第四節 近  世

     一 立花氏と三潴

 (一) 秀吉と宗茂
 立花宗茂は大友氏からの独立を選び、いち早く秀吉の権力に結びついて、星野兄弟を高鳥居に滅ぼし、宝満、岩屋を奪回し、秀吉をして「九州一物」といわせ軍忠で近世大名となった。宗茂はもらった領地に権力を施行することとなった。しかし、立花氏が権力の基礎が定まらない時に秀吉が支援して、三ケ条の「定」を制定した。第一に領内人足に付いての夫役の徴収権を立花氏に掌握させた。第二は領内百姓に対する他からの干渉をすべて排除させた。第三に柳川城下への諸奉公人の出入りを禁じた。
 このような、藩の体制の確保をはばむような各種の条件をとり除いて、夫役徴収を握り領内百姓の直接支配を貫きとおすことは、入国後の立花氏がまづ一番に取り組まねばならぬ施策であることはいうまでもない。それが秀吉の権力で行われたことは、秀吉としては自分の支配地を、それぞれの大名に預けて置くという立場で一切を取りしきっており、柳川藩も例外でないことを表明している。

1 宗茂の入封
 立花家臣、城戸豊前が書いた『豊前覚書』によると、六月一一日、老臣小野和泉を正使として、城戸豊前、八尋民部、扇掃部(かもん)が付き添って柳川城受け取りに立ち会った。前城主龍造寺家晴が在城中に植えた竹が青々と見事に成長して一段の風情を添えていた、と記されている。
 六月一五日、夫人ァ千代(ぎんちよ)をはじめ立花家中の者たちは、住みなれた粕屋郡の立花山麓を離れ一七日に柳川へ入った。ァ千代は立花から離れたくないと、周囲の者を困らせたというが、実父道雪が眠る立花の地を去ることは耐えられなかったのであろう。
 宗茂は入封するとすぐに、家臣たちの配置と知行割に着手した。第一に、始めての土地で在地の情勢を見極めて、領内の数カ所に支城を配置して領内の支配に当らせた。以前に在地の土豪たちが城館としていた処を修復整備して支城とし城番に任じた家臣は筑前以来の有力家臣たちで「城料一一三町」ずつを与えている。
 支城の城番に配した家臣は「柳川年表」によると、次の六城である。
  家老小野和泉  蒲池城
  由布美作     酒見城
  薦野玄賀     城島城
  立花三郎右衛門 松延城(黒木町)
  米多比丹波    鷹尾城(大和町)
  立花了均     今古賀城(三橋町)
 第二に、家臣の知行はすべて恩給として与えられ、中世のような土着性や、在地との伝統的な結びつきを否定した措置がとられた。天正一五年の宗茂入封後の知行割の特色として、一村支配をさせず一村を数人に分けて知行させる分給方式がとられた。それともう一つ、知行割が町・反・丈という古い面積の呼称で表示され、石高制の採用は太閤検地が行なわれた文禄四年以後のこととなる。
 筑後地方の天正検地の施行については『筑後国史』に「天正一七年、公義より筑後国田畑検地これ有り、上使山口玄蕃頭を下向せしめ、上妻郡に長崎伊豆守竿頭による田畠方分に成りて」とあり、天正一七年に山口玄蕃、長崎伊豆守による検地が行なわれたことを記しているがこれを確証できる史料がない。
 筑後における秀吉の「知行宛行状」などを検討すると、天正一五年時点では、すべて面積で知行地を宛行っており、秀吉の九州平定後のころではまだ石高の表示はつかわれていない。
 三瀦町史によれば
 立花氏が本格的に藩体制の確立のための政策を実施するのは、文禄三年朝鮮出兵から帰国した後である。
 第一に、文禄四年、文禄検地(太閤検地)を実施した。このことについては、次のような文禄四年十二月朔日付の立花宗茂宛の秀吉の「知行付」がある。(『福岡県史史料』第四輯)
   筑後国山門郡四万五千弐拾参石、下妻郡壱万七千八百四拾五石、三瀦郡内五万八千六百弐拾石、三池郡内壱万七百石、合計拾参万弐千弐百石事目録別紙これ有り此度検地の上を以て、これを扶助せしめ訖り、全て領地すべく候也。
     文禄四一二月朔日                            朱印(秀吉)
           羽柴柳川侍従とのへ
  この検地により、面積表示に代わる石高表示の石高制に全面的に変更され、この制度に基づく領内四郡二〇六か村の村高が打ち出された。この文禄検地については、この文章中に「目録別紙これ有り」とあるように、文禄四年一二月朔日の「筑後石知行目録」がある。
 大木町関係分の村の石高を次に表記する
 現大木町域内の文禄三年検地村高
石     高  村   名   石     高    村   名    石     高    村   名
  七一二・二四 篠 渕 村   二一七・三五   たかはし村   四六三・四五  いかたみそ村
  六二八・五二  奥牟田村  四六三・一三さふらいしま村  二〇七・三七   吉 祥 村
  三九六・六四 ふくま村  二〇九・八六小 入 む ら  三五三・二八   あらむた村
一、一〇四・九二 蛭池牟田村  一八八・六〇  中    村  七二一・一〇 大 す み 村
一、六一一・〇二  きさき村   一四八・二八  の く ち 村  八九四・六三   八町牟田村
  二一四・二四 なかの村  三九五・五六  大 薮 村
                 史料 文禄四年「筑後国知行方目録」(『福岡県史 柳河藩資料』)

 ついで、家臣団の知行割付を実施した。割付に当っては、文禄検地の石高を採用し「村」単位に割付ける形態に統一した。しかし、一村支配にならぬよう一村を複数の家臣に割り付けたり、一人が数か村を分割して与えられる分給制をとった。
 柳川藩では、家臣団の編成を筑前以来の上級家臣によって行い、一族、譜代、旧臣を中心とする権力基盤が作られ、支城の城番には以前にのべた六人の譜代の家臣が配置された。

2 八院の合戦
 慶長五年(一六〇〇)十月、柳川藩主立花宗茂は領内に攻め入ってきた、肥前の鍋島父子の大軍を八院で迎え戦った。
 この戦いを八院合戦、または江上合戦という。思うのに八院合戦のおこりのもとは、諸般の史誌・軍記・伝説などより考えると、宗茂とともに西軍に加担した鍋島勝茂が、西軍が敗戦すると佐嘉藩三五万七〇〇〇石の領地に或いは疵がつくかもしれない立場になり、かねてより家康に通じていた父直茂と計り、柳川城を攻め落とし謝罪のしるしとするための戦いであった。ある説には、子息の許しを乞うた直茂に「柳川を討て」と内府の命があったともある。
 宗茂にして見れば、戦っても益なく、かといって、戦いをしなければ立花の武門が立たない、実に迷惑千萬な戦いであった。
 この八院合戦のありさまの概略を、筑後郷土史研究会出版の『八院合戦の結末と・水田会見(如水・清正)の由来』という、研究出版書を参考に述べる。
 慶長五年一〇月一九日、鍋島軍は三万(太宰管内誌は二万余としている)の軍勢を一三手に編成し、直茂本陣を城島に進め諸軍も城島を中心に広がり先鋒を横溝村の五反田に置き、北方江上方面にかけて陣営を構えた。
 一方、宗茂の胸中には実父紹運・養父道雪このかたの武名と自分が得た国内・朝鮮にかけての武名あり、江上村あたりで二つとない一戦をしようという気持があったが、城中の老臣みんなの自重の意見が城主の出陣に反対した。とはいっても敵兵が領内を侵す以上、武将の面目にかけても見過ごすことは出来ない。つまり小勢をだして、これを押えようとの意見にきまり次のように軍を編成した。
  先鋒 立花三太夫・足軽頭安東五郎衛門、同石松安兵ヱ、同千手六之允(ろくのすけ)
  中軍 大将 小野和泉鎮幸
  後軍 立花右衛門太夫鎮実、次男善次郎親雄、新田兵右衛門、矢島左助
 小野和泉の一隊総員二〇〇〇人で、鍋島軍に対して比較にならぬほどの小勢であったことは明らかである。それと、水田の黒田如水に押えの備えとして、城島の城番智将の立花賢賀の子息吉右衛門が手兵数百を率いて当ることになった。
 若干の兵をつれて柳河城にいた城島の城番立花父子は、いよいよ鍋島軍が城島方面に侵入したことを聞くと、城内の部下のことが気づかわしく、吉右衛門若干の兵をつれて一九日申刻(午後四時)、急ぎ馳せて榎津方面に行けば、鍋島軍の先鋒鍋島茂忠の一陣三〇〇〇人は、数丁あまりの五反田にいた。
 吉右衛門のさぐりの兵が馳せ戻り、城島の部下は皆船で柳河に向い無事引揚げたことを知らせた。それで安心して馬をかえした。しかし眼前に大敵をみながら一戦もまじえず、引揚ぐるは武士の面目にかかるとして、敵陣に銃撃を加えた。
 敵も応戦し、しばし銃火を交えたが時すでにたそがれとて果せず、吉右衛門兵を収めて柳河に帰った。
この交戦で鍋島の戦死二十七人、吉右衛門は右腕に銃創を被った。この日、立花軍の大将小野和泉一〇〇〇余人を率い三瀦表に進み出た。
 先鋒隊の内、安東五郎右衛門の手下の者銃を放って戦いをしかけたが、鍋島方は応じなかった。すでに夕ぐれが近づいていたので立花軍は柳河に帰った。
 翌一〇月ニ〇日、城島在陣の鍋島直茂を中心に、総勢一三軍は城島・横溝・江上の方向に展開した。
これに対する立花軍は、総勢二〇〇〇人、小野和泉の下に、払暁柳河から八院(木室村いまの大川市)方面に進出し、中軍は薦原(現在大川市菰原)に陣を構えたようである。鍋島軍の先鋒は五反田に、立花軍の主力中軍は薦原にそれぞれ陣した。その間の距離は凡そ二〇丁(二二〇〇メートル)足らずである。
 立花吉右衛門は三百余人で水田口ヘ駈け向かった。この方面から黒田軍が攻めて来るとの連絡があったので、その押えのためであった。
 柳河城兵の先鋒が江上表へ来ると、小野和泉の与力松隈小源が、大将の使者と偽わって安東五郎右衛門のところに行き「早く合戦を始められよ、もし大敵に恐れるならば後隊と入れ替えられる」と言った。
この言葉をきくと安東と石松は兵を繰り出し、敵の先鋒三千人ばかりの中へ突っ掛け、肥前勢を追い立てた。先鋒の将として第三隊を率きいて出陣した、立花三太夫はこれを見て出し抜かれたと思って真一文字に突っ掛かり、敵の三隊を追い散らし、一ノ橋から二ノ橋・三ノ橋まで切り崩づした。肥前の第二陣の後藤茂綱の軍勢は、三〇〇挺の鉄砲でつるべ打ちに撃ちかけ、柳河勢の倒れる者の数がわからぬ程であった。このとき立花三太夫は、馬上に長身の槍をしごき阿修羅のように駆け廻り、ただ一騎敵軍を突き抜けて敵味方をおどろかせ、鍋島平五郎がいる五反田の本陣へ駆け込み、息もつかせず攻め寄せた。
その激しさは「先鋒鍋島茂忠も危うかった」と肥前方にも記録されているほどであった。
 肥前勢が立花三太夫を取り巻いているとき、肥前方の今泉軍助は鉄砲で三太夫を撃ち落とし、軍助の従卒衛藤四郎右衛門が駆け寄って三太夫の首を取った。三太夫時に二十五歳。『筑後地鑑』にこの時の状況を次のように誌す。

 立花三太夫卜云フ勇士乗ル所ノ馬、逸シテ馳セテ敵ノ陣営中二入リシカバ、忽チ数戟ヲ以テ之ニ刺サル、
 立花ノ諸勢憤を発シテ勇気ヲ振ヒ、悉ク橋ヲ過グル過半、此ニ肥前ノ勇将後藤左衛門太夫、兵ヲ中八院ノ
 西ナル邑外ニ伏セ、忽チ邑内ヨリ東ニ馳セ向ヒ弓、鉄砲数十挺ヲ以テ、柳河勢ノ跡ヲ絶チ、横サマニ攻撃ス
 ルコト博風ノ如シ。此ニ於テ五段田ナル先陣ノ士卒、節ヲ合セテ奮ヒ出デ、流失雨ノ如ク鯨波雷電ニ似タ
 リ。戦伐東ヲ弁セズ。柳河ノ軍勢前後ヲ囲マレ、一戦ニ敗関シテ二ノ橋大堀二没入シ、数百人ノ屍ヲ埋メテ
 平地トナス。則チ橋辺ノ田間ニ、大穴ヲ堀リテ骸骨を納メ、今ニ塚アリ。土俗之ヲ名ヅケテ亡霊塚卜日ク。
 毎年里民木塔婆ヲ立テ、之ヲ奠シ、或ハ僧ヲ請ジテ施餓鬼ヲナス。否ラズンバ蝗アリテ五穀を害スト。

 筑後地鑑にも述べているように、鉄砲隊が激しく攻めたので、柳川勢は安東・石松ら主だった者だけでも二〇名ばかりが戦死した。
 小野和泉は、先手(先陣)の戦いありさまを聞くと、家来を引き連れて出馬し先手を救おうとしたが、横矢に射られ、小野和泉の家来は進むことができず、立花右衛門・次男善次郎親雄(十七歳)・新田平右衛門らは後陣に控えていたが、これも先手を救うために、横合から攻めかけ、敵を三丁(三三〇メートル)ばかり突き崩した。しかし立花右衛門太夫鎮実もその子善次郎親雄後を断たれて戦死した。この父子の墓は横溝村深野名、円通庵の廃址にある。勝ち誇った肥前勢は、小野和泉の陣にどつと攻め寄せ、小野和泉をはじめ、その軍勢は奮戦したが、十四・五人になるほどに討ち取られた。和泉も左の乳の下を鉄砲にうち抜かれ、(てあし)にも矢傷を受け戦うことができなくなり、戦死はまちがいないと思われた。
 二〇日、命を受けて如水勢の押(防備)として城兵三百令を率いて水田口に向かっていた立花吉右衛門は、午前八時ごろ、八院方面で先陣が苦戦し多くの者が戦死したという合戦の様子を聞き、江上の味方を救おうと江上へ向かい、弓や鉄砲をそろえて大勢の中へ撃ちかけさせた。むだな矢玉なく、ばたばたと敵を打ち倒した。不意をうたれた敵が、まごついている所を、吉右衛門は部下二百余人ばかりで、肥前勢のまんなかに横すじかいに駈け入り、激しく切り入ったので、恐れをなして川の土手を逃げてゆく敵勢を追いかけて討ち取った。このすきに敗軍とみえた柳河勢は、事故もなく引き上げたばかりでなく、討ち死と決まっていた小野和泉でさえ無事に蒲池村まで引き返した。
 こうして、肥前方は吉右衛門が追い討ちするのを見て、堀溝を隔てて弓矢や鉄砲を雨あられのように放った。吉右衛門は馬上で采配を振っている所に敵の鉄砲で頬当を左から右へ撃ち抜かれ、まっさかさまに落ちた。阿部半内が走り寄って吉右衛門を肩にひっかけその場を逃れた。吉右衛門は引き上げる途中、城中から来る十時源兵衛に出会い「拙者これまでに各地の合戦で六十七ケ所の傷を受けたが、今日の合戦で受けた重傷はこれこのとおりだ」と言って傷跡を見せこの日の激戦を物語ったほどで、真の血戦であった。柳河勢はよく戦ったが、ついに破れて後退するところを、肥前勢のために五百八十余人が首を取られ、切り捨てられた者はその数を知らなかった。柳川勢を柳川城に追い入れ、城を乗りつぶそうと進む肥前勢を見て、鍋島直茂がこれをさし止めているところに黒田如水・加藤清正から使いがきて、「勝敗は決まった。戦いをやめるように」と止めたので、鍋島直茂・勝茂父子は軍勢を引き上げ酒見に陣を移した。

3 柳河城の開城
 慶長五年一〇月一九日より二〇日、両日にかけての筑後判関ケ原ともいわれる、鍋島藩・立花藩の興亡をかけた八院合戦も、清正が宗茂に対する旧情を温めた行為から黒田如水と相議した水田会見により、戦いの終りを告げしめたその意義は重大で、まさしく国家的な功績といわねばならないであろう。
 かくて、清正と如水は、宗茂の開城をすすめるためその家老立花賢賀のところに、この事の内意があって、しばらくして如水の家人時枝平太夫、賢賀の宅に行って主人の口上を述べて覚え書を渡たした。
 口上の覚
 一、今夕に加藤主計頭陣所へ貴殿ばかりにて御出で有こと。一、此度御父子御働き御心遣い感涙を催し候。吉右手の疵如何候や、承り度く候、「一樽」一、是れは古酒にて候、疵にも能しと申し候間進め候、一、右の外時枝平太夫申す可きこと、賢賀いそぎて瀬高に参りければ、両将対面有りて、宗茂城を出で給い、此方と同列に薩州へ発向有に於ては、内府その旧悪を捨て給うこと勿論のことなり。御辺よろしく相計るべしとあるに因って、柳川に立帰り、宗茂及び家老らにかくと告げて、宗茂の和睦をすすめければ、侍従も否みがたく思われける折から薦野半左ヱ門も歸国して、内府のお許しを願い受けたる由反命しければ、宗茂いよいよ一決して大村善良を清正の陣所へ遣わし、この上は城を渡し、薩州へ出馬致たすべし、去りながら我らを欺むきて、大友の如く囚人になし、耻辱を与へらるべき邪謀ならば、城を枕にすべしと有りければ、清正もとより左様の心ならざれば、其旨を誓書に顕し、善長に授けらる。
善長柳川に馳せ皈り清正の誓紙を授ければ、宗茂披見して喜悦あさからず、是偏に半左ヱ門が内府の御前を申し直したる故なりとて感状を与えられる。今度 進退の儀 大坂に残し置き候、誠に捨て置くこと面白なき次第に候、然りと雖ども粉骨をもって御前之儀異議なく相い調ない、当家連続の儀、其方一分の手柄、上下共にありがたく忘却候。当時の體にてかくのごときの儀、心底如何に候得ども、志に候新地五百石、合せて二千石の分のこと、手付別紙に在預け之を進め候。知行のある可く候。恐々謹言、
十月廿四日、
 薦野半左ヱ門殿 親成此頃宗茂ヲ親成卜云フ斯くて宗茂は近臣五、六人を召具して、廿四日の晩景に清正の陣所へ参向せらる。此時清正の手の者馬を取り放ち、営中騒動しければ、清正急に軍使を駈て、此の由を城中に告知せらる。城中には浩る事とは知ずして、営中騒動の事を聞き、扨ては清正たばかり寄せて、主君を殺害しつと覚るぞ、倡彼陣へ駈け入りて切り死せんと議定して、三の丸まで押出しけるに、右の使者駈け付けて、件の旨を告げれば各安堵したりとかや。其后宗茂は清正と和談の対面をしていわく、「貴方は本来党を立てたる人にも非らず、今度大老、奉行の面々、天下の御為と觸れ、諸将を催促するに依りて、必ならずも出陣せられし上は、内府さまでの御忿無かるべし。是より薩州へ御發向有りて戦功をも顕はし給い、内府の御宥免をいやに願い給え」とありければ、宗茂返答申されけるは、「仰うせの如く、上方の面々未練の大事を企てながら、秀頼公の御為めなりと余儀なく申し聞さるるによって、人並に罷り上りぬと雖ども、天下分目の戦いにも逢はで、凄々と道より還りしこと口惜しく、又面目なし、秀家・輝元・其の他の輩譬え智略を廻わすともさばりのことは無かるべしと 推量せられし。
各の御思慮下愚の及ばぬ所なり、この上は貴方の差図に任すべし」とありければ、清正甚だ悦善して、黒田、鍋島に宗茂の所存を云い送り、駄馬五百疋、人夫千人、其外兵士を差添えて、宗茂を領地へ同道させ柳川の城には加藤美作を入れ置きしなり。

八院戦跡めぐり略図
八院合戦図

     ニ 田中筑後藩の成立と滅亡

 (一) 吉政の筑後入国
  田中吉政は三河国(愛知県)岡崎藩主として一〇万石(九万五〇〇〇石或は一〇万五〇〇〇石とも)受領していた。吉政の先祖は近江国の田中村に住み、祖父嵩弘のときから田中姓を名乗り、父を重政といった。
 関ケ原の役に、墨俣川(木曽川の支流)の上流江渡川の先陣をなし、そのうえ西軍の総帥石田三成を生捕りにした大功により、関ケ原で西軍だった筑後の四大名立花宗茂・高橋直次・小早川秀包・筑紫広門にかわり、慶長六年(一六〇一)一月、筑後一国(三三万一四〇〇石)または(三二万五〇〇〇石とも)の国主に任ぜられて入国し、柳川城を本城とした。
 これまでの四つの藩が一つになって筑後藩ができたので、藩制の基礎となる経済の土台がひろく強固になった。
 吉政は岡崎藩主だったころ、岡崎城の西と南の二面は河川が流れていたので、残された東と北に堀を掘り、城下町の主要部をなす六つの町は外堀(田中堀)で囲む大工事を行なっていたので、土木工事に相当の経験を積んでいた。
 吉政のこのたびの軍功に対して、徳川家康が駿遠の地に三〇万石を与えようといったとき、家康の重臣で親交のあった本多佐渡守正信を通じて「筑後を拝領したい」というと、家康は「どうしてあのような西国の田舎を望むのか」と聞きかえしたという。吉政は「筑後の様子を荒増し承りますに彼の地は新開が多く有るようなので、まげて筑後を頂けるよう尽力願いたい」と申したところ、家康から「存分国を広めよ。天下のためであるぞ」との言葉があった。

1 吉政の入国法度
 田中吉政は、慶長六年四月一〇日に三ケ条の入国法を発する。第一条で、奉公人の道理に合わない違法な行為の禁止。第二条で、山林竹木の伐採の禁止。第三条で、逃散百姓の還住策について規定している。
 その中で、特に、遅れて帰村する者の田地没収と給人在郷の禁止を命じているが、ただし書を付けてあえて強行せず若干の妥協策を講じている。そこには百姓を定着させるために旧来の郷村秩序を必ずしも無視できない、入部大名の姿がある。
 また、吉政は入国後まもなく刀狩りを実施している。吉政の意図は、太閤時代の刀狩りをより徹底し、更に士・農の身分を明らかにし、関ケ原役後の、政治的不安定下の農村支配を強化することにあった。
しかし、吉政の場合も在地勢力に対して政治的配慮がなされており、基本的に適宜な妥協と利用策を取らざるを得なかった。「三瀦町史」

2 吉政の農村支配
 吉政時代の藩側の農村支配組織として「郡代」・「代官」・「横目」の名称が見られる。
 「郡代」には多く家老級の重臣があてられ郡内の行政全般を掌握していた。
 「代官」は、星野村樋口越前、塩足村塩足市臧のように一ケ村代官で、在地旧家筋の者を取りたてた場合と、家臣団から任命し数ケ村代官を設置する場合があって、その職務は、主として村庄屋を監督して臧入地からの年貢の徴収に当たることである。
 「横目」は、行政監察役の「郡横目」で家臣団から任命されたものと推定される。
 他方、村落の指導者であり、藩の行政支配の下部組織という二重の性格を持つ村役人の組織は、田中時代に明確になり、庄屋以外に「おとな(長)百姓」・「さんし(散使)」の名称が見られる。
 大庄屋職は、竹野・生葉郡の古賀氏、石井氏、(おき)氏や上妻郡の稲員氏が以前から見られたが、新たに上妻郡藤田村古賀氏、三瀦郡夜明村川原氏などが見える。

3 吉政の新田開発と治水利水
 家康の言葉もあり、吉政は筑後入部のその月より葭野を新田にするよう、十郡の庄屋、百姓に命じた。
新封された大名が、藩政初期に領内経営の上から重要視したのは、藩財政の基礎である年貢の徴収量を増加させることである。このため盛んに、新田開発が奨励された。
 (1) 有明海の干拓
 吉政は柳川城にいて海岸の埋立に着眼し、汐土居の築造に着手した。有明海沿岸の干拓は近世以前から行われていたようだが、本格的な事業としてとり組んだのは吉政時代に始まったといわる。「南筑名覧」に浜武村(三瀦郡)より新田村番所(三潴新田番所、大川市)のあたりに至る本土居は吉政が築いた。干拓用の堤防であると見える。その他にも本土居と呼ばれるのに、沖ノ端平川町から大和町中島を経て、三池郡高田町渡里から隈川右岸に至る長堤があり、本土居は三二キロメートルもあり、この本土居は既存の堤防を修築した所もあるが、新設もされている。
 農業政策にもっとも大切なことは、治水と用水である。土工については、岡崎時代も経験もある吉政は、筑後川や矢部川その河川の治水に就いて施策を行ったことが、記述や伝承に残されている。
 (2) 河川の開削改修
 矢部川の本流、下妻・山門両郡の平野地域に入ると屈折が多くなり、とくに中島川口より瀬高に至る間がひどく、この直流化工事が吉政の手になるものといわれ、旧流の跡が古川開の名で残っている。また矢部川の分流沖ノ端川の改修、二つ川堰その他の堰を修造している。
 その中で最も大木町と関係の深いのが、吉政の代表的な用水工事といわれる「花宗川」の開通である。
八女郡の津ノ江に、花宗川堰を設けて矢部川をせき止め、これを北岸の上妻、下妻両郡と三瀦郡一帯約二千数百ヘクタールの水田に潅漑して、余水は大川市で筑後川に流入させる。吉政が着工し、忠政のときに竣工したといわれるが、従来からあった矢部川の分流を整備して、もとからの小川や溝、堀などをこの基幹水路に結びつけ、総合的な水利体系を作りあげたものである。このとき、星野川の分流山ノ井川の浚渫や堤防の補強がなされている。
 また河川工事として、「瀬下新川」の開削がある。そのころの筑後川は、長門石の北部をめぐつて流れていた。吉政はこれを今の梅林寺裏の岩鼻といっていた付近から豆津橋までを、まっ直ぐに切り開いて水路を作ったが、「筑後将士軍談」によると途中の川底には大磐石があって舟運に難渋したとある。
これを除去し終えたのは、有馬藩二代の藩主忠頼のときに至ってからである。
 (3) 筑後川沿岸の開発
 吉政は、有明海岸や矢部川流域の新田開発だけでなく、筑後川沿岸の開発も積極的に行っている。慶長六年(一六〇一)入国のその年、津村三郎左ヱ門に大野島、古賀竜彦に新田村六三町を開かせるなど、左岸地域の開発は勿論のこと、右岸寄りにある中州の葭野を開いて下田村(城島町)、芦塚村(城島町)を筑後領とした。
 吉政死去の後、襲封して筑後国主となった四男の久留米城主田中忠政は、父の意志をついて、慶長十五年(一六一〇)筑後川右岸にある江島新島(有喜島・いま浮島)を菊池惣右ヱ門に開かせ、同年緒方将監に道海島を開墾させている。これらの右岸の島は、以前から筑後領と肥前領の農民の争いの原因になっていた。しかるに、肥前領とも思われる右岸の中州を田中藩で開発しているのを、鍋島藩が泣きねいりせざるを得なかったのは、忠政が家康の異父弟松平因幡守康元(久松氏)の娘を迎え、大御所の姪婿となっていたためではないだろうか。

吉政銅像の説明板 柳川市田中吉政の銅像 柳川市

4 城郭の拡張と整備
 「田中興廃記」には、吉政が入国すると立花氏の柳川城を居城とし、早々に大城郭の建設を計画している。
 柳川城は、「南筑名覧」に文亀年中(一五〇〇)蒲池筑後守治久居城とし築くとあり、「柳川明證図曾」にては柳川城の草創詳かならずとあれども、天文(一五三〇)のころ蒲池近江守鑑盛入道宗雪の築く所という(蒲池物語)説を疑いなしとしているところから考えると、治久は支城として築いたものであろう。立花宗茂の初封のときは規模の小さい城だった。
 柳川城を筑後藩の本城とした吉政は城池を新しく掘り、これまでの城に接してその西側に本丸を築き、石垣を高く積み重ねて壮大な五層の八棟造りの天守閣を建てた。沖ノ橋川があまり接近していて要害を欠くとして西方に掘りかえた。もとの川をいま古川という。市街地の堀割は、約一二六〇年前、奈良時代に施行された条里制(耕地整理)の堀割を改変したものであり、網の目のような堀割に満々と水をたたえると水郷になり、名実ともに難攻不落の水城、名城柳川城といわれるようになったのは吉政のときからである。
 吉政はまた、久留米の篠山城を修築し、福島城も本丸、二の丸を新たに築いた。このとき、吉田村岩戸山古墳の石人や石馬が、城の石垣用としてずいぶんと運び去られたようだ。その他三井郡赤司城・山門部鷹尾城・同郡松延城・上妻郡黒木城・三瀦郡榎津城、三池郡江ノ浦城を支城とし整備した。
 ○ 口分田開き
 一方、領内支配に障害になるような古城は、奉行口分田(くもて)甚左ヱ門に命じてとり壊させ、跡を田畑として開かせた。あとで「口分田開き」といわれものである。

5 道路の整備新設等
 吉政が、居城柳川城から各支城への道路を整備・新設した記録や伝承は多い。これは軍事道路の意義が第一に考えられたものであった。
 (1) 柳川往還
 柳川城下から眞直に北上し久留米城下に入る二〇キロメートルの柳川往還(田中道)は、このころ新設されたもので、この時までは柳川・久留米往来の道は、曲折迂遠で急変のとき駆けつけるのに用をなさないので、眞っ直に縄を張らせて柳川往還を作らせたと「筑後実記」は記している。以前柳川から久留米への道は、八院から城島を経て大善寺に通じていた。吉政はこの柳川街道の建設にあたっては、自身陣頭に立って指揮し、出来るだけ直線につくった。大庄屋九郎兵ヱ宅が道路にかかったが、大身の農家であるということで、東に移転して道路が作られたと伝えている。(顕彰趣意書)
 (2) 御免地
 「柳川往還」の周りには人家がなく、旅客が不便であったので近隣農村から人を集め津福町・目安町・山野町・田川町・大角町・横溝町・金屋町・下田町などをつくり、これらの住人には次のように諸公役を免除して優遇した。
  三瀦郡津福町新儀相立候分、諸公事免除せしめ候間、誰々ヨリ役儀申掛候
  共 此折紙にて相理べき者也。
   慶長八年十月十七日      吉政判(田中)
 右のような、諸公役の免除を約した御判の書付で御免地にして、作出し勝手で栄えたので今に至るまで御礼の御免地祭り、田中殿まつりがつづいている。「三瀦町史」
 (3) 柳川・福島・黒木新道
 その他、吉政は柳川より福島を経て黒木に至る行程二四キロメートルの新道を開いており、この両街道はいまもなお、幹線道路として交通、運輸、経済の発展に役立っている。
 (4) 蒲池焼
 吉政は佐嘉の鍋島藩主に依頼して、肥前より陶工を迎え蒲池村に住わせ土器を造らせた。蒲池焼の祖家長方親である。

6 寺社政策
 藩主吉政は、統一的な政策のもとに領内寺社勢力を整理し、良民支配の有効な手段とするため、まず中世以来在地領地領主から寄進され、秀吉発給の朱印状に基づき保護された寺社領を「田中高」の設定という操作によって半分以下に削減している。また、毛利秀包時代に奪われた寺社領を復活させ、若干の用地寄進を行っている。熊野(筑後市)の坂東寺や大善寺玉垂宮などである。
 その他、中小の寺院の中には、三瀦郡江上村の九品寺や牟田口村の栄勝寺などのように全く領地没収にあったものも少くない。神社でも、三瀦郡吉祥村三島宮など同様の措置である。
 寺社領の整理の一方、大川市の風浪宮の社殿修造や大善寺玉垂宮への梵鐘と鰐口の寄進など、国主としての威徳を示すことも忘れていない。

 (二) 忠政の襲封
 慶長一四年(一六〇九)二月一八日、田中吉政は参勤の途次病気になり、伏見の客舎で没した。年六二才であったという。跡目は本来ならば三男の福島城主久兵ヱ康政が継ぐのが順序だったが、病身に加え強い言語障害のため、かねて嫡子と定められていた弟隼人正が相続した。同年筑後守に任ぜられ、将軍秀忠の一字をもらい忠政といった。
 元和元年(一六一五)四月、大阪夏の陣が起こり、忠政にも出陣の催促がなされたが、出兵が遅れ、大阪落城後に上坂した。忠政の参戦のおくれた理由に、まず、病気があげられている。しかし出兵準備の遅れや、忠政襲封後の家臣団統制に問題があった。その第一に、家臣団の困窮による出陣準備の困難があげられる。支度料を貸し与えて出陣の用意援助を行ったが充分でなかった。年季奉公のものは暇をもらって出陣を断り、新規召し抱の者の中にも、出陣の途中小倉から逃亡するものもあり、このため筑前山家に番人を置いて、見張ったと「興廃記」には記している。
 第二は、兄康政の反抗、藩主対重臣、譜代対国侍との対立という形での「お家騒動」が発生したことがあげられる。
 城島城番宮川大炊(おおい)の事件といわれるもので、出兵を直前にひかえた忠政が大炊を手打ちにしたため、大炊の一族や家臣らが、城島城に立籠り反抗したので、忠政が軍勢を出してこれを討伐させたという事件である。いろんな混乱のため大阪への出兵がおくれた。忠政は手をつくして事情を釈明して、それをわびた。

1 一国ー城令と支城の破却
 大阪陣後、幕府は大名達の軍事力を制限するため、元和元年(一六一五)六月一三日、居城の外の支城の破却のため、「一国一城令」を発した。田中筑後藩では支城の存在が領内支配の障害になりかねない状況で、大阪陣遅参の疑いを晴らすためにも、命令が即時実行され、全支城が破却されたと推定される。このことは、田中家断絶後、筑後に来た上使団全員が柳川に宿舎を構えたことからも、うかがえる。

2 田中藩の滅亡
 忠政が家督を継いだことを不満だと康政は五ケ条の告訴文を幕府に上呈した。それには大阪陣への遅参を攻撃材料としたものだったが、重臣田中采女(つねめ)の申し開きで忠政への疑いは晴れた。康政に対しては虚偽の告発をしたものの、幕府を考えての報告で咎はなく、むしろ領地を分知するよう、将軍家よりの内意が忠政に届けられた。
 元和元年(一六一七)忠政は、幕府へ生葉・竹野二郡と山本半郡、領地高三万石の分知を願って許可されている。
 忠政は、元和六年(一六二〇)八月七日、江戸滞在中に病没した。年三六才であった。
 忠政没後跡目嫡子なく幕府の法により田中家は断絶した。
 兄康政も近江国へ所替を命ぜられ、筑後は欠国となった。

     三 筑後国仕置奉行の下向

 欠国となった筑後国に幕府は左の通り奉行を下向させた。
 柳川城番        丹後亀山城主    岡部内膳正長盛  左は仕置奉行宿泊所
 国中郷仕置公事沙汰惣奉行 安房国平郡勝山城主 内藤左馬介政長  柳川松原善左ヱ門屋敷に
 同断           小姓組番頭     秋元但馬守泰朝  土田右ヱ門屋敷に
 国中割符にて御代官   美濃国奉行     岡田将監善同   辻 勘兵ヱ屋敷に
 同断           豊後国府内城主   竹中采女正重義  宮川藏人屋敷に
 同断           肥前国島原城主   松倉豊後守重政  田中大膳屋敷に
 このはか、上使として「御旧制御書」「筑後封植録」等の諸記録には、美濃国大垣藩主 松平甲斐守忠良を加えてる。
 これらの上使衆に筑後国の仕置を担当させたが、田中家臣団への対策を「条々」を発して指示している。
 この中で、田中家断絶によって最大の影響を受け、動揺をきたした家臣団に対する配慮として、「条々」は、竹木の濫伐禁止を命じ、農業再生産の維持に努める一方、当面その年の「夏成」を給するとともに、武具、資材等の財産については保証を与え、仕官については「主従相談次第たるべき事」を規定している。
 元和六年(一六二〇)一二月初旬ごろ筑後国の新大名が定まり、翌七年一月一〇日にはさきの「覚書」が発せられており、筑後国の朱印高三二万九〇〇〇石のうち二一万石は有馬玄蕃、一〇万九〇〇〇石は立花左近、一万石は立花主膳、一九八六石は寺社領と高割がなされており、これと同時にその領域も当然確定された。その後、元和七年二月六日各郡村の区域が設定された。
「上妻郡割定の事」には、具体的に指示がなされている。(立花家文書)
 第一条 村切りは大川によって画定する
 第二条 野山も河切りとする。
 第三条 用水は慣習に従うことを明確に指示している。
 立花家文書によれば、同七年二月二八日までには松倉・竹中・岡田代官は各受け持ち郡村の高付帳の作成を終わっている。
 領内の各村の村高を合計した領地高は幕府決定の朱印高に一致しており、上使衆の作業は始めから設定された枠内のものであることがわかる。
 これらのことから、筑後国の高割は、筑後国仕置奉行である上使衆の入国前に決定されていて、その領地高は、山口玄蕃と新田高、それに寺社領高によって構成されていることが確認される。朱印高の総額は元和三年の朱印状下付により確定されたもので、変更を許されないものであった。
 筑後国に派遣された上使衆の役目は、その朱印高を確認し、村切りや郡切りなどの領域画定を行うことにあったのであろう。

     四 代官支配と農村

 上使衆による半年間の支配期間、年貢徴収としては、元和六年度の秋年貢があった。承応四年下妻郡中島村庄屋市郎兵ヱの「上申書」に年貢徴収について記されている。
 この中で、松倉豊後の支配下の年貢徴収は過酷であり、采女正・将監の支配下は緩々(ゆるゆる)と上納できたと記しており、代官による支配が統一性を欠いた状態で経過した。
 また、これとは別に田中没落後の農村には、さまざまな百姓同士の紛争と新旧勢力の争いなど、無秩序が発生していることが「姫野家覚書」や国分村の「神代弥左ヱ門遺誡書」に記されている。
 しかし、このような混乱にもかかわらず、太閤の九州平定後に形成された近世農村社会の体制は、基本的にはこれといった変動もなく次の有馬時代に引き継がれていった。

     五 久留米藩の成立

 (一) 有馬氏の入国
 元和六年(一六二〇)閏一二月八日、有馬玄蕃頭豊氏は幕府の命によって、丹波国福知山八万石の藩主から、久留米藩二一万石に加増転封となり、翌年三月一八日久留米に入部した。
 豊氏が拝領した筑後北八郡五二五か村は、三二万九千余石の内、二一万石と高割りがなされ、更に領域が確定されている。大木町は全町この有馬藩の領域にはいっていた。

1 豊氏の入国法度
 豊氏が、元和七年三月に発した入国法度は、次のようなものであった。
  一、当町中、諸役免許せしむ事、附り、売買順路たるべき事
  一、諸奉公人・町人・百姓に対し猥の義これ有るべからざる事
  一、山林・竹木断り無く剪採るべからざる事
  一、百姓手前役義 相定めの上違変すべからざる事
  一、申の年巳前逐電の百姓、唯今の在所別無く帰参仕り、田畠耕作致すにおいて
     は、 其の物成納所の外三年諸役免許たるべき事
  一、他所より走り来る奉公人・百姓等、領内隠し抱え置くべからざる事
  一、分領中、所々奉行自然非分の族由懸るにおいては、その身背かざるの者たりと
     い えども直に告げ知らすべき事
 右 相背く輩これ在るにおいては厳科に処すべき者也。仍て件の如し
                                 豊氏判
                             (「春林・瓊林二公制法」)
 右の入国法度をわかり易く、述ぶれば次の通りである。
 第一条では、久留米城下町中の諸役高を免許しての町の振興策。第二条では、武家奉公の町人、百姓に対する不法な行為を禁止。第三条では、山林竹木の伐採の禁止。第四条では、百姓に対する年貢・夫役などの負担の定量化を述べ。第五条では、豊氏入国以前、すなわち、元和六年以前の逃散百姓が帰住する場合、三か年の諸役免許を与えての農民数の増加奨励。第六条では、他領からの走り百姓・奉公人を隠し置くことの禁止。(これは幕藩領主間のとりきめであったためであろう)第七条では、役人などの不法の告訴など命じている。
 このように、豊氏の入国法度の意図するところは、あくまで農民農村対策が中心であり、農村秩序の安定こそが領内経営の根本であることを述べている。
 豊氏藩政の最重要課題は、家臣、農民、町民の定着への配慮と年頁収納の確保であった。しかし毎年のように起きた災害のため、寛永一九年(一六四二)豊氏の死去するまで、ついにその農村対策は意のままにならず終わった。

2 久留米藩の内検高
 豊氏は、朱印高とは別に入封すると、年貢徴収の基準となる内高(内検高)の設定のため、田中藩時代の石高調査をしたところ、正直に書き上げたところと、書き上げなかったところが出て、朱印高二十一万石にも及ばぬものだった。藩は朱印高の五割増しに内高を設定して、三ツ七分(三七パーセント)の年貢率で二か年、年貢を徴収した。
 しかし、この苛酷な年貢が原因で逼迫する村も出てきたので、元和九年(一六二三)に内高を四万石減らして二八万余とし、これを御内検本高と決定したと記されている。
 朱印高と御内検高を郡別に比較して見ると、増加率は一定でなく、三瀦・下妻・御井・御原・山本郡は二〇パーセント前後の増加であるのに、生葉・竹野・上妻郡は五〇パーセント以上の大幅増加を示している。
 三瀦町史によれば現在の町内の村別で見ると、各村落においても、朱印高と御内検本高とがほとんど差がないもの、あるいは一・六倍になっているもの、逆に減少しているものなどあり一定でなく、総合高において三二・五パーセントの増加となっていると記されている。
 「筑後封植録」では、御内検本高の設定後六代藩主則継のときに検地があるまで、この御内検本高に増減はなかったと記されている。
 しかし「米府年表」では、二代忠頼の代の承応元年(一六五二)に「御領中畝数改有」とあり、また、同三年七月一一日の忠頼から松田次右ヱ門あての「覚書」第四条の附則で、本地田畠、新田開発地の検地は念を入れ、情実を加えて加減しないよう命じており、承応三年に本地田畠・新田開発地について「検地」がなされたことが記されている。
 「大石長野堰渠誌」には、慶安年中(一六四八〜一六五一)竹野郡の村々で検地が行われて、剰地が発見されこれに税を賦課したことが記されている。
 明暦二年(一六五六)六月一五日「竹野郡東牧村八幡宮御社御公儀より、御建立成らせられ由来」には「慶安四年卯ノ年(一六五一)御検地成らせられるニ付、戸田勘解由様・松田次右ヱ門様・馬渕加兵ヱ様・山田忠兵ヱ様いずれも八幡宮御社ニ御休成らせられ候時(後略)」と慶安四年地検のための巡廻がなされたことが記されている。承応四年(一六五五)の藩法「給地ならし様の覚」にも、第二条に「検地」の文言があり、給地ならしの作業との関連を示唆している。しかし、「地検」の実態は知ることができない。
 久留米藩の、内検総石高と総畝数の変遷を見ると、藩主則継の正徳(一七一一〜一七一五)検地以前の石高の増加が、寛永一〇年(一六三三)から元禄八年(一六九五)までの間に見られる。
 原因としては、大規模の用水工事による新田開発と結果としての田畑の地目の変更による年貢収納率の増大があげられる。主なものをあげると次のようになる。
  (一六四七)
  正保四年 御原郡稲吉村宝満川の井堰築造
  (一六五二)
  承応元年 三瀦郡草場村その他の荒籠築造による護岸工事
  (一六六四)
  寛文四年 生葉郡大石村の井堰と水道開通
  同  年 上妻郡黒木村の井堰と水路開通
  (一六七六)
  延宝四年 生葉郡原口村袋野水道関通
  (一六七八)
  同 六年 竹野郡恵利水道の開通
 これらは、一般的に藩政初期に多く見られる藩主主導型の農業開発である。
 これに対して正徳期以降の石高増加は、筑後川右岸の床島用水工事を別にすれば、徹底した領内検地とこれを基礎とする課税制度の体系的整備、強化による面が強い。
 ここに、前期と中期における藩農政の差異が現れている。

3 村方支配の機構
 久留米藩で、大庄屋・庄屋という村役人制度が、いつごろ確立されたかは、祥らかでない。
 藩法で、大庄屋・庄屋が藩の農村支配の末端機構として、明確化されるのは、二代藩主忠頼期の寛永二〇年(一六四三)未二月一五日付の「覚」以降である。
一、百姓出入、諸給人構い申さず候。小庄屋あつかい、其の上大庄屋沙汰仕り、相済まざる義、郡奉行・戸田勘解由・馬渕加兵ヱ・山田忠兵ヱ・佐々彦右ヱ門・後藤九郎左ヱ門承り、埒明き申さず候義は郡代へ申し断り、理非承り、不屈者成敗仕り候様に仰せ出され候事。(「御法令抄一」)
 この覚の中で、農民の「出入」に関しての給人の介入を制限し、小庄屋が調査し、大庄屋が裁決することを定めている。
 それで決定がつかない場合のみ、郡奉行や郡代などの裁決を受けるとしており、大庄屋・庄屋は農村支配の末端機構に位置づけられている。
 また、同年二月二八日定められ、承応四年末三月一日に改めて確認された「在々百姓定」によると大庄屋の職分は、
  (1) 農民に不心得のあるときは、その掛の大庄屋の落度であること。
  (2) 脇差の免許
  (3) 年貢の完納がなされていない場合は「前々より」支給の米の召し上げ。
  (4) 法令の違反者の郡奉行への届出。
  (5) 法令の伝達などがあげられる。
 村方支配の機構としては、寛永二〇年の法令上は、郡代が郡奉行・戸田勘解由・馬渕加兵ヱ・山田忠兵ヱ・佐々彦右ヱ門を支配し、郡奉行らが大庄屋を支配し、大庄屋が小庄屋を掌握するように規定されている。
 慶安四年(一六五一)二月一一日、総郡中より物成りのほかに高一〇〇石につき米一斗九升ずつを拠出して大庄屋給米とする制度が定められた。
 このため、大庄屋職はいっそう農村支配の機構の末端に位置づけられていった。

4 島原の乱と久留米藩
 寛永一四年(一六三七)一〇月下句、松倉勝家領の肥前島原と唐津の寺沢堅高領天草において、領主の圧政に対して、キリシタンを主体とする農民一揆が発生した。
 一揆勢は、島原城を占め、更に、原の古城に立籠り、上使板倉内膳正重昌、石谷貞清の指揮する幕藩連合軍と激戦を交えた。翌年正月元旦、幕藩連合軍は総攻撃を敢行するが、板倉重昌さえ戦死した。その後、幕府は松平信綱・戸田左ヱ門などの再度の上使派遣を行い兵力を増強し、二月二八日、一揆を全滅させた。
 島原の乱は、有馬藩の支配体制の基礎作りの過程の期に発生した事件であり、いろいろと各分野に影響を及ぼした。
 豊氏は、家老宛の書状で、農民の定着のためには、城普請さえひかえていたが、他方では、農民一揆が起った場合、家臣や妻子が立籠る場所としては城は不可欠のものであることをのべている。
 このことは、城は領主間の戦闘用の構築物であると共に、農民一揆に対するものでもあることを物語っている。
 久留米藩の島原の乱に対する対応は、豊後目付衆の下知により、一二月一日出陣して以来、幕府の命令を忠実に守った。
  このことは、一一月一〇日付の国元家老衆宛の豊氏の書状においても、兵粮(将兵の食糧)・馬の飼料・銀子に至るまで、幕府の命令に従い拠出するよう命じていることでもわかる。
 島原の乱の出陣には、陣夫役として、多数の農民が知行所から徴発されており、寛永一五年二月一七日の、「御家中召連候百姓覚」(御書出之類)によれば、総人数一四一二人である。
 「島原御陣御先手備并軍用之覚」によれば、「知行地の百姓は石高一〇〇人につき三人の割合でつれていく」と規定されている。けれど、知行高との比較では、一〇〇石当りの人数は〇・四人から二人までの増減があり、必ずしも一致せず実態が明らかでない。「生葉・上妻・竹野・下妻・三瀦己上五郡より島原へ参り候人数覚」による限り、郡中から徴発された農民は、鉄砲の者・長柄の者・玉薬持・矢箱持・人足・間の夫・御馬屋人足などとして従軍した。
 島原の乱は、久留米藩から約七千余人が出兵し、一四〇人の戦死、九五〇人の戦傷があった。
 物資の消耗は、明俵(あきだわら)四〇〇〇俵代、(とま)、莚、蝋燭・提灯・鉄・狸皮・京桝・鍬・なた・鎌などとし、七貫六六〇目七分、扶持米八九三石二斗三升四合を必要とした。
 島原の乱によって農民数の減った島原・天草には、幕府の指示により、各藩から農民が送りこまれた。
 寛永一九年九月一日の家老衆宛の忠郷(忠頼)書状は、天草・島原への農民の派遣は隣国並に行い、その跡の田畑が荒廃しないようにと指示している。

5 領主の農民対策
 豊氏は、元和七年入国法度七か条を発したが、その中では何よりも家臣をはじめ、領民一般の定着に心遣いをしている。
 また、これと同時に領内農民の逃散については、最も懸念するところであった。一二月二九日付の家老有馬内蔵助・同内記・同主水正宛の書状は次のように述べている。


 一、 分領中百姓走り候様ニ承るニ、定めて虚説と推量せしめ候。去年中牛死の刻、借 し申し條二千石米
     の儀、当年納所成り難き候は、用捨、尤ニ候。度々申す如く、いか様ニも在り付き相違なき様ニ申
     し付らるべく儀肝要ニ候事

 この書状で、隣藩の柳川領の走り百姓についても、領内への影響を心配して祥しく知らせるように指示している。
 年貢収納の安定のためには、農民を稲作に強制するという幕藩体制の基本方針に必ずしも固執するものではなかった。
 寛永期前半のものと考えられる家老衆宛の豊氏の書状には次の様に述べている。

  (前略)
  一、田畑ニ作り申すからし・たばこの儀、其の村物成高下候とも、二色の儀を定め置き、三ツ七分の物成
     相違なく毎年納め候ハハ、其の分ニ申し付けらるべき候。三ツ七分ニ納所候て、其の外百姓作徳こ
     れ在るにおいては、百姓中徳ニ仕るべく候。色々の物にて、年貢納め取り候儀風聞も如何候。第一
     百姓勝手能き様ニと存ずる故ニ候(後略)

 このように、豊氏の農民対策は、まず農民の領内定着化が第一であり、農村の荒廃防止や農村秩序の安定化を図ることが最優先された。
 このため、一方では、百姓夫役の定量化や走り百姓の還住策などの保護を与え、他方では、給人手作の容認や給人の農事指導を奨励し、旧家層の村役人への任命などによる旧秩序の利用を通じて、農村秩序の安定化をはかりながら厳しい農民統制策を取る面もあった。
 豊氏の農村対策は、すべて年貢収納の保全策に終始するものであったともいえる。
 年貫収納の基本である、耕地掌握については、石盛よりも耕地面積の把握が優先し、それは従来の反取検見法によるものであり、新らしい対策を打ち出せぬままに終った。

 (ニ) 忠頼の襲封と藩政の改革
 寛永一九年(一六四二)九月、豊氏が死去し、二男忠頼が藩主となる。
 忠頼は、豊氏に引き続いて、城の修築・城下町の拡充・整備を積極的に推し進め、正保二年(一六四五)には瀬ノ下町の地割りを行い、洗切に住む町人をすべて移転させ、跡地を水軍の本拠地とするなど、ほぼ忠頼期に城郭と城下町の完成が見られた。
 また、慶安元年(一六四八)に、小森野付の渡場を宮陣に改めて江戸への参府道を整備した。
 更に地子(土地の年貢)の免除を行い、街道筋の町の振興をはかった。

 差面地子年貢之事
               三瀦郡西牟田町屋敷四十四ケ所
  一、高弐拾四石四斗 但し、家数三十六間郡奉行書付の面
 右の者、西牟田町家居草臥候ニ付、家作能くなし仕らせるべく、当午年(承応三年)より戌年(万治元年)
 迄五ケ年の間、年々地子差し免し候。家居精を出能く仕り候様ニ、申し付けるべく者也。
     承応三年午五月十九日   御印
          戸田勘解由
          馬渕加兵衛
          山田忠兵衛
          佐々彦右衛門
          林甚兵衛
          鯰江五左衛門

 このように、西牟田町街道筋の家屋が草臥ており修築をするよう、五ケ年の地子を免除するというものである。
 また、正保四年(一六四七)、領内の一向宗の西本願寺派の寺院をすべて、東本願寺派に転派させ、久留米の西福寺や真教寺などを筑前・肥前に追放する宗教政策をとった。
 忠頼の政治姿勢は襲封間もない寛永二〇年(一六四三)と推定される二月一五日付の岸刊部(ぎょうぶ)宛の家老有馬蔵之助・同監物(けんもつ)・同内記(ないき)の「覚」書に明らかである。(「春林・瓊林公制」)
 この四五条からなる覚書は同年二月一六日の戸田勘解由(かげゆ)・馬渕加兵衛連名による、きりしたん禁令の「覚」とセットされ、「代替り法」的性格を持つものであった。その後、若干の改正・修正があるが、ほぼ同一内容の法令が三回発せられている。ここには、家臣団の編成・農村支配の機構が明らかにされている。
 慶安二年三月には「在々ふれうり(行商)」をはじめとして、酒・白物(塩)・小商いなどに運上銀が賦課され、商品流通への藩の統制が加えられ、商業統制が打ち出されている。
 また、承応元年には「御領中畝数改」を行っている。この「検地」は実態が明らかでないが、財政・農政においても変化が見られる。
 忠頼は、承応四年三月二〇日参勤交代の途中、備後国塩田浦の船中で小姓兄弟に殺害され、藩政は途中でざ折したものが多かった。

1 農村支配の状況
 忠頼期になると藩の職制・機構とも整えられたと考えられるが、当時の藩政の中枢は、家老有馬内蔵之助及び惣奉行戸田勘解由であった。内蔵助は、勘解由とともに「公義の用・諸事小遣い方・作事方銀子入用」など藩財政の権限をすべて握り平士(ひらさむらい)(馬廻り)に対して、自分の家臣同様に取り扱ったとも記されている。(「久留米見聞録」)
 一方、年貢徴収にかかわる財政収入は、すべて戸田勘解由を筆頭として、馬渕加兵衛(副奉行)・佐々彦右衛門・山田忠兵衛が担当した。この四人は郡奉行を指揮し、領内支配の権限をも併せて持っていたと考えられる。
 「古代御直書写」によれば、これら農政担当者に対して、藩主は色々な指示をしている。例えば、三月五日付の有馬内蔵助・同主水宛の書状では、田植えのために蔵米の貸し付け措置を検討するよう命じている。三月二三日の書状では、春季の悪天候を心配し、戸田勘解由などの回村を督励している。また五月四日付の有馬内蔵助宛の書状では、麦・菜種などの作柄に関心を示し検見は念入りにするよう指示している。
 正保三年の「条々」中、農村の支配機構の郡代・郡奉行について
 郡代の職務権限は
1.検見や下見帳作成のとき、郡奉行・戸田勘解由・馬渕加兵衛・山田忠兵衛・佐々彦
  右衛門とともに「立会吟味」すること。
2.百姓の訴訟に関して、郡奉行などで解決ができない場合に裁判すること。
3.在方における浪人召し置きの許認可をすること。
 郡代は家老の兼職で、領内八郡を四区画して各家宅へ分担させている。「米府記事略」は、三瀦郡は有馬左門(稲次正成)の受け持ちと記している。(四代藩主頼元の寛文年間のものと推定)
 領内の四大郡割は、郡代廃止(元禄−宝永期)後も行政上の区画割りとして幕末まで用いられた。後年の「割前大庄屋」は、各四大郡割の中の大庄屋の代表である。
 郡奉行は、豊氏のときにはなく代官を以て諸事を勤めたと「家勤記得集」は記しているが、間もなく設置されたらしい。
 忠頼期の職務権限は、
1.検見・下見帳出来のときの立ち会い。
2.給地の年貢への異議あるときの沙汰。
3.百姓の訴訟。
4.在方における浪人召置のこと。
 郡奉行は、給知・蔵入地にかかわらず四大郡別に地方支配の第一線にあった。
 代官は、豊氏期とは性格が異なり、忠頼のちは藩主の蔵入地の年貢徴収役であった。忠頼が、承応四年(一六五五)の法令に給人と並列して記していることからみても、代官が蔵入地を受け持っていたことを推測させる。その人数は一三人で、郡部に代官所が設けられ、配下に手代がいた。
 六代藩主則継の改革により、給人が知行地から受けとる年貢米は、藩庫を通じて、渡されるようになり、知行地・蔵入地の年貢収納が単一化されて以後、代官制の存在意義がうすれ、享保一二年(一七二七)七月の法令で正式に廃止され、職務は郡奉行に引き継がれた。

2 地方知行
 豊氏の時の地方知行は、農村の荒廃の防止、年貢収入の確保、家臣団の物成収入の安定に力をそそいだ。
 忠頼期には、正保三年(一六四六)の「条々」によれば給人が給地百姓の出入に関して関与することを制限するとともに、小庄屋−大庄屋−郡奉行−郡代という裁判手続きが明確にされた。給地からの年貢徴収についても、その決定権が給人から、検見の者・郡奉行に移され、夫役徴収についても「諸給人夫遣一ケ月二百石ニ二人、薪一ケ月ニ三荷」と制限されるなど、給人の知行地百姓に対する支配権は、種々制限を受けていた。
 又、家臣の知行物成の収納について、一二月一一日付、有馬内蔵助、同内記宛の忠頼書状は、知行物成が三割以下の者については、不足分を藩庫から足米すると述べ、家臣の知行物成の平均化が行われており、地方知行の変質がはっきり表れている。
 このように、藩政初期以降、知行取りの権限は、しだいに制限を受けて、藩主の領有権へ吸収されてゆき、蔵米取りと同様にその知行高に基づく一定率の蔵米を藩庁から支給されるようになった。
 「米府年表」の記事により宝永七年(一七一〇)一二月をもって、地方知行の廃止を説明する見解もあるが、寛文一〇年(一六七〇)以降、幕末に至るまで、知行主へ藩から発給した「所付控」が見られる。
 また、知行主は知行地の農民から、飼馬用の米糠、藁や正月の門松、年男の夫役などを徴収した。
 このようなことから、形式化したとはいえ地方知行は幕末まで残存したと言える。

 (三) 頼利の農村支配
 明暦元年(一六五五)三月、忠頼の不慮の死により、同年七月三日、わずか三歳の松千代、後の頼利が襲封した。
 この時期、明暦三年生葉郡山北村で、一一人の農民が、夫婦或は女房や娘を年季奉公に出して、年貢上納を済ませている。また、寛文四年には三瀦郡中八院村では給人の知行地で倒れ百姓が記されている。
 親子・夫婦とも「あらしこ」又は「しち」奉公人として近隣の村々へ出、この年には「田作り罷り成らず」であった。
 内検村高一二〇〇石の村高に対して窮迫する百姓の続出のため六〇〇石の引高がなされている。このように、当時の藩内の農民経営がくずれていく状況が、かなり一般的であったことを物語っている。
 しかし、藩の農村対策は際立った動きは見られなかった。万治二年(一六五九)は例年にない豊作で、年貢増徴策さえ強行されようとした。承応三年以降は、年貢徴租の方法が改正され、田畑の損耗の時、検見を受けることを百姓が申し出て、その上で検見を郡奉行・検見の者が見分し、百姓が得心すれば、請け免となる。しかし、惣検見を仰せ付けられれば、検見衆さえ一二人不足している状況にあり、藩は、検見もないまま二・三パーセント増徴することを受ける村々はそのとおり申し付け、得心しない村々は、検見を行うよう馬渕加兵衛らに命じている。

 (四) 宗門改め
 寛文四年(一六六四)一一月二五日、幕府は、一万石以上の大名に対して、宗門改めの専任の役人を設けて、毎年領内を調査することを命じる幕府法を制定した。
 このため、久留米藩では、翌年正月、寺社奉行(宗門改並御領分中人改付寺社役)として、一〇〇〇石取り大身の有馬半左衛門重秀・稲次八兵衛正延が任命された。
 幕府は、寛文五年一〇月宗門改め目付役として下曽根三十郎・岡部正左ヱ門を派遣して藩内を巡見させた。
 寛文五年四月、三一か条の宗門改めについての法令が発せられ、庄屋に宗門改人別帳を提出させ、檀那寺からは各人ごとの宗門手形を発行させた。
 宗門改めにより、宗教統制だけでなく人口の把握もなされた。
 二代藩主忠頼の養子で、三代頼利の在世中は、三〇〇〇石の扶持を受けていたのが有馬内匠豊範である。
 寛文八年(一六六八)八月二一目、四代頼元が、幕府に願って御原郡一九か村一万石を豊範に分知した。寛文九年、山隈原にある松崎に新居館と城地を構築し、延宝元年(一六七三)松崎宿を整備し、六年には、久留米城下から松崎を経て乙隈村に出る新筑前街道を開通させるなど領内経営に努めたが、姉婿のお家騒動にまきこまれ、貞享七年(一六九〇)親子共不屈であると、本家頼元へお預けとなり、領地は幕府直割となり没収された。松崎藩は一六か年の短かい期間で終り、藩地は幕府直轄となったが、元禄一〇年(一六九七)五月、返還が決り有馬家に同年六月三日、二一万石の御朱印が老中から下された。

 (五) 正徳の改革
 五代頼旨(よりむね)の死後、宝永四年(一七〇七)四月八日、六代藩主として旗本石野家から迎えられた則継(のりつぐ)が襲封し、六月に久留米に初入した。
 則維は、入国以前の三月に覚書を発し、藩財政の窮乏に対処する方策を指示している。
 それによると、家臣の拝借銀の願出に対し許可しないこと。当該年の上米を増加すること。倹約を守ること。家中奉公人の給銀の制限などを布達している。
 藩財政の窮乏は豊氏(初代)以来のことで、多発する災害・幕府の普請手伝い・城下町の建設などの出費によるものであるが、それとともに、宝永三年に、藩の内検総高中に占める比率が四五パーセントを下らない家臣団の知行・俸禄などが藩財政の足枷となっている。
 元禄前後に士風が頽廃していた。宝永六年、三か条の禁令を出し、士風の引き締めを行った。
 則継は、御勝手方直裁を宣言し、藩主親政のもとに、惣裁判有馬織部・惣奉行本庄加兵衛・本庄百助・吉田求馬、諸事吟味役喜多村与右衛門、御用取次山村助之丞・森崎庄蔵を任命した。
 これは、藩主−惣裁判−惣奉行などの側近などの太いつながりを通じ、抜本的な藩政改革に取り組もうとする藩主の決意の表れである。
 正徳改革前の藩財政の構造を元禄三年度と同七年度の予算書で検討してみると、第一にいずれも会計年度が一〇月から九月までであること、第二に開発分の年貢が一〇パーセント以下であり、上方の借銀返済分が二万俵に固定されていることなどが注目される。
 歳出は、参勤交代と在府による江戸入用銀が相当な部分を占めていることがわかる。
 このような、藩財政の構造は、幕府によって強制される公儀負担をなすために、年貢、運上銀と家臣団の上米の加重に頼らざるをえないという状況がつづいた。
 しかし、藩財政対策としては、相変わらず倹約令を達するのみであった。
 元禄期前後の久留米藩では、石高制が、本来持つべき機能である一筆ごとの位付と畝数、それに石盛による年貢賦課がなされぬまま、藩庁の指示は、「前々之通‥‥」「古帳之通‥」「前廉之通‥‥」などの守旧的対応をするのみで、現実的対応を怠り、ひいては藩財政を不安定なものにしていた。
 正徳の藩政改革に際して発令された「検見役江可申渡覚」(「御書出之類」)の中に、近年年貢収納が低下し、悪地・不作の田地を抱えた百姓は難儀している様子であるが、それは古来の古検見を廃止して土免制を採用したためである。
 「土免制水帳之畝数」や「田畑上中下之位にて高懸」でこのような賦課が農民の階層分解の進行を早やめた。
 正徳の改革は以上のような状況に抜本的な対策を立てようとしたもので、再建を年貢収納法の抜本的改革により行おうとしたものである。
 それで、家中、在町所持の屋敷地と山林の畝数を調査し、本田畠の出目など隠田畠の詮議が行われた。
 年貢収納負担の公平化をめざした措置であった。
 正徳二・三年には(つい)法検見によって年貢量を決定し、正徳四年以降は春免制採用による定免反取法が実施された。凶作の場合は検見を行い、三分の一を年貢として収納するという破免条項を併用した。
 そして、享保一七年に至り領内各村の田畑位付春免御物成帳が作成された。
 正徳二・三年の検見改めに際して、検見下見算用役十六名が、人柄がよくて、農村のことを周知し、算用の上手な庄屋の中から選ばれ、帯刀を許されて回村することになった。少数精鋭で事に当たるため 「地方功者」を登用した。草野又六はその代表的存在であった。
 当初から検見改め(舂法施行)には危惧の念があった。
 一つは、領内検見改めが申し渡された七月一三日の時点で「もはや時節過ぎ」ていることにあった。
 正徳二年一二月の覚書では、検見改めが耕作中行われたが、庄屋・百姓の出精で滞りなく終ったことをねぎらったあと、畝数改め(面積調査)が急ぎ行われたので、正確に出来なかったので、百姓申し出のとおりの耕地面積を基準にして、小検見舂法で三分の一上納を行う年貢賦課をしたと記している。
 もう一つの危惧は、郡方役人をはじめ大庄屋・庄屋・百姓たちの詐偽行為にあった。
 このため、検見改めに際し偽り掠めるようなことがあるときは、小庄屋の場合は大庄屋に、百姓は小庄屋に預けることを命ずるなどの厳しい態度で臨んでいる。
 しかし、正徳三年の検見改めに際して村々の庄屋や有力百姓が私欲を構えて詐偽行為があったこと、検見改めの終わったあとで免率についての願いがあることを理由に百姓が城下へ押かけ不埒の行為があったこと、大庄屋の不正行為があったことなどを藩当局が認めている。
 正徳四年二月、庄屋・百姓が廉直でなく、私曲が多いことを理由に舂法を中止して春免制を採用し、それを幕末・維新期まで年貢収納法の定法とした。
 正徳四年の春免制採用に先立って検見改め草野又六が試算した撫斗代(はらしとだい)は、正徳二・三年分の撫斗代をはるかに越えるものであった。
 その高水準の年貢量は、少なくとも享保一六年以降二度となく、慶応三年までの最高収量が、宝暦四年の四二万五〇一六俵であるのと比較すると、正徳四年の全年貢量四四万六四〇〇俵がいかに増徴されたものかは、明白である。ここに、所期の目的を達したことになる。
〇 運上銀の賦課
 商業・工業・狩猟・漁業・運送業そのほかの生業に対しては、運上銀という、営業税、免許税が課税された。
 運上銀の賦課が広範囲にわたって課税を行い、運上銀の賦課体系を整備し、商業統制を行ったのは、二代忠頼である。
 慶安二年(一六四九)三月に振り売り商人(行商人)に対して運上銀の賦課を行った。振り売り商人一人につき、年間銀六匁ずつの運上銀を課税するというものである。承応三年(一六五四)一一月には酒造業に対する運上銀の賦課が命じられている。

 (六) 弘化の改革
 十代藩主頼永は襲封すると、体制的危機の藩財政の立て直しのため、弘化二年(一八四五)一〇月に五年間の「大倹令」条目を発し「弘化改革」をはじめた。出費を極度に押さえて、藩主自ら節約して模範を示したが、二四歳の若さで同三年七月死去した。

 (七)一一代藩主慶頼の襲封
 弘化三年(一八四六)一〇月、一〇代藩主頼永(よりとう)の後を継いだ慶頼(よしより)が同年一二月、襲封のお礼に江戸城に登城したとき、将軍家より養女精姫(あきひめ)を頼咸(慶頼改名)へ降下の内命が発せられた。
 この藩主頼咸の結婚問題は多額の費用を要するところから、藩政を二分する問題に発展する。先君頼永の「大倹令」を堅持しようとする、家老有馬河内、参政有馬豊前を初め旧主側近の村上守太郎、今井栄の一派と、頼永の遺志が貫徹しなくても結婚を成就させようとする、江戸家老有馬飛弾、同主膳、参政馬渕貢の一派である。
 先君の意志を継ぐ村上と現実処理を要求される馬渕とでは当然対立するものであった。江戸に呼ばれた村上は馬渕の「精姫御引き移りのこと」という手文庫の筆記を知らされた。村上が馬渕を刺そうとして、同席の有馬主膳、同飛弾に斬られて死ぬという、村上守太郎乱心事件が発生した。
 村上の一死をもっての挑戦にもかかわらず、藩政の方向は「大倹令」の修正でしかなかった。弘化四年一二月、「大倹令」も、五年間の期限をもって終わった。
 弘化の改革で、新規借銀をしないという方針を出し、頼咸もまた頼永の遺志を守り改革を続行すると言明したが、結局結婚費用を初め借銀に頼らなければならなかった。

 三潴郡奉行日記            三月十七日 晴
  この日記は弘化二年(一八四五)より嘉永三年(一八五〇)に亘って一郡奉行が
私的に記録した事件簿で、当町関係のいくつかの記事を抜き書きした。

   嘉永弐年三月十九日  雨
 一、去ル十七日、高良山ニて五穀成就御祈祷被
 仰付候事。
     中野村
   右村中一致和耕作いたし候故、地境相直り
  御減免等追々行止り、諸上納速ニ相納村内且
  脇村へ申事等無之、組村の手本ニも可相成趣
  相聞、奇特の事ニ候、依之為御褒美、太米五
  俵被下置候。
     中野村長百姓
       太左衛門
   右の者、長百姓勤筋行届、耕作出精、諸上納
  速ニ相納、家内睦敷、近辺交り宣趣相聞、右同
  断太米弐俵被下置候。
      同日
     八丁牟田村
        茂平
   右の者、耕作出精諸上納速ニ相納、家内睦敷、
  村役人申聞候儀能相守、右同断。
    同月同日
       福間村
        喜助
   右の者、耕作出精、諸上納速ニ相納、家内睦
  敷、近隣交宣敷趣相聞、右同断。
       大角村
        万吉
        夘平
   右の者共、耕作行届、両親へ仕方宣敷、家内
  睦敷、諸上納速ニ相納、村方手本ニも可相成趣
  相聞、右同断
     上牟田口村
       治三郎
   右の者、耕作筋行届、家内睦敷、村方交宣敷、
  施米等差出候趣、相聞奇特の事ニ候。