのである。
 天正一二年三月一八日、龍造寺隆信は須古の城を出発、みずから兵三万令を率いて出陣した。
 一方、有馬氏は、肥前の小城郡まで進攻したほどの勢力があったが、天正になって龍造寺が強大となったので、有馬義貞(晴信の父)はその幕下となり、娘は隆信の摘子鎮賢(政家)の妻となった。天正四年義貞が死ぬと、二男の晴信が日野江城主となり、機会があれば失地の奪還を狙っていた。
 日野江城にいた晴信は、隆信の進攻を知ると、島津義久に急使をもって援助を要請した。しかし、佐嘉勢が島原近郊に達しても、島津の援軍は来ない。史書には「有馬三〇〇〇」とある。
 島津の船団が予定より遅れて着き、二三日、日野江城に入った。
 島津の来援で生気を取り戻した晴信は、決死の救援を感謝し、全力で敵に当たることを誓った。大将家久は、ことごとく船の纜を切り、全将兵に死を覚悟させて、背水の陣を布いた。また籠城をすれば敵に糧道を断たれる危険があるので、城外で戦う積極戦法を取った。しかし、小勢で大軍と戦うには、敵の大軍が自由に行動が出来ない場所に誘い込むことが先決である。こうなると地元の有馬側は地理に明るい。家久は有馬方の意見を聞き熟慮のすえ、島原北方二キロの沖田畷と決めた。
 当時の島原は前山(眉山)の山麓より海までの三キロの間は沼沢が多く、葦が茂った牟田地帯であり、そのほぼ中央を二・三人並んで通るのがやっとの畦通が、海ぎわから二〇〇メートル程のところを帯状につづく沖田畷は湿地帯であった。
家久は軍を三手に分け、山際を新納忠元以下一〇〇〇人、中央は先鋒となった肥後の赤星一党五〇人と家久が率いる一〇〇〇人、また南の森岳城に有馬晴信の兵五〇〇人を配し、東の浜には伊集院忠棟の一〇〇〇人を配置し、森岳の麓から海岸にかけ柴垣を築かせ、中央の道の前面に大城戸を構えた。
 一方、隆信は軍を三手に分け、鉄砲一〇〇〇挺・槍・弓矢に大砲まで備えた八〇〇〇の軍勢を中心にし、自分は旗本を率いて山手より攻撃することにしていたが、合戦の日の未明になって、五陣三手の陣形を急に変更し、中道の鍋島軍を山際に向け、自ら中央に廻る陣替えをした。
 かくて二四日早朝、隆信は全軍に向って進撃を命じた。先鋒の太田兵衛の隊が森岳前方純一キロの地点まで近づいたとき、初めて島津の旗印がちらちら動くのを見て驚いた。しかし、敵の斥候と侮り、「蹴ちらして軍神の血祭りにせい」とそのまま隊列を変えずに銃撃を浴びせて、一本道に殺到してきた。
 完全に島津得意の「釣野伏(つりのぶせ)」の戦法にはまった。このとき島津の銃がいっせいに火を噴いた。先頭の太田の隊がバタバタと倒れ、隊将の太田兵衛も眉間をうち抜かれて戦死。それを助けようとする二陣も、左右が泥地で思うように動けない。
 狭い道で暴れ出す馬、甲冑・武具・旗などが触れあって動きがとれず、それに後続部隊が後から後から押してくるので、引き返すことができず、しゃにむに前進のほかない。そこを狙って島津・有馬の銃が撃ち込まれる。そのたびに多くの兵が倒れていった。
 隆信は、一向に進まぬ隊列に腹を立て、側近の者に偵察を命じたが、その使者が「先手が進まぬので、後陣がつかえて大将がご立腹でござる。しゃにむに押し進まれよ」と触れ回ったので、将士たちは、「それほど死ねと言われるなら、ただ今ここで討ち死いたさん」と、自分から島津の銃列の餌食となった。
龍造寺の兵たちは道に横たわる味方の屍体を踏みつけて進み、島津家久の軍に向かっていった。
 やがて家久の軍配が高く振られ、それを合図に決死の薩摩軍と復讐にもゆる肥後の赤星が率いる赤装束の一団がいっせいに抜刀し龍造寺軍に襲いかかった。このとき新納勢一〇〇〇人と東の林の中の伊集院勢一〇〇〇人が、東西からどつと襲いかかったので、龍造寺軍は逃げ場をもとめて大混乱になった。
山手にあった鍋島信生は味方の敗北に押されて崩れ、支えきれず敗走に移った。
 隆信の四天王成松遠江守は、部下を指揮し隆信を守っていたが、ついに敵刃を受け戦死。隆信も部下のすすめで農家の庭に馬を乗り入れひと息ついたところに、島津の隊将川上左京亮が追いつき、馬上の隆信に名乗って脛を斬り払い、落ちたところを島津の兵が首をうった。(隠徳大平記)
 隆信ときに五六歳。その時刻は未の時(午后二時)頃としている。
 大友氏の耳川敗戦と同様、龍造寺氏のこの沖田畷の敗軍は、これまで九州を三分し、誇っていた勢力が一転して滅亡への引き金となった。
 なお『北肥戦誌』には、この時の筑後の戦死者として田尻但馬入道了哲(田尻一族)、西牟田紀伊守統実(西牟田播磨守弟主従十七人)、塩塚備後守等と記されていると、(筑後戦国史)は述べている。
龍造寺・島津両軍進撃図

沖田畷の島津・有馬連合軍の布陣図
 (三) 大友軍の筑後出陣
  沖田畷で龍造寺が敗れるとまた筑後が主戦場となった。島津軍はいぜん肥後南部にあって北進をねらったけれど、鍋島の強固な姿勢(送った隆信の首を突きかへした)にあい、諦らめて引上げた。
 天正一二年、島原敗戦後柳川の鍋島信生を佐嘉に移して執政となし、龍造寺家の立て直しをはかった。
肥後南関にいた龍造寺家晴が柳川に入り、上蒲池、黒木、西牟田、草野、星野、門註所(鑑景)らは、今年四月に、今まで同様に異心なき旨の神文(起請文)を龍造寺家に送って心底を表わしている。
 一方大友も龍造寺の敗戦の虚をついて、失地奪回の好機と、義統の弟田原親家、親盛を大将に、一族の巧網宗歴、志賀道輝、田北、木付、臼杵、大津留らを軍将として七〇〇〇の軍勢をもって筑後へ進撃させる。これらの諸将は翌年まで筑後に在陣し龍造寺軍と戦った。
 これに対して鍋島信生は、鷹尾開城後帰服して佐嘉に在番した田尻鑑種を呼んで筑後守備を命じ、田尻、亀尻、海津の三村を従前のように与えた。鑑種は手勢を率い筑後に渡り海津城に入った。
 当時、筑後国内の大友方の有力城主は、生葉郡長岩城主問註所統景と矢部の高尾城主五條鎮定のふたりぐらいであった。
 統景の父、鑑豊は無二の大友方として永禄七年(一五六四)侍島の合戦で筑紫惟門と戦って戦死した。
立花道雪の室となった仁志姫は、この鑑豊の娘である。またその間に出来た一人娘ァ千代(ぎんちよ)の養子になるのが、のちの柳川城主立花宗茂である。
 耳川の敗戦以来、大友氏は衰退をたどり、この筑後出兵にやっと七〇〇〇の軍勢を集めて出陣した。
しかし、これも隆信の戦死による情況変化と、筑前で協力する立花道雪・高橋紹運両将の軍事力あってのことだった。そしてこれは予想される島津軍来攻の前に筑後の拠点を確保して置くことが狙いであった。

1 猫尾城の攻防
 猫尾城は、初祖助能(すけよし)いらい数百年にわたる黒木氏の本城で、南北朝以来の武勲の家柄であった。別称を調(しらべ)といい、犬尾城の川崎・星野も同族である。
 天正一二年七月上旬、豊後軍は間註所統景(のぶかげ)を案内として、猫尾城の攻略をめざした。城主黒木家永は嫡子四郎匡実を龍造寺に人質として差し出していたので、いまさら大友に降ることができなかった。大友も上妻地方最大の拠点、猫尾城を落とせば、周辺の諸城は期せずして降るものと思っていた。これに対して佐嘉から黒木援軍のため、倉町近江守、久布白又右衛門ら鉄砲隊を含む数百人を送ってきた。
 激しい攻防戦が昼夜にわたってつづけられ、龍造寺の援軍は三の丸の所に壕を掘って、四方から攻めかかる大友軍に銃火を洛びせた。戦はひと月余りに及んだが、黒木勢の反撃で、兵力に優る大友軍もしばしば敗退して、攻撃は中断される始末であった。豊後軍の城攻めの指揮者が一部をのぞいて、ほとんどが実戦の経験の浅い若い部将たちで、戦術に不馴れなせいもあった。
 大友義統は、いつまで経っても落とせない黒木攻めに業を煮やし、筑前で奮戦していた立花道雪と高橋紹運の両将に出陣を促した。両将とも今や大友軍の切り札といえる存在である。両将は出陣の命を受けると、直ちに兵を動員して八月一四日、太宰府に集結して軍議を定め、同月一八日夜半、高橋軍が先陣となり、両軍合わせて四五〇〇人の軍勢で太宰府を進発した。
 黒木まで約一五里(六〇キロ)で、その間筑後川を渡り、耳納の険を越えねばならない。立花・高橋の両軍は片瀬から渡河し、隊列をととのえ、耳納山を越えた。小野河内を過ぎ笠原の高牟礼を第一目標にしたものと考えられる。
 一九日夕方黒木の支城高牟礼を前にして山上で野営した。翌日使をもって黒木在陣の諸将に到着を知らせた。豊後の諸将たちはしらせをきき、大いに士気が上った。
 猫尾城攻撃を前にして、両将はまず高牟礼城を守る黒木の家老椿原式部に対して内応工作を進めたので、二四日に至りついに降った。また守っていた龍造寺の将、土肥出雲は高牟礼からのがれ去った。つづいて同族の犬の尾城主川崎重高も降り、二五日には川崎の権見山に陣を替えている。高良山の座主良寛、大祝鏡山保真、上妻鎮政、甘木家永、稲員安守らも大友軍に力を合せて働いた。だが龍造寺も黒木に援軍を送ったので激戦となり、道雪の弟戸次右衛門大夫は流れ弾に当たって戦死した。

2 猫尾城落城
 大友軍は、佐嘉勢を排除しながら二八日に坂東寺に入って西牟田家親を城島に攻め、酒見、海津、榎津(大川市)等の部落を焼き払った。さらに両将は豊後の諸将と軍議を定めて、いよいよ猫尾攻撃にかかった。新たに筑前勢が加わったので、攻撃は一段と熾烈になった。黒木周辺の城が次々に開城したので、今や孤立した黒木家永は最後の死力を尽くして防戦した。援軍もないまま、七月いらい二カ月にわたって持ちこたえたが、連日城中に撃ちこまれる銃砲や大筒のはげしい攻撃で婦女子の恐怖は一層つのり、城中のあちこちで泣き叫ぶ声がきこえ、糧道や水の手も断たれて飢餓が迫っていたが、九月五日に至り大友軍の総攻撃を受け、家老椿原式部が大友軍を城中に引き入れたので、ついに家永も悲憤の涙をのんで自刃した。
 〇家永自刃のこと『毛利秀包記』に
 「彼麟慶内方は黒木備前守息女ニ而候。彼黒木事、豊後大友公へ度々たてつき申付而、御人数被差向候へとも、黒木城以之外難所故落城不仕付、大友御家老戸次道雪次男をむこニ被仰付、祝儀相調候其夜多勢を以御討果し被成候、黒木手勢壱人も不残討死仕、黒木、三番目娘歳十三に罷成候を召連、二階へ取上り数人切臥、其後切腹候。彼娘父がかいしゃく仕、其刀にて敵壱人切父の首と刀を二階より下へなげ申候。其後彼娘を生捕にして麟慶方へ被成御渡候。彼娘後肥前鍋島殿御家来大木兵部輔女ニて候」
とあり、文中黒木備前守とあるのは、兵庫頭家永のことであろう。
 黒木落城後は豊後の将、田北紹哲が守り、また内応の殊勲者椿原式部に高牟礼城をまかせた。つづいて九月八日、大友軍は山下城を攻めるため禅院村に陣を移し、白木川を渡って山下城を攻めたので、城主蒲池鎮運は和を乞うて降った。
 さらにそれより下筑後に転じて坂東寺に陣を取り豊後の田原親家(大友義統の弟)と軍議して、西牟田、酒見、榎津三何の民家数百軒をことごとく焼き払い、山門郡内の竜造寺方の諸城を攻めた。佐嘉から境目番として旧領鷹尾城周辺を守っていた田尻鑑種、鎮種父子はこの時佐嘉に行って不在であったというが、守備兵は大友の大軍を見て域を捨てて逃亡してしまった。
 豊後から来た大友軍に比べ、立花、高橋両将の率いる筑前勢の働きはめざましく、豊後の諸軍は精彩を欠く感があった。なお『大友興廃記』には、大友軍の大将を戸次紀伊入道道雪、高橋紹運、朽網三河入道宗歴の三人としている。
 大友軍の筑後進攻は、失地回復について局地的効果はあったが、柳川城周辺の龍造寺勢を掃蕩するまでには至らなかった。そこで柳川押えの兵を残して、一〇月三日いったん高良山に陣を移した。
 翌一〇月四日発心山の城を攻めたが、ここも落とすことができず、今度は敵方の星野、問註所の領内を荒らし秋月領に攻め入り、甘木辺りまで焼き打ちして高良山に帰陣した。
 すでに天正一二年も終わろうとしていた。豊後、筑前の大友連合軍は、高良山を中心に、山麓の三井郡北野村一帯に布陣して越年した。翌天正一三年、大友、龍造寺両軍は高良山下で戦ったが、立花、高橋両軍の奪戦が目立ち、局地的には龍造寺勢を破ったが、決定的勝利が得られず、そのまま対峙の状態となる。

3 名将道雪の死
 その頃、島津は肥後国内の大友、龍造寺方の諸城を平定しつつあったが、甲斐、満永の反島津勢が頑強に抵抗していた。やがてこれらを降して筑後へ進攻してくるのは時間の問題であった。筑後在陣の立花道雪や高橋紹運をはじめとする豊筑の連合軍が、いかにやっきになって戦っても態勢はどうにもならぬ段階にあったといえよう。
 目に見えぬ島津の圧力がひたひたと筑後の地をおおいつつあった。ここにおいて龍造寺政家は肥後を放棄し、秋月、原田、筑紫、星野、草野らと同列の島津配下となる。また筑前の宗像、麻生も島津に従属する。九州統一への戦いは、島津と大友に集約されてきた。
 耳川敗戦後の大友の武威をある程度持続できたのは戸次鑑連(立花道雪)の力であった。道雪は戦いに強かったばかりでなく、宗麟をもしばしば諌言し、領地の民政に意を用いた仁愛の将であった。かれがいるため、龍造寺隆信も博多周辺に進攻することができなかった。かれは親子ほども年下の高橋紹運と手を組んで、筑前の城を守って大友家のために尽してきた。
 このように忠誠一途な道雪が、長期に亘る露営の疲れからか、六月初めに陣中で発病した。そのご、幾分持ち直したかと思われたが九月に入って容態が悪化し、同一一日、ついに北野の陣中で高橋紹運らに見守られながら七三歳の生涯を閉じた。
 道雪は死ぬ前、柳川を落とせなかったのがよほど口惜しかったのか、小野、由布らの老臣に「自分の死後、遺骸に甲冑を着せ、柳川の方に向けてこの地に埋めよ」とまで言っている。だが養子になった統虎(宗茂)は遺骸を敵地に置くのは忍びないとして、立花山麓の梅岳寺に葬った。のち立花宗茂が柳川に入ってから福厳寺を建てて義父道雪の霊を祀った。

 (四) 島津の北進・岩屋城の戦い
 天正一四年(一五八六)六月中旬、九州統一の機を狙っていた島津義久は、東西二手による九州北進の作戦コースを立て、西回りは一族島津忠長(義久の従弟)、新納忠元、伊集院忠棟、野村忠敦を将とする薩、隅の兵二万の軍勢で筑後川を渡って筑前への侵攻を企画し、東回りは島津家久を大将とし、入来、本田、肝付等の部将に、薩、隅、日、肥の兵三万を以って日向より豊後へ攻め入ろうとしたが、このときは筑前に主力を注いだので東回りの軍は同年一〇月初め頃までは肥後、日向に留まっている。
 西回りの軍は、途中肥後国内の宇土、城、詑磨、赤星、山鹿、川尻、隈部、合志、小代、大津山、有動等の新付の将を先鋒に立て、怒涛の勢いで筑後へなだれこんで、大友方の山下、川崎、黒木の諸城を収め、城島を抜き、高良山に攻め寄せたので、座主良寛、尊能父子は降伏した。
 島津軍はここを指揮所として、海陸から集まってくる諸勢の到着を待った。筑後国内でも、蒲池、問註所、三池、草野、星野、田尻、江島、江上等の一郡一郷の領主たちが参陣した。
 そのほか肥前より龍造寺、有馬、松浦、高来、神代、波多等が参陣した。筑前では秋月、原田、豊前では城井、長野、高橋等が加わった。その勢五万〜六万といわれる大軍であった。筑後川を渡った島津軍は、勝尾城に拠る筑紫広門を攻めた。筑紫はすでに大友方に寝返っていたので第一の攻撃目標となった。
 七月六日、島津軍は牛原河内に殺到し、勝尾城を包囲して猛攻撃を加え、三日後にこれを攻め落とした。島津軍はめざす筑前の大友三城(宝満、岩屋、立花)の攻略に向う。去年在陣中筑後で病没した立花道雪亡きあと、筑前の守りは岩屋の城主高橋紹運と立花城を守る子の統虎(立花宗茂)ふたりの双肩にかかっていた。かれらはこの年、宗家の大友宗麟によって関白秀吉の家人となっていた。そして、大阪にある秀吉に対して急援を要請していたが、援軍はまだ到着しなかった。宝満は前年筑紫広門に攻められてその持城となっていた。
 島津軍の通路に当たる岩屋城は、宝満、立花城の前衛として最前線に位置していた。紹運は宝満の本城に二男の統増(のちの三池藩租立花直次)はじめ、老幼婦女子、病人らを移し、自ら最も危険な支城の岩屋に立籠って、七百数十名の部下とともに戦う決意を囲めて防戦態勢に入った。
 七月一二日、島津軍は太宰府周辺に押し寄せ、大軍をもって宝満、岩屋両域を囲んだ。戦闘員両城を合わせて千数百の小勢で、四〇倍の敵にあたらねばならなかった。城将高橋紹運は各持ち口を定めて、あらゆる戦略を使ってこれに対した。島津側の数度におよぶ降伏のすすめも蹴って城兵一丸となって戦い、少しも士気、統制に乱れをみせないで、島津軍の半月におよぶ、入れ代わり、立ちかわりの猛攻に耐えた。
 炎暑の中、烈しい戦いが展開され、島津軍は甚大な犠牲を出したが、新手の兵を次々に投じて、ついに外郭を破ることに成功、二の丸、三の丸を攻め破り、なお激しい抵抗する城兵のため死傷者がひっきりなく出た。しかし、七月二七日、水の手を見破られ、背後から攻められたため、ついに紹運以下七六三名、全員玉砕して岩屋城は落城した。時刻は午後五時頃で、紹運ときに三九歳であった。
高橋紹運の碑文
(柳川市庁原町)
 岩屋落城後宝満も占領された。
 島津軍の損害四五〇〇名(筑前国続風土記)と記されている。この大損害で立花城攻撃にも支障ができ、上方勢(秀吉軍)豊前到着の報を聞くと、立花攻めをあきらめ、博多の街を焼き払い本国へ退いていった。

 (五) 宗茂の戦功・島津降伏
 立花統虎は、立花城を守っていたが、岩屋落城で実父紹運や城兵一同の死を悼み、島津軍の撤退を追撃してこれに損害を与えた。

1 高鳥居城落城・星野氏滅亡
 島津軍を追撃して戦果を収めた統虎は、余勢を駆って島津の配下となった、星野兄弟が守る高鳥居城(粕屋郡)の攻略に向かった。
 島津進攻とともにこの荒れ域に星野兄弟が一族郎党三〇〇名余りとともに入城した。大友方の宝満、岩屋、立花に対する押さえの城として、にわかに修理して入城したのである。島津軍にとって、近く来攻が予想される秀吉軍に対する布石の一つでもあった。塀や櫓はまだ未完成であったが、二つの砦を構えて防備した。わずか三〇〇名足らずの小勢で守る星野兄弟は、島津への盟約を守って退こうとはしなかった。
 攻撃は西南からで、統虎は立花勢五〇〇余名を率いて若杉山に陣を取り、小野和泉、薦野増時を隊将にして軍を二手に分け、一隊を若杉の谷にそって東の砦を攻めさせ、一隊は統虎自ら率いて西の須恵村(粕屋郡須恵町)より攻め入って城の大手に回った。二の丸は弟の吉兼が守っていたが、毛利の援軍が到着して攻撃に加わり、二〇〇の兵で城南の搦手、須恵谷から攻め登り、東、西、南の三方から攻撃を加えた。戦は己の刻(午前一〇時)より始ったが、星野勢は殺到してくる立花軍に向って、鉄砲、弓を猛射し、大石、材木等を落して戦った。統虎も城の濠近くまで接近したため、城兵の銃弾にさらされ、そのうちの一発は兜の先端に当たったが幸い無事であった。
 立花鎮実等二〇余名が楯となって、統虎の前後左右を囲め守りながら進もうとすると、統虎は「大将が身をもって指揮しなければどうして勝つことができようか」と言って、先頭に立って攻め登った。部下の者たちはこれにおくれじと争って城に迫り、十時伝右衛門、安東津之助、立花次郎兵衛(統春)らが塀を打ち破って城内に突入した。すでに数カ所に火が放たれ、城中はたちまち夜来の烈風にあふられて火煙を噴きあげ、城内を覆った。立花勢は風上に回って攻め、毛利の援兵もまた二の丸めがけて突撃した。
 城将星野吉実は東門を守って部下を指揮して戦ったが、猛火と防戦で分断された城兵をどうすることもできず、立花勢に打ち倒されていった。吉実は長身で力が強く、立花勢相手に長刀を振るて数人斬ったが、ついに刀が折れて腰の鞘だけが残った。このとき、立花次郎兵衛と顔が合い、次郎兵衛が刀を額に押し頂いて、将を討つ軍礼をもって一太刀斬ると、吉実の鎧の上帯が切れたので門の中に退こうとして奥に走った。十時伝右衛門がこれを追い、槍で吉実を突き倒して首を落とした。
 二の丸で防戦していた吉兼も毛利の援兵に討たれ、戦闘二時間余りで、午の刻(午前一二時)には城兵三〇〇余ことごとく玉砕して落城した。
 『大日本地名辞書』に
 「星野氏は黒木と同族にして、南北朝の乱に官軍に応じ、終始一節、以て矢部、菊池の宮方を擁護せり。
 戦国の頃大友氏に属せしが、天正中叛き島津氏に付く。同一四年筑前に出戦し、立花宗茂に敗られ、星野兄弟共に死し、遂に亡びぬ」とある。
 立花統虎は星野を高鳥居城で討ち果たしたあと、さらに秋月種実が守っていた岩屋、宝満へ押し寄せた。とくに岩屋城は実父高橋紹運最期の場所である。
 秋月勢は島津の撤退とともに、その兵力の多くを引き上げ、岩屋には三〇〇名ばかりの守備兵がいたが、立花勢はここを難なく奪回して、さらに宝満へと攻め登り、秋月勢を追い落として、ここも手中にした。統虎は約一月たらずで、父紹運の仇を報じたことになる。秀吉はこのときの統虎の働きに対して感状を与えて激賞した。
 紹運戦死のあと、宝満も落城して、弟、統増夫妻や母の宗雲尼、妹たちは薩軍によって拉致されたが、秀吉島津征伐の前後に連れ帰ることができた。
 やがて八月一六日、秀吉の命で、小早川、吉川、黒田の軍勢が豊前へ到着、島津に組した党の討伐が開始された。

2 秀吉西征時の筑後状勢
 島津の幕下となっていた柳川の龍造寺も秀吉西征前鍋島信生(直茂)がすでに秀吉へ一味していたので事実上島津と絶交状態だったと思われる。
 筑後三原氏の主流で本郷城主、三原紹心は紹運の老臣として岩屋で戦死、城島の西牟田家周は早くから龍造寺の配下となり、大友軍の立花、高橋勢の攻撃を防いだが、のち肥前へ移った。生葉郡の星野も高鳥居で戦死して滅亡。上妻郡の黒木もまた、この二年前、大友軍に攻められ猫尾城で自害、川崎も大友、龍造寺のため家中、離散する。山門郡の田尻は佐嘉へ従い、生葉郡問駐所氏も長岩城の統景の方は終始大友方であったが、立石城の鑑景の方は秋月と行動をともにしている。また、山本郡発心城の草野氏は天正一三年、龍造寺に従い、嫡男旛千代丸を人質として佐嘉へ差し出していた。大友軍筑後出兵の時、立花、高橋軍も天険のため落とすことができなかった。上妻氏も大友方として行動をとり、山下城の蒲池鎮運も大友方に従属していたが、龍造寺の最盛期に一時佐嘉に降った。大友進攻のとき再び大友についている。矢部の五条氏は忠実な大友方として戦国末期に及んだ。
 このように筑後国内は、天正一二年龍造寺隆信の死後、鍋島信生の必死の挽回工作にもかかわらず、時流に乗ってきた大友氏の進出で国衆は右往左往し、さらに島津の進攻でまたまた出陣を強いられ、多くの人命を失ったあげく軍費まで自弁でまかなわされたため、疲弊はさらに増大した。このため筑後国内の民衆の被った損害ははかり知れないものがあった。
 「斬取り強盗武士の習い」といわれた乱世では、社会そのものが異常を異常と思わないような世の中になっていたから、いつ何が起きるかわからなかった。
 しかしこれも秀吉九州入りまでで、やがて戦乱が終わると士農の階層がはっきりと区別される。
 天正一五年(一五八七)三月末、秀吉は島津征伐のため全国二四州から動員した総勢二五万ともいわれた大軍をもって九州に入った。数年前から秀吉に接近していた鍋島直茂(信生から改名)は、肥前龍造寺政家の名代として秀吉を迎えているが、鍋島のぬかりなさが発揮している。また、岩屋で戦死した紹運の子立花統虎に対しても島津、秋月への方略を示す朱印が発せられた。
 秀吉軍は二手に分かれ、本隊は筑前から筑後・肥後路をめざし、東回りの羽柴秀勝、毛利らの九万余騎は豊後へ向った。

3 秋月氏の降伏
 四月一日、秀吉麾下の蒲生氏郷、前田利長の軍は秋月種実の支城、岩石城(田川郡添田街)を攻め、一日でこれを落とした。益冨城(大隈町)にいた種実は仰天して古処山の本城に籠ったが、穂波から八丁坂にかかる山麓一帯は五万の秀吉軍によって囲まれ、もはや抗戦しがたいことを知って、四月四日秀吉の本営へ使者をもって降伏を申し出た。
 秀吉は秋月を島津につぐ北九州の元兇とみなしていたから、簡単に許そうとはしなかった。そこで種実、種長父子は頭を丸め、秀吉の通路にまかり出で罪を謝した。秀吉はこれを許し、一命を取りとめた秋月父子は、一六歳の娘を人質に差し出し、家宝の茶入「楢柴」と米二〇〇〇石、黄金一〇〇両をお礼のため献上した(九州御動座記)。楢柴はその頃三〇〇〇貫の代物といわれた名器で、現在の価値でいえば三億円にも相当する。
 秀吉に謁見を願うため、各地の諸豪はぞくぞくと、秋月に参集した。立花統虎もこの日軍容を整え、立花を発って、秋月の城下に入った。
 秀吉は、居並ぶ大、小名たちを前にして、とくに統虎を傍近く召し寄せ、高橋紹運の義死をたたえ、高鳥居をはじめ岩屋、宝満の比類なき軍忠に対し、「九州第一の者」といって感賞した。秀吉は秋月滞在を終ると、事後処理を生駒雅楽頭に命じ、島津の本国鹿児島へ向け南下していった。秋月種長も先鋒に入れられて従軍する。四月一一日、高良山に本陣を移し、吉見岳で諸将を引見、つづいて一三日、南関の大津山河内守を討伐して、その後は有働、隈部、城、宇土の肥後の諸城主を降し、八代、水俣、出水と動座して肥後一国を従え島津本領へと迫る。
一方、豊後占領を諦らめ薩摩へ撤退していた島津軍を追って日向へ入った羽柴奔長(秀吉の弟)の軍は、大友義統を案内として耳川を渡り、同月六日高城を囲む。
 高城はかつて天正六年、蒲池鑑盛をはじめ筑後勢が血を流したところである。守る城将も当時の山田有信であったが、今度は大友と対戦した時のようにはいかず、圧倒的物量を誇る羽柴軍に討たれて、四月一八日高城は落ちた。島津の抵抗はこの高城戦までで、その後は全く戦意を喪失して降伏へと傾いていった。
 天正一五年五月八日、島津義久は頭を丸めて黒衣をまとい、竜伯と号して、川内の秀吉本営に出向き、正式に降伏した。
 島津が降伏して半月後の五月二三日、かつて筑後の支配者であった大友宗麟は、領内の津久見の館で息をひきとった。
 九州平定の業を終わり、秀吉は再び肥後、筑後を経て太宰府に泊まり、博多津から箱崎に着いた。秀吉が箱崎滞在中に行ったという九州国割りの人事は、新旧交替の思いきった新しい経営方針が盛られていた。
 筑後関係では、立花宗茂が山門、下妻、三瀦三郡、弟統増は三池一郡、毛利秀包に山本、竹野、生葉三郡、肥前基養父の地から筑紫広門が移され上妻郡を、御井、御原の二郡は筑前の小早川隆景がそれぞれ受領した。
 この九州国割りは、筑前、筑後を大陸侵攻の基地の一端として重視した秀吉の考えからである。