一 古代の行政
(一) 水沼の県統治
むかし筑後は筑前といっしょに、筑紫の国とよんでいた。日本書紀景行天皇の条に、次の妃襲武媛は国乳別皇子・豊戸別皇子を生んだが、兄の国乳別皇子を筑紫国に封し、統治権を把握した始祖とある。
また、古代わが郷土は「水沼の県」と称していたが、この地方は有明海の浅瀬が這り込み、葦や真菰が茂り、水鳥の棲む沼沢であったからで、今も地下三米ぐらいに牡蠣穀の層が町域にあり、網の目のような掘割は、祖先の人達が定着農耕を営むようになり、其後、荘園墾田にて数世紀にわたり、潟の泥土を掘り上げた跡で、我国屈指の溝渠地帯である。
筑紫の国が筑前と筑後に分かれたのは、慶雲四年(七〇七)のことで、遠朝廷の太宰府に近いところを前として筑前に、遠いところを後として筑後にした。なお、和名抄や古書に郷土の地名が、水間・美奴萬・三妻・水潴・三沼・と見るが、水沼が現在の三瀦になったのは、鎌倉時代の末期といわれている。
阿蘇外輪山を源とする筑後川左岸、八女釈迦岳より注ぐ矢部川右岸、この間を扇状形に拡がる筑後平野の中央に位置する本町は、八女ロームの堆積にて有明海底の砂州が陸化した第四紀沖積層の肥沃な土地である。なお、祖先が住みついたのは、今から約二千年前弥生時代とされ、十間橋の遺跡より高杯、坩、甕等の出土品が発見されている。
雄略天皐一〇年(四六七)、呉から持ち帰った鵝を水間の君の犬が噛殺したことや、水沼の君は大和朝廷と親交があったと、紀・記に伝えられているが、三瀦地方を統治した族長は、ここよりやや高い大善寺や高三瀦あたりに在りて支配したことは、その地方の遺跡や出土晶の史証からして推定される。
久留米市大善寺宮本にある「御塚」は水沼別の墓であり、「権現塚」も同じく郷土を治めた県主、猿大海の墓であろうと言われている。
(二) 郷里制
孝徳天皇は六四五年、初めて年号を用いて「大化」と呼び、新しい政治改革の詔を発布した。これを大化の改新という。
其の二に曰く、「初めて京師を脩め、鶏内・国司・郡司・関塞・斥候・防人・駅馬・伝馬を置き、及び鈴契を造り山河を定めよ(後略)」
其の三に曰く、「初めて戸籍・計帳・班田収授の法を造る。凡そ五十戸を里となし、里に長一人を置け。(中略)凡そ田は長さ三十歩を段となし、十段を町とせよ。段ごとに租稲二束二把、町ごとに租稲二十二束」、
其の四に曰く、「旧の賦役を罷めて田の調を行ふ。凡そ絹・??・糸・綿は並に郷土の所出に随へ。田一町に絹一丈。(中略)凡そ仕丁は旧三十戸毎に一人とせしを改めて、五十戸に一人を以て諸司に充て、五十戸を以て仕丁一人の粮に充てよ、(後略)」
(日本書紀)
文武天皇は大宝二年(七〇二)四月、中国唐の律・令を手本にして大宝律令を天下諸国に頒布し、行政区を幾内七道に分け、初めて国・郡・里を定め国司・郡司・里長を置き、人民を治めるのに班田収授法や、墾田三世一身法を行った。
天正天皇は霊亀二年(七一五)、里を郷と改め、郷をさらに二・三里に分割し、新に郷長・里長を任じ国・郡・郷・里の四段階とした。これを「郷里制」といった。
国には国司(守・介・掾・目の四等官と、その下に史生があった)、郡には郡司を置き、国司の役所を国衙といい、国衙のある所を国府とし、郡司が政務を執るところを郡家といった。
大化の改新のとき、四〇里を大郡、三〇里以下四里以上を中郡、三里以下を小郡と定められた。里は五〇の郷戸からなっていて、戸主が家長として郷戸を率い、戸主は戸籍・計帳の申告、口分田の受給、納税その他行政的な役割を担っていた。そういうことで郷戸は、律令国家の最末端の行政単位であった。
土地は原則として国有の公地公民制をとり六年毎に作られた戸籍をもとに、班田収授法が行われた。
即ち六歳以上の男子に田二段(一段は三六〇歩)、女子にはその三分の二(一反一二〇歩)の口分田が与えられた。また、公民には租・庸・調・雑徭などの税が課せられた。
承平四年に源順が撰述した「和名抄」によると、九州西海道の行政区域は、一一か国(筑前・筑後・肥前・肥後・豊前・豊後・日向・薩摩・大隅・壱岐・対馬)に及び、地方官衙として各国に国府・郡に郡衙を置いた。
筑後国は御井郡御井村(現久留米市御井町、遺跡は現合川町にある)に、国衙が設けられて国内の統治にあたった。また、筑後国は一〇郡(山本・御原・生葉・竹野・御井・三瀦・上妻・下妻・山門・三毛)に分かれ、なお、三瀦郡内は八郷(高家・田家・三瀦・鳥養・夜明・荒木・青木・管綜)に分かれていた。
「延喜式」に見える高家郷は、筑後市の大字高江から、大溝の大字福土、大角、蛭池一帯を含んだ地であるとされ、「和名抄」に見える田家郷は、八町牟田から前牟田あたりとの説になっている。
元明天皇和銅六年(七一三)、従五位下の道君首名は、新羅より帰朝後、初代筑後の守に任ぜられて当地方の統治にあたったが、陂池(溜いけ)をつくったり、堀の泥士を掘り上げて耕地を造成するなどして、筑後の国土開発に尽力し、条里墾田も彼によって施行されたといわれている。
現に本町大字大薮の小字に条里制の遺構名(後述)があり、また、大字大角には律令制の班田収授法の名残りの小字名「口分田」がある。
初代筑後守、道君首名より光孝天皇の仁和三年(八八六)、外従五位下高丘宿禰五常が筑後介となるまでの、一七三年間に二五人の守及び介が筑後地方の長官として、当地方を支配したのである。
当時、聖武天皇(七二四)によって建てられた、筑後国分寺(勅願によって諸国に建てられた寺院で、その建立は仏教によって国を護り、文化を繁栄させようとしたものである。国分寺は国司所在地につくられた)は御井町国分寺(現久留米市)に、その跡をとどめている。
(三) 条里制
条里制は、日本古代の耕地区画法である。大化二年(六四六)孝徳天皇のとき、大化の改新に施行された。
おおむね郡ごとに耕地三六〇歩=六町(一歩は曲り尺の六尺。約六四八b)間隔で縦横に区切り、その列を条といい、一条・二条、または一里・二里と数える。また六町平方の一区画そのものをも里と呼び、一里は更に一町間隔で縦横に区切って合計三六の坪とする。そして里の一隅を起点として千鳥式・並行式等の方式により一ノ坪〜三六ノ坪と称した。各坪は六〇歩に六歩の細長い長地型か、あるいは三〇歩に一二歩の短形の半折型をもととし、いずれも三六〇歩(歩は地面の単位。六尺、四方を一歩とする)=一段をなしている。このようにして、その地を何国何郡何条里と呼ぶことで地点の指示を明確にし、かつ耕地の形を整えた。
条里制では、坪目ごとに縦横のあぜ道や溝(堀)を作り、条と里との境には広い道を造った。
この制度は大化以後の班田収授制実行の基礎となり、八世紀ごろ(平安時代初期)には、今日知られている範囲の施行ははとんど完了したものとみられる。班田制が崩壊した平安時代後期の一〇世紀以後も、土地表示の遺制として広い範囲に用いられたが、中世後期になるとそれも次第に衰え、太閤検地以後は、一ノ坪・二ノ坪などの数詞の呼名のみが部分的に地字の表示として残るようになった。
本町では大字大薮に「一ノ坪」「三ノ坪」「五ノ坪」の小・地字名があり、また、大字三八松にも「内一ノ坪」「外一ノ坪」の小・地字名があるのは大化の改新の、条里坪名の遺存するものである。
なお、大字大角にある「口分田」という小・地字名は、班田収授法の名残りである。(口分田は口分田の転訛したものである。)
大木町は我国屈指の溝渠地帯であるために、条里施工は難工事で、水系に従った応変の区画整理が施行されたであろう。
私たちの祖先は、狩猟から農耕へと移行し、主食の水稲栽培は最も重要な作業であった。それぞれの時代にその土地を領有する荘園や社寺及び豪族らは水田地帯を確保し、開発するため堀を渫え、水路を開き用排水の便を図ったものと思われる。
また、人が住むところは堀の泥土を掘り上げ、これを積み上げて一段と高くし、水害を防ぐ方法がとられ、低湿地の郷土開発は並大抵ではなかったと想像される。
(四) 三瀦庄(荘)
荘園は八世紀から一六世紀の間、封建的な土地所有の制度であって中央貴族・大社寺院・荘官・権門・守護によって支配した。
筑後国の三瀦庄は筑後平野に位置し、その庄域は旧三瀦郡全域に及んでおり、現在の大川市・柳川市・久留米市の一部を含む三瀦郡に成立した荘園である。この荘園は筑後川と矢部川に挟まれ、両河川の度重なる氾濫によってできた肥沃な沖積平野で、日本有数の穀倉地帯であった。
平安時代の後期平治元年(一一五九)、東寺宝荘厳院を本所とし、四條隆季を領家と仰ぎ、米六〇〇石、綿四一一両(一両は一斤の一六分の一)を、進納する同寺領最大の荘園として三瀦庄がはじめて見える。
東寺文書抄による三瀦庄村々次第に、五郎丸・福富丸(藤吉)・江上村・白垣村とあるが、その後、時代が下ると共に村数は増え三瀦庄の最も盛んな時期の四方の境界は、大体北は安武村、東は荒木村・西牟田村、南は中牟田村、・簗(柳)河村・浜武村を限界とし、その内に藤吉村・夜明村・高三瀦村・江上村・横溝村・白垣村・木佐木村・八院村・木室村・酒見村・堺村・上小法村・下小法村・吉祥今村・葦塚村・大隈四王寺村を包含した大きな荘園であった。
農民は権門の支配する荘園内の田地を耕作する荘民となり、また、狭少な土地所有の農民も国司の圧迫をまぬがれるため、その所有地を権門・勢家に寄進し、あるいは売却してその荘民となった。したがって、国司・郡司の権力は衰え政治の実権は庄園の管理者に移り、ここにおいて班田収授の制度が崩壊して、庄園制が展開していった。
三瀦庄は種々の変遷を経て、在地(在郷)勢力の侵略に苦しみながらも、鎌倉末期時代までは、宝荘厳院、四條家は遠隔地荘園として保持していた。しかし、うち続く動乱は既得権もしだいに侵害されて、貢租の収納が困難になっていった。
侵略は、文治年間(一一八五〜一一八九)に和田義盛が三瀦庄地頭職に補任されたのをはじめ、以後多くの武士が荘園に地頭職や所領を有したことに始まる。即ち嘉禎年間(一二三五〜一二三七)に藤原家綱が西牟田村地頭職に補任され、正元元年(一二五九)に横溝五郎が高三瀦村地頭職に補任されている。そして、これらの地頭と荘園領主との争いが、たえまなく繰り返された。また、三瀦庄が武士所領を増大させた原因として、文永・弘安と二度の蒙古元軍来襲戦役の勲功恩賞地に三瀦庄が対象地となったからであって、弘安四年(一二八三)、横溝資為が三瀦郡庄田脇付の田五町、屋敷二軒を配分され、弘安六年(一二八三)、田原基直が田口村西方地頭職に、龍造寺家益が荒木村地頭職に補任された。
三瀦庄内には大善寺鎮守玉垂宮・寛元寺・浄土寺・宝淋尼寺・摂取院などをはじめ、筑後一宮高良大社・太宰府安楽寺などの免田があり、とくに、南北朝時代に足利直義が戦死者の追善として、筑後国利生塔を浄土寺に建立させ、多くの寺領を寄進させたことで荘内の土地支配関係が入り乱れて、複雑な様相をもたらし地頭と在地寺社の間ではたびたび争いの訴訟が行われた。
建武三年(一三三六)、酒見村(現大川市)の宝琳尼寺雑掌は、三瀦庄八院村などの寺領を、白垣八郎入道が濫妨浪籍することを訴えている(浄土寺文書)。貞和五年(一三四九)、足利直冬は詑麿徳丸に三瀦荘地頭職と領家職を恩賞として与えており、永和五年(一三七九)には、三瀦荘八院村荘方が元のごとく洒見宝淋尼寺領に認められている。
こうした変遷の中、狭い土地を領有する地頭は、だんだん経済的に窮迫し、元寇恩賞で配分してもらった土地に、何回も徳政が行われている。徳政とは売買・貸借の契約を破棄することで、鎌倉末期に武士の困苦を救うため、質入れの土地・質物を無償で持主に返す制度(永仁五年「一二九七」三月徳政令)が始まった。
その後、三瀦庄は筑後国に勢力を増強した豊後の大友氏の支配下に属することになり、大友氏の家臣はそれぞれ分轄して宛行されたが、下層農民は荘園内で直接の支配に当たっていた名主により、隷属農民の下人と呼ばれ、耕作や公役に使われて、領主の権力を維持するための軍事費負担に喘ぎながら、苦しい生活の連続であった。
天正一五年(一五八七)、天下を一統した豊臣秀吉はこの荘園を柳河藩主立花統虎(宗茂)に領地として与えた。立花藩が領有することになって三瀦庄は消滅した。
二 中世の行政
(一) 戦国期の郷土支配
寿永四年(一一八五)三月、長門壇ノ浦の戦いで平氏が滅亡し、その後、源氏によって鎌倉幕府が成立する。
源頼朗は鎌倉に政所・問注所・侍所を置いた。地方の国々にも守護を置き、各地の荘園や公領に地頭を置いて、国司には土豪を補任するなどして体制を固めた。
文治二年(一一八六)、天野遠景を派遣して鎮西奉行に任じ、この地方の御家人を統轄させ、軍務や政務も掌握した。その後、武藤資頼にかわったが、子孫は少弐氏を称え鎮西奉行を世襲した。
鎌倉初期における筑後地方の大きな政治の流れとしては、耳納山麓に草野氏、京都の宝壮厳院を本所とする三瀦庄に横溝・大隈・荒木等の御家人武士の動きである。なかでも、国司の特権を利用して強大な領主となった草野氏が注目され「高良御宮在国司」として祭祀にも深く関与した。
嘉禎年中(一二三五ごろ)藤原家綱入道行西は西牟田村の地頭職となる。(『筑後将士軍談』)
文永一一年(一二七四)蒙古軍は、戦艦二〇〇余をもって壱岐・対馬を侵しついに筑前博多湾まで進攻して来たが、おりからの大風で一万三千余人の軍勢は船もろとも海底に沈んだ。鎮西探題は九州の諸将に課役を命じ、博多湾に石築地を構えさせた。この時筑後国から田尻三郎種重・神代・黒木・星野・西牟田弥二郎永家・草野筑後権守教員らが馳せ参じた。
弘安四年(一二八一)蒙古軍は再び大軍を率いて押し寄せた。西国の御家人はこの国難を打破すべく、動員で防戦に努め、双方とも死者が続出したという。筑後国から参戦した田尻種重・種光兄弟は討死し、西牟田弥次郎永家は松浦湾にある鷹島にてよく戦い功名をあげる。元軍はまたも七月の台風で軍艦一隻も残らず打ち砕かれた。
この戦に功績があった御家人たちは各々恩賞を授かり、横溝馬次郎資為法師は三瀦庄田脇村に田地五町、屋敷二宇を受ける。龍造寺家益は筑前国比伊郷と筑後国荒木郷を賜わった。しかし、戦役の軍事費負担で御家人の生活は苦しかった。
鎌倉幕府は元寇後九州の地が、わが国を守るために大切であることを認識し、各御家人に防備体制を強化させた。
興国元年(一三四〇)後醍醐天皇の皇子の懐良親王は、九州平定のため西下興年三年に西国から九州へ向かい、薩摩に上陸し谷山城に入って六年間滞在、正平二年(一三四七)肥後の隈府城に入った。同六年、五条・菊池・恵良氏らの勢を督して北上し、筑後国溝口城を破り瀬高庄を経て筑後国府に入った。
正平一〇年(一三五五)懐良親王は菊池武澄と肥前国府を占領し、同一四年には菊池武光と豊後高崎に大友氏時を包囲したが、少弐頼尚が肥前に挙兵すると聞いて筑後に急ぎ戻り、筑後川北岸一帯で頼尚と戦った。いわゆる大原合戦である。頼尚は破れて太宰府に逃げたが、同一六年親王はこれを攻め落とし征西府を置いた。しかし、建徳二年(一三七一)、今川了後が九州探題となって下向し、文中三年(一三七四)に宮方は太宰府を失い高良山から星野へと撤退した。
文中三年(一三七四)、宇都宮播摩守盛直は大内教弘の軍を従い、肥後・筑後の菊池軍と戦い九月菊池武政は北朝に降伏している。文中年、中頃から三瀦郡蒲池城主の蒲池三河守久憲は、支域を柳河に置きその地方一帯を自領として支配する。
天授元年(一三九五)、懐良は征西将軍を良成親王に譲って引退し、上妻郡矢部に入って弘和三年(一三八三)この地で死去した。元中八年(一三九一)ごろには良成親王も矢部の山中に籠り、翌九年に南北朝が統一された。
応永四年(一三九七)大内義弘は九州を平定した功により、足利将軍から太宰府少弐に任命された。
永享五年(一四三三)一一月二一日、菊池武興は筑後の酒見城を攻撃陥いれ、つづいて前の九州深題渋川義俊を撃破したので、筑後の諸侯は再び菊池氏に従う者が出て来た。
寛正六年(一四六五)四月、菊池為邦の弟である為安は筑後に出動し、大友氏と久留米の高良山下で戦ったが利あらずして戦死した。大友は筑後を抑え三池・黒木なども大友に属した。
応仁三年(一四六七)五月の応仁の乱後、九州探題の渋川氏は探題とは名ばかりとなり、北九州では中国の大内義隆・豊後の大友宗麟・肥前の龍造寺隆信の三大勢力が相争った。また、それに群がる武将達も数多く、戦国期の筑後国には、一七二の城・砦・館があったといわれている。そのうち南筑後には山門郡に一五、三池郡に七、上下妻郡に二二、三瀦南郡に七と計五一の支城・砦があった。
特にわが郷土は日本屈指の溝渠による自然環濠で「水の砦」として、軍略上極めて好条件を備えているために、当時城を攻め落とすのに「柳川三年肥後三日、筑前肥前は朝茶前」といわれていたはどで、この要塞の地を自領にせんと、昨日の友も今日は敵、虎視眈々として権謀術数の策を講じ、豪族は戦いに明け暮れた。したがって、当時の支配者は、自領を政治するのでなく、いくさの為めの人的、物的資源を搾取するということだけであったので、住民はその苛酷に苦しんだ。
天文一九年(一五五〇)八月、龍造寺隆信は佐賀で乱を起こしたが、失敗して、妻子七〇余人を率いて筑後の三瀦に入り蒲池氏に助けを求めている。
天文二二年(一五五三)蒲池鑑盛は、兵三〇〇人を龍造寺隆信に貸し、遂に佐賀城をとり返すことが出来た。その恩義により隆盛は蒲池氏に感謝をし、娘を蒲池鑑盛の子息鎮並に嫁としておくった。しかし、其後龍造寺氏は筑後を征服せんと酒見城(大川市)を築き前進基地とし、後に佐嘉藩主となった鍋島信生(後に直茂)を置いて筑後を征し、蒲池氏を滅し柳河城を占領し筑後地方を手中に収めた。
天正一二年(一五八四)三月二〇日、龍造寺隆信は肥前島原の戦いで、島津軍赤星肥後守のために五六才にて殺された。豊後の大友義統は、これを知って大喜びし、筑後国にある龍造寺方の者を滅すときは今だと、大軍を筑後国に送った。まず、八女黒木城(別名猫尾城)黒木宗英・家之を攻めたが、柳河城龍造寺信生の援軍にて長びき、攻めあいて大友軍は退陣した。
天正一二年(一五八四)八月一二日、大友氏一族の戸次道雪・高橋紹運は一万人の軍兵を率いて、筑前岩屋立花城より出兵し筑前国内の龍造寺の城を攻め落とす。筑後国では生葉(浮羽)・三井郡内の城を攻めつぶして、いよいよ龍造寺方の蒲池家亘の山下城を攻めようとした。家亘は恐れて降伏、猫尾城黒木家永よく防戦したがついに落城した。
一方北上して来た薩摩の島津軍は優勢であって、大友・龍造寺、島津の大軍は、いよいよ、わが郷土三潴・大川・山門をはじめ、筑後・筑前の全域で雌雄を決する戦いをくり返すことになった。なかでも島津の勢力が強大となり筑後全国は島津氏の威光に服した。
天正一五年(一五八七)大友・龍造寺の要請により西下した豊臣秀吉は軍一五万余騎をもって島津軍を屈服させ全土を征服した。
豊臣秀吉は、その後、山門・下妻の二郡、および三池郡・三瀦郡の一部(大善寺以南)一三万二千余万石を立花宗茂に与えて柳河城主に。今の大木町、大川市全域は立花宗茂の治する所となった。その弟高橋直次に三池の地一万八千石を与えた。この時、三瀦庄は柳河藩主立花宗茂に宛て行われたことによって消滅した。
天正一九年(一五九一)豊臣秀吉は朝鮮征伐を命じ、同二〇年一月および、文禄五年の朝鮮再征に際し、立花宗茂は抜群の戦功をたてた。
慶長三年(一五九八)八月、豊臣秀吉が没し、同五年(一六〇〇)九月石田三成らが、関ケ原にて徳川家康の軍と戦った時、立花宗茂は恩義ある豊臣方の西軍に味方して破れ、大阪から柳河に帰ったが、翌年家康の命をうけた肥前の鍋島軍勢と八院にて戦い破れ宗茂は柳河城を開け渡した。宗茂に代わって関ケ原の戦いで、石田三成を生け捕りにして手柄をたてた田中吉政が柳河藩主に封ぜられ、吉政は二男田中則政を久留米城に、三男久兵衛康政を上妻郡福島城に、その他の家臣をして筑後国全域を把握統御した。
田中吉政は柳河城を大修築、柳河往還(県道二三号線)、黒木街道など次々に建設した。今の久留米市北西梅林寺・瀬ノ下間に新川を開削した。また、筑後川・矢部川・有明海沿岸の干潟も開拓した。町の中央を流れている花宗川も荘園条里の折に掘られた溝渠に手を加えられ、ほぼまっすぐの河川に改修するなど、筑後国の道路築堤、潅漑利水の基礎原形工事による治山治水の開発に尽力した。
当時こうした大土木工事費に、莫大な私財を投入している田中吉政に対し諸将らは、「僅か岡崎の六万石の分限から来た領主としては」と笑い者になっていたという。吉政は久留米市善導寺付近の筑後川から山門郡大和町塩塚川を経て、有明海に注ぐ大運河の計画を立案したが、それが実現されないまま伏見で死去した。
あとを継いだ四男忠政は慶長二〇年(一六一五)、大阪夏の陣に出動の命があったが、出陣の仕度金がなく遅れて幕府の怒りを買い、江戸屋敷に押し込められているうちに死去し、後継がない田中氏は絶家となった。
奥州棚倉の城主として取り立てられていた立花宗茂は、大阪冬の陣・夏の陣で戦功をたて、再び柳河城主に任ぜられ領地の変更が行われた。このように戦国乱世には諸将の、離合集散と栄枯衰盛は常であった。
以後、世は徳川幕府の時代となり比較的安定し、郷土は久留米に有馬藩、柳河に立花藩の両藩並立の時世となったが、徳川幕府は全国の藩に次ぎつぎと統制策を強化して
いった。したがって、わが郷土も例外でなく、久留米藩に入封した有馬豊氏の初代藩主をはじめ一一代頼咸まで、自領を治めるのに、いろいろな「在々掟」をだしては領民を苦しませた。なかでも特に厳しかったのは年貢の上納で、どうしてもできない者には、女房・子どもを年季奉公までさせて納めさせた。それは主税の年貢の外に、人別銀・村救銀・郡溜銀・用心除などの諸税・諸経費まで負担をせねばならなかったからである。
寛文五年(一六六五)より宗門改めを実施、各寺院に住民を掌握する人別帳をつくらせて切支丹を弾圧するほか、刀狩り、かくし田を暴く検地や大倹令という倹約令(粗衣・粗食でまつりや婚礼、つきあいなどを質素に)などをだしては、不当に庶民のくらしまで干渉した。こうした藩令は幕府や藩主の都合のよい圧政で、自らの権力を維持するための支配の政治であった。
◎有馬氏
有馬豊氏-忠頼-頼利-頼元-頼旨-則維-頼ゆき-頼貴-頼徳-頼永-頼咸-頼匡-頼萬
(二) 地名と豪族名
中世期・筑後の国を支配した豪族・武将の「姓」が、居住する地域の地名を名乗っている者が多い。
例えば、藤原家網入道行西が、西牟田村に城を構え、西牟田氏を代々名乗ったように、蒲池・横溝・黒木・高橋その他多くの豪族や地頭は、住んでいる地名を名乗り、強烈な地域臭を発散させながら、その地方を統治しては武威と権力をふるったのであるが、彼等は主として、次ぎのような理由による「関東下り衆」であった。
(1) 平家の残党を討つために追って、九州に下って来た源氏の武士が、そのまま土着
した者。
(2) 文永・弘安と二度来襲した、元冠に備えるために幕府より派遣されて来た、防人役
の武将が、そのまま残った。
(3) 太宰国府の役人が、朝廷より出向し任期が満了しても帰京せずに、この地方に住み
着いた。
(4) 寺社領(宗像・宇佐八幡など)、遠隔地荘園の管理監督に下向した役人が、そのまま
残留した。
九州は暖かく筑後平野は肥沃であり、有明海の幸も多く、しかも新しい大陸文化の渡来する窓口であるために、この進歩的な風土に魅せられて、永住するようになり、そこの地名を名乗る。その後、郷土は自領を拡大せんとする群雄の、血なまぐさい争奪の舞台となり、住民は戦闘要員や戦費調達を強いられて、苦しんだのである。
三 近世の行政
(一) 久留米藩の民政
古久留米城 |
(二) 藩政時代の苛酷な貢租
幕府や諸藩の財政のもとは農民からの租税であり、藩主が農民に賦課した年貢は、だいたい三つの種類があった。
第一は本途物成であり、検地(竿入れ)を受けた田畑から上納する年貢のことをいう。本途物成は本途取米とも、また本免ともいった。田畑の石高に村々でそれぞれ定められている一定の税率を掛けて算出する貢米である。
第二は小物成であり、田畑から上納する年貢以外の雑税の総称で、運上は江戸時代の雑税の一つで、商・工・漁猟・運送などの営業に課した。運上の税を司どる役人を運上方といった。
第三は傭役であり、傭役(雇って使う)は地方税のようなもので、郡村の管理行政に必要なものであった。また、蔵入用の竹・木負担及び庄屋給米に相当する夫米と夫大豆もあった。久留米藩でも大同小異の諸掛があり徴集率は一定してないが、石高を増しては徴収増を図っていた。このように租税制度の基礎となるものは、土地を調査する検地で、農民の田畑・屋敷を一筆毎に測量し、段別・品位・石高が定められていた。
天正一九年(一五九一)、天下統一をなした豊臣秀吉は、全国の土地に検地を実施、検地によって貢租の基準が決まりそれに税率を乗ずれば租米(年貢米)が決まる。租率すなわち田租を賦課することを、前述のとおり一般に免といった。
免一つは石高一石に対する地租米一斗(一割)をいう。「五ツ」といえば年貢高五斗、即ち租率五割をいうことである。租率は村々ごとに多少違っていた。それを平均してみると、江戸幕府領では最初五公五民、すなわち一〇〇石の村石では五〇石が年貢であった。こうした比率を幕府の朱印高といった。
亨保一三年(一七二八)から、六公四民に引き上げられている。さらに、大名領は一般にそれより高率で、朱印高はそうであっても、藩主が独自で決めた内検村高石数をつり上げ、苛酷な搾取により、重い年貢の収奪強化をなした。
久留米藩においても同様であったが、亨保年間打続く天災(大風・洪水・蝗発生)で収穫が減収したにもかかわらず、きびしく取りたてられて農民は苦しんだ。その不満は亨保・宝暦の百姓一揆となって爆発もした。
(三) 朱印高と内検高
久留米藩初代領主、豊氏が拝領した二一万石という石高は、幕府によって領有を確認された石高で、俗に「朱印高」といった。朱印高は、実際の生産高を表したものでなく、幕藩体制下での軍役編成の基準や大名・旗本の家格を表示したもので、幕府に対する領主の奉仕能力を表すものとなっていた。このため、各藩では、朱印高とは別に、年貢徴収の基準となる石高の設定が行われた。これが「内検高」である。
筑後の朱印高とは、文禄四年(一五九五)の検地高(玄藩高)に、その後の新田開発による増石高と寺社領の石高とを加えたものであった。
有馬豊氏が入封直後、田中吉政時代の石高調査を実施したところ、正直に書き出さなかったので、二一万石(朱印高)の五割増しの年貢率(内検高)を設定して二か年間徴収した。しかし、それが原因で窮迫する村も出てきたので、元和年九月に石高を減らして二八万石余とした。
「米府年表」では二代忠頼の代承応元年(一六五二)に「御領中畝数改有」と記され、同三年午七月一一日の忠頼から松田次右衛門あての「覚書」第四条の附則で本地田畠、新田開発の検地は念を入れ、情実を加え加減しないよう命じている。
したがって、次ぎの表に示すとおり、町内どこの旧村落も、朱印高より内検高が高額で、ところによっては倍近くに増加しているところがあるのは、新田開発によって耕地が広くなったあと、検地が厳密に徹底して実施されたからである。
朱印高と内検高表(本町関係)
有馬藩史料 朱印高「元禄国絵図」元禄14年筑後国図
内検高「在方諸覚書」宝暦年(有馬泰生家文書)
旧村別朱印高と内検高との比較 | |||
村名 | 朱印高A | 内検高B | 指数B/A |
大角村 | 1,057石 | 1,630石 | 154.2 |
福土村 | 478〃 | 760〃 | 158.2 |
笹渕村 | 646〃 | 823〃 | 127.3 |
前牟田村 | 515〃 | 630〃 | 122.3 |
横溝村 | 1,748〃 | 2,915〃 | 166.7 |
上白垣村 | 木室村分村に | つき不明 | |
蛭池村 | 1,311石 | 1,850石 | 141.1 |
侍島村 | 512〃 | 810〃 | 158.2 |
八町牟田村 | 858〃 | 1,140〃 | 132.8 |
絵下古賀村 | 343〃 | 638〃 | 186.0 |
上木佐木村 | 927〃 | 1,340〃 | 144.5 |
上牟田口村 | 820〃 | 1,197〃 | 145.9 |
上八院村 | 1,016〃 | 1,590〃 | 156.4 |
高橋村 | 461〃 | 800〃 | 173.5 |
大薮村 | 280〃 | 480〃 | 171.4 |
奥牟田村 | 890〃 | 1,430〃 | 160.6 |
三八松村 | 5村大型合併 | につき不明 | |
筏溝村 | 521石 | 1,015石 | 194.8 |
四 近代の行政
(一) 廃藩置県
慶応三年(一八六七)一〇月一五日、徳川慶喜は大政を奉還す。同四年三月一四日新政府は五箇条の御誓文を発して、政府の方針を明示した。同一〇月改元して年号は明治と変り、一世一元とす。
明治新政府は幕府直轄領の中、城代・所司・奉行の支配地に府を、郡代、代官の支配地に県を置き、府知事・知事を任命す。各藩は大・中・小の三藩に種別しただけで、そのまま存続させた。十府二二七藩二三県となった。しかし、藩がある限りその土地の人民は封建意識から脱却しきれず、公武合体の政府を論ずるなど暫く混乱と動揺がつづいた。
明治二年(一八六七)一月二〇日、長州・薩摩・肥前・土佐の四藩主は衆に先立って、版籍奉還を申し上げる。
同年二月七日、久留米藩主有馬頼咸及柳川藩主立花鑑寛もまた、版籍奉還を申し上げる。
同年六月一七日、久留米藩有馬頼咸を久留米藩知事とし、久留米城を久留米庁とした。その藩政府を知政所といった。
同年六月二四日、柳河藩立花鑑寛を、柳河藩知事とし柳河城を柳河藩庁とした。この時幕領は長崎府所管となった。
明治四年(一八七一)二月一日、薩・長・土の三藩より、一万名を徴集し、天皇親兵を編成して東京に置き、同四月西海道鎮台を小倉に置いた。
同年四月一四日 全国の藩知事を東京に集め、廃藩置県を発表した。同年七月一四日、現在の福岡県の地域でも、久留米藩(二一万石)は久留米県といい、知事所を久留米城内に置き、水野正名が初の大参事となった。
しかし、大小さまざまな県では全国的に統一した行政が困難なため、明治四年(一八七一)一〇月一四日までかかって大幅な府県の統廃合が進められた。
1 三瀦県成立
三潴県印 |
(二)〜(六) 省略
五 現代の行政
(一) 戦後民主政治のはじまり (省略)
(ニ) 終戦直後の経済のうごき (省略)
(三) 大木町誕生と行政組織 (省略)
(四) 行政区・大字の概要
1 略
2 大字区の概要
大 角 江戸初期は柳河藩田中吉政の所領であったが、元和六年久留米藩額となり庄屋福光組に属した。
村石高は「元禄国絵図」一〇五七石、「在方諸覚書」の古高一六三〇石余、「天保郷帳」一一三一石余、「旧高旧領」では一一七〇石余、文化四年に本田六七町五反余、開田五丁六反余とある。田中吉政は柳河本城から久留米城へ通じる、柳河往還を新に整備したが、周囲に人家なく旅客の不便もあって、近傍の農民を集めて町場をつくった。
その町場の一つが当町で、往還の距離を表す一里塚も設けられた。この地方一帯は荘園期に、掘割を浚てひらいた肥沃な土地である。宝暦三年大角の又蔵(五一才)は孝子奇特者として、藩主より米二俵をもらい表彰されている。大角は古くから、役場・郵便局・駐在所・金融の公的機関などありて大溝村発展の中心地であった。
福 土 福間村と土甲呂村が明治九年合併して福土と命名した。また、土甲呂の名は昔遺跡より土でつくった鎧・兜の埴輪が出土したからという。中世末期福間村には、田中大膳入道が一町余反、同氏の家臣石橋上野が四町余を当村に領有していたという(筑後国志)、筑後国知行方目録には「三九六石六斗四升ふくま村」と見える。
はじめ柳河藩領(田中氏)であったが、元和六年久留米藩福光組に属した。村石高は「元禄南絵図」四七八石、「在方諸覚書」古高七六〇石、「天保郷帳」四七九石、当地域は山ノ井川氾濫による水害常襲地として悩まされていたが、昭和二七年から同四一年にかけて、山ノ井河川改修の工事が施行され、川幅が広くなると共にまつすぐになって、排水が良くなりこの悩みも解消された。(山の井川改修記録参照のこと)
福間村左吉は孝行者として、藩主より表彰をうけている。
笹 渕 この地は、古くは篠渕とも書く、山の井川左岸に位置し、川利用の水運の郷場あり賑わっていた。
地名は由来は笹薮の多いことにちなむ。はじめ柳河藩領(田中吉政)元和六年から久留米藩領・福光組に属する。寛政七年、笹渕村の甚吉は孝行者として藩主より表彰された。
文禄四年の立花家知行目録には、七一二石二斗四升篠渕村が見える。「天保郷帳」では六四六石余の村石高で、「旧高旧領」八二三石余とある。
久留米絣・藍染め (人間国宝松枝玉記氏) |
佐野貞蔵彰功碑 |
絵下古賀区の獅子まい |
(左)村の美術館(右)ふるさと美術館 |
久留米藩主の鷹狩場跡 |
(五)〜(一三) 省略