第五節 近  代

    一 明治時代の世相

 (一) 大政奉還
 慶応三年(一八六七)、薩摩・長洲両藩の倒幕計画が討幕の密勅降下までに切迫したとき、一方には土佐・安芸(広島)両藩の大政奉還の議も併行して進められ、同年一〇月三日、土佐藩主山内豊信(とよしげ)の建白つづいて広島藩の建白が幕府に提出された。
 第一五代将軍徳川慶喜は、これをうけて一〇月一二日・一三日の二日間、二條城に老中以下、左京大名を集めて諮問協議を行った。その結果「大政奉還」を決意し、翌一四日政権ならびに位記返上の上表を朝廷に提出した。朝廷は翌一五日これを許可した。
 大政奉還とともに、天皇を中心とする新しい政治が始まることになったが、しかし旧幕府を支持する諸藩の勢力はなお強大であり、その帰趨は明らかでなかった。そこで、薩長二藩および岩倉具視ら倒幕派の人々は、これら幕府側の勢力に徹底的な打撃を与えなければ、革新政治の実現は困難であると考え、慶応三年一二月九日、「王政復古」の大号令を発し、将軍・摂政・関白を廃し、あらたに総裁・議定・参与の三職を置いて新政府を構成した。
 つづいて、五箇条御誓文・政体書によって、政治の根本方針をさだめ、公議世論・開国和親の政治を天皇親政のもと、天地の公道にもとづいて行うことを宣言した。新政府の課題は、立憲君主政体の確立、資本主義経済体制の樹立を二本の柱とした。なお先進列強国に伍してゆくために、廃藩置県・地租改正・戸籍法・学制・徴兵の条制などを布告し、中央集権、殖産興業、富国強兵、文明開化策などを提唱して推進した。
しかしながら、これを不満とする江戸幕府の残存勢力は、公武合体を唱え各所に反抗事変が起った。
 慶応四年(一八六八)正月三日、幕府軍との間に鳥羽伏見の戦が始まった。結果的には幕府軍の敗北で、慶喜は江戸に逃れた。薩・長・土を主力として編成されていた天皇親兵軍は、同月一〇日に徳川慶喜の追討令が出されたので、江戸攻略に向った。
 そのご、慶喜は上野の寛永寺にこもり、もっぱら恭順の意を表明したため、四月江戸城の明け渡しとなり、二六五年続いた徳川幕府は崩壊して消滅した。これを喜ばぬ旧幕臣は、上野にこもり、彰義隊を結成して反抗したが敗れた。また、会津藩の白虎隊、なお、榎本武楊の率いる旧幕海軍は函舘にたてこもったが、明治二年(一八六九)五月降伏した。これら一連の反抗事変を戌辰戦争といった。

 (二) 維新と久留米藩の動き

11代藩主
 慶応三年頃から明治にかけての、日本の時世の流れのはげしさは全く驚く程で、新しい日本の誕生という、大変革が進められている時期だけに文字どおりの激動期であった。したがって、郷土においても今後どのように変ってゆくのかと不安に心は揺れ動いた。
 当時久留米藩では、家老有馬監物(けんもつ)(昌長)、参政不破美作(みまさか)(正寛)らの公武合体派が藩政を担当し、親幕・開港策を執っていた。加藤田平八郎の『加藤田日記』によれば、戌辰戦争が始まった数日後の一月八日、藩主有馬頼咸は重臣たちに直書を発し、同志諸藩と共同して、慶喜将軍援助のため、二六日上京するので一同力を尽くすように訴え、徳川家を中心とする列侯会議による国政運営を至当の政策としていた。
 このような「親幕」政策の厚い壁と、元治年間(一八六四〜)以降、久留米藩が採用してきた開港政策(主として英国との接触)および開成方・成産方・開物方の三局設置による殖産興業政策の強化に不満を募らせた「明治勤王党」と称される若い「尊攘派」は、ついに集団的実力行動に訴えた。すなわち、「参政不破美作襲撃事件」である。
 事件の中心人物は、佐々金平、小河真文、島田荘太郎ら二四名で、いずれも家臣の中で中士層の家柄の青少年であって家老有馬主膳の子考三郎、家老脇有馬蔵人の子大助、参政堀江但馬の子七五郎も加わっていた。
 加藤田日記によると、明治元年(一八六六)一月二六日のことである。
 かねて尊王派から目の敵としてつけねらわれていた不破美作は、夜おそく仕事が終って御殿から円岡一字を同道して自宅に帰っていた。
 途中、三の丸附近から誰かつけている気配があったが、一学と別れ漸く門前まで来た頃、「斬奸!!」と叫んで斬り付けて来た。「何奴だ。拙者は不破美作、何故か」と怒鳴ったが、暗やみから現れた敵は意外に多く、二十数名である。
 美作は元来近眼である。しかも暗夜で足もともあぶない。脱れようと必死で三〇分余り闘ったが、肩先きなど二カ所を斬り付けられ、倒れたところを首を打落されて殺された。
 この事件は、藩の政権を王政復古へ転換させることを図ったクーデターであった。目的を達した壮士たちは暗殺後直ちに、一二か条の「斬奸趣意書」と親幕的指導者の排除、および中立派参政の登用を要望する文書を、家老有馬主膳を通じて藩主に提出した。
 藩の首脳部は、彼ら壮士の意見に従って親幕派の処分と人事の更迭を行った。二月五日に今井栄、磯野勘兵、久野市助、松崎誠蔵、喜多村弥六が役織から追放された。翌六日には、尊王派幹部の吉田丹波、水野又蔵、池尻始、真木主馬、西原湊、水野丹後らが赦免された。二〇日には、壮士たちの要求どおり藩主は挙兵上京して参内し、この地で当時京都三条卿邸にいた水野正名を、御用席詰に登用した。急激に変転する内外の状勢の下では、中央に明るく、明治勤王党壮士たちにも信頼され水野以外には、新しい藩政を指導するに足る人物はいなかった。

 (三) 藩政改革
 三条卿から督励をうけた水野は、慶応四年(一八六八)四月六日、有馬監物ほか佐幕派活動三〇数名を知行召揚、永揚屋(えいあがりや)(士分の無期獄)、永蟄居(えいちつきょ)、役格召し放ち、あるいは重遠慮の大量処罰を行い、一〇日には、江戸の藩邸を引き払い、帰藩途中の参政吉村武兵衛を、大阪で処罰して永揚屋入りを命じた。
吉村は、一八日には親族に説得されて潔く切腹をした。
 翌五月二八日には、藩政改革を実施して補正(君徳の神正)・監察のほか八局からなる水野政権が成立した。しかも、佐幕派に反対したものは、悉く採用して要職に置いた。藩政府次席八名中、水野・早川を除き不破暗殺に参加した中心的分子で、占められるといった状況であった。また、水野を中心とした旧幕末尊攘派及び明治尊攘党の結合によって藩政が運営されることになった。
 六月二二日には、佐々金平の建白に基づき、彼が編成係となって水野政権の親衛隊的な位置づけで、常備隊のほかに、五〇〇人編成の応変隊が設置された。これは、長洲藩の騎兵隊の制度に倣い、内外の不測の事態に対応することを目的に、隊員には強壮な農商家の子弟や足軽の二、三男が選ばれた。総督には水野の義弟である水野又蔵が就任し、南薫御殿跡を屯所とした。応変隊の編成とともに、翌年には、町人兵欽承隊(きんしょうたい)の三大隊、農民兵の殉国隊の一〇大隊の創設もなされた。
 慶応四年二月の興兵上京に当たり、藩主頼咸は摂津・大阪・神戸の警衛、堺浦の鎮撫を命ぜられ、役終えと帰国後、再び明治天皇の即位式に参列のため七月に上京し、八月一五日に仮単務官副知事を命ぜられた。水野正名も藩主に随行して上京し、九月には朝廷の方針、命令を藩に達し、藩情を上に報告する公儀人を兼ねることとなった。
 一方、さきの四月六日の佐幕派活動家三〇余が大量処罰され、永揚屋入りしていた今井栄・喜多村弥六・久徳与十郎・本庄仲太・梯譲平と永蟄居仲の松岡伝十郎・石野道衛・北川亘・松崎誠蔵の佐幕派幹部九名に対し、明治二年正月二四日、「今般国是の妨げに相成るを以て屠腹仰せ付け候」という申し渡しが改めてなされ、翌二五日夜、寺町徳雲寺において刑が執行された。前年、大阪において屠腹(切腹)した吉村武兵衛を加えて、久留米藩明治二年殉難十志士と称している。今井栄と面識のあった薩摩の黒田清綱は、「久留米は惜しい人物を殺した」と慨嘆したという。「久留米藩一夕評」
 慶応四年(一八六八)二月、藩主頼咸の上京に同行した幕末尊攘派の幹部、吉田丹波・木村三郎をはじめ、不破暗殺に参加した壮士たちは、新しく登用された水野正名と協力して藩政改革の大綱を作成し、藩主が帰国したのちの、五月二八日にそれが実施され、補正・監察のほか、民政・軍務・会計・社院・刑法・内事・外事の八局を設け、各局に総裁、その下に主役、調役などが就いた。これが水野改革といわれるもので、補正に馬渕弥太郎・水野正名が就いた。副補正には木村三郎、藩政府次席に水野又蔵・早川興一郎・島田萩太郎・小河玄右衛門らを配置して、水野政権を成立させた。(『久留米藩幕末維新史料集』)
 次いで明治二年(一八六九)正月二三日、従来の家中侍の軍役では、変転する内外の状勢に適さなくなったことから、その改正が行われたが、九月二二日には兵制も改革された。すなわち、前述の応変隊のほかに藩兵五大隊を置き、兵士二六〇名、大隊長以下附属七〇名、大砲四門、砲隊三二名、総員三六二名を一大隊とした。中隊八〇名、小隊四〇名、各隊長以下附属があった。これらの兵式はすべて英国式を用いた。

 (四) 版籍奉還と久留米藩
 新政府が成立したのちも、諸藩はそのままであり、これを近代的な中央集権体制に整備する必要があった。長洲藩の木戸孝允や薩摩藩の大久保利通は土佐藩の板垣退助や肥前藩の大隈重信らと協力して計画をねり、明治二年一月薩・長・土・肥の四藩は版籍奉還を願い出させた。
 久留米藩主有馬頼咸も二月七日に柳河藩主立花鑑寛(あきおり)と共に、版籍奉還を願い出た。翌八日、頼咸は朝廷から天皇行幸の前駆を命ぜられたが、「藩政改革が充分でない」という理由から五〇日間の休暇を願って許された。これについては、「藩政改革一新候ハバ、見当付候上ハ右日限こ至ラズトモ、成丈早々東京江参向コレ有」と(『久留米藩幕末維新史料集』下)いう条件が付けられていた。しかし次に上京したのは、期限後の四月二九日で、軍務官副知事をわずか三ケ月余で罷免される結果となった。藩主のこのような新政府への非協力と東京遷都反対論は、政府をかなり刺激したともいわれる。
 当時の久留米藩の情勢は、水野政権の手で、藩政改革が急速に進められていたが、一方、藩主に危惧の念を抱かせるような、偏狭は攘夷主義者も未だいて、家中へ増上米を命じるなど、財政的にも支障を来すような状況であった。

 (五) 維新と久留米藩治職制
 明治二年五月二六日、管内二五組の大庄屋を廃し、代わりに御郡方役場を設けて、藩が直接支配する郡政を敷いた。御郡方(こおりがた)役場は民政局に統轄され、旧二五組、上三郡(生葉・竹野・山本)、両郡(御井・御原)、上妻郡・下妻郡・三瀦郡の四区に分けて各区に置かれ、御郡奉行、同副役ならびに判事が民政をつかさどつた。御郡方役場所在地は、竹野郡諏訪村(現 浮羽郡田主丸町)、上妻郡福島町(現八女市)、御井郡十郎丸村(現 三井郡北野町)、三瀦郡福光村(現 三瀦町)の各旧大庄屋宅であった。(久留米市史参照)
 同年六月一七日、久留米藩知事に任命された頼咸は、家政と藩政を分離するため、八月一二日住居を御井郡高良山の旧座主屋敷跡に移して良山御殿と唱え、ここから毎日登城して藩政の執務にあたった。
 更に、九月一五目、諸藩政を画一化するという明治政府の方針に基づき、政府を知政所と改め、二二日藩治職制を制定して、新官・職制に改めた。大小参事の官職制ができ、諸局も再編成された。世禄、門閥も変更され、士族の階級を九等に分かち四等以上を上士とし、五等より七等までを中士となし、八等、九等を下士・准士とした。
 水野正名は一等大参事となって諸政を総括し、有馬正直・有馬駿雄は二等権大参事となり、吉岡博文は小参事施政局総裁、木村三郎は軍政局総裁、円岡成興は会計局総裁、有馬重固は神事・学校二局総裁、西原湊は民政局総裁、岡田弾右衛門は刑法局総裁となり、これら六人は三等となって新政を執った。なお、有馬元長を藩主家政を司る家令に、馬渕弥太郎。白江市次郎を副家令とし、その他家扶一〇人、副家扶一九人、家従二一人、小家従三人を置いた。
 ちなみに、明治初年の三瀦郡内の田租収納組村のうち大木町域関係の部分は次のとおりである(『三瀦郡誌』)
 ○福光組        大庄屋      内田廉太郎
   福 光 村   西牟田本村    流   村     西古賀村  南横溝村
   笹 渕 村   野町富安支配  寛 元 寺 村     口 分 田 村
   大 角 村    壱 町 原 村    西 牟 田 町    北 牟 田 村
   福 間 村   前 牟 田 村    南 清 松 村    北 清 松 村
   大 坪 村   土 甲 呂 村    北 横 溝 村    鷲 寺 村(筑後市西牟田)
 ○今松組        大庄屋      平木 廉蔵
   侍 島 村   奥 牟 田 村   大 薮 村    田 中 村
   小 入 村   中    村    高 橋 村    吉 祥 村
   荒 牟 田 村   野 口 村     中 野 村    井 手 村
   南荒牟田村   立 石 村     定 覚 村    矢 加 部 村
   金 納 村   下 古 賀 村     本 園 村    蒲 生 村
   筏 溝 村   蛭 池 村     東照寺々領(柳川立石村)
 ○中木室組     大庄屋    熊本 謹蔵
  絵下古賀村   上木佐木村  上牟田口村  下牟田口村
  下木佐木村   鬼古賀村    小坂井村    大坂井村
  東田口村     西田口村    兼 木 村   藤 島 村
  中木室村    上八院村     八町牟田村

 (六) 町村組名改正と筋郷
 明治三年九月二三日、町村組名が廃されて、筋郷に改められた。
 三潴郡関係のものは次のとおりである(『佐藤氏旧誌』)。
 津福組跡−津福筋 福光組跡−西牟田筋 夜明組跡−安武筋 今松組跡−蛭池筋
 城島組跡−城島筋 平野組跡−江上筋 中木室組跡−木佐木筋

 (七) 維新と久留米藩兵

<久留米藩兵>
 久留米藩兵は維新の激動期のなか、政府の要請にこたえて各所に進撃、功名をあげた。
 慶応四年(一八六八)二月九日、徳川慶喜追討令が出されるとともに、久留米藩では、総督有馬蔵人・参謀木村三郎・磯野鹿之助など総数三五三人が江戸城総攻撃のため出兵し、西郷隆盛の指揮下にはいった。
 同年四月一八日、久留米藩兵は大総督官の本陣、芝増上寺に入り寺内に宿陣し、市中の巡回警備にあたった。
 同年五月初旬、大村益次郎の指揮で、彰義隊討伐戦に参加攻撃して、彰義隊を破った。
 同年七月一日、新政府に反抗する東北諸藩に対して、奥羽討伐令が出されたが、久留米藩兵は翔鶴丸に乗り組み出動後、常陸平潟に宿陣、仙台藩主伊達慶邦を降伏させ、なお、久留米藩は伊達父子東京護送の命を受け、中仙道を経て東京赤羽邸へ凱旋する。戦死者一四名・負傷者一七名の犠牲者を出したが、戦功をあげて久留米藩へ帰還した。
 同年八月一九日、幕府軍奉行、榎本武揚は勝海舟の説得をきかず、五稜郭にて反抗した。政府軍応援のための久留米藩兵五〇〇人は総督堀江但馬をはじめ、応変隊らは若津港より海路品川に着き、東京赤内邸に駐留した。東京軍務局から三〇〇〇人の函舘出兵を命ぜられ江差に上陸し、立石村の敵砲塁を攻撃した。それ以降各所に転戦したが五稜郭がおちた。
  久留米藩兵の負傷者六名、明治二年五月二七日、函舘を出港、七月二一日久留米に帰陣した。
 政府は戌辰戦争に従軍した総督有馬蔵人以下、従軍の隊士に対して論功行賞を行った。藩主有馬頼咸に対しても、太政官から明治二年六月に戌辰戦争の戦功により高一万石が永世下賜された。頼咸は戌辰戦争で戦死した者、及び幕末期において国難に殉じた者を祀るため、旗崎茶臼山(久留米市山川町)に招魂社を設けた。

 (八) 農兵の創設
 久留米藩で農兵制が本格的に実現したのは、水野政雄による藩政改革後の殉国隊においてである。明治元年(一八六八)六月二三日、国の内外の状勢の変化に伴い兵制の改革を企画し、「領中一家一兵」の目的から藩の御郡方では、社院、在町の家主は一六歳より三〇歳までの者、四〇歳以上の家主はその子弟を名代として、その他の子弟は適宜の判断で兵員に取り立てる取調書上帳の提出を、農兵御用掛の大庄屋を通じて各村庄屋に依頼している。
 しかし、この計画も藩の財政権と陸羽出兵などで中断した。翌二年二月二八日、農兵取立御用掛は、御郡方支配より独立して取り立てを再開した。吉田博文が御用掛を拝命したのもこの時であった。
 二月に行われた農兵の取立は、三〇〇〇人、鳴物方大隊付きが約二〇人を目標に、大庄屋・村役人の内、御用に差し支えない壮年者を選出した。村の面積や人口によって算出したため一様ではなかったが藩内二五組のうちから相当数の、永続性のある農兵を取り立てた。
 『加藤田日誌』の明治二年三月二一日の条に、「今日より農兵一五人づつ応変隊屯所にて調練相初め候事、惣計三六〇人づつ諸稽古、凡そ殉国隊一〇大隊吉田丹波御用懸」とあり、三月に農兵の編成がほぼ完了したことを示している。
 水野の弟の吉田博文が、応変隊をはじめ、農・市民両隊の編成を確立し、指導的役割を果たしている点からみれば、これらの諸隊の性格も、水野政権の親衛隊的なものであった。
 明治二年五月二九日には、旧大庄屋のうち八名が農兵御用掛に任命され、彼らは二名ずつ、領内四か所にある御郡方役場に附属した。御用掛の下に、数か村を受持単位として農兵世話掛がおり、庄屋格の人物が任命されたようである。
 七月に出された殉国隊御世話掛の規則も、農兵世話掛規則とほぼ同一のもので、これに準じて作られたのである。
 尚、軍服・器械代などは自弁であったため、多くは村々が負担したようである。明治二年一一月の府中筋の庄屋たちの「月並参会御用談頭書」によれば、村々の宮座を維持するための神田米は、殉国隊用に用いるよう藩の達しがあり、器械代支弁のできない村は、神田を売り払うことを、庄屋たちは話し合い農兵割当の遂行につとめた。

 (九) 久留米藩の神仏分離
 我国は平安期以来長い間、神仏混淆(習合)による宗教文化が、連綿として続いてきたが、明治維新となり新政府は、古代の王政に復古させるために、祭政一致を唱え神道を国教とした。明治元年四月四日、太政官達示「王政御復古、更始維新之折柄、神仏混淆之儀御廃止被仰出候」と布告された。
 明治三年一月、大教宣布の詔を配布して大教(神道)を国民のあいだに広め、国民を思想的に統合し絶対的天皇制の基礎確立を図った。太政官では神祗を再興させて全国の神官はこれに附属させる。また神官の職階制も定められた。
 神仏分離はその性質上、仏教勢力の抑圧(廃仏毀釈)を招く結果となったが、ともかく、神道国教化への道をひらき、尊王の思想的陶冶がなされた。天皇の初参拝があった伊勢神宮を頂点とする、国家的祭政一致の体系が確立された。
 久留米藩で神仏分離が始まるのは、明治二年二月である。これより先、明治元年五月、職制改革により社院局を設け、国学者矢野一貞などを神祗改正調役に任命して準備を進めていた。このため領内主要寺院・神社に対して、その沿革・現況などの詳細な報告書の提出を行わせていた。
 其後、神仏分離の実施遂行に伴い、一部神社の統合により改称された宮もあり、また、寺にありては他寺へ移されたり廃寺にされた寺などあり、神仏分離に関連して、職権消滅の犠牲者もでてきた。尚、神仏分離の波が寺社を襲ったころ、所領地の上地(引き揚げ)の問題がおきた。全国的には明治四年一月五日に、大政官の布告がなされ「各藩が版籍奉還をした上は、寺社のみ朱印地・藩主寄附地を残して人民に土地を私有させるのは不相当である。このため境内以外の寺社地を上地して諸府県・藩の支配下に委ね、代わりにいずれ適当の給米を与える」という趣旨の達しであった。
 このことは、維新の激変と緊迫した状況下において、寺社の古い領主的存在を許すことはできなかったことになる。更に、神仏分離で神宮寺が廃止された神社の場合、その所領や処遇については新規に検討する必要もあった。
 福聚寺(久留米市合川町)の「官辺帳」によれば、明治二年三月八日に社院局の呼び出しを受け、局総裁から「一、蔵米二百五〇俵、今般御寄附地相止められ、右の通り蔵米をもって御寄附仰せつけられ候」との書付けを渡されている。また、翌月総裁あてに、三瀦郡前牟田付から(大木町)一八〇石の寄附地上地の請書を提出している。
 翌明治三年八月二九日、藩神事局は、一定の境内を区画して、残りの寺社領地を上地させた。上地による藩蔵米の支給は、太政官の布告で保証されたが、明治四年七月の廃藩置県後に廃止となり、おうきな打撃をうけることになった。
 維新政府のこうした宗教改革は、一時寺社双方に、かなりの混乱を与えたが、明治六年三月に、県社・郷社・村社の社格指定も具体的に決まり、国家的宗教の神社は、新政府の保護のもと新しい歩みを始めた。また、旧幕時代の封建的特権を失った寺院も、信徒とのより強い絆の結合にて、仏教の伝統的な勢力の温存と維持を図っていった。

 (十) 藩難事件
 明治三年(一八七〇)ごろの久留米藩では、東京遷都・外国交易・郡県制の実施など新政府の中央集権化に極力反対する攘夷主義者が反発して動揺していた。これらは先に述べた新政府への非協力な態度とあいまって、政府から嫌疑の目で見られ、木戸孝允からも反政府の藩として「久留米・肥後二藩尤巨魁と相見申し候」(『木戸孝允天書』巻)といわれている。当時、九州では肥後と並んで久留米は、尊攘派の拠点として注目されると共に、各地方から同志の去来も激しかった。その尊攘論を唱える指導的人物は、小河真文・古松簡二らであり、彼らによって組織化されたといわれる私的集団は、七生隊や藩の応変隊の過激派グループであった。
 同年四月、小河邦彦ら応変隊士一〇数名は、藩知事に対して藩庁内の不協和を指摘した。五月一五日、藩知事は、知政庁の大参事・小参事に対して庁内の統一化を求めたが、状況は好転しないため、七月二五日に藩知事が辞職を表明したが、多数の藩士によって、嘆願され留職するという事態も起こり、不安定な状態であった。
 水野正名は、三条公に招かれ、郡県制へ藩政指導を指示されたが、藩内の事情はこれを全く受け入れる状態ではなかった。こうした時、久留米藩としては思いもかけない迷惑な藩難事件、一名「大楽源太郎事件」がふりかかったのである。
 事件の発端は、明治三年一月、山口藩騎兵隊解隊反対の騒乱が起こり、これが農民一揆と結合して大きな騒擾に進展した。二月中旬には、暴動は鎮圧されたが、騒乱の指導者、大楽源太郎はじめ、多くが九州・四国に逃亡し、大楽以下脱徒の一部が熊本藩を経て、三月ごろから久留米藩に潜入したからである。
 彼等は、久留米藩の旧知の古松簡一・小河真文らに保護されながら、同志の七生隊・応変隊と糾合し旧諸隊の回復を図ろうとした。しかし、山口藩では島田助七を密偵として騎兵隊に潜入させ、その動向を探っていたのである。その後、新政府は井田譲を参謀として、兵四〇〇を引きつれて大楽探索のため久留米に乗り込み、高良山の本殿を本拠とした。
 一方、柳河藩では、国境を閉鎖した。佐賀藩でも、若津に兵を出した。大楽は全く、袋の鼠同然となった。こうした厳しい追及の結果、大楽源太郎は、弟小野と共に、尊攘派の同志たちによって、雨降る暗夜、筑後川河畔に誘いだされて殺された。
 事件関係者は、政府の藩に対する処置を穏便にするため、進んで捕らえられた。関係者は明治四年四月、日田県支営に送られ、巡察使により審理され、多くは東京に護送された。七月に設立された司法省で、久留米藩事件は、同時期におきた公郷外山光輔、愛宕通旭らの反政府陰謀事件と同時に、一括して処理され、一二月三日処刑された。翌四日、藩知事有馬頼咸は閉門三〇日に処置された。処刑者は、二府三九県にわたり、二六〇名にも及んだ。
 事件の主役は大楽源太郎であり、副役は応変隊であったが、この応変隊は水野正名によって編成されたものであるが、最後まで水野の指示に従わず、水野にとって命取りになった。水野は終身禁獄の処罰を受け、青森の監獄で獄死した。
 明治四年九月、藩難事件の首謀者小河真文が供述した「口述書」によると、事件関係者の思想は、新政府の中央集権的で開明的な改革に反対する尊攘思想であり、全国的規模の反政府運動を企画したものであった。
 久留米「藩難」は以上のような思想的背景と状況の下に、大楽らの久留米潜入という特殊な契機によって引き起こされたものである。政府は、このような尊攘派の反政府勢力を、軍事力で寸断することによって政局の不安を免れた。ただこの藩難事件が、九州における士族の反乱の前駆的な役割を演じたことも見落としてはならない。
 明治四年三月、大参事水野正名、権大参事吉田博文が免官となったあと、直ちに同月一八日に旧家老の有馬元長が権大参事へ、古荘忠吾が権少参事に内命され、藩政を補佐することとなったが、藩知事不在、および執政層の弱体という政治的な空白の中で、明治四年七月一四日、廃藩置県の勅語が下り、二四〇余年の永きにわたって続いた久留米藩は終焉した。

     二 廃藩置県と三潴県

 (一) 廃藩置県と久留米
 明治四年(一八七一)七月一四日、廃藩置県の詔書が発せられ、久留米藩は久留米県と称し、政庁を城内に置いた。東京の藩邸に謹慎中であった有馬頼咸は藩知事を免ぜられ、二五日には赤羽邸を上地して、赤坂薬研坂の吉井邸を賜り、華族に列せられた。
 頼咸は藩知事免官にともない、旧久留米、藩民の不穏な動向を憂慮して、七月、旧士族に書面を送り「(前略)勘弁無キモノ浅少ノ旧恩ヲ唱エ、頼咸一身上ニ惓々彼是遺念ヲ潰シ候ハ以テ外ノ事ニ候。孰レモ版籍返上ノ素志ニ基ヅキ勤王一途ニ出、大恩大義ヲ忘レズ永ク郡県ノ王事ノ四民ニ復ス」(福岡県史第四巻)と告諭した。同月二三日には県庁より廃藩置県の告示がなされ、同時に「兵隊規則」が布告された。隊員は信義を重んじ、ひそかに会合し私党結成などに暴走しないよう、同心一和で慎重に行動するよう呼びかけた。
 従来の大少参事もそのまま職務に止まるよう布達があったが、既に有馬家一族旧家老たちは政権の座を去り、旧執政層は多くが交代し、県政の機能は半ばまひ状態にあった。加えて過般、三瀦地方を中心に元応変隊・農兵・市兵の一部が反政府の策動を始めた、いわゆる八月一日の事件発生で、八月八日には西海鎮台の軍隊が寺町に宿陣し、警戒に当たるという状況下にあった。権大参事岡田正雄をはじめ、小参事の円岡成興(神社方総代)・木村重任(学校総裁)・山崎浪之丞(会計総裁)・権小参事の姉川行道(民政局総裁)・山田武雄の六名が県政を担当し、軍務・刑法・監察の三総裁は欠員のまま県治行政と新府県制整備の任に当たった。九月には、岡田権大参事は過労の余り退職することになり、翌十月二八日には、有馬元長・古荘英重が権少参事に任命補充される結果となった。(「御達書類」)
 明治四年一〇月、「府県官制」が制定された。なお県治職制は、神事・学校・戸籍掛り・民政掛り、会計掛り、刑法掛り、監察掛りの五局よりなり、正権少参事五人、大属一二人、権大属一四人、少大属一人、小属二一人、史生一三人、附属七三人、庁掌四人、使部一四人、使丁一二人、文館教授・助教授六人、素読師一五人、指南一〇人、合計二〇〇人(ただし養豚・養蚕掛りは官員に含まず)という構成であった。
 また、七月二五日の布告で、御本丸表御門を県庁表御門と改称し、三ノ丸、柳原、穀留、俵留、川手口、川筋の各番所が廃止され、米穀をはじめ、諸産物の他県への輸出入を許可し自由とした。したがって、印銭方手形所・下改役も廃止された。こうした政治的変革に伴い、封建的な経済関係に対する諸制限や諸束縛が、漸次廃除されていった。それは近代的な資本主義社会に発展するための必然的な対応であった。
 藩政期農産物の荷積出港として繁栄した若津港も、廃藩後は蒸気船などの入港で往来が激しくなり、若津町が街道の様相を呈してきたため、九月一八日には人馬継立を置き、宿駅に取り立てられた(『久留米藩幕末維新史料集』下)。

 (二) 三瀦県の成立

三潴県庁舎
 明治四年(一八七一)一一月一四日、久留米・柳川・三池の筑後三県が統合され三瀦県が置かれた筑後一円の御井・山本・三瀦・生葉・竹野・上妻・下妻・三池・山門の一〇郡を管轄した。統合時の旧県管轄の年貢・物成領収し、現高は旧久留米県三六万六二七一石七斗一升、柳川県一五万五六九一石二斗六升二合、三池県五〇八六石六升八合九勺(ただし長崎県所轄飛地一三か付を除く)であった。
 政府は、一一月二七日には太政官達で「県治条例」を公布して、新地方制度の基本を定め、更に翌月二七日には、「府県列順」でもって各府県の順列を定めた。東京・京都・大阪三府の次に、神奈川・兵庫・長崎・新潟と開港場所在県が別格として上位に置かれ、その他は地方別に序列された。九州は四国に次いで最後で、長崎を除き、福岡・三瀦・小倉・大分・伊万里・熊本……というように九州では一一県になった。
 この置県によって、新たに新政府より政権知事(後には県令と改称される)が任命された。そして新しい中央集権体制の下で、三府七二県(明治四年一一月二三日現在)の郡県制度が全国に確立した。
 三瀦県の庁舎は、初め三瀦郡榎津町(現大川市)に置いたが、地形不便のため間もなく、同郡向島村(現大川市)の内若津町に移された。明治五年二月二四日、旧久留米県庁(旧城内から二月二〇日明善堂に移転)は、三瀦県出張所に改められ、旧久留米県から事務引き継ぎが終わると、三瀦県庁は三月二五日、久留米両替町の旧久留米藩御使者屋(現城南町市役所の地)に移った。山門郡の柳川郭内本小路に柳川出張所を設け、旧柳川、三池領内を管轄したが、六年一月一五日に廃止された。
 三潴県の設置とともに、新しい参事に岡山県士族の水原久雄が任命された。
 三潴県の職制は、権令・参事・権参事・典事・権典事・大属・権大属・少属・権少属・史生・出仕が置かれ、四月現在で五五人の官員により庶務・聴訟・租税・出納の四課で行政を管掌した。六年には、正権典事が廃され、正権中属を新しく設けた。

 (三) 斬髪廃刀令
 明治四年(一八七一)八月、新政府は「散髪、制服、略服、脱刀共ニ自分勝手ニ為ス可シ」、「華族ヨリ平民二至ル迄互ニ婚姻ヲ免ズ」、「平民、襠・高袴・割羽織ノ着用勝手ニ為ス可シ」との布告を出す(加藤田平八郎『加藤田日記』)。四民平等、文明開化の最初は、風俗・習慣からであった。しかし、世論を反映してか、「勝手ニ為ス可シ」といったやんわりとした告諭であった。髪を切るのも、強制的な命令ではなく、国民は迷った。また、髪の切り方までさまざまであった。当時の風俗を風刺した流行歌に。
  半髪天窓を擲て見たれば、因循姑息の音がする 惣髪天窓を擲て見たれば 王政復
  古の音がする  伊賀栗天窓を擲て見れば 文明開化の音がする                (加藤田日記)
 この断髪令施行について、郷土の人々の中には戲髪を拒み、混乱が見られたのである。たまりかねた三瀦県では、明治六年二月二七日、改めて県参事水原久雄の名で県民に告諭して、脱刀・斬髪を奨励した。「尚依然トシテ旧習ヲ固守シ、癖論蝶々開化ニ却歩スルノ徒アルハ何故ゾヤ。実ニ県下人民ノ遺憾と言ウベシ。速ヤカニ有名無実ノ弊ヲ矯メ、朝旨ノ向カフ所ヲ知り、断然無用ニ属セシ刀ヲ脱シ、髪ヲ断チ各天職ヲ奉ジ、勤勉忍耐ノ功ヲ積ミ無窮ノ後栄ヲ計ル事ヲ得バ豈独り当県ノ幸ノミニアラズ」。この告諭が出された直後の三月二九日には、久留米の通六丁目・通外町は、率先断髪したことで三瀦県から表彰を受けた。
 しかし、なんと言ってもチョンまげに最後まで未練を残したのは士族たちであった。明治四年櫛原町の旧藩士の家に生まれた武藤直治(教育者・郷土史家として著名)など、同一〇年にしぶしぶ隣の大人に鋏を入れてもらったが、そのときは思わず涙が出たと述懐している(『明治維新を語る』)。

 (四) 佐賀の乱
 明治六年(一八七三)一〇月、中央政界では、征韓論の対立から西郷隆盛や板垣退助が下野した。当時、士族の間には征韓論を支持する者が少なくなかった。殊に佐賀においては、江藤新平を首領とする征韓党や、政府の欧化政策に反対する憂国党が、反政府の気勢を挙げ、明治七年二月上旬、ついに戦闘準備を整えその兵力は約三〇〇〇人といわれ、他の士族も挙兵に応じて直ちに決戦する態勢をとった。
 政府は、佐賀の情勢に対応するため、政府軍(熊本鎮台の左半大隊)約三三〇名とともに佐賀城(佐賀県庁)に入った。征韓党・憂国党は、これを挑戦であると見なし、二月一六日早朝、佐賀城攻撃の火ぶたを切った。翌一七日、佐賀軍の攻撃は激しさを加えた。政府軍は防戦に努めたが、その兵力は少く、弾薬・食料も尽きかけたので、佐賀城の囲みを破って筑後に走った。久留米両替町の三瀦県庁に入ったときは、その三分の一を失っていた。明善小学校は、一九日から授業を中止し、政府軍の負傷者を同校に収容し、また、同校は弾薬置場にも使用された。
 三瀦県では、さきに反政府行動の藩難事件があった直後だけに、県民の動揺を鎮めるのに躍起となったのである。久留米の情況は、血気にはやる者、鎮台兵と連絡し兵器・弾薬を借り受ける者、集会を開き議論をなす者など緊張が続いた。日田支営の追分宿陣、手負兵の久留米への避難、市中家財道具取り片づけや老人子供への立ち退き布達と、久留米を中心として郷土はさながら準戦場のありさまであった。
 政府は大久保利通を九州に出張させ、陸軍少尉野津鎮雄の指揮する政府軍とともに二月一九日、博多に上陸して二二日に南下、府中に結集していた熊本の政府軍も北上し、行動を開始した。一方、佐賀軍は鳥栖市近くの肥前朝日山に陣地を構築し第一防御線とした。二二日、政府軍は朝日山の攻撃を敢行、激戦数時間ののちこれを占領した。両軍の砲声は百雷一時に落ちた如く山岳を震わせた。神崎にて佐賀軍を指揮していた江藤は勝算のないことを悟り、鹿児島の西郷を頼って脱走した。三月一日、野津少将は政府軍を率いて佐賀城に入城した。この佐賀の乱は約半か月でその幕を閉じたのである。
 江藤新平は鹿児島に入れられず、その後高知に行ったが高知にても入れられずそうするうちに捕り佐賀城にて処刑された。

 (五) 徴兵令施行
 明治六年(一八七三)一月一〇日、新政府の陸軍省は徴兵令を公布した。
 同令は、緒言・徴兵編成並概則・第一章 徴兵官員並職掌、第二章 徴兵使巡行並検査前事務、第三章 常備兵免役概則、第四章 徴兵検査、第五章 抽籤並算筆試験などの大法令であって、我が国の軍制上、一転機を画するものであった。
 徴兵編成並概則では、その最初に「徴兵ハ国民ノ年甫メテ二〇歳ニ至ル者ヲ徴し以テ海陸両軍ニ充タシムル者ナリ」とあり、富国強兵の国策遂行上、男子を軍務に服役させることを明確にした。なお、陸軍には左の三種があった。
1.常備軍 徴兵の抽籤した者で編成。兵営で三年服役、在営中は一定の日給を支給
  した。
2.後備軍 常備軍三年の服役が終わった者で編成。常に家居し、産業を営ませた。
3.国民軍 全国男子一七歳から四〇歳までの者をすべて兵籍に登録、全国大挙の
  とき、隊伍に編入する。
徴兵令は、国民皆兵主義を建て前としたが、しかし、徴兵令施行当初は、多くの免役条項があった。
(一)体格不良で兵役に堪えない者。(二)政府や府県に奉職している者。(三)兵学寮に在学する海陸軍
生徒。(四)所定の学校生徒、洋行修行の者。(五)戸主および家族中特殊の立場にある者(例えば父兄に代わって家を治める者)。(六)徒刑以上の罪科ある者。(七)自己の都合により、代人料二七〇円を上納する者。

 このような免役規定は、当時の国家的要請や、社会的事情などから生まれたものであったが、「徴兵逃れ」の風潮を助長した。兵員不足に苦しんだ陸軍省は、明治一三年(一八八〇)一〇月二七日、徴兵令を全面的に改正し免役を縮小した。そして政府は、陸海軍の軍備拡張を政策の重点に置き、政党も国民もこれを支持し、国民皆兵は名実共に強力に実行されて、軍事力の増強は急速にすすんでいった。明治一〇年の西南の役に官軍として参戦した郷土の人で四人が戦死した。
 その後、久留米においては、諸兵営所の設置がなされて、軍都としても賑わったのである。

     三 三瀦県諸制度の改革

 (一) 三瀦県の大区・小区
1 戸籍区の改正
 維新政府にとって統一国家を実現する焦眉の急は、武力的・財政的・行政的実権を、中央政府が掌握することであった。
 そのために行政機構の改革が行われた。筑後三藩でもそれぞれ県に改められ、更に統合して三瀦県が成立した。三瀦県では戸籍法公布に基づき、明治五年(一八七二)九月二〇日、今迄の二六日の戸籍区を改正して、四大区とその下に六九の小区に再編整備をした。これは従来より旧柳川県域と、旧久留米県域とで区画の基準が一定でなく、不均衡を生じており、これを是正するために行う措置であった。
 この大小区制は全国的規模で施行され、戸長・副戸長の任命ならびに職務の拡大がなされ、行政区域としての性格をいっそう強め、伝統的な村落共同体を基盤とする自治的要求を抑えた。役人の名称は全国まちまちであったが、三瀦県では、大区・小区制施行後、一年近く戸長・副戸長の名称を用いた。
 戸籍を実施する便益のため、あらかじめ区画を定め、毎区に戸長並びに副戸長を置き、戸籍事務を担当させた。戸籍は、戸主を筆頭に、直系尊属、戸主の配偶者、直系卑属、傍系親属の順に家族構成を記録するものであった。この戸籍編成は、学制・徴兵制・税制などの中央集権的諸制度化の前提であった。
戸籍は実施時期を、明治五年二月一日に期しており、この年の干支が壬申の年に当たるので、これを壬申戸籍とも呼んでいる。
 そのご、明治六年六月ごろには、農村の地形や地縁などを考慮して、区画の変更を行ったが。旧久留米県域では、原則的に一小区一戸長を配置し、その下に旧戸籍区の数人の副戸長を配置した。そのころの大木町域は第一大区小七区・小一〇区・小一一区に属していた。
 第一大区小七区 (三瀦郡)
   戸 長 典子田教孝
   副戸長 田嶋廉一、磯野右一、北原寛九郎、今村順平、中村清蔵、鶴岡雄蔵、
        浅野為三郎
   福光村   壱町原村   北清松村   南清松村   笹渕村   土甲呂村
   大角町   南横溝村   北横溝村   前牟田村   福間村   大角村
   蛙池村
 第一大区小一〇区 (三瀦郡)
   戸 長 田中茂五郎
   副戸長 水落寛太、田中伊吉、溝田免一、水落寛蔵、溝田勘平、鶴岡右一、
         熊本忠三郎、熊本憐平、鶴岡耕三郎
   上牟田口村  上木佐木村  八町牟田村  絵下古賀村  下牟田口村  
   上八院村   本木室村   北中牟田村  商人村   中木室村   下木佐木村
   上白垣村   下白垣村   鬼古賀村   荻島村   中八院村   下八院村
 第一大区小一一区 (三瀦郡)
   戸 長 田中茂五郎
   副戸長 野口格二(定覚村)永松寿一郎、田中文七、中村弥蔵、古賀六郎、
         新谷半助
   侍島村   奥牟田村   高橋村   大薮村   田中村   小入村
   筏溝村   溝生村    本園村   吉祥村   中村村   荒牟田村
   野口村   中野村    矢加部村  金納村   南中牟田村 井手村
   立石村   定覚村

2 大区・小区制
 三瀦県下六九小区に区長三三人、戸長三三六人を置いている。県下一〇郡を四大区に分けている。
 戸長の職務については、役務分担を設け、区長役場に当番で出勤し区長の指揮を受けた。戸長の給与は管轄内の石高が基準となっており、各人の給与も幅があった。明治九年一月から月給制になった。
 区・戸長の職務は、布達の徹底、戸籍整備、租税徴収、小学校の設置及び就学の督励、徴兵の下調べなど政府行政吏の職務を多く含んでいたが、給与はすべて地元の負担であった。
 明治八年四月五日、三瀦県令岡村義昌は民会議事則を設け、住民の意向を行政に生かす努力を行った。
同年六月の「三瀦県各区職員表」により、当時の大木町域が属した第一大区小七区・小一〇区・小一一区を見ると次表のようになる。(表 省略)
 同年一二月一八日には、区画を改正し、一四大区に編成替えを行った。その際、区長事務章程、戸長事務章程・大区事務所概則などを整備し、大区に区長、小区に戸長を置きその下に保長・什長を置いた。
従来の区長がほぼ戸長に任命された。また、農民と直接関係のある末端の役務を保長と什長が行うようになった。これは、小区画間の町村を大幅に移動して、区画調整を行ったものである。
 この行政制度により住民の生活実態に適合した行政区画となった。
 明治九年六月には、一時三潴県に佐賀県の一部が合併して、二一大区になったこともあった。

 (二) 三潴県の藩札処分と金融
1 藩札処分
 新政府は、明治四年(一八七一)五月一〇日、新貨条例を公布し、円・銭・厘の十進法による貨幣を定めた。同年一二月、新紙幣発行を布告し、貨幣制度について、全国統一の改革を行った。
 翌五年四月、新紙幣が発行されて旧紙幣兌換を布告し、旧紙幣藩札が回収され、全国に新紙幣が流通するようになった。
 新貨幣制度が金本位であることも規定されたが、貿易銀貨の規定もあり、実質的には金銀複本位制に近いものであった。久留米においては、今迄の大政官札の価格が下落するのを防ぐためにつくった「藩札価格比較表」が掲示された。この藩札交換で藩札が二割引きとしたため、久留米の市中は騒然となったが、大事には至らなかった。
 柳河でも価格表が張り出された。それによると、藩札を持っていた者は、一・四割程の損になることが分かったから、五月八日、藩札引換えは「不合理だ」と騒ぎが大きくなり、「もと通りにしてくれ」と、役所に押しかけた。そして三瀦県庁柳河支庁為替方に任命されていた、高椋新太郎の家を襲い、家も土蔵も手当り次第破壊するという騒動が起きた。
 六年二月二四日、県通達で引き換えが指示されたが、各区毎に、藩札一〇匁・五匁を新貨幣に引き換え、三匁以下は藩札に大蔵省の印を押して交付した。
 八年一月一七日、三瀦県から押印再発表した旧藩札については、二月二八日までに交換に持参するよう指示し、期限後は廃物になる旨の通達を出した。
 全国における貨幣制度の統一には、なお数年の年月を必要とした。

2 銀行法制化

 政府は今迄、金融機関の役割を果していた為替会社にかわり、殖産興業による国の経済力増強を図るため、明治五年(一八七二)一一月、伊藤博文の建議により、アメリカのナショナル・バンク制度に倣い、国立銀行の制定を見た。更に、翌年六月には金札引換公債条例が公布された。
 まず国立銀行を設立しようとするものは、資本金の一〇分の六に相当する額を金札をもって政府に納付し、これと引き換えに、政府より同額の六分利付金札引換公債証書の交付を受ける。銀行はこの公債証書を銀行券発行の担保として政府に預け入れ、同額の銀行券を政府から受け取って発券に充てる。なお資本金の一〇分の四は正貨をもって保有し、これを兌換準備とするというのである。この条例と法制度によって、国立銀行が初めて設立されたのである。
 筑後では、明治六年九月一五日設立された「融通会所」が、地方銀行類似会社として庶民相手に貸金営業を続けてきたが、国立銀行条例改正を機に、創立願書を一一年九月二五日付けで大蔵省に申請し、同年一一月六日に「第六一国立銀行」として認可され、久留米片原町一八番地の元大庄屋会所を改築して開業し、「一身一家ノ安寧ヲ図ルニ止マラズ、殖産興益ノ基軸とナリテ、運転流通ノ妙用ヲ尽ス」という意気込みで営業を開始した。九州では五番目であった。
 当初の実務は通町七丁目の融通会所で行われ、翌一二年二月には若津に出張所を設置した。設立準備と出願に当たっては、融通会所出身の井上富門はか一名が当り、東京某国立銀行に三〇日間派遣され業務伝習を受けている。資本金は一〇万円で株主総数八九名、六〇株以上の所有株主は一〇人で、株主構成では、「士族」が七九名(持株比率八四・一%)を占めており、士族型銀行で旧有馬藩の残存する、人脈と金脈によるものであった。
 そのご、明治一五年(一八八二)六月に制定された「日本銀行条例」に基づき、同年一〇月に日本銀行が設立された。更に、その以降三井銀行などの、普通銀行の設立が筑後地方にも相ついでなされた。
郷土においては横溝町に大溝銀行、八町牟田には木佐木銀行が創立、つづいて大溝・木佐木・大莞の三村に信用購買販売組合ができて、地域経済の発展に寄与したのである。

 (三) 三瀦県の地租改正
 1 地租改正事情

 地租は土地に課する税で、明治初期の国家財政の八割〜九割に当たっていた。従って、富国強兵政策を推進する新政府にとって、財源確保のため土地制度と税制の改革は、最も重要な課題の一つであった。
 明治六年(一八七三)七月二八日、太政官では地租改正の基本方針を決定し、「地租改正条例」・「地租改正施行規則」・「地方官心得書」を出して、地租改正に踏み切った。この太政官布告での、改正概要は次の通りである。
(1) 地価を決定して、その一〇〇分の三を地租とし、物納を金納に改める。
(2) 官庁並びに郡村入費等は、この地租の三分の一より超過しないように掛けること。
(3) 土地一筆ごとに、土地所有者、田畑宅地等の別、面積・地価を明示した「新地券」
    を発行。
(4) 明治五年、これまで禁止されていた土地売買を解除許可する。
(5) 新たに地租改正が行われるまで、江戸時代からの現物貢納を、一村ごとに金銭で
    代納する(石代納)こと。
 政府は、これまでの年貢収納を減少させないことを方針としていたので、地主も自作農の税負担は従来とほとんど変わらなかった。しかし、所有権の明確でない入会地(例えば秣場・山の薪取場など)について代表者所有の名義で地租改正されたのであるが、今まで同様に利用できると思い、しかとした手続を怠ったことから国有地となされ、立入禁止となったので農民は困り生活はますます苦しくなった。
 地租改正時の収穫高に対する地租・村入費は三・四割、地主取分三・四割であり、小作人取分は三・二割で、金納にかわった。この地租改正事業によって、隠田などが検出され、課税対象の土地は増えた。

2 地租改正と検地
 三瀦県では、明治六年九月二日地租改正の太政官布告を受けると、現場貢納の方法を廃止し、地券調査が済み次第、地価の一〇〇分の三をもって税額を定める旨を県民に知らせ、なお地租が今までの貢納額を「増減」するものではないが、やがては軽くなるといって農民の抵抗を避けようと努めた。
 七年一〇月、県からの指示により区戸長は、地租改正事業に着手したが、いろいろな思わくがあり思うようには進展しなかった。八年一二月には改正事業と督促とあわせて、検地の「竿入の法」を指示して、一歩(約三・三平方メートル)を「六尺四方」とした。翌八年一月、検地にはその村の戸長一名と他村戸長二名、その村の係長を検地係に置いて作業が進められた。その後、検地の過程で、大蔵省から検地の竿を六尺一分とする通達を、九年四月受けたので、その旨を各戸長に知らせた。そのため検地のやり替えを令儀なくされた。
 三瀦県では、明治九年二月、地価決定基準となる、地位等級などの調査心得書を出した。土地の地位・等級は耕作の難易、地味の沃瘠、水利の便否、水干の有無、収穫の多寡、日当たりの良否などにより、田畑は、一等から一〇等まで、宅地は一等から五等までに分けて調査した。地価の策定については、田畑の反当収穫高を検査し、農民からの申告も聞き参考としたが、検査の結果はすべて増額になった。
 なお、この地租改正についてのすべての経費は、農民の負担によって賄われた。
 地租が地価の三lといっても、それは地価の決定次第では重くもなり軽くもなった。その地租に対して、村費などの地方税が決定された。これらはすべて金納であった。
 地価は、その土地の収穫高を出して、それを年六lで資本に還元して決めた。地価の三lの課税で江戸時代以来の負担より、いくらか増額になった地租に対し、農民たちの「地租改正反対」の一揆が各地に起こった。そのため政府は、明治一〇年に地価の二・五lに軽減せざるをえなかった。

3 丈量問題と大地主
 三瀦県では検地による丈量問題があった。隣県である福岡県と比較して、検地の丈量が厳しかった。
 明治八年(一八七五)一一月一五日付で、三瀦県の総区長が連名で、県参事松平太郎あてに差し出した「伺」によると「同一視格」であるはずの丈量について、「差異相生ジ」できたわけは、「各県ニ於テ畦畔ニ見取方、且各県官吏胸中ノ寛酷ヨリ自然卜差異ヲ生」じたるもので、「寛ニ安ンゼンカ」、「酷二安ンゼンカ」を伺っている。
 次いで同月「丈量之義ニ付伺」では、三瀦県と福岡県との具体的「丈量比較」を示して、その善処方を要請した。三瀦県竿では、一〇竿合計して六反五畝二九歩五厘(六五三二・四平方メートル)であるものが、福岡県竿では、五反七畝一四歩九厘であると訴えた。これにひきつぐ同年末の「区長中より平川権令への要望書」によると、物議沸騰騒然のありさまになり、もはや地租改正事業は進められない状態になっていることを述べ、「丈量ノ至当ヲ得ズシテ直ニ地位収穫ヲ計ラント欲ス。是ヲ以テ人心陰ニ不服ヲ醸ス。故ニ県庁へ情実以テコレヲ尽ストイエドモ承諾セズ」とその実情を訴えている。
 そこで、三〇〇名にのぼる区戸長会を開いて、この対策を二〇日間にわたり討議した。その結果、三瀦県では、不公平の場合は、再調査し、地券を訂正する必要がある場合は、訂正することを通達してこの件を終わらせた。
 地租改正は土地所有権を確認して、税金を取り立てることにしていたから、小作人よりも地主の主張を多く採り入れて、処理されたことはいうまでもない。小作料の中には地租も含まれていたから、必然的に小作料の引き上げとなり、小作人の生活はより抑圧されたのである。
 三瀦県は、地租改正が完了した明治九年八月に福岡県に併合された。
 そして、一〇年に西南戦争が起き、政府は兌換紙幣に代えて不換紙幣を濫発したため、明治一〇年代の前半にはインフレーションを招き、経済は混乱した。明治一四年には、西南戦争時の物価の三倍にもなった。この経済混乱で中小自作農は没落し、土地集積が急激に進み、大地主の出現をもたらしたのである。
(四〜八 省略)